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第9話 天正十年六月二日、歴史が息を止める朝

 朝は、あまりにも静かだった。


 龍之介は馬上で、その静けさをひどく不気味に感じていた。


 天正十年六月二日。

 本来なら、のちの世で何度も書かれ、語られ、絵にも講談にもなるはずの朝だ。

 織田信長が本能寺で討たれ、歴史の大きな流れが裂ける朝。

 そのはずの刻に、京の空は驚くほど穏やかだった。


 東の空はもう白みきり、青へ移りつつある。

 夜露を含んだ朝の空気はひやりとしていて、鼻先を撫でる風には湿った土と町家の煙の匂いが混じる。

 遠くで鶏の声がし、どこかの井戸端ではもう水を汲む音もする。

 人は起き、火を起こし、一日を始める支度をしている。


 その普通さが、かえって異様だった。


 龍之介の知る歴史では、この平穏はすぐに破れる。

 兵が動き、火が上がり、叫びが響き、朝の匂いはたちまち血と煤へ塗り替わる。

 だが今はまだ、その前だ。


 いや、前ですらない。

 もしかすると、すでに何かが変わり始めているのかもしれない。

 光秀が昨夜、愛宕山で刃を言葉へ持ち替えたことで、この朝はもう史実の朝ではなくなりつつある。


 だが、どこまで変わっているのかは誰にも分からない。


「静かすぎますな」


 影鷹が並び寄って、小声で言った。


 彼もまたいつもの飄々とした空気を薄めている。

 周囲の道筋、建物の影、兵の位置、人の動きを片端から拾っている顔だった。


「……そうだな」


 龍之介は短く答えた。


「本来なら、今ごろはもっと物々しいはずだ」


「ええ。ですが、日向守殿の兵は、攻め口の形を取っておりませぬ」


「それでも、いることはいる」


「おります」


 影鷹は視線だけで先を示した。


 表立って隊伍を組んではいない。

 だが道の先々、町筋の角、寺社の影、そうした場所に“動ける者たち”がいる気配がある。

 数を隠し、殺気を抑え、それでいて一声あれば一気に形になるよう整えられている。

 光秀は兵を完全には返さなかった。約した通り、残している。


 その事実が、龍之介に奇妙な安心と不安の両方をもたらしていた。


 安心は、光秀が完全に追い詰められた丸腰ではないこと。

 不安は、もし本能寺で話が決裂すれば、この兵がそのまま史実の役割へ戻りうること。


 結局のところ、今朝の京は薄氷の上にある。


 龍之介は視線を前へ戻した。


 先頭には光秀がいる。

 昨夜と変わらぬ背筋で、だが昨夜よりさらに無駄を削いだ姿で馬を進めていた。

 供の数は多くない。露骨な軍勢には見えぬよう抑えたのだろう。

 それでも明智日向守が本能寺へ赴くのだ。気づく者には気づく。


 その背からは、もはや怒りらしいものは読み取りにくかった。

 代わりに見えるのは、決めてしまった者の静けさだ。

 それが信長へ刃を向ける決意であれ、刃を収めて言葉を尽くす決意であれ、もはや軽い足取りではない。


 龍之介は、その背を見ながら思う。


 この男もまた、いま朝を迎えているのだ。

 史実では逆臣となる朝。

 だが今朝だけは、まだ逆臣ではない。

 ただ信長へ会いに行く、重い秘密を抱えた一人の武将だ。


 それを思うと、胸の内に妙な感慨が湧いた。

 歴史の中の人物は、あとから名を付けられる。忠臣、逆臣、奸雄、英雄。

 だが当人にとっては、その瞬間はただの朝であり、ただの決断の連なりにすぎない。


 町を抜けるにつれ、本能寺のあるあたりの空気が少しずつ濃くなる。


 寺の多い界隈独特の静けさ。

 町家の連なりの向こうに、瓦屋根と木の甍が見えはじめる。

 朝日に照らされたその屋根は、まだ平穏そのものだった。


 本能寺。


 龍之介は、喉の奥が乾くのを感じた。


 いま、自分は本当にそこへ向かっている。

 書物の中で何度も見た名だ。

 あの火事場を想像し、何度も「もしも」を考えた場所だ。

 その本能寺が、いま目の前ではただ静かな寺として朝の光を受けている。


 燃えていない。


 それだけで、胸が詰まりそうになる。


「龍之介様」


 影鷹が声を潜めた。


「お顔に出ております」


「何がだ」


「感動半分、吐きそう半分」


「……半々ではないな」


「六四くらいですか」


「余計なお世話だ」


 そう返しながら、龍之介は自分でも苦笑を抑えきれなかった。


 たしかに、会いたかった。

 本能寺を見たかった。

 あの朝の空気を知りたかった。

 だが、いざ本当に目の前にすると、高揚と恐れが混じってひどく落ち着かない。


