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第8話 本能寺前夜の密約

「……もし、おぬしの申すように、まだ戻れるとして。私は、何をすればよい」


 明智光秀のその一言は、懺悔でもなければ、降伏でもなかった。


 まして救いを求める哀願でもない。

 それは、刃を握ったまま崖っぷちに立つ男が、足場の有無だけを最後に確かめるような問いだった。


 龍之介は、その重さを軽く扱ってはならぬと分かっていた。


 いまここで「簡単です、兵を引けばよい」と言ってしまえば、たぶん終わる。

 光秀は自分が積み上げてきた怒りも屈辱も、ここ数日に腹の内で固めた決断も、そんな軽い言葉では捨てられない。

 いや、捨ててはいけないのだろう。

 それほどまでに追い詰められたという事実そのものを、なかったことにしてはならない。


 だから龍之介は、すぐには答えなかった。


 光秀も急かさない。

 部屋の中には、香の薄い匂いと、外の風の音だけが残っている。

 控えの武士たちは、主君の問いの意味を完全には呑み込めず、だがそれでも一語も挟めぬまま緊張していた。

 影鷹は気配を薄くしたまま、龍之介の横顔を見ている。


 龍之介は一度だけ、深く息を吸った。


「兵をそのまま返す、というのは下策です」


 光秀の眉がわずかに動いた。


「下策、とな」


「はい」


「ほう」


 光秀の声には、かすかな皮肉も混じっていた。

 主君へ謀反を企てたと見抜かれた男に向かって、兵を返すのが下策とは、ずいぶんな物言いである。

 だが龍之介はそこで怯まず続けた。


「今ここで兵を返せば、日向守殿の中で何も解決せぬ。怒りも不満も宙に浮く。部下は動揺し、謀反の気配だけがどこかに残る。しかも、もし信長公の耳へ別の形で入れば、“何かあった”という事実だけが先に立つ」


