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第6話 乱世に降り立つ

 最後に見たのは、屏風の上で淡く揺れる戦国の地図だった。


 近江。京。愛宕山。

 本能寺へ至る道筋が、まるで生き物の血管のように赤く浮かび上がっていた。

 閻魔ちゃんはその前に立ち、いつもの軽口を少しだけ引っ込めた顔で、最終確認のように龍之介を見ていた。


 行くのだな、と。


 口に出さずとも、その目はそう言っていた。


 龍之介もまた、答えはもう決まっていると思っていた。

 怖さは消えなかった。

 むしろ、ここまで来てようやく、怖さは現実の形を取ったと言ってよい。


 本能寺を止める。

 言葉にすれば一行で済む。

 だが、その一行の向こうには、人がいる。土地がある。政治があり、誇りがあり、疑いがあり、兵があり、血がある。


 その中へ、いまから自分は飛び込むのだ。


「……では」


 龍之介は、小さく息を吐いた。


「よろしく頼む」


「うむ」


 閻魔ちゃんは短く頷いた。


 それから、いかにも仕事のできる顔で袖を払う。

 すると屏風の地図がふっと奥行きを増し、そこに描かれた山河がただの絵ではなく、本物の景色として脈打ち始めた。


 風が吹く。

 川が光る。

 山の端に雲が流れる。

 京のあたりには、目に見えぬ人の熱のようなものがかすかに揺れている。


「転移ではない」


 閻魔ちゃんが言った。


「位相をずらす。おぬしという魂に、新たな身と立場と因果を馴染ませたうえで、最も破綻の少ない流れに差し込む」


「毎度思うが、神の説明にしては実務的だな」


「実務だからな」


「そうだった」


 閻魔ちゃんは口の端だけで少し笑う。


「三上龍之介。いまからおぬしは、現世で積んだ理と記憶を抱えたまま、別の歴史層へ降りる」


「うむ」


「完全にそなたの思い通りにはならぬ」


「承知している」


「理不尽もある」


「だろうな」


「そして、美少女閻魔がついてきて何でも助けてくれると思うなよ」


「最後だけ急に夢を叩き割るな」


「大事なことだ」


 龍之介は苦笑した。


 正直、少しだけ期待はしていたのかもしれない。

 だが、そういう安直さをこの閻魔ちゃんが許すはずもない。


「ただし」


 彼女は指を一本立てた。


「完全に放置はせぬ。小さな加護はつける。死地で必ず生き残るほどではないが、“選ぶべき瞬間に僅かに勘が澄む”程度のものだ」


「十分だ」


「欲がないな」


「そのくらいがちょうどいい。すべてを救う奇跡より、肝心な時に一歩を誤らぬ方がありがたい」


「ふむ。やはりそこは好ましい」


 閻魔ちゃんはそう言うと、龍之介の額へすっと指をかざした。


 触れたか触れぬかの一瞬、冷たいような熱いような、不思議な感触が走る。

 冬の朝に神社の手水へ手を入れた時のような、身の内がしゃんと引き締まる感覚だった。


「これでよい」


「何がついた」


「細かく説明すると長い」


「そうか」


「それに、知らぬ方が働く加護もある」


「神秘を都合よく使うな」


「神秘とはそういうものだ」


 妙に納得できる返しだった。


 屏風の中の景色が、さらに大きくなる。

 もはや屏風ではない。

 目の前に広がっているのは山だ。森だ。空だ。

 湿った土の匂いまで、すでにこちらへ流れ込んできていた。


「では、行け」


 閻魔ちゃんが言う。


 その声は、これまでで一番静かだった。


「乱世へ」


 次の瞬間、足元が消えた。


     ◇


 落ちる、という感覚ではなかった。


 沈むのでも、飛ぶのでもない。

 世界の方がすり替わる。

 畳の匂いが遠ざかり、代わりに土と若葉と、どこか乾いた木の匂いが一気に満ちてくる。