「とはいえ」


 影鷹が続ける。


「まだ何も済んでおりませぬ」


「分かっている」


「寺が燃えていないことに安心するのは、信長公と日向守殿が同じ部屋で刃を抜かぬと決まってからに」


「おぬしは容赦がないな」


「現場仕事ゆえ」


 現場、という言葉が少し可笑しくて、龍之介は鼻で笑った。

 歴史の分岐点を前にしても、言葉だけは妙に世知辛い。


 だが、そのくらいでよかった。

 大仰な言葉ばかりでは、かえって心がもたない。


     ◇


 本能寺の門前には、すでに何人かの僧や近習らしき者たちが動いていた。


 朝の支度だろう。

 水桶が運ばれ、箒の音がし、誰かが低い声で指図している。

 平時の寺の朝の光景だ。

 だからこそ、明智光秀の来訪は場へ微かな緊張を落とした。


 当然だろう。


 日向守ほどの人物が、朝早くに本能寺へ来る。

 ただ事ではない。

 だがいまのところ、門前の空気はまだ「不審」よりも「急ぎの用向きか」という程度で踏みとどまっていた。


 光秀が馬を下りる。

 龍之介もそれに倣う。

 地に足をつけた瞬間、若い身体はすぐに重心を整えた。

 だが胸の内のざわめきは、むしろ強まる。


 寺の門は、拍子抜けするほど普通だった。


 史実を知る者にとって、本能寺は炎と死の象徴になりすぎている。

 だが本来の本能寺は、当然ながら日常のある場所だ。

 板戸は朝の光を受け、木肌はよく磨かれ、人の手で維持されている。

 ここにも当たり前に、掃除をする者がいて、湯を沸かす者がいて、一日を始める者がいる。


 この場所を燃やしてはならない。

 その思いが、理屈ではなく腹の底からせり上がってきた。


 門前へ進み出たのは、若い武士だった。

 目が利く。姿勢に隙がない。顔立ちはまだ若いが、ただの小姓ではない鋭さがある。


 森蘭丸。


 龍之介は一目でそう察した。


 史料や物語で知る森蘭丸の像がどこまで本当かはさておき、少なくとも目の前の若者が“信長の近くにいて当然の者”であることは、理屈抜きに分かった。

 人を通すか通さぬか、その一瞬の判断に慣れている顔だ。


 蘭丸は光秀へ礼をしつつも、表情を崩さなかった。


「日向守様。朝まだきより、いかなる御用にて」


 声は若いが、抜け目がない。


 光秀は前もって整えたとおりの顔で応じた。


「急ぎ、上様へ申し上げたき儀がある。都の気配と軍略のことゆえ、他聞を避けたい」


 蘭丸の目が、わずかに細くなる。


「軍略、と」


「左様」


「いまこの場にて、私へお申し付けいただくことは」


「できぬ」


 短く言い切る光秀の声には、昨夜までの揺れは感じさせなかった。

 そのことが蘭丸にとってはかえって気になるのかもしれない。

 彼は光秀の後ろに控える龍之介へ一瞬だけ目を向けた。


「そちらの御方は」


 龍之介が一歩進み、礼を取る。


「三上龍之介。都筋より、日向守殿へ急ぎお耳入れした者にございます」


「都筋」


「はい」


「見慣れぬお顔にございますな」


「私も、森殿のお顔は初めて拝する」


 蘭丸の眉がごくわずかに動く。

 軽口と取るには、こちらの声色が真面目すぎる。

 だが無礼とも言い切れぬ。


 龍之介は続けた。


「ゆえに、いまこの場で疑われるのはもっとも。されど急ぎであることは偽りありませぬ。むしろ、疑われるのも承知で参りました」


 蘭丸は龍之介を見た。


 若い。

 だが若いだけではない。

 その視線には、信長の側で鍛えられた者だけが持つ“瞬時に値をつける”冷たさがあった。


「……日向守様」


 蘭丸は光秀へ向き直る。


「上様は今朝の御機嫌、悪くはございませぬ。されど、御前にて曖昧な話を好まれるとも思えませぬ」


「承知している」


「そのうえで、なおお目通りを」


「願う」


 短いやりとりだった。


 だが龍之介には、それが刃の渡り合いのように見えた。

 光秀も蘭丸も、互いに相手の一息一息まで読んでいる。


 やがて蘭丸は、深くはない礼を返した。


「少々、お待ちを」


 そう言って奥へ消える。


 龍之介は、その背を見送りながらようやく小さく息を吐いた。


 第一の関門は通った。

 だが、まだ門前に立っているだけだ。

 信長が会うかどうかは、蘭丸の言上の先にある。


 光秀は微動だにしていない。

 だがその横顔は昨夜よりもさらに研ぎ澄まされていた。

 ここまで来たのだ。もはや軽々しくは引き返せぬ。

 本能寺の門前まで来て、信長に拒まれれば、それだけで何かが壊れかねない。