 光秀は黙って聞いている。


「それでは、日向守殿がご自身の理を曲げて思いとどまっただけになりましょう。だが、曲げただけの理は、いずれ別の場所でまた歪む」


「……では、どうする」


「信長公へ会うのです」


 部屋の空気が、またひとつ変わった。


 控えの武士の一人が思わず顔を上げ、もう一人は露骨に目を剥いた。

 影鷹でさえ、さすがにその瞬間だけは龍之介を見た。


 だが光秀は、やはり声を荒げなかった。


「会って、どうする」


「いまここで起きようとしていることを、起きる前に終わらせる」


「曖昧だ」


「曖昧でなければ進められませぬ。信長公は疑い深く、また勘も鋭い。露骨に“謀反を思いとどまりました”などと申し上げれば、その時点で斬られる可能性がある」


「その通りだ」


 光秀の返答は冷静だった。

 つまり、彼自身もその結末をよく理解している。


「ならば」


 龍之介は言葉を継ぐ。


「形を整えるべきです」


「形」


「はい。謀反でも、謝罪でもなく、“急ぎ言上すべき軍略と都の気配がある”という形で、本能寺へ入る」


 光秀の目が細まる。


「……都の気配」


「使えるものは使うのです。都に近いのは、日向守殿の強みでもある。都の空気、朝廷の機微、諸方の視線。それらを口実に、信長公へ拝謁する場を作る」


「なるほどな」


 光秀は低く呟いた。


「兵を連ねて乱入するのではなく、兵を控えさせたうえで、あくまで言上の場を求める、と」


「さよう」


「だが、それで信長公が会うか」


「会わせます」


 龍之介は言い切った。


「……大きく出たな」


「ここで小さく出ても仕方ありませぬ」


 むろん、会わせます、などと言い切れる保証はない。

 信長が気まぐれに追い返す可能性もあるし、蘭丸あたりが不審を感じて門前で止めることもある。

 だが、可能性の話をするなら、ここは言い切らねばならなかった。


 光秀が求めているのは、綺麗事ではなく足場だ。

 足場を示すなら、まずはこちらが踏み抜かぬ顔をして見せる必要がある。


「仮に会えたとして」


 光秀の指が膝の上でわずかに動く。


「信長公へ何を申す。まさか“私は今朝、謀反をやめようか迷っておりました”とは言うまいな」


「言いませぬ」


「では」


「申し上げるのは、“天下の形について、いまここで腹を割って話すべき時である”ということです」


 光秀は龍之介を見た。

 その目は、もう完全に値踏みの目だった。


「腹を割る、か」


「はい」


「信長公が、そのような話し合いに応じると?」


「応じる可能性はあります」


「なぜそう思う」


「信長公は、人を切るのが早い一方で、話を聞くべき相手には異様に耳を傾けるからです」


 これは龍之介の知識だけではなく、願いに近い見立てでもあった。


 信長という男は、苛烈で、短気で、容赦ない。

 だが同時に、面白いと思った人材、使えると思った相手には、不意なほど忍耐深くもある。

 合理と興味が一致した時、あの男は驚くほど相手を見逃さない。


「日向守殿ほどの方が、都と天下の間にある不穏を口実に、自ら本能寺へ赴き、なおかつ“ここでしか申せぬ”と出るなら、信長公は会うでしょう。少なくとも、話くらいは聞く」


