「僕のことは放っておいてくれ」が「(可愛すぎて死にそうだから離れてくれ)」の意だった件
豪奢なシャンデリアが輝くグランベル公爵邸の応接室に、重苦しい沈黙が満ちていた。
リゼット・ヴァン・クロムウェルは、膝の上で組んだ指をぎゅっと握りしめ、目の前に座る婚約者――ゼノス・エル・グランベルをじっと見つめていた。
彼は「氷壁の公爵」という異名にふさわしい、冷徹な美貌を湛えている。
艶やかな漆黒の髪。氷河の底を思わせる冷ややかなシルバーグレーの瞳。軍務で鍛えられたしなやかで強靭な身体を、隙のない濃紺の軍礼服に包んでいる。
その姿は、一枚の完成された絵画のように美しい。けれど、その瞳にリゼットが映ることは、今日一度もなかった。
「……ゼノス様、本日はその、お庭で咲いた一番綺麗な薔薇を持ってまいりましたの。お疲れではないかと思いまして」
リゼットは震える手で、テーブルに置かれた花瓶を差し出した。
朝露に濡れた真っ赤な薔薇は、リゼットのプラチナブロンドの髪や、サファイアのような碧眼にも負けない鮮やかさだ。彼女なりに、少しでも会話のきっかけになればと用意した精一杯の贈り物だった。
しかし、ゼノスはピクリとも表情を変えない。
彼はテーブルの上の薔薇に一瞥もくれず、手元の書類をめくる手を止めないまま、地を這うような低い声で言い放った。
「……言ったはずだ。用がないのなら、僕のことは放っておいてくれと」
その声は、ナイフのように鋭くリゼットの胸を刺した。
リゼットは息を呑み、言葉を失う。
「ですが、私たちは婚約者ですし、その、一月に一度のこの機会くらいは、お互いのことをお話しできればと……」
「無意味だ。君と話すべきことなど何もない」
ゼノスはようやく顔を上げたが、その視線はリゼットの顔を通り越し、斜め後ろの壁を射抜いている。まるで、彼女の顔など視界に入れたくないと言わんばかりの徹底した拒絶だった。
「……私のことが、そんなにお嫌いですか?」
リゼットの声が、情けないほどに震えた。
彼との婚約が決まったのは、三年前のことだ。王家からの打診もあり、名門同士の結婚として周囲からは祝福された。
リゼットは、初めて彼に会ったその日から、彼の凛とした佇まいと、時折見せる軍人としての誇り高い姿に心を奪われていた。愛される努力なら、いくらでもするつもりだった。
けれど、現実は無情だ。
会うたびに投げつけられるのは「来るな」「関わるな」「放っておけ」という言葉の礫。
贈り物は突き返され、手紙の返事は一度も来たことがない。たまに目が合いそうになれば、彼は親の仇でも見たかのような険しい顔をして、弾かれたように席を立ってしまう。
ゼノスは、リゼットの問いかけに対して、吐き捨てるように言った。
「二度と来るなと言ったはずだ。……帰れ。顔も見たくない」
最後の一言が決定打だった。
「顔も見たくない」――。
リゼットの碧眼に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「……申し訳ございませんでした。お仕事のお邪魔をして」
リゼットは立ち上がり、深々と頭を下げた。
零れ落ちそうになる涙を、必死で堪える。これ以上、彼の前で惨めな姿を晒したくはなかった。
リゼットが足早に応接室を去る際、背後でガタッと椅子が激しく鳴る音が聞こえた。彼が立ち上がったのだろう。追いかけてくれるはずなどない。きっと、ようやく厄介払いができて、清々しているのだ。
重厚な扉を閉めた瞬間、リゼットの頬を一筋の涙が伝った。
「もう……限界だわ」
彼に嫌われている自覚はあった。けれど、今日のはっきりとした拒絶で、リゼットの心は完全に折れてしまった。
どれだけ手を伸ばしても、彼は氷壁の向こう側。自分という存在が彼を苦しめているのなら、もう身を引くしかない。
リゼットは、夜明け前の空のような淡いプラチナブロンドを揺らしながら、逃げるように公爵邸を後にした。
――その時、応接室の扉の向こう側で。
「氷壁の公爵」ゼノス・エル・グランベルが、真っ青な顔をして、震える手で机を掴んでいたことなど、リゼットは知る由もなかった。
(……っ、あああああ! またやってしまった……! また、あんな酷いことを……!!)