 耳の奥で風が鳴り、遠くで鳥が声を上げ、目を開ける前から、もうそこが先ほどまでの部屋ではないと分かった。


 龍之介は、ゆっくりと目を開けた。


 見えたのは空だった。


 高い。

 近代の建物に切り取られていない、広い空だ。

 白い雲が流れ、その向こうの青は、病室の窓から見ていたものよりもずっと深く、ずっと遠い。


「……ほう」


 思わずそんな声が漏れた。


 背中に感じるのは畳ではなく、少し湿り気を帯びた土の感触だった。

 鼻を満たすのは草の青さと、落葉の匂い、それからどこか山の冷えた気。

 肺へ吸い込んだ空気は驚くほど澄んでいて、同時に、人と獣と土がもっと近いところで混ざり合っている匂いでもあった。


 龍之介はゆっくり上体を起こした。


 そこは山裾のようだった。

 低い木々の合間に細い道があり、その向こうに斜面が続いている。踏み固められた山道だ。現代の舗装された遊歩道とは違う。人が何度も通り、馬も荷も通り、それでようやく道の形になったという感じの、生きた道だった。


 風が頬を撫でる。


 病室の乾いた空調ではない。

 生の風だ。温度も湿りも、土と葉の気配も、きちんと肌へ乗ってくる。


 龍之介は立ち上がろうとして、そこでふと、自分の身体の軽さに改めて気づいた。


 膝が痛まない。

 腰に鈍い重みがない。

 息を吸っても胸の奥が鳴らない。


 立ち上がるという行為そのものが、何の引っかかりもなくできる。


「……ああ」


 声にならない吐息が漏れた。


 立ち上がった。

 ただそれだけのことなのに、百を越えた身体ではとっくに忘れていた感覚が、一気に蘇る。


 地面を踏む足が、きちんと足首から返る。

 膝がまっすぐに伸びる。

 背筋が自然と立つ。

 重心を少しずらしただけで、次の動きへすぐ移れる。


 龍之介は、無意識に数歩踏み出していた。

 そしてもう一歩、もう一歩と歩く。

 歩ける。

 走ろうと思えば、たぶん走れる。


 その事実が胸の奥へ強く響いた。


「若い……な」


 誰へともなく呟く。


 袖口から見える手は、やはり若い。

 指の節は締まり、皮膚には張りがある。だが単に若いだけではない。鍛えた者の手だ。手の内に力が集まりやすく、同時に無駄な力が抜けやすい。

 腕を軽く振るだけで、肩から先が滑るように動く。


 龍之介は目を閉じ、そっと呼吸を整えた。


 一つ、息を吸う。

 一つ、吐く。

 腹に落とし、背を通し、足へ沈める。


 そこまでやっただけで分かった。

 現世で積み上げてきた理合は、ちゃんとここにある。

 もちろん身体は違う。筋肉のつき方も、重心の感じも、歳月による癖の抜け具合も異なる。だが、理屈が体に通る速度が、恐ろしく速い。


「これは……」


 試しに、右足を半歩引き、空へ向かってごく短く手刀を走らせる。


 風が切れた。


 速い。

 しかも無理がない。

 老いてなお研鑽してきた頭と、若く整った肉体がようやく噛み合った時、人はこうも素直に動けるものかと、自分で驚く。


 嬉しい、という感情がまず来た。

 次に、怖さが少し遅れてきた。


 これで本当に、自分は戦国へ立ったのだ。


「ふむ」


 龍之介は腰へ手をやり、そこで初めて刀の存在に気づいた。


 佩いている。


 鞘の重み。柄の感触。位置の収まり。

 自然にそこにある。

 抜いてみたい衝動を抑え、まず全体を確かめる。装束も旅装に近いが、ただの旅人ではない。質素に見せつつ、それなりの身分と実戦性を両立したような格好だ。軽装の陣羽織、動きやすい袴、そして武人として通る程度の品位がある。


 閻魔ちゃん、かなり細かいところまで詰めたらしい。


 地面の傍らには小さな包みがひとつ置かれていた。

 中を見ると、最低限の旅装束の替え、火打ち、手拭い、銭、それに小ぶりな守り袋が入っている。守り袋には見覚えのない紋と、裏に小さく「え」のようにも見える一文字が刺繍されていた。