 光秀は、そこでわずかに口元を歪めた。


「買いかぶりか、それともよほどあの方を見ているか」


「どちらもかもしれませぬ」


「変わった男だ」


「よく申されます」


 その返答に、光秀の目の冷えがほんの僅かに緩んだ。


 しかしそれだけでは足りない。

 いま龍之介が差し出しているのは、ただ会う機会を作る策にすぎない。

 その場で何をどう着地させるかまで見えなければ、光秀は再び刃の方へ戻る。


「問題は、その先です」


 龍之介は言った。


「……その先」


「はい。信長公が会う。話を聞く。だが、それで“めでたし”にはならぬ。むしろそこから先の方が危うい」


「当然だな」


「信長公は苛烈です。日向守殿もまた、言うべきことを呑み込める性質ではない。下手をすれば、対面したその場で互いの怒りが爆ぜる」


「その通りだ」


 光秀の返答に、わずかな苦さが混じる。


「ならば、場を変えるべきです」


「場」


「本能寺の表座敷ではなく、茶の席です」


 それを言った瞬間、光秀の目がわずかに揺れた。


 龍之介はそこを見逃さなかった。


「……茶か」


「はい。公然たる軍議ではなく、腹を割るなら茶の席がよい。余人を遠ざけ、言葉を整理し、互いの呼吸を測るには、その方がよい」


 戦国の武将にとって、茶席はただの趣味ではない。

 心を整え、間を取り、駆け引きを行う場所でもある。

 そして信長は茶を愛し、光秀もまたその価値を知る男だ。


「日向守殿」


 龍之介はまっすぐ言う。


「信長公へ、軍略と都の気配を口実に会う。だが、ほんとうに言わねばならぬことは、茶席で申すのです」


「……」


「怒りも不満も、そこではじめて言葉にすればよい。謀反としてではなく、天下の形を担う者同士の話として」


 光秀は沈黙した。


 その沈黙は長かった。

 だが拒絶の長さではない。

 頭の中で組み立て直している沈黙だった。


 龍之介は、そこでさらに押さなかった。

 押しすぎれば反発が生まれる。

 光秀は、自分で理を立てねば動けぬ男だ。こちらが答えを渡しすぎてはならない。


 やがて光秀が、低く言った。


「おぬしは、まるで私がまだ信長公へ言うべきことを持っているように申すな」


「持っておられましょう」


「なぜそう言い切れる」


「もし本当に、すべてが終わっておるなら」


 龍之介は静かに答えた。


「日向守殿は、こんな問い方はなさらぬ」


 光秀の瞳が、ほんの一瞬だけ鋭く揺れた。


 図星か。

 あるいは、そう見せているだけか。

 どちらにせよ、届いてはいる。


「主を討つ覚悟を決めた者なら、“戻れるならどうすればよい”とは問わぬ。問うた時点で、まだどこかに言葉が残っている」


 光秀は目を伏せた。


 わずかに、息が漏れる。

 嘆息にも似ていた。

 長く抑えてきたものが、一瞬だけ肩から落ちたような音だった。


「……おぬし」


「は」


「嫌な男だな」


「光栄です」


「褒めてはおらぬ」


「存じております」


 それでも、先ほどまでの冷えきった険しさとは違う。

 光秀はもう龍之介を、単なる侵入者や妄言の徒としては見ていない。

 面倒だが、切り捨てるには惜しい相手。そういう位置にまで、ようやく届いた。


 だが、まだ足りない。


 ここから先に必要なのは、光秀本人が動く理由だ。

 自分の意地だけではない、兵を納得させ、供を動かし、なおかつ信長の前へ出るだけの大義名分。


「日向守殿」


 龍之介は言った。


「今から兵をすべて退かせる必要はありませぬ」


 光秀が顔を上げる。


「控えさせるだけでよい。いざとなれば本能寺を囲める位置に、しかし露骨な攻め口には見えぬ位置に」


「……保険を残せと」


「はい」


 控えの武士たちが息を呑んだ。


 龍之介の口から出たのは、完全な無抵抗でも全面的な降伏でもない。

 信長へ会うための道を開きつつ、それでもなお最悪の局面に備える、いかにも戦国らしい現実的な提案だった。


 光秀の目が、そこではじめてほんの僅かに柔らかくなった。


「なるほど」


「ここで丸腰になれば、日向守殿ご自身も腹が決まらぬ。部下も動揺する。ならば、まだ選択肢を残したまま本能寺へ向かうのです」


「会って、それでも駄目なら」


「その時は、その時です」


 言葉は冷たい。

 だが戦国である以上、それが現実だった。


 龍之介自身、本心ではそこで決裂してほしくない。

 だが“絶対にうまくいく”などと甘い希望で押せば、光秀は逆に信じぬだろう。


「……おぬし」


 光秀が、しばらくしてから言った。


「人の心で止めるべきだと言いながら、兵も残せと申すか」


「心は揺れますゆえ」


 龍之介ははっきり答えた。


「日向守殿も、信長公も、人です。腹を割って話せば必ず分かり合えるなどとは申しませぬ。ゆえに、理想を追いつつ、最悪に備えるべきです」


 光秀の目が細くなる。

 だが今度は、警戒というより、得心に近い細さだった。


「都の言葉で飾るわりに、中身は戦場の者だな」


「現場あがりですので」


「現場、か」


「どの世も、現場は綺麗事だけでは回りませぬ」


 光秀はそこで、小さく笑った。


 ほんの僅か、口元が動いただけだ。

 だが、それは第七話の時の綻びよりも、もう少し人間らしい笑みだった。


「よい」


 光秀が言う。


「そこまで申すなら、策として聞こう」


「ありがたく」