ゼノスの脳内は、今まさに爆発せんばかりのパニックに陥っていた。
彼が掴んでいる机の木枠には、ミシリと嫌な音が響いている。
(リゼット……! 今日のリゼットも、恐ろしいほど可愛かった……! あのプラチナブロンドの輝き、潤んだサファイアのような瞳……! 直視したら、間違いなく俺の心臓が破裂して死んでいた……! だから目を逸らすしかなかったんだ!)
彼のシルバーグレーの瞳は、激しく揺れ動いている。
「放っておいてくれ」という言葉。それは彼にとって「(君が近くにいると俺の理性が蒸発して、柄にもなく取り乱し、醜い本音をぶちまけてしまいそうだから、お願いだから命がけで距離を取らせてくれ)」という、魂の叫びだったのである。
しかし、彼の不器用すぎる「好き避け」は、最悪の形で結実しようとしていた。
(……顔も見たくない? 帰れ? 俺は、俺は何を……! あんなに悲しそうな顔をさせて……! 嗚呼、死にたい。今すぐ戦地の最前線に飛び込みたい……!)
ゼノスは、リゼットが置いていった薔薇の花瓶を、壊れ物を扱うような手つきで引き寄せた。そして、その花びらにそっと触れ、顔を覆った。
彼の耳は、これ以上ないほど真っ赤に染まっていた。
※
グランベル公爵邸から逃げ帰ったあの日から、リゼットは自室に引きこもっていた。
鏡に映る自分の顔を見るたびに、ゼノスの「顔も見たくない」という冷酷な声が頭をよぎる。夜明け前の空の色と称えられたプラチナブロンドも、今は色褪せて見える。
「……もう、終わりにしましょう」
リゼットは震える手で、一枚の手紙を書いた。それは愛の言葉ではなく、婚約解消を願い出るための最後の手紙だ。
けれど、ただ身を引くのは忍びない。最後に、彼への未練を断ち切るための「儀式」が必要だった。
リゼットは、一睡もせずに編み上げたマフラーを抱きしめた。
彼の瞳と同じ、シルバーグレーの最高級の羊毛。軍務で寒い地方へ行くことも多い彼のために、一針一針、魔法付与の術式を編み込んだ特別な一品だ。
嫌われているのはわかっている。捨てられるのもわかっている。それでも、これがリゼットにできる最後の献身だった。
数日後、リゼットは再び公爵邸を訪れた。
出迎えた執事のセバスチャンが、心なしか同情に満ちた目で彼女を見る。
「……旦那様は、執務室にいらっしゃいます」
「ありがとうございます。今日が、最後になりますから」
リゼットの寂しげな微笑みに、老執事は何かを言いかけて口を噤んだ。
執務室の重い扉を叩く。中から「入れ」と、相変わらず氷のように冷たい声が響いた。
部屋に入ると、ゼノスは山積みの書類に向き合っていた。リゼットが部屋に入っても、彼は視線を上げない。それどころか、彼女が近づくにつれて、彼の全身からは「近寄るな」と言わんばかりの凄まじい威圧感が放たれる。
「……何の用だ。二度と来るなと言ったはずだが」
その低く、刺すような声。リゼットは膝が震えるのを必死に抑え、包みを机に置いた。
「最後のお願いに参りました、ゼノス様。……これを受け取ってください。そうすれば、私は二度と貴方の前に現れません」
ゼノスのペンを握る手が、ピタリと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げた。そのシルバーグレーの瞳が、初めてリゼットを真っ向から捉える。……いや、捉えた瞬間に、彼はひどく顔を歪め、椅子ごと大きく後ろに下がった。
「……っ、それは、何だ」
