19
加賀美に止められはしたものの、やはり蓮は由衣のことが気になっていた。
ちょっと覗くくらいなら大丈夫だろうと勝手に決めつけ、由衣に会う決心をした。
会ったら何と言おうか、「尼さんが心配しているから帰りな」と言うべきだろうか、それとも「金持ちになったのなら尼さんに寄付しろ」と言うべきだろうかと、つまらないことを考えながら歩いて行く。
菜の花の土手での楽しい時間を思い出したとき、蓮は胸の辺りが苦しいことに気付いた。
由衣の気の強い顔を思い出したとき、彼女が自から望んで月の姫になるような娘ではない、と理由は無いが確信した。
月の姫の屋敷は町外れの西の山の麓にあった。
辺り一面竹薮だった。
この竹を売って生活している翁の娘ということなのだが、どうしてそうなったのか蓮には理解できなかった。
門の近くへ行こうとするが、求婚に来た貴族のものだろう、門の前には牛車が三台ほど並べられていて近づくことが出来ない。
「へんっ! 何が求婚だ、気楽なもんだぜ。こっちは喰うのもやっとだってえのによ!」
蓮は独り言を言うと、裏門のほうへ回る。
そこは食料や生活用品などを運ぶ商人が出入りしていた。
蓮もその男たちに紛れて入っていく。
そして裏庭へ回り、植木の陰に隠れた。
「簡単なもんだぜ、だが、ここからが問題だな」
そう小声で呟くと、暫く様子を見る。
どうも庭の正面の部屋が月の姫の部屋のようである。
女房たちが頻繁に出入りし、老夫婦もさっき出て行った。
桂木という初老の女房が、若い女房たちに細かい指示をしているようだった。
蓮は隙を見て縁側の下に潜り込み、桂木が部屋を出たとき御簾の陰に隠れた。
部屋の中には都合よく、月の姫が一人だった。
それは確かに、由衣だった。
由衣は紫苑色の派手な重ねを着て、美しく化粧をしていた。
艶やかではあったが、まるで死人のように生気が失せていた。
蓮は几帳越しに短い棒を姫に押し付けた。
不意のことで、姫は声も上げられない。
「静かにしろ、大きな声を出したら殺すからな」
蓮は姫を脅す。
「お前は由衣だろ?」
しかし、姫は大きく首を横に振った。
「違います、わたくしは竹取の翁の娘で月と申します」
「嘘をつけ、あんな老夫婦に子供が出来るわけないだろう、馬鹿にすんな!!」
「わたくしは竹の中より生まれました」
蓮は鼻で笑った。
「貴族ならそんな作り話を喜ぶかもしれないが、おいらは違うぜ! 赤ん坊がどこから出て来るかくらいは知ってるよ!! 馬鹿か、おまえは!」
蓮は勢い良く言った。蓮の勢いに押されたようで、姫は声を上げられない。
「如何してこんな所にいるんだ? 正直に答えろよ、由衣!!」
月の姫は蓮が何を言っているのかわからないようで、答えない。
ちょうど其処へ桂木が戻ってきた。
ここで普通ならば大声を出し、人を呼ぶのだが桂木は几帳を蓮のほうへ倒す。
その身のこなしは見事という他、無かった。
蓮のほうが几帳の下敷きになり、身動きが取れない。
そこを桂木は押さえ込む。
それは老婆の動きではない。
「大きな鼠ですこと、姫様、お怪我はございませんか?」
そう姫に尋ねると、すぐに人を呼び、蓮を縄で縛り裏庭の奥の納戸へ押し込む。
それは見事な捕り物だった。
さすがの蓮もお手上げだ。
「そこに入っていなさい。姫様には指一本触れてはなりません」
納戸の入り口で桂木はヒステリックに叫んだ。
「なんだい、その月の姫ってえのは。あいつは月の姫なんかじゃない、由衣って娘だ。寺にいた優しい娘だ、ちょっとは気が強ええが。帰してやってくれ、寺ではみんなが、あの娘の帰りを待っているんだ」
珍しく蓮は頼みごとをした。本人は気付いてないだろうが、何年ぶりのことだろう。
蓮のその姿を見て桂木は笑みを浮かべる。
「あの娘には月からいらした神が宿っておられる、とはいっても、本当に宿ることはできないが。神が宿ったなら人間の肉体など消滅してしまう。神のお力はそれほど強い。結局、操っておられるだけのこと、おまえのような下界の人間には用はない」
蓮は真亜姫のことを思い出した。
「どういうことだ? そうすると由衣の身体はその月の姫とやらに乗っ取られたということか?」
「そうです、もうこの娘の肉体はそう長くは持たないでしょう、月の姫に耐えるには体力が不足していましたから」
「何故、そんなことを神様がするんだ? 神様が自分の都合で人間を殺していいのか? なんか、変じゃねえか?」
蓮は頭の中が混乱してきた。神とは人間を守るのではないのか?