「兵は返さぬ。ただし、攻めの形では動かさぬ。本能寺へは私自ら出向く。表向きは急ぎ言上。余の者は最小限」


「はい」


「その場で信長公が会われぬ、あるいは問答無用で斬りかかられた場合は」


「退くべきです」


 龍之介は即答した。


「そこで意地を張っては本当に謀反となる。日向守殿が今日守るべきは、ご自身の顔よりも、まだ残っている未来です」


 光秀は静かに頷いた。


 その一つ一つの頷きが、まだ確定ではないにせよ、歴史の歯車をほんの少しずつずらしているように思えた。


 その時だった。


 控えていた武士の一人が、ついに耐えきれぬように口を開いた。


「日向守殿!」


 若い声だった。

 焦りと怒りと戸惑いが混じっている。


「このような得体の知れぬ男の言を、まことにお聞きになるおつもりですか。いまさら、ここまで進めたことを――」


「斎藤」


 光秀が名を呼ぶ。


 それだけで、若武士は言葉を止めた。

 だが顔には納得がない。

 当然だった。主君の大事を共に担ってきた者からすれば、ここへ来て現れた外様の男に流れを変えられるなど、面白いはずがない。


 光秀はその若武士を見た。


「そなたは、私がいま何をしていると思う」


「……は」


「怯えていると思うか。迷っていると思うか。それとも、この男に誑かされていると思うか」


 若武士は口を閉ざした。


 光秀の声に怒気はない。

 だが、怒気がないからこそ逆らいにくい。


「私は、考えている」


 光秀は静かに言った。


「考えぬまま刃を振るうほど、軽くはない」


 若武士は膝をつき、頭を下げた。


「……失礼いたしました」


 そのやりとりを見て、龍之介は胸の内でひとつ理解した。


 この男は、やはり“ただの逆臣”ではない。

 部下を黙らせる威もある。

 自分の行動に理を求める重さもある。

 だからこそ、本能寺まで来てしまったのだろう。


「龍之介殿」


 光秀が改めてこちらを見る。


「そなたも、本能寺まで同行せよ」


 影鷹の気配がわずかに張る。

 控えの武士たちも顔を上げる。


 龍之介自身も、一瞬だけ考えた。


 当然の提案ではある。

 ここまで口を挟んだ以上、現場で責任を取れという話だ。

 だが同時に、それは最も危うい位置でもある。

 光秀と信長の間で、何か一つ間違えば真っ先に斬られかねない。


「承知いたす」


 それでも答えは決まっていた。


 ここで退いては意味がない。


「ただし」


 光秀が続ける。


「そなたの言が虚であったなら、最初に斬るのはそなただ」


「もっともな話です」


「怖くはないか」


「怖いですな」


 龍之介は苦笑した。


「ですが、ここまで申した以上、それくらいは引き受けねば筋が通りませぬ」


 光秀は、それを聞いてほんの少しだけ目を伏せた。


 何を思ったのかは分からない。

 だが、その沈黙には先ほどまでの冷たさだけではなく、どこか疲れた納得のようなものがあった。


「……よい」


 やがて彼は言う。


「では、準備を整える」


「日向守殿」


 龍之介はそこで、もうひとつだけ言葉を足した。


「本能寺へ入る前に、ひとつお願いがございます」


「何だ」


「詩でも連歌でも、綺麗な決意でご自身を固めすぎぬことです」


 控えの武士たちがまたざわめいた。

 だが光秀は黙っている。


「人は大事の前に、美しい言葉で己を押し切りたくなる。ですが、その言葉が固すぎれば、後で戻れませぬ」


 龍之介は愛宕百韻のことを思っていた。

 時は今、あめが下知る、五月かな。

 あの句に込められた解釈が後世どうあれ、少なくとも“今こそ天下を知る時”という決意の匂いを感じずにはいられない。


 だが決意というものは、時に人を助け、時に逃げ道を塞ぐ。


「今日必要なのは、美しい腹の括りではなく、醜くても引き返せる余地です」


 光秀は、そこでふっと息を吐いた。


「……本当に嫌な男だな、そなたは」


「本日二度目にございます」


「三度でも四度でも申そう」


 だがその声音には、もはや拒絶はなかった。


     ◇


 話がまとまると、場は急に忙しさを帯びた。


 控えの武士たちが外へ出ていく。

 伝令が走り、兵の位置と動きが修正される。

 露骨な攻め口には見えぬよう、しかしいざという時には本能寺周辺へ寄せられるよう、かなり繊細な指示が飛んでいるらしい。


 龍之介はその様子を見て、改めて光秀という男の統率の細やかさを知った。


 謀反を思いとどまるにしても、兵を退くにしても、場当たりではない。

 何十何百という人間の動きが、彼の一声で変わっていく。

 そういう男が本気で信長へ刃を向けようとしていたのだ。

 危なかったのだと、いまさらながら背に冷たいものが走る。


 休息所の端で、影鷹が小さな声で言った。


「見事にございますな」


「何がだ」


「まず、斬り合いにならずに済みました」


「それが一番大きい」


「しかも、明智殿が完全に折れたわけではない。あれでよいのです」


「そうか?」


「はい。あの方は折られるより、自分で理を組み直さねば動けぬ類でしょう」


 その見立ては龍之介も同感だった。


「だが、まだ危うい」


「危ういですな」


 影鷹はあっさり言う。


「本能寺で信長公がどう出るか次第では、また刃へ戻りましょう」


「だろうな」


「だからこそ、龍之介様が同行する意味がございます」


「荷が重い」


「今さらでございます」


 その通りだった。


 龍之介は外へ目を向ける。