「閻魔の、え、か?」


 独り言のように言って、龍之介は少し笑った。


 あの閻魔ちゃんならやりかねない。

 主張は控えめだが、ついているぞ、という印なのだろう。


 その時だった。


 背後の林の方で、葉を踏むわずかな音がした。


 龍之介の身体が、考えるより先に半ば居合の形に入る。

 重心が落ちる。右手が柄へ伸び、左足が半歩ずれる。

 自分でも驚くほど自然だった。


「……ほう」


 低い声がした。


 若い男の声だ。

 だが軽薄さはなく、むしろ観察する冷静さがある。


「目覚めたばかりでその構えとは、聞いていた以上かもしれませぬな」


 木々の影から現れたのは、一人の男だった。


 二十代後半から三十そこそこ。

 痩身で、日焼けした顔立ちは精悍というより削げている。目は細いが眠そうなのではない。常に周囲を見ている目だ。衣は地味で、山中の者か下働きのようにも見えるが、立ち姿のどこかに隠しきれぬ鋭さがある。


 腰には短めの刀。背には弓。

 歩幅が小さく、足音が薄い。

 そして何より、“消すことに慣れている者”特有の気配があった。


 忍びか、と龍之介は直感した。


「お主は」


 問うと、男は一歩だけ距離を詰め、そこで深く頭を下げた。


「影鷹と申します」


 名乗り方に無駄がなかった。


「本日より、龍之介様のお供を仰せつかりました」


「仰せつかった、か」


「はい」


「誰に」


 影鷹は、そこでほんの僅かに口元を動かした。

 笑ったのか、それとも困ったのか、一瞬では判断しにくい。


「それを申し上げると、説明が長くなります」


「説明は短い方が好きだ」


「私もです。ですので、今は“信用していただくしかない立場の者”とだけ」


 ずいぶん率直だった。


 龍之介は手を柄から離さぬまま、男を観察する。

 敵意は薄い。

 だが油断もない。

 こちらの間合い、視線、呼吸を見ている。

 ただの使い走りではなく、場数を踏んだ者だ。


「影鷹、か」


「はい」


「良い名だな。いかにも忍びらしい」


「本名ではございませぬゆえ」


「やはり忍びか」


「隠しても仕方ありませぬので」


 淡々としている。

 どこか飄々としているようで、その実、言葉の選び方はかなり慎重だ。


 龍之介はようやく手を柄から離した。


「で、影鷹。おぬしは私の正体をどこまで知っている」


「少なくとも、今朝までここにおられなかったことは」


「正直だな」


「それ以上に深く詮索しない方が、双方楽かと」


「賢い」


「よく言われます」


「自分で言うか」


「この稼業、自己評価が低いと死にますので」


 さらりと返され、龍之介は少しだけ笑った。

 悪くない。

 こういう男の方が、変に忠義面されるより話が早い。


「よろしい。ならばこちらも細かい説明は省く」


「助かります」


「ひとつだけ」


 龍之介は影鷹を真っすぐ見た。


「おぬしは信用に足るか」


 影鷹はその問いに、ほんの一拍だけ間を置いた。

 安請け合いしないのは好感が持てた。


「足るよう努めます」


「それでは答えになっておらぬな」


「では、こう申し上げます」


 影鷹の目が細まる。


「少なくとも、龍之介様が本能寺に届く前に、私の都合で裏切ることはありませぬ」


 その言い方に、龍之介は少し眉を上げた。


「本能寺に届く前に、か」


「届いた後は状況次第です」


「ますます正直だな」


「この時代、最初から永久不変の忠義など申す方が嘘くさい」


 たしかに、と思った。


 戦国において“絶対”を軽々しく口にする者の方が危うい。

 状況と利で動くことを前提に、それでもいまは手を組む。そういう現実感の方が、むしろ信じやすい。


「よし」


 龍之介は頷いた。


「その答えなら、しばらく預けられる」


「光栄です」


「光栄そうには見えぬがな」


「そう見せるのも技のうちにございます」


 この男、なかなか食えない。


 だが、悪くない。

 閻魔ちゃんが最初に付ける手足として選んだ理由も、少し分かる気がした。


「では、現状を聞こう」


 龍之介は言った。


「ここはどこだ」


「愛宕山の麓にございます」


 その答えに、龍之介の胸が一段深く鳴る。


 来たのだ。

 本当に、来てしまったのだ。