「月の姫の目的は、おまえのような人間には関係のないこと。もともとこの娘は病を患っていました。本当なら、もう死んでいた筈です。月の姫となり、その間だけでも生き長らえられるというものです。感謝されて然るべきだと思いますが」
「だからって、こんなことして良い筈はねえ! 九に熱を出させて苦しめたのも、あんただろ?」
「そんなことがありましたか? もう覚えていません。どのみち、もうすぐ帝の行幸がありましょう。そうなれば、月の姫に天界からのお許しが出ます。もう、おまえには関係の無いこと」
桂木は一番上の山吹の色の衣を脱ぎ、蓮の上に被せる。するとその衣の下で蓮は大人しくなり、眠ったようだった。
「ことが済むまでそこでそうしていなさい」
そう言い捨てると桂木は納戸の戸を閉め、施錠した。
蓮が二、三日帰って来ないので、九は様々なところを探し回っていた。
心当たりは全て聞いたが、これといって有力な情報は得られなかった。
そこで加賀美の屋敷の前をうろうろしていると、不審者だと勘違いされ役人に捕らえられてしまった。
いくら否定しても役人は信用しない。九は加賀美の名を出したが、ますます疑われた。そこで役人は身元を調べ、おばばを呼んだが牢から出す気配は無かった。
そこでおばばは加賀美の屋敷に渡りを訪ねて来た、という訳で、おばばは恐縮しながら加賀美の前に座っていた。
「姫様、こんな高い所に座らせて貰うもんだから、わたしはさっきから、お腹が痛くてたまらない。そこに座ってもいいかね?」
と言っておばばは庭を指差した。
「おばばさま、そんなにお気になさらず、事情はわかりましたから、とにかく九を牢から出して貰いましょう。今、渡りが九を引き取りに行っています。もう暫く待ちましょう。だから、そんなに硬くならないで、神の前では皆平等です」
加賀美は神の祭壇のほうを見た。
それを見たおばばは、パンパンと力を込めて二回拍手を打ち、目を閉じて手を合わせた。
本当におばばは真直ぐな人である。
彼女を見ていると、加賀美のほうが恥ずかしくなる。宮中への出仕のことなど、吹き飛んでしまいそうだ。
ほどなくして、渡りが九を連れて帰ってきた。
「姫さま、戻りました。役人には姫さまが申された通り、砂金を少々、握らせておきました」
それを聞いておばばは青くなった。
「姫様、そんなことをして貰っては申し訳ない……」
「大丈夫です、おばばさま、役人とはああしたものです。もし、兄上に知れたら面倒ですから。わたくしは貴族でもあまり上等ではないようです。ここにいるとそのような知恵はつきます。だから、兄上がわたくしをこの屋敷には置いておけないと、申すのでしょう……それより九、酷い目には会いませんでしたか?」
九は驚いた顔をして部屋の中を見回し、「大丈夫です」と元気良く答えた。
「それより、牢の中で兄貴の話を聞いたよ」
「蓮の話をかい?」
おばばは蓮が役人に捕まったのではないかとビクビクしている。
「ああ、兄貴は牢の中でも有名だったよ、居なくなった日に兄貴を見かけた奴がいたんだ」
「えっ? 牢の中で見かけたのかい?」
「いや、そうじゃなくて月の姫の屋敷の近くで、兄貴を見かけた奴がいるんだ」」
「月の姫の屋敷って、あそこへは行かないよう、言ってあるじゃないか、どうしてそんなところへ蓮は行くんだろうねぇ」
おばばは呆れていた。
「姫様、兄貴はどうなったんでしょうか?」
九は今にも泣きそうな顔をして加賀美に助けを求める。
「どうしたものでしょう……とにかく蓮は生きていると思います。蓮の呼吸は感じるのですが、とても弱い」
「……まさか、蓮は死にかけているんじゃ?」
おばばも今にも泣きそうな顔だ。
「いえ、そうではなく、月の姫の屋敷にいるとすれば、こような気配しか感じないのです。妨害されてよくわからないのです。とにかく、今しばらく月の姫の様子を見てから動くことにしましょう」
「大丈夫ですか? 兄貴は戻ってきますか?」
九は心配でたまらないようだ。
「大丈夫です、月の姫の屋敷に蓮がいることがわかれば、どうにかなります。九、蓮のことはわたくしに任せて頂けませんか?」
「姫様、お願いします。兄貴を助けてください、おいらも何か手伝いますから。おいら兄貴の為なら、命は惜しくないです。何度も兄貴には助けて貰ってるんで、だから、兄貴の為なら……」
九は涙で言葉を詰まらせた。
「わたしからもお願いします。九も蓮もわたしの子供です。世の中には用の無い奴らかもしれないけど、わたしには大切な子供たちですから」
おばばも手を突いて加賀美に頼んだ。
「おばばさま、お顔を上げて下さい。お二人のお気持ちはわかっているつもりです。この世に要らない人間などいません。必要だからみんな生まれてきたのです。だから、おばばさま、もうそんな悲しいことは言わないで下さい」
加賀美は九とおばばの温かい気持ちに触れ、熱いもの感じていた。
それから暫く、加賀美は渡りに月の姫の屋敷を調べさせたが、蓮の消息はわからなかった。
ちょうどその頃、光則から加賀美に自分の屋敷の用意が整った、と知らせてきた。
女房たちは毎日、引越しの準備に追われている。
しかし、加賀美はいっこうに動く様子はなく、毎日変わらず、神に祝詞を奏上し、淡々と過ごしている。
「姫様、光則様から準備ができておるとの知らせが来てから、もう数日が過ぎておりますが……」
と女房のほうが業を煮やす。
しかし、加賀美は
「待っておくれ」
と言って、やはり動く様子は無い。
そうしているうち、ある噂が囁かれ始めた。
帝が真亜姫様をお忘れになるかのように月の姫に会いたいと述べられた、というものであった。