 山の風が少し強くなっている。

 空はまだ高く青いが、その青さがかえって張りつめて見えた。

 このまま何事もなく暮れてくれればよいのに、と少しだけ思う。

 だが歴史は、そういう“少しだけの願い”を簡単には叶えない。


 足音がして、光秀が戻ってきた。


 すでに装いは整えられている。

 山中の参詣人ではなく、明智日向守として信長の前へ出る顔だった。

 その顔つきは先ほどよりも静かだが、決して穏やかではない。

 刃を収めたのではない。

 刃の向きを、いったん言葉へ変えようとしているだけだ。


「出る」


 短く言う。


 龍之介は立ち上がった。


 影鷹もまた影のように身を起こす。


「日向守殿」


 龍之介が声をかけると、光秀は振り向いた。


「本能寺に着いた後、最初の場では謀反の気配を一切見せぬ方がよろしい」


「申すまでもない」


「ですが、供の顔までは隠せませぬ」


「……」


「皆が“いまにも刃に及ぶ顔”をしていては、蘭丸あたりはすぐ嗅ぎ取る」


 光秀の眉がわずかに寄る。


「なるほど」


「少なくとも、今日の用向きは“緊急の言上”です。怒りではなく、切迫を顔に出すべきです」


 光秀は数瞬考え、それから小さく頷いた。


「斎藤」


「はっ」


 先ほどの若武士が出る。


「供の顔を整えよ。殺気は要らぬ。焦りだけでよい」


 一瞬、斎藤が面食らったような顔をしたが、すぐに頭を下げた。


「承知」


 龍之介は心の中で、少しだけ息を吐いた。

 届いている。

 まだ完全ではないが、こちらの言葉は届いている。


「龍之介殿」


 今度は光秀の方から呼んできた。


「本能寺で、信長公が茶へ応じたなら」


「はい」


「そなたは、どこまで口を挟むつもりだ」


 良い問いだった。


 龍之介は迷わず答える。


「最初は最小限に」


「ほう」


「まずは日向守殿ご自身のお言葉を優先すべきです。私が間に入りすぎれば、ただの口利きで終わる」


「その通りだ」


「ただし、場が険悪になり、互いの言葉がぶつかるようなら割って入ります」


「何を言う」


「信長公にも、日向守殿にも、“いまはまだ斬り合う場ではない”と申します」


 光秀は小さく笑った。


「豪胆だ」


「内心は震えております」


「そうは見えぬ」


「見せぬよう努めております」


「ますます嫌な男だな」


「本日三度目にございます」


「覚えておけ。四度目もあるぞ」


 その言葉には、奇妙な軽さがあった。

 歴史の崖っぷちにいるはずなのに、そこでこうしたやり取りが交わせること自体、すでに流れが変わり始めている証のようでもあった。


 だが、変わったからといって安心はできない。


 本当の勝負は、まだ先だ。


     ◇


 愛宕山を下る頃には、陽はだいぶ傾き始めていた。


 木々の影が長くなり、風の匂いも少し変わる。

 行きよりも周囲の気配が増えている。兵の動き、伝令の走り、馬の鼻息。

 すべてが表立って騒がしいわけではないが、“何かが始まろうとしている”匂いは濃くなっていた。


 光秀は先頭にいた。


 背筋は伸び、歩みに迷いがない。

 だがその背に、龍之介はなお危うさを見る。

 いまこの男を前へ押しているのは、もはや怒りだけではない。

 決めてしまった自分を裏切れぬという意地も、きっとある。


 そして、その意地を別の形へ繋ぎ直せるかどうかが、明日の本能寺にかかっている。


 影鷹が隣へ寄り、小声で言った。


「本当に行くのですな」


「今さらだ」


「いえ。山の上では話がまとまっても、麓へ降りると現実味が違う」


「……そうだな」


 龍之介も同感だった。


 山の上の密談は、まだ半ば夢の延長だった。

 だが下れば、京がある。信長がいる。本能寺がある。

 現実の兵と馬と道と人があり、そこで何か一つ違えば、たちまち血が流れる。


「本能寺前夜の密約、か」


 龍之介がぽつりと言うと、影鷹が少しだけ口元を動かした。


「洒落た言い方でございますな」


「中身は胃の痛い話だがな」


「違いありませぬ」


 たしかにその通りだった。


 やがて山道の向こうに、京へ続く気配が濃くなってくる。

 人の匂い、煙、道の広がり。

 歴史の大舞台が、もう目の前にある。


 龍之介は空を仰いだ。


 薄く色づきはじめた空は美しかった。

 だが明日、この空の下で本能寺が燃えるはずだったのだと思うと、その美しさすらどこか不穏に見える。


 まだ間に合う。

 だが、もう後戻りはない。


 光秀が歩みを止め、振り返らずに言った。


「龍之介殿」


「は」


「明朝、本能寺にて」


「はい」


「おぬしの言う“腹を割る場”が、本当に来ることを祈る」


 龍之介は、その背に向かって静かに答えた。


「祈るだけでは足りませぬ。必ず、そう持っていきましょう」


 光秀は何も返さなかった。

 だがその沈黙は、拒絶ではなかった。


 山を下りる。

 京へ向かう。

 そして明朝、歴史では炎に包まれるはずの本能寺へ向かう。


 密約は交わされた。

 だが密約とは、守られる保証のない約束でもある。


 龍之介は、自分の手をそっと握った。


 若い。

 強い。

 だが、その手が掴める未来はまだ定まっていない。


 明日。

 天正十年六月二日。

 その朝、歴史が息を止める。

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