 龍之介は本能寺の屋根を見上げた。


 静かだった。

 あまりにも静かだ。


 廊から聞こえる足音。

 どこかで鳴る水の音。

 朝の光に温められ始めた木の匂い。

 人が生きている音ばかりがする。


 これが、燃えない本能寺の朝なのか。

 まだ燃えていない本能寺の朝なのか。


 歴史は息を止めている。

 そうとしか思えなかった。


 影鷹が、視線を動かさぬまま囁く。


「龍之介様」


「何だ」


「いまのうちに確認を」


「何をだ」


「もし、信長公が日向守殿だけを通し、こちらを外で待たせると言った場合」


 龍之介は考えた。


 その可能性はある。

 むしろ高いかもしれない。

 光秀ほどの人物なら、まず本人だけで通す。得体の知れぬ外部の男まで同席させる理由は薄い。


「……その場合は」


 龍之介は低く答える。


「最初は従うしかない」


「はい」


「だが、できれば茶の場へ移る前に私を入れたい。光秀と信長だけでは、互いに古傷を直に抉り合う可能性が高い」


「同感です」


「だから、蘭丸か、あるいは信長本人に“都筋の使者として、場を整える者”という位置づけを認めさせねばならぬ」


「難しいですな」


「難しい」


 だが難しいからこそ、やるしかない。


「もし完全に外されたら」


 影鷹が続ける。


「その時は」


 龍之介は目を細めた。


「何かが荒れた気配がした瞬間に、割って入る」


「無茶を」


「承知の上だ」


 その時、寺の奥から再び足音がした。


 蘭丸が戻ってくる。


 顔色は変わっていない。

 だが微かに、先ほどよりも鋭い緊張が乗っていた。

 言上は通ったのだろう。

 だが信長がどう受けたかまでは、まだ読めない。


 蘭丸は門前へ出て、光秀を見た。


「上様は、お会いになると」


 その言葉に、空気がひとつ沈んだ。


 通った。


 だが、そこで終わりではない。


「ただし」


 蘭丸の視線が龍之介へ向く。


「そちらの御方について、上様は“面白そうなら入れよ”とのこと」


 龍之介は一瞬、信長らしい、と思った。


 不審ではある。

 だが、面白そうなら見る。

 それがあの男なのだろう。


 光秀の目にも、ほんの一瞬だけ複雑な色がよぎった。

 安堵、警戒、そしてたぶん、苦い納得。


「ありがたい」


 龍之介はそう返し、礼をした。


 蘭丸はまだこちらを完全には信用していない。

 むしろ少しでも妙な動きがあれば、その場で斬るつもりだろう。

 それでも入れる。

 信長の一存が下った以上、もはやこちらも逃げ場はない。


「参られよ」


 蘭丸が言う。


 本能寺の門が、より近く感じられる。


 龍之介は一歩を踏み出した。

 木の匂いが濃くなる。

 磨かれた板の色が目に入る。

 静かな廊の奥に、歴史の中心がある。


 信長がいる。


 いま、自分はそこへ向かう。


 本能寺はまだ燃えていない。

 その事実だけで、胸の内が熱くなりそうだった。

 だが同時に、ここから一つ間違えれば、すべては史実よりも酷い形で崩れるかもしれない。


 龍之介は、自分の鼓動が速くなるのを感じた。


 推しに会う高揚。

 歴史に踏み込む恐れ。

 斬り合いになりかねぬ緊張。

 全部が同時に胸を叩いている。


 光秀が、隣でごく低く言った。


「龍之介殿」


「は」


「ここまで来たな」


「来ましたな」


「……もし、私が言葉を誤れば」


「その時は、私が割って入ります」


 光秀はそれに答えなかった。

 だが、その沈黙に拒絶はなかった。


 廊を進む。

 蘭丸が先に立ち、足音のひとつまで抑えられている。

 寺の中は静かで、しかし死んではいない。

 人の気配、紙の擦れる音、どこか遠くで交わされる短い言葉。

 日常の延長にあるはずの空間が、今日だけはひどく薄い氷の上に置かれている。


 ひとつの襖の前で、蘭丸が止まった。


「こちらにて」


 声は低い。


「上様がお待ちにございます」


 龍之介は、喉が渇くのを覚えた。


 襖の向こうに、織田信長がいる。


 歴史の怪物。

 時代の先を見すぎた男。

 そして、あの本能寺で死ぬはずだった男。


 いま、この襖一枚を隔てて生きている。


 蘭丸が、そっと襖に手をかけた。


 開く。


 龍之介は息を止めた。


 その視線が、まっすぐこちらへ向けられる。


 織田信長がいた。

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