「マフラーです。貴方の……お身体を案じて。魔力を込めて編みました。……受け取っていただけないなら、ここで捨ててくださって構いません」
リゼットは深々と頭を下げた。涙が溢れないよう、床だけを見つめる。
返ってきたのは、沈黙。
そして――。
「……置いていけ。そして、早く出て行け」
ゼノスの声は、これまでにないほど掠れていた。
リゼットが恐る恐る顔を上げると、彼は片手で顔を覆い、もう片方の手で机の端を強く握りしめていた。その指先は、小刻みに震えている。
(……そんなに。私からの贈り物が、震えるほど不愉快なのね)
リゼットの心は、今度こそ粉々に砕け散った。
震える指先は、怒りか、あるいは嫌悪か。彼ほどの武人が、自制心を失うほどに自分を拒絶している。その事実は、どんな言葉よりも重くリゼットにのしかかった。
「……さようなら、ゼノス様。どうか、お健やかに」
リゼットは最後の手紙を机に置くと、振り返ることもできずに部屋を飛び出した。
背後で、ガシャンッ、と何かが倒れる大きな音が聞こえた。彼が贈り物を叩きつけたのか、あるいは怒りに任せて机を叩いたのか。それを確かめる勇気は、もう残っていなかった。
一方、執務室の中では。
「あ、あああ……っ! ああああ……っ!!」
ゼノス・エル・グランベルは、椅子から転げ落ちるようにして床に膝をついていた。
彼はリゼットが置いていったシルバーグレーのマフラーを、まるで聖遺物でも扱うかのように、震える両手で捧げ持っている。
(リゼットが……っ、リゼットが俺のために、夜通し編んでくれた……!? しかも、俺の瞳の色と同じ色の毛糸で……!? 術式まで……っ、愛が、愛が重い……っ!!)
彼の心臓は、軍の早打ちの太鼓よりも激しく脈打っていた。
あまりの幸福感。あまりの愛おしさ。そして、あまりにもリゼットが美しく「さようなら」と言った時の儚い表情。
それらが混ざり合い、彼の脳内の許容容量を完全にオーバーさせたのだ。
(ああああ! 可愛い! 死ぬ! 今すぐこのマフラーを顔に埋めて叫びたい! だが彼女の前でそんな奇行を見せられるか!? いや、できない! だから『出て行け』と言うしかなかった……! 追いかけたい、でも足が震えて立たない……っ!)
ゼノスは、床に散らばった書類(婚約解消の嘆願書)に気づき、その内容を読み取った瞬間、顔面から血の気が引いた。
(……こん、やく……かい、しょう……?)
先ほどまでの熱狂が、一瞬で凍りつく。
彼はリゼットが置いていった手紙を、血走った眼で凝視した。そこには「貴方をこれ以上苦しめたくないので、婚約を解消いたします」という、彼女なりの最後で最大の「愛」が綴られていた。
「……待て。違う。そうじゃない。リゼット、待ってくれ……!!」
ゼノスは必死に立ち上がろうとしたが、極度の緊張と興奮で麻痺した足がもつれ、再び床に崩れ落ちた。
「セバスチャンーーッ!! 門を閉めろ! リゼットを逃がすな! いや、やっぱり開けろ、俺が追う! 馬だ! 俺の黒王を出せ!!」
執務室に、公爵の絶叫が響き渡る。
しかし時すでに遅し。リゼットを乗せた馬車は、すでに公爵邸の正門を通り抜けていた。
※
世間は俺を「氷壁の公爵」と呼ぶ。
戦場では返り血を浴びても眉ひとつ動かさず、政界では敵対派閥を冷徹な論理で黙らせる。感情などという不確かなものは、とうの昔に捨て去った……周囲はそう信じて疑わない。
だが、そんなものは大嘘だ。
俺の心臓は今、人生最大の危機に瀕している。
(……可愛い。なんなんだ、あの生き物は。妖精か? 天使の聞き間違いか?)
