序
不備な点、書き変えました。よろしくお願い致します。
序
なぜ、こんなにも胸騒ぎがするのか。
今宵の満月のせいなのか、それとも。
そこまで思考を巡らしたとき、風が動いた。
風は吹くものだとは限らない。
人間の気配を感じるとき、風は動く。
彼女は振り返りもせず、呟くように言った。
「どうしました、渡り」
それが例え呟かれたものであっても、月明かりが届かぬ茂みに向かって放たれたことは、その男にはわかったのであろう。
茂みの中から、若く凛々しい男が現れた。
二十代半ばを少し越しているであろうか、肩まである髪は一つに束ねられ、薄い緑色の単に、それより少し濃い緑色の小袴を身につけていた。
渡りと呼ばれたその男は、音も無く、すっと縁側のほうへ近づき、縁側の下で、片膝をつき頭を垂れた。
平安の都の夜は深く、ゆったりと時が流れる。
灯りは月明かりのみ。
幻想的な夜である。
神を祭る祭壇の前に座っていたその女は、静かに立ち上がった。
落ち着いて見えるが、歳は、十七,八といったところか。
白の単に緋色の袴をはき、月明かりに照らされた豊かな黒髪は、例えようもない光を放っていた。
巫女の姿に美しい顔立ち。
そして、その黒い瞳は遠くをしっかりと見据え、その意志の強さを物語っていた。
彼女は几帳の前で、また座った。
「そこでは、遠い、近くへ」
それを聞き、渡りは音も無く板の間へと上がり、几帳の前で先ほどと同じ姿勢で片膝をついた。
二人は几帳を挟んで向かい合う。
「都の様子は、変わりありませんか?」
その小さく放たれた声は、確実に渡りの耳へ届く。
「はい、姫さま」
「もう、姫などではない。わたくしは、神にお仕えすることにしたのです」
少々、きつい口調だった。
何かを振り切ろうとしているように聞こえる。
渡りは「はい」と短く答えた。
もう十年くらい前になる。
ちょうど、庭一面に桃の花がさいていた。
姫と呼ばれた、加賀美の母が亡くなった。
大納言のお渡りを待ち焦がれつつ、病で亡くなった。
加賀美は大納言の六の姫であり、正妻の姫ではない。
母の実家は貴族とはいえ、低い階級の家柄で、加賀美を引き取らなかった。
そのため、正妻の実家に遠慮した大納言はこの屋敷で神官をしていた者に、姫を預けた。
そして、いつか自分の出世の為、宮中へ出仕させるつもりであったらしいのだが、その大納言も一昨年の流行り病でこの世を去った。
現在は正妻の兄が家を継いでいる。
宮中への出仕の誘いもあったのだが、加賀美はそれを了承しなかった。
そればかりか、父が亡くなってすぐに巫女となり、神に仕えることにしたのだった。
巫女になる決心をするには、宮中への出仕の拒否、そして、もう一つ理由があった。
彼女には他人には無い、ある能力があった。
決して、自らそれを望まなくとも、様々なものが見え、聴こえる。
一時はそれに振り回され、物の怪にとり憑かれたのではないかと、憔悴したことがあった。
しかし、巫女となり、少しはその能力を操ることができるようになった。
その能力は悲しいことですら、彼女にわからせる。
容赦はなかった。
大納言が亡くなって間もなくのことである。
ある日、出かける神官を見送ったとき、なぜか、「もうお帰りにはなるまい」と悟った。
「お気をつけて」という声がすでに震えていた。
涙が止まらなかった。
やはり、出かけられた先で、突然お倒れになり、帰らぬ人となられた。
その後も、失せ物や病気の見立てなど、相手を見たとき、様々なものが見える。
しかし、そのようなことが兄に知れれば、どのようなことになるか。
身分制度の厳しいこの時代に、呪術師まがいの者がいるとなれば、恥となろう。
だから、加賀美は自分の能力をあまり他人には、知られたくなかった。
そんな中、彼女の能力を理解し、貴族の争いから彼女を守ってきたのは、亡くなられた神官と神官に仕えていた、下働きの渡りだった。