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第7話 愛宕山にて、謀反人と向き合う

 愛宕山の道は、見た目よりも足に来た。


 現代の整った登山道とは違う。山そのものの呼吸に沿うように、人と馬と荷が踏み固めてできた道だ。幅は十分とは言えず、ところどころ木の根が露出し、昨夜の湿りを含んだ土が滑りやすい。だが逆に言えば、それだけ人が行き来してきた道でもある。


 龍之介は足元を確かめながら登っていた。


 若い身体はよく動いた。

 息も乱れにくく、脚はよく上がり、重心の切り替えも驚くほど素直だ。

 だが、それだけに浮かれて転べば笑い話にもならぬ。戦国へ来て最初の失敗が山道での足滑らせでは締まらない。


 前を行く影鷹は、まるで地面に重さを預けていないような足取りで斜面を進んでいた。

 踏むべきところだけを踏み、枝も石もほとんど鳴らさず、時折振り返っては龍之介の歩調を確認する。


「思った以上に、静かに進むのだな」


 龍之介が小声で言うと、影鷹は足を止めずに答えた。


「愛宕山は山である前に、目のある場所です」


「目」


「明智方の供もおりましょうし、寺の者もおります。山は閉じた場所に見えて、案外、誰かがどこかから見ているものです」


「なるほど」


「まして今日は、いつもより空気が張っております」


 その言葉に、龍之介は周囲へ改めて意識を向けた。


 鳥の声はある。風も鳴る。木々は普通に揺れている。

 だが、人の気配が薄い。

 いや、薄いというより、みな何かを待って息を潜めているような、妙な静けさがあった。


 史実の知識がなくとも、今日はただの日ではないと感じるだろう。

 まして、これから会う相手が明智光秀だと思えば、胸の内へ滲む緊張はなおさらだった。


「影鷹」


「は」


「光秀は、どのような顔をしておると思う」


 問うと、影鷹は少しだけ考えた。


「難しい問いです」


「だろうな」


「ですが……」


 彼は、前を見たまま続けた。


「腹を決めた者の顔、ではありましょう」


 龍之介は黙った。


 腹を決めた者。

 それはつまり、もはや半端な理屈では止まりにくい段階にあるということだ。


「ただし」


 影鷹が続ける。


「決めた腹の中身が、一枚岩とは限りませぬ」


「ほう」


「人は、決意してなお揺れます。むしろ大事を為す前ほど、揺れを押し殺すために決意の顔をすることも多い」


 食えない男だが、見ているところは鋭い。

 忍びというより、ひとを観る商売の者のようでもあった。


「おぬし、意外と人情家か」


「人情の機微を読めねば、忍びはすぐ死にます」


「それもそうか」


「光秀殿がどこまで決めているかは分かりませぬ。ですが、少なくとも穏やかな参詣人の顔ではありますまい」


 その言葉は、龍之介の胸へ重く落ちた。


 そうだ。

 いまから会うのは、歴史の教科書に名を刻んだ人物ではない。

 ただの評価や通説では捉えきれぬ、息をしている一人の男だ。

 信長に長く仕え、重く用いられ、そして裏切りに至ろうとしている、生身の武将である。


 坂を上り切ると、視界が少し開けた。


 木立の向こうに、社殿の一部が見える。

 人の声も近い。だがざわめきは小さい。誰もが大声を出すのを避けているような、押し殺した気配だった。


 影鷹が手を軽く上げ、龍之介を制する。


「ここからはさらに慎重に」


「うむ」


「表向き、龍之介様は都から来た使者筋の御方。武にも通じ、明智殿へ急ぎ言上すべき筋目がある――そのように通します」


「急ぎ言上、か」


「この場では曖昧さが武器です」


「便利な言葉だな」


