第92話 橋を渡る者たちの先に、まだ見えぬ本流がある
橋を渡っている時、人はついその先の岸ばかりを見る。
いま渡っている川を越えれば、ひとまず安心だ。
この火を静めれば、少しは息がつける。
この顔を立て、この理を置き、この荷をほどけば、とりあえず次へ進める。
そう思う。
だが、いくつもの橋を渡ってきたあとで振り返れば、気づくことがある。
それは大きな川を渡っていたのではなく、もっと大きな本流へ注ぐ支流をいくつも越えていただけではないか、ということだ。
本能寺を止めた。
そこから先、信長を生かした世界を持たせるために、龍之介はずっと橋を架けてきた。
光秀と信長のあいだに。
秀吉の糸と、正面の理のあいだに。
寺の下の火と、公家の家の面目のあいだに。
町の荷と、都の理のあいだに。
そしていまは、京の火と、信長の理そのもののあいだにまで。
一つの火は、たしかに静まりつつある。
公家の家の面目に触れた火は、光秀の理が骨を置き、秀吉の糸が周りを割り、龍之介が下の荷を抱えたことで、少なくとも“一気に燃え広がる火”ではなくなった。
寺の下も、町も、まだ不満は残る。
だが、残っていること自体を隠さず、どこが上へ響くかを見られる段にはなった。
それは、間違いなく前進だ。
けれど、その静まりの先に、もっと高く、もっと深いところの火が見えてしまった。
家の顔ではない。
都の理だけでもない。
もっと朝廷に近い顔が、織田の理の伸び方そのものを、静かに見始めている。
それはまだ、名も形もはっきりしない。
だからこそ怖い。
軽く触れれば、触れ方そのものが火になる。
光秀は“軽くは触れられぬ”と言い、秀吉は“誰かが功を焦れば器が壊れる”と言った。
龍之介もまた、それを認めるしかなかった。
つまり、今まで渡ってきた橋は、終わりに辿り着くためのものではなかったのだ。
もっと大きな本流の縁へ立つための橋だったのだ。
◇
朝、宿の奥は静かだった。
光秀は、いつもより少し長く黙っていた。
秀吉は姿を見せていないが、その糸が周りでまだ働いている気配はある。
影鷹は変わらず、何もかも見えている顔をしている。
主人もまた、表の整い方に余計な乱れを出さぬよう、静かに動いている。
昨日返した信長への文は、まだ安土へ届いたばかりか、その手前だろう。
返りはまだない。
だが、その返りを待つ時間そのものが、すでに次の段の手前に立たされている時間でもある。
「三上殿」
影鷹が言った。
「何だ」
「妙なお顔にございます」
「どのようにだ」
「川を見ておられる顔です」
龍之介は少しだけ苦笑した。
「橋ではなく、か」
「はい」
「なるほどな」
たしかにそうだった。
いままでは橋ばかり見ていた。
どの橋へ荷を渡すか。
どこを太くし、どこを細く保つか。
だがいまは、その橋が掛かっている川そのものを見始めている。
そして、その川の向こうに、まだもっと大きな流れがあることに気づいてしまった。
◇
昼前、光秀と二人で短く言葉を交わした。
長い相談ではない。
むしろ、確認に近い。
「龍之介殿」
「は」
「一つの火は、ひとまず静まった」
「はい」
「だが、それで京が済んだわけではない」
「当然にございます」
光秀は、静かに頷いた。
「おぬしの文も、昨日出したな」
「はい」
「重い文であったろう」
「今までで最も」
そこまで言うと、光秀は少しだけ目を伏せた。
「信長公は、どう返されると思う」
それは簡単な問いではなかった。
だが、避けても意味がない。
「動かれるでしょう」
「うむ」
「しかも、京の一件としてではなく」
「……」
「織田の理そのものの伸び方として、見られるはずです」
光秀は、そこでようやく顔を上げた。
「そうだな」
短い。