数分前まで目の前にいた婚約者、リゼット・ヴァン・クロムウェルの姿を思い出し、俺――ゼノス・エル・グランベルは執務室の床でのたうち回っていた。
彼女と初めて会ったのは、彼女がまだ十歳の頃だった。
プラチナブロンドの髪をなびかせ、サファイアの瞳を輝かせて「初めまして、ゼノス様!」と微笑んだあの瞬間。俺の平穏な人生は終わった。正確には、彼女という名の巨大な重力に捕らわれた惑星になったのだ。
以来、俺の至上命題は「彼女に相応しい男になること」にすり替わった。
死に物狂いで武勲を立て、公爵家を盤石にし、全ては彼女を幸せにするために捧げてきた。
……しかし、致命的な問題があった。
俺は、**「好きな相手を前にすると、極度の緊張で顔面が凝固し、語彙力が消滅する」**という呪いにかかっていた。
リゼットが花を持ってきてくれた時。
(ああ、その薔薇よりも君の頬の方が赤くて美しい。その花のように君を愛でたい)
……と言いたい本心は、緊張のあまり喉に詰まり、絞り出されたのは、
「……僕のことは放っておいてくれ」
という、最悪の拒絶だった。
違う。違うんだ。
あまりにも彼女が眩しくて、直視すれば目が潰れ、心拍数が限界を超えてショック死してしまう。彼女を守るためではなく、**「俺が死なないために」**距離を置いてくれと叫んだつもりだったのだ。
そして今日。
彼女が持ってきた手編みのマフラー。
(俺の瞳の色……? 俺のことを考えながら、一針ずつ、あの細い指で編んでくれたのか? 術式まで込めて……。そんなの、愛が重すぎる。尊すぎる。無理だ、今の俺にこれを受け取る資格なんてない。いや、嬉しすぎて鼻血が出そうだ。頼む、今すぐ出て行ってくれ。君の前で鼻血を吹いて気絶する醜態だけは見せたくないんだ!)
その必死の「お願い」の結果が、あの冷酷な「早く出て行け」であった。
バカか。俺はバカなのか。死んだほうがいい。
リゼットが残していった手紙を、震える手でもう一度開く。
『……貴方をこれ以上苦しめたくないので、婚約を解消いたします』
「……あああああぁぁぁ!!」
俺は絶叫し、机を拳で叩いた。
苦しめてなどいない! むしろ君は俺の唯一の救いなんだ!
嫌いなわけがない。嫌いな相手のために、わざわざ仕事中も彼女の肖像画(極秘に特注したやつだ)を眺めてニヤけそうになるのを必死で堪えるような真似をするか?
嫌いな相手がくれたマフラーを、こうして頬ずりして、一生の宝物にしようとする男がどこにいる!?
「旦那様、お静かに。馬の準備が整いました」
扉の外でセバスチャンが冷ややかな声を出す。
「分かっている! すぐに行く!」
俺はリゼットが編んでくれたシルバーグレーのマフラーを、首に二重に巻きつけた。
まだ少し、彼女の香りがする。甘くて、優しい、リゼットの香り。
それだけで俺の脳内麻薬はドバドバと溢れ出し、もはや恐怖心すら消し飛んだ。
「待っていろ、リゼット。婚約解消など、たとえ国王陛下が許しても、この俺が――この心臓が許さない!」
俺は窓から飛び降り、待機していた愛馬・黒王に跨った。
「氷壁の公爵」の仮面は、もう粉々に砕けている。
今の俺は、ただの「愛が重すぎて暴走する不器用な男」でしかない。
「追うぞ、黒王! 彼女を逃がしたら、俺の人生は今日で終わりだ!」
蹄の音が夜の静寂を切り裂く。
リゼット、君を離さない。
たとえ君に「気持ち悪い」と蔑まれようとも、この溢れ出した本音を、今日こそ君の鼓膜に叩き込んでやる!