「便利でなければ、生きられませぬ」


 山上の空気は、下より少し冷えていた。

 風に混じって、香のような匂いもかすかに流れてくる。祈りの場の匂いだ。

 同時に、その香が奇妙に白々しくも感じられた。心を鎮めるための香なのか、それとも揺れる心を押し固めるための香なのか。


 やがて、石段の手前に二人の武士が立つのが見えた。


 具足ではなく、山中に相応の軽装だが、腰の物も立ち方も油断がない。明智方の者だろう。

 影鷹が一歩進み、低く名乗りと来意を告げる。


 武士の一人が龍之介へ鋭い目を向けた。


「都より?」


「左様。急ぎ、日向守殿へ申し上げたき儀がございます」


「何用だ」


「それをここで申せば、用向きの意味が半ば失われます」


 影鷹が言うと、武士の目がさらに細くなった。


 当然の反応だ。

 いきなり現れた得体の知れぬ公家武人が、急ぎ光秀に会わせろと言う。怪しさしかない。


 ここで龍之介は一歩前へ出た。


「急ぎであることに偽りはない」


 武士たちの目が集まる。


「都の風は、山よりも早く変わる。ゆえに、いまここで言うべきでないこともある」


 言葉は曖昧だ。

 だが曖昧なまま、相手に“何かある”と感じさせるのが要点だった。


 武士の一人が不快そうに言う。


「物言いが回りくどい」


「回りくどく申さねばならぬ場もございます」


「日向守殿はお忙しい。得体の知れぬ客をそう易々と――」


 そこまで言った時だった。


 もう一人の武士が、龍之介の腰の刀へ一瞬目をやった。

 ただの飾りではない、と見たのだろう。

 龍之介の立ち方そのものが、公家のそれでも足軽のそれでもないことにも気づいたはずだ。


「……何者だ、おぬし」


 低い問いだった。


 龍之介は一息だけ考え、答えた。


「それを決めるのは、私ではない。日向守殿であろう」


 面倒な言い方だ。

 だがここで迂闊に名乗りすぎても危うい。設定として与えられた立場はあるにせよ、明智方の詮索へ過度に材料を与える必要はない。


 武士たちは視線を交わした。


 緊張が走る。

 ここで斬り合いになれば元も子もない。

 だが、退くわけにもいかぬ。


 しばしののち、一人が舌打ちに近い息を吐いた。


「待て」


 短く言って、奥へ消える。


 残った武士は龍之介たちを睨みつけたまま動かない。

 影鷹もまた何食わぬ顔で立っているが、いつでも動ける気配を隠してはいなかった。


「通るか」


 龍之介が小さく問うと、影鷹は目だけで答えた。


「半々かと」


「低いな」


「十分高い方です」


 たしかにそうだ。


 やがて先ほどの武士が戻ってきた。

 その顔には不機嫌さが残っているが、拒絶ではなかった。


「日向守殿がお会いになる」


 龍之介は息を吐いた。


 通った。


 しかし、それで安心できるわけではない。

 ここからが本番だ。


     ◇


 通された先は、社の脇に設けられた小さな休息所のような場所だった。


 粗末ではない。だが贅沢でもない。

 山中の場に相応しい簡素さの中に、どこか明智光秀らしい、整いすぎた几帳面さがあった。

 敷物の位置、香の置き方、器の並び。何もかもが、過不足なく整えられている。


 その中央に、一人の男が座していた。


 明智光秀。


 龍之介は、思わず息を呑みそうになったのを抑えた。


 年の頃は五十前後。

 姿勢がよい。背はすっと伸び、着衣にも乱れがない。線の細い顔立ちだが、弱々しさはなく、むしろ刃を紙に包んだような鋭さがある。目は冷たいわけではない。ただ、冷静すぎる。人を見る目というより、人の言葉の綻びまで数えていそうな目だった。


