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貴族の間で噂になっている月の姫に一度お会いになりたいと、帝は宮中へお召しになられたそうだが、いっこうに出仕する気配がないらしいのだ。
帝はそれをじれったく思われ、帝御自ら行幸されるらしいというのが、今、都中の噂だ。
加賀美は事の真相を渡りに調べさせた。
「姫さま、たしかに行幸があるとのこと、貴族たちも大騒ぎでございます」
「それでは、月の姫の目的は帝……」
加賀美は何となく腑に落ちないようだ。
「姫さま、どうなされました?」
「でも、何故、宮中に出仕しないのでしょう。かといって、帝のお命を狙っているとも思えません。月の姫の目的は何なのか……」
「それから姫さま、もう一つ……」
「……わかっています、継俊さまのことですか?」
「……というより、重利様のことです」
と渡りは少しづつしか語ろうとしない。
「あの真部人麻呂という呪術師が関わっているのでしょ?」
加賀美は不機嫌だ。
「わたくしは知っています。重利様は前々からご親交がおありだったようです。継俊さまを巻き込まなくても良いものを。絶対に許しません、もしかすると不二原が裏で操っているかもしれません」
加賀美は珍しくイラついた様子で扇を広げ自分を扇ぐ。
桜の花も散り、橘の季節となっている。
加賀美の屋敷の庭にも可愛らしい白い花がほのかな香りを放ち、ちらほら咲いている。
ときには、時鳥が遊びに来て鳴く。
それで十分なはずだ。
貴族はどこまで貪欲なのか、加賀美はより一層、怒りが込み上げてくるのを感じていた。
「重利様にはこちらから仕掛けましょう。このままではろくな事にはなりませんから」
いくら綺麗ごとを並べてみても、加賀美は貴族の権力争いから抜け出せない。
不二原が独裁的に政を行えば、偏りが生じる。そのつけが庶民へいくのは目に見えている。
独裁だけは避けたいのだ。
だからこそ、帝も皇太后様に屈しておられない。
「とにかく、継俊さまを呼び出しましょう。でも、その前に帝の行幸の日取りを調べておいて下さい。月の姫の屋敷には蓮がいます。蓮も助け出さねばなりません」
「蓮は大丈夫でしょうか?」
「わたくしに聞かなくても、あなたが一番良く知っているはずです。蓮はそのくらいでは死んだりはしません。彼を信じましょう」
「はい」
渡りは加賀美の言葉に心が軽くなる。
「それより、重利様が足繁く通われておられる女君の屋敷を、調べておいて下さい。そして、継俊さまがみえる日は馬の用意も忘れずにお願いします」
「承知致しました」
渡りはいつものように加賀美に一礼すると、彼女の前から消えた。
加賀美には何故か腹立たしさだけが残った。
光則は帝が月の姫の屋敷へ行幸されることが決まり、忙しいようで暫く使いもよこさない。
加賀美は内心ほっとしていた。
翌日には渡りが帝の行幸の日取りを調べてきた。
それは、次回の満月の夜というものであった。
次の満月は明日に迫っていた。
「何故、満月の日なのですか?」
「月の姫が申されるには、次の満月の夜、月に帰るのだそうです。ですから、帝にはそれを見送って戴きたいと。しかしそれでは帝の威信に関わります。だからそれを阻止するよう帝は仰せられ、行幸なさいました折には、きっと月の姫を宮中へ連れ帰られると仰せられたそうです。光則様のお屋敷の者から聞いて参りました」
「でも、月に帰るとはどういうことなのですか? 姫は由衣さんなのでしょう? とにかく明日はわたくしたちも、月の姫の屋敷に参りましょう」
「そのようなことをして、光則様にはどのように申し開きをなさいます。光則様も行幸にはご同行されるとのことです」
「兄上のことより、帝に何かあれば大変なことになります。そこは、少し知恵を絞りましょう」
加賀美は光則より、帝の気持ちが心配だった。
帝は繊細なところがおありになる上、真亜姫様のことで大変傷心なさっておられる。
月の姫のことが重なれば、帝の心労は増すばかりだ。
「それより、継俊さまに文をしたためます。届けて下さい」
加賀美がそう言うと渡りは苦笑いをした。
「それが、継俊様のほうから、今日の夜お会いしたいと使いが来ました。女房が光則様のお言いつけで、男君の文や使いをお断りしているようなので、調べましたところそのように仰せで、使いには承知した、と言っておきました。ただ、術に掛かっておいででしたら、いつもの継俊様ではありません。姫さま、大丈夫ですか?」
渡りはいくら加賀美でも心配だった。
相手が継俊なら、尚のことだった。
「大丈夫です、それより継俊さまがいらしたら、裏門で待って居て下さい。けっして、几帳の裏で控えておいては駄目ですよ」
「それでは、お一人で会われるのですか? 危険すぎます。わたしが控えておきます、姫さまお一人にするわけには参りません」
「あなたが控えていては、相手が尻尾を出しません。いつもあなたが几帳の裏に居る事を継俊さまはご存知です。警戒させては意味がありません。良いですね」
加賀美は念を押しす。
渡りはしぶしぶ納得した。
夜になって、女房が案内してきた。
女房は光則から加賀美に男君を近づけてはならないと重々言われていたらしく、くれぐれも間違いの無いよう、何度も繰り返し念を押した。
しかし加賀美は、今日は舞いの稽古をするので少々大きな音がしても大丈夫だから来ることのないよう、言いつける。
継俊はいつものように加賀美の部屋へ通され、彼女の前へ座る。
服装もいつものように烏帽子を着け、直衣姿であるがその声には張りが無く、目の生気は失われ、どんよりと濁っていた。
明日の満月を控えた月は雲に隠れ、広がる闇は物の怪を呼び起すには十分であった。