※
クロムウェル伯爵邸の広大な庭園。リゼットは、一人でベンチに座り、暮れなずむ空を見上げていた。
実家に戻った彼女を家族は優しく迎えてくれたが、胸の穴は広がるばかりだ。
(……これで、良かったのよね。ゼノス様はもう、私の顔を見て不快な思いをしなくて済むのだから)
思い出そうとするのは、彼の冷たい横顔ばかり。けれど、最後に見た、あの震える指先がどうしても頭から離れない。
その時だった。
地響きのような激しい蹄の音が近づき、庭園の入り口で急停止した。
現れたのは、漆黒の巨馬に跨り、風を切り裂いてきたゼノスだった。
「……ゼノス、様?」
リゼットは息を呑んだ。
なぜ彼がここに。追い払ったはずの婚約者を、わざわざ追い討ちで罵倒しに来たのだろうか。
ゼノスは馬から飛び降りると、一直線にリゼットへと突き進んできた。その顔は、かつてないほど険しく、恐ろしい。
「ひっ……!」
リゼットは思わず身をすくめ、目を閉じた。
しかし、予想していた冷たい言葉は降ってこなかった。代わりに、熱い鉄輪のような逞しい腕が、リゼットの肩をがしりと掴んだ。
「……逃げるなと言ったはずだ、リゼット!」
「……っ、ごめんなさい! すぐに、すぐに書類は用意させますから! だからそんなに怒らないで……」
「違う! 怒っていない! むしろ逆だ!!」
ゼノスの叫びに、リゼットは恐る恐る目を開けた。
至近距離にある彼の顔。いつもは氷のように無機質なシルバーグレーの瞳が、今は見たこともないほど潤み、血走り、そして――彼の顔全体が、茹で上がった蟹のように真っ赤に染まっていた。
「ゼノス……様? お顔が、真っ赤ですわ。お熱が……?」
「熱などではない! ……いや、熱はある。君に対する、愛という名の熱病がな!!」
リゼットは耳を疑った。今、この「氷壁の公爵」は何と言ったのか。
「いいか、一度しか言わんからよく聞け! ……いや、理解できるまで何度でも言う! 『放っておいてくれ』と言ったのは、君が眩しすぎて直視したら俺の心臓が爆発するからだ! 目を合わせなかったのは、君が可愛すぎて鼻血を吹く醜態を晒したくなかったからだ!」
「……えっ?」
「『顔も見たくない』と言ったのは、顔を見たら最後、君を抱きしめて一生離したくなくなる自分の理性が、今にも壊れそうだったからだ! 嫌いなわけがないだろう! むしろ好きすぎて、君がいない時間は一秒だって呼吸が苦しいんだ!!」
ゼノスは一気にまくしたてると、肩で激しく息をした。
リゼットは呆然として、彼を見上げる。
彼の首元には、先ほど彼女が渡したはずの、あのシルバーグレーのマフラーがこれ以上ないほどきつく巻き付けられていた。
「……不快で、震えていらしたのでは、ないのですか?」
「幸福すぎて武者震いしていたんだ! このマフラーの編み目ひとつひとつに君の愛が詰まっていると思ったら、全細胞が歓喜で震え出したんだよ!」
ゼノスは、掴んでいたリゼットの手を、強引に自分の胸に押し当てた。
ドク、ドク、ドク、ドク――!