 有能な男だ、と一目で分かる。


 同時に、疲れている、とも分かった。


 身体の疲れではない。

 もっと奥の、長く自分を削ってきた者にだけ出る疲れだ。


 龍之介は礼をとった。

 光秀も最小限の礼を返す。


「都よりと聞く」


 光秀の声は低く、よく通った。


「急ぎ、私に申したいことがあると」


「左様」


「名は」


 龍之介は、事前に与えられた立場の中で最も自然な名乗りを選んだ。

 すべてを語る必要はない。必要なだけを出す。


「三上龍之介と申す。都と武門の間に使いする家筋にて、少々、剣にも通じております」


「少々」


 光秀の目が、龍之介の立ち居振る舞いと腰の刀とを順に見た。


「その少々が、どの程度かはさておき」


「さておいていただけると助かる」


「厚顔だな」


「急ぎゆえ」


 光秀の口元が、ごくわずかに動いた。

 笑ったのか、呆れたのか、判然としない。

 だが少なくとも、初手で完全に切り捨てる空気ではなくなった。


「では申せ」


 光秀が言う。


「急ぎの用向きとは何だ」


 ここだ。


 龍之介は心の中で一つ呼吸を整えた。


 回りくどい言い方では足りない。

 だがいきなり“謀反をやめよ”では、頭のおかしな男として叩き出されて終わる。

 どこまで踏み込み、どこで刃を見せるか。

 会話の間合いを見誤れば、ここで全てが終わる。


「単刀直入に申しましょう」


 龍之介は言った。


「日向守殿は、これより大きな誤りを犯されるおつもりではござらぬか」


 部屋の空気が、ぴたりと止まった。


 控えていた武士の手が動く。

 影鷹の気配も一瞬で張る。


 だが、光秀だけは動かなかった。

 まるでそう言われることを、どこかで待っていたようにすら見えた。


「……誤り、とな」


 声は低い。

 怒りはまだ見せていない。

 その代わり、底が見えぬほどに静かだった。


「何のことか、私には分からぬ」


「であろうな」


 龍之介は一歩だけ進んだ。


「まだ起きておらぬことゆえ」


「面白い物言いだ」


「面白がっていただけるなら幸い」


「私はいま、おぬしを斬る理由を数えているところだが」


「その前に、ひとつだけご覧に入れたいものがある」


 そう言った瞬間、控えていた武士が一人、殺気を乗せて踏み込んできた。


 速い。

 だが、龍之介にとっては驚くほど見えた。


 若い身体が自然と動く。

 半身に開き、相手の腕筋を外し、抜き打ちの気配だけを見せる。


 ――次の瞬間、龍之介の刀は抜かれていた。


 鞘走りは短い。

 だが十分だった。


 鋼の閃きが部屋の空気を切り、武士の喉元ぴたりで止まる。


 誰も動かなかった。


 武士本人すら、自分の喉に冷たい線が置かれて初めて止まったようだった。

 龍之介はわずかに手首を返し、刃を引く。血は出ていない。だが、あと紙一枚ぶん深ければ首の皮を裂いていた。


 部屋の静けさが一変した。


 控えの武士たちの目が見開かれる。

 影鷹でさえ、ほんの僅かに息を呑んだ気配がした。


 そして光秀だけが、ようやく表情を変えた。


 驚き。

 いや、それだけではない。

 測り直しだ。目の前の男を、ただの不審者ではなく、“何か”として見直す顔だった。


「……なるほど」


 光秀が、ゆっくりと言う。


「少々、ではないな」


 龍之介は刀を納めた。


「申し訳ない。脅かすためではなく、言葉だけの妄人ではないとお見せしたかった」


「十分に見えた」


 光秀の声は依然静かだったが、その静けさの質が変わっていた。

 ここから先は、本当に会話の土俵に乗る。


「で」


 光秀が続ける。


「そのうえで問おう。おぬしは、私が何を誤ると言った」


 龍之介は、光秀の目をまっすぐ見返した。


 逃げるな、と自分へ言い聞かせる。

 この男の前では、曖昧な綺麗事などすぐに切り裂かれる。


「謀反です」


 はっきりと言った。


 今度こそ、部屋の空気が冷えた。


「信長公への刃。その一線を越えれば、日向守殿はご自身をも、家をも、天下をも、取り返しのつかぬ場所へ押し出す」


 光秀は龍之介を見ていた。


 怒鳴らない。

 否定もしない。

 その沈黙がかえって恐ろしかった。


「……誰から聞いた」


「誰からでもない」


「では、何を見てそう言う」


「見ております」


「何を」


「日向守殿のお顔を」


 一瞬、光秀の眉がぴくりと動いた。


 龍之介は続ける。