「時は」


「天正十年六月。日付は――」


 影鷹が口にした日を聞き、龍之介は頭の中で即座に数を繰った。


 本能寺まで、近い。

 だが絶望的というほどではない。

 助走として、ぎりぎりの現実味がある時期だ。


 閻魔ちゃんの調整は、たしかに絶妙だった。


「明智日向守殿は、いま山中にて籤を引き、祈りを捧げておられます」


「愛宕百韻、か」


 龍之介がそう呟くと、影鷹の目にほんの僅かな驚きが走った。


「……そこまでご存じで」


「知っていることもある」


「なるほど」


 それ以上は聞いてこない。

 やはり賢い。


 愛宕百韻。

 光秀が愛宕山で連歌を催し、「時は今 あめが下知る 五月かな」と詠んだとされる、あの場面だ。

 本当にそこへ手が届く位置に自分がいると思うと、血の巡りが少し速くなる。


 龍之介は山道の先を見た。


 木々の間を抜ける風が、かすかに上方から降りてくる。

 その先に光秀がいる。

 史料の中でしか知らなかった男が、いまこの同じ山のどこかに息をしているのだ。


「……早いな」


「何がでしょう」


「夢が現実になるのは」


 影鷹は答えず、ただ静かに龍之介を見ていた。


 その視線に促されるように、龍之介は一度だけ深く息を吸う。

 空気がうまい。

 だが、うまいだけではない。

 土と人と火の気配が近い、戦国の空気だ。


 ここで死ぬ者もいる。

 ここで名を上げる者もいる。

 ここで裏切り、裏切られ、守り、奪う者がいる。


 そして自分もまた、その一人になる。


「影鷹」


「は」


「行く前に、もうひとつ聞く」


「何なりと」


「私の立場は、どういうことになっている」


 影鷹は少しだけ口元を引いた。

 やはりそこは説明がいるらしい。


「龍之介様は、武にも通じた公家筋の方という触れ込みにございます」


「なるほど」


「表向きには、都と武門の間を繋ぐ使者筋の一人。詳細は深く詮索されぬよう、あえて曖昧にしてあります」


「いいな。曖昧さは時に武器だ」


「左様にございます」


「家臣は」


「表立って従う者はまだ最小限です。まずは私一人。必要に応じて合流する手もございますが、今は目立たぬ方が得策と判断しております」


「妥当だ」


 龍之介は頷いた。


 最初から大勢を従えていては不自然だし、何より動きが鈍る。

 本能寺前夜のような局面では、まず一人二人で斬り込める身軽さの方が重要だ。


「では、最初の目的は」


 影鷹が確認するように問う。


 龍之介は山の上を見た。


 光秀。

 その名を胸の中で静かに呼ぶ。


「明智光秀に会う」


 はっきりと言う。


「まずは、そこからだ」


 影鷹は一礼した。


「承知」


 その一言と同時に、山の上の方で、風が少し強く鳴った。


 葉擦れの音。

 鳥の羽ばたき。

 どこか遠くで、人の声もする。

 連歌の席か、供の者たちの動きか、あるいはただ山の気配か。


 すべてがあまりにも現実で、龍之介は一瞬だけ目を細めた。


 戦国だ。

 ここは本当に戦国なのだ。


 老人として病床で終えた人生は、確かにひとつ閉じた。

 だがいま、別の生が、別の責任とともに始まっている。


 龍之介は腰の刀を軽く押さえた。

 柄の感触が、掌にしっくり来る。


 この手で人を救うのか。

 この手で人を斬るのか。

 どちらになるかは、まだ分からない。


 だが少なくとも、もう眺めるだけの立場ではない。


「行こう」


 龍之介は言った。


 影鷹が先に立つ。

 その足取りは軽く、山道を選ぶ目に迷いがない。

 忍びの男の背を見ながら、龍之介も一歩を踏み出す。


 足裏に感じる土の柔らかさ。

 草を擦る裾の音。

 若い身体の確かな反応。

 そして胸の内にある、恐れと高揚が奇妙に混ざり合った熱。


 乱世に降り立ったのだと、ようやく全身が理解し始めていた。


 山道の先に、歴史がいる。


 明智光秀がいる。

 本能寺が待っている。

 そして、その先にしかない未来が、まだ見えぬままそこにある。


 龍之介は空を見上げた。


 青かった。

 どこまでも青い、戦国の空だった。

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