だが、その短さの中に、かなりの同意があった。
たぶん光秀にも見えているのだろう。
一つの家の面目。
一つの京の火。
そういう小さな問題をどう持たせるかは、もう単独の話ではない。
信長が生きたまま、理をどこまで伸ばすか。
その大きな問いへ、すでに接続されている。
「日向守殿」
龍之介が言う。
「何だ」
「本能寺を止めても」
「うむ」
「火は消えませんな」
光秀は、そこでほんのわずかに口元を緩めた。
「消えると思っておったか」
「少しは」
「甘いな」
それは、その通りだった。
甘かったのだろう。
本能寺を止める。
そこから先をつなぐ。
それで少しは世が軽くなるのでは、とどこかで思っていた。
だが違う。
火は消えない。
むしろ信長が生きて理をさらに伸ばせば、別の火が、別の高さで立つ。
「だが」
光秀が続けた。
「火が消えぬからといって、橋が無意味になるわけでもない」
その一言は、静かに深かった。
「はい」
「橋があるから、一度は持つ」
「……」
「持ったからこそ、次の火が見える」
たぶん、それがこの百話の答えなのだろう。
橋を架けたから、終わるのではない。
橋があるから、ひとまず世は崩れぬ。
そして崩れぬから、次のもっと高い火が見える。
その繰り返しなのだ。
◇
夕方、秀吉が短く顔を見せた。
今日はいつもの軽さが少し戻っている。
それでも、その軽さの下に考えがぐるぐる回っているのは分かる。
「三上殿」
「何だ」
「静まりましたな」
「ひとまずは」
「ええ。その“ひとまず”が肝で」
秀吉は肩をすくめた。
「だからこそ、もっと高いところが見える」
「見えてきたな」
「はい」
秀吉は、珍しく笑みを浅くした。
「わしはあまり、あの高い火へ最初に触れとうはございませぬ」
「だろうな」
「軽いので」
あっさりしている。
だが、この男が自分の軽さを冷静に認める時は、本気だ。
「ですが」
秀吉は続ける。
「日向守殿もまた、重うございます」
「うむ」
「つまり」
秀吉は、龍之介を真っ直ぐ見た。
「三上殿が、また最初の橋にございますな」
嫌な言い方だった。
だが、いちばん正確だった。
高い火へ最初に軽く触れれば器が変わる。
重く入れば場が構える。
ならば、そのあいだに立つ者がまず見ねばならない。
結局また、自分がそこへ立つのだ。
「……嫌な役だ」
龍之介が言うと、秀吉はようやく少しだけ笑った。
「ですので、三上殿は面白い」
「ありがたくない」
「ですが読まれます」
その言い方に、龍之介は一瞬だけ眉をひそめた。
何か妙な言い方だと思ったが、すぐに秀吉は肩をすくめる。
「いえ、皆の目に、という意味で」
「紛らわしい」
「失礼」
この男は、本当にどこまで本気でどこまで冗談か分からない。
◇
夜、龍之介は一人で外へ出た。
ほんの少しだけ、宿の表から外れた場所。
京の夜は、安土の夜と違う。
完全に静まることがない。
どこかで誰かがまだ動き、火の気があり、遠くで水の音がする。
人の都なのだ。
空を見上げても、何か答えが降ってくるわけではない。
だが、こうして少しだけ場から体を外すと、ようやく自分の中の流れが見えることがある。
本能寺を止めた。
そこから先、京で火を分けた。
光秀を呼び、秀吉を残し、自分は荷を配った。
一つの火は静まりつつある。
だが、それは終わりではなかった。
もっと高い火が見えた。
もっと深い本流がある。
橋はまだ要る。
むしろ、ここから先の方がもっと要る。
「……橋を渡る者たちの先に、まだ見えぬ本流がある」
思わずそう呟くと、すぐ後ろで影鷹が答えた。
「今さらでございます」
やはり、最後はそこへ戻るらしかった。
だが、今夜ばかりはその一言に、少しだけ救われた気がした。