「疲れておられる。怒りもある。理もある。積もり積もったものもある。だがそれらを、いま“正しい決断”に見せかけておられる」


 控えの武士たちがざわめきかける。

 だが光秀が片手をわずかに上げると、すぐに静まった。


「無礼だな」


「承知の上」


「命が惜しくないか」


「惜しい」


 龍之介は即答した。


「だが、惜しいからこそ申している」


 光秀の目が、すっと細くなる。


「申せ」


 その一言で許されたわけではない。

 ただ、“続ける価値があるか見てやる”という猶予だ。


 龍之介は腹を括った。


「信長公は、たしかに苛烈でしょう。人を削り、追い詰め、先を急ぎすぎる。日向守殿ほどの方であっても、その速さと重さに耐えきれぬことがあるのは理解できます」


 光秀の指先がわずかに動く。

 否定はしない。


「また、都にあっては公家とも寺とも武家とも折衝し、無理を通し、面子を保ち、あらゆる汚れ仕事を引き受けてきた。それでもなお、信長公の側近くにあればあるほど、あの方の大きさと危うさの両方を一身に受ける」


 ここで龍之介は、あえて一拍置いた。


「――だが、それでも」


 光秀の目を見据える。


「主を討つというのは、最後の理ではありませぬ」


「最後の理ではない、か」


 光秀の声はかすかに低くなった。


「では、おぬしは何を知っておる。何を見て、私にそこまで申す」


「知っておりますとも」


 龍之介は言った。


「日向守殿が、信長公に失望しておられることも。ご自身の働きが軽んじられたと感じておられることも。家中にあって、己の立つ場所が次第に狭まっていることも」


「……」


「だが、それらは“謀反してよい理由”にはなっても、“謀反するしかない理由”にはならぬ」


 そこで、光秀の目が初めて明確に冷えた。


「おぬし」


 静かな声だった。


「まるで私の腹の内を覗いたように言うな」


「覗いてはおりませぬ」


「ならば何だ」


「人の顔を見れば、ある程度は分かる」


「その程度で、私を止めるつもりか」


 龍之介は、首を横に振った。


「その程度では足りませぬ。だからこそ、日向守殿に直接申し上げに来た」


「何を」


「まだ、戻れると」


 その言葉のあと、長い沈黙が落ちた。


 外で風が鳴る。

 社の方から、遠く誰かの声もする。

 山は静かなのに、この部屋だけが何か巨大なものの縁に立っているようだった。


 光秀は、しばし龍之介を見つめていた。


 その目には怒りもあった。

 侮りも、警戒も、わずかな苛立ちもある。

 だが同時に、ほんの微かに――疲れた者が、ようやく自分の内側を言葉にされた時のような色もあった。


「戻る、とは」


 光秀が問う。


「何処へだ」


 龍之介は、その問いの重さを受け止めた。


 そこだ。

 ただ“やめろ”では足りない。

 謀反を捨てろと言うなら、その先に何があるかを示さねばならぬ。


「信長公のもとへ、ではありませぬ」


 龍之介は静かに言った。


「日向守殿ご自身の理へ、です」


 光秀の顔が、初めてほんの僅かに揺れた。


 龍之介は続ける。


「信長公への不満も怒りも、理不尽もありましょう。だが日向守殿は、ただ怨みで刃を取るような小人物ではないはずだ」


「……」


「天下の形を見ておられる。秩序の意味も、都の重みも、武だけでは治まらぬ世の理も知っておられる。だからこそ今、怒りに理屈を与えてご自身を押し切ろうとしておられる」


 言い切った。


 その瞬間、光秀の気配が変わった。


 殺気ではない。

 もっと内側の、蓋をされていた熱がふっと表へ出た気配だった。


「若造が」


 その声は静かだが、鋼を含んでいた。


「分かったような口を利く」


「分かりたいと思うております」


「違う」


 光秀は立ち上がった。


 背は龍之介と大きく違わぬ。

 だが立ち上がっただけで、場の中心が入れ替わる。

 この男が明智光秀なのだという実感が、肌へ刺さるほど強くなる。


「おぬしは、分かったふりをしている」


 龍之介も立った。

 逃げる姿勢は見せぬ。


「では、申してくだされ」


 光秀の目がわずかに見開かれる。


「私は日向守殿ほど、この時代を知らぬ。信長公に仕えたわけでもない。耐えてきた辱めも、こなしてきた仕事も、すべては想像するしかない」


 龍之介は言葉を選びながら続けた。


「だから、もし私の見立てが浅いなら、斬る前に申してくだされ。なぜそこまで追い込まれたのか。なぜ主を討たねばならぬのか。私はそれを、聞かねばならぬと思うております」