手のひらから伝わってくるのは、尋常ではない早さの鼓動。まるで、閉じ込められた野獣が外に出ようと暴れているような、激しい響き。
「聞こえるか、これが俺の本音だ。……リゼット。俺は君がいないと生きていけない。婚約解消など、死んでもさせない。君が俺を嫌いになっても、俺は君を愛し続ける。……だから、お願いだ。俺を捨てないでくれ……」
最後には、消え入りそうな声でゼノスが言った。
「氷壁の公爵」と呼ばれた男が、今、リゼットの前で泣きそうな顔をして縋っている。
リゼットの目から、今度は悲しみではない、温かな涙が溢れ出した。
「……ゼノス様、馬鹿ですわ。本当に、大馬鹿様です」
「ああ、認めよう。俺は君の前では、ただの無能な男だ」
リゼットは、自分を抱きしめる彼の手をそっと握り返した。
氷壁が溶け出し、そこから溢れ出したのは、あまりにも重くて不器用な、純粋すぎる愛の奔流だった。
※
夕闇に包まれた庭園で、リゼットとゼノスは見つめ合っていた。
いや、正確にはリゼットが真っ赤な顔のゼノスを覗き込み、ゼノスは耐えきれずに何度も視線を泳がせている状態だ。
「……ゼノス様。さっきのお言葉、もう一度伺ってもよろしいですか?」
「くっ……! 拷問か、リゼット。……好きだ。死ぬほど、君を愛している。これで満足か」
ゼノスは片手で顔を覆い、指の隙間から銀灰色の瞳を覗かせた。その瞳は、今や冷徹な氷など微塵もなく、熱っぽい情熱に浮かされている。
「満足ですわ。……でも、これからは『放っておいて』なんて仰らないでくださいね? 私、本当に捨てられたと思って、泣き崩れていたのですから」
「……すまない。万死に値する。これからは、君が鬱陶しいと思うくらい、四六時中君の傍に張り付いていてもいいか?」
「それはそれで極端ですけれど……ふふっ、嬉しいですわ」
リゼットが鈴を転がすように笑うと、ゼノスは雷に打たれたように硬直した。
彼はリゼットが編んだマフラーに顔を半分埋め、「……尊い。あまりの可愛さに眩暈がする」と小さく呟いている。
翌日、二人は正式に婚約解消を取り下げた。
それどころか、グランベル公爵邸には「異変」が起きていた。
これまではリゼットが訪ねても追い返さんばかりだったゼノスが、今では彼女が馬車から降りる前に自ら玄関先まで全力疾走し、跪いてその手を取るようになったのだ。
「リゼット、今日の髪型も素晴らしい。そのリボン、僕の瞳の色と同じだね。……ああ、心臓が痛い。君が微笑むたびに、僕の寿命が縮んでいる気がする」
「ゼノス様、大袈裟ですわ。……あと、お顔が近すぎます」
リゼットの頬も、桃色に染まっている。
かつての「氷壁の公爵」はどこへやら。今の彼は、リゼットの一挙手一投足に一喜一憂し、隙あらば彼女を褒めちぎる「重愛の公爵」へと変貌を遂げていた。
執務室でお茶を楽しむ二人。
ゼノスは、リゼットが淹れた紅茶を一口飲むたびに、「至福だ……。このまま時が止まればいいのに」と、うっとりとした表情を浮かべる。
「そういえば、ゼノス様。以前、私の贈り物を叩きつけたような音がしましたけれど……あれは何だったのですか?」
「……あれか。……実は、君が出て行った直後、あまりの嬉しさに理性が飛んで、机の角に頭をぶつけて気絶したんだ。その時に椅子が倒れた音だろう」
「……気絶?」
「ああ。君の手作りのマフラーがあまりに温かくて、君の愛に包まれている感覚に陥ったら、脳が処理しきれなくなった」
真顔でとんでもないことを白状する婚約者に、リゼットは呆れを通り越して愛おしさが込み上げてきた。
「本当に、不器用な方。……でも、そんなゼノス様が、私は大好きです」
リゼットがそっと手を重ねると、ゼノスはビクンと肩を揺らした。
そして、真っ赤な顔のまま、今度は逃げ出さずに彼女の手を強く握り返した。
「……これからは、避けない。君を直視して、毎日、どれだけ愛しているか言葉に尽くそう。……リゼット、覚悟しておいてくれ。俺の愛は、君が思っているよりずっと、重くて深いぞ」
その言葉通り、後の結婚式で彼は、リゼットの美しさに感動して誓いの言葉の途中で感極まって泣き出し、参列者を驚かせることになるのだが――それはまた、別のお話。
「放っておいてくれ」が「愛している」の裏返しだった二人は、今、砂糖菓子よりも甘い日々を歩み始めた。
氷壁が溶けた後に残ったのは、春の陽だまりのような、温かくて眩しい恋の季節だった。