 部屋が、また静かになった。


 控えの武士たちも、もはや口を挟めなかった。

 影鷹でさえ、気配を薄くして成り行きを見ている。


 光秀はしばらく立ったままだった。


 そして、龍之介から目を逸らさぬまま、低く言った。


「……おぬし」


「は」


「変わった男だな」


「よく言われます」


 その返しに、光秀の口元が今度こそほんの僅かに緩んだ。


 笑った、というほどではない。

 だが、先ほどまでの冷え切った空気に、微かな綻びが生まれたのは確かだった。


「よかろう」


 光秀は再び座へ戻った。


「ならば聞くがよい。おぬしがそこまで言うなら、私も問おう」


 龍之介も腰を下ろす。


「おぬしは、信長公を知っておるのか」


「知っている、とは申せませぬ」


「ではなぜ、そこまで惜しむ」


「惜しいからです」


 光秀が目を細めた。


「理ではなく、感で申すか」


「最初は感です」


「ほう」


「だが理もあります。あの方は危うい。だが、危うさゆえに届きかけていたものもある。そこが見たい」


 光秀は、しばし黙って龍之介を見つめた。


「面白い」


 やがて彼は言った。


「信長公を慕う者は多い。恐れる者も、憎む者も。だが、おぬしのように“惜しい”と言い切る者は珍しい」


「そうかもしれませぬ」


「ならば――」


 光秀はそこで言葉を切る。


 その目が、少しだけ遠くを見た。

 信長を思い浮かべているのか。

 かつての自分を思い出しているのか。

 それは分からない。


 ただ龍之介には、その一瞬が、歴史の継ぎ目のように思えた。


 ここだ。

 まだ間に合うかもしれない。

 この男は、完全に狂っているわけではない。怒りに呑まれきっているわけでもない。

 まだ、自分の理と言葉で踏みとどまる余地がある。


 光秀が、低く問う。


「もし、私が刃を収めたなら」


 龍之介は息を止めた。


「信長公は、私を赦すと思うか」


 難問だった。


 ここで安易に「赦す」と言えば嘘になる。

 信長がどこまで知っているか、どう反応するかは分からない。

 あの男が簡単に人を赦すとは思えぬ。

 だが同時に、ただ“赦さぬでしょう”では何も進まない。


 龍之介は、慎重に答えた。


「赦すかどうかは分かりませぬ」


 光秀の顔は動かない。


「だが、話す価値はある」


「価値」


「信長公は、人を使うことにかけては常人ではない。怒りもする。斬りもする。だが、必要と見れば拾う方でもある」


「……」


「そして日向守殿もまた、ただ斬って捨てるには惜しすぎる」


 光秀は何も言わなかった。


 だが、沈黙の質がまた変わった。

 単なる警戒ではなく、考えている沈黙だ。


 龍之介は、そのわずかな変化を逃さぬよう、そっと息を整えた。


 ここで押しすぎれば壊れる。

 だが引きすぎても、もう届かぬ。


「日向守殿」


 龍之介は静かに言った。


「いまならまだ、本能寺は燃えませぬ」


 その言葉に、光秀の指が微かに動いた。


「いまならまだ、日向守殿は“主を討った逆臣”ではなく、“天下の危うさを最も知る者”でおれます」


「……」


「戻るなら、今です」


 長い、長い沈黙が落ちた。


 山の風の音だけが、やけに遠く聞こえる。

 龍之介は、自分の鼓動を意識せぬよう努めた。

 影鷹も、控えの武士たちも、誰ひとり動かない。


 やがて、光秀はゆっくりと目を伏せた。


 そして、低く言った。


「……もし」


 その声は、先ほどまでよりずっと人間の声だった。


「もし、おぬしの申すように、まだ戻れるとして。私は、何をすればよい」


 龍之介は、ようやく息を吐いた。


 歴史は、まだ完全には決まっていない。

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