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第5話 六月二日へ向かう覚悟

 明智光秀だ。


 その名が廊下に落ちた瞬間、龍之介は足を止めていた。


 当然の名だった。

 本能寺を止めるというなら、避けて通れるはずがない。

 だが当然であることと、平然と受け止められることとは違う。


 明智光秀。


 信長に仕え、政も戦もこなし、知略と教養に優れながら、最後には主君へ刃を向けた男。

 古来より裏切り者として語られ、また近年では追い詰められた忠臣として再評価もされる、戦国最大級の“分岐点”そのものだ。


 龍之介にとって光秀は、単純に嫌いな男ではなかった。

 むしろ、あれほど複雑に見なければならない人物も少ないと思っている。


 有能だ。

 誇り高い。

 繊細で、理屈が立つ。

 だが同時に、理が立つからこそ、己の怒りや失望に筋道を与えてしまう危うさもある。


 信長の苛烈さだけを責めれば済む話でもない。

 光秀の被害者意識だけを笑って済む話でもない。

 あの変はたぶん、一人の悪党が起こした陰謀などではなく、人と人の間に積もった齟齬と疲労と猜疑が、ある一点で火を噴いた結果なのだ。


「難物だな」


 龍之介がぽつりと呟くと、前を歩いていた閻魔ちゃんが振り返った。


「光秀がか」


「光秀もだし、この話全体がだ」


「今さらだな」


「今さらだ。だが、今さらだからこそ実感がある」


 閻魔ちゃんは小さく肩をすくめる。


「本能寺を止めたい、と言うのは簡単だ。史実を知る者なら、一度は夢想する。だが実際に止める段に入ると、だいたい皆ここで顔つきが変わる」


「皆、というのは」


「候補者どもだ。転生希望者や介入志願者や、そういう手合いだ」


「そんなにいるのか」


「おるぞ。戦国、幕末、昭和末期あたりは人気だ」


「ずいぶん俗世的だな」


「人の執着が濃い時代ほど、希望者は多い」


 言われてみれば分かる気もした。

 戦国や幕末は、人の夢想を誘う。

 そこへ立ち会えたなら。あの一言を言えたなら。あの死を止められたなら。

 そういう“手を出したい歴史”というものが、たしかにある。


「で、皆どうなる」


「大半は自分の願いの曖昧さに気づいて辞退する」


 閻魔ちゃんはあっさり言った。


「曖昧さ」


「そうだ。英雄を助けたいだけなのか、自分が英雄になりたいのか。歴史を救いたいのか、史実に自分の理想を上書きしたいのか。そのあたりが曖昧なままでは、現地へ行ってもまず潰れる」


 龍之介は黙って聞いていた。


 その区別は耳に痛かった。

 自分はどちらなのか。

 信長を助けたいのか。

 信長を助けることで、自分の“惜しい”という感情に決着をつけたいのか。

 あるいは、歴史に名を刻みたいような俗な欲が、心のどこかにないと言い切れるのか。


 ない、とは言えないだろう。


 人はそこまで清廉ではない。

 百まで生きたからといって、欲が完全に削げ落ちるわけではない。むしろ、自分の中にある見栄や手柄欲しさや、若干の承認欲求めいたものが、どこに潜んでいるかくらいは分かっている。


「……私は」


 龍之介はゆっくり言った。


「信長に恩があるわけではない」


「当然だな」


「光秀に個人的な恨みもない」


「うむ」


「だから綺麗事を言うなら、関わらずに天へ行くのが一番筋がいい」


「それもひとつの正解ではある」


 廊下の左右に浮かぶ地図や札が、歩みに合わせて静かに流れていく。

 そこに記された武将の名が、時折知った顔のように目へ入った。柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、細川藤孝、森蘭丸。

 その一つ一つが、実在した人間の人生であると思うと、胸の内にわずかな重みが積もる。


「だが、それでも」


 龍之介は続けた。


「私は本能寺を“ただの史実”として置いて行けなかった」


「なぜだ」


「惜しかったからだ」


 閻魔ちゃんが、横目で龍之介を見た。


 龍之介は自分でも、ひどく個人的な言い方だと思った。

 国家のためでもない。民のためでもない。歴史学的な意義でもない。

 惜しい。

 ただ、それだけだ。


「もっと立派な言い方もできる。信長が生きていれば日本の中央集権化がどうだとか、外交の展開がどうだとか、そういう理屈は山ほど並べられる」


「並べられるだろうな、おぬしは」


「並べられる。だが、根っこはそこではない」


 龍之介は歩きながら、少しだけ目を伏せた。


「あの男は、あそこで死ぬには惜しかった。時代ごと焼けるには、あまりにも早かった。私はそれが、ずっと惜しかった」


 惜しいという感情は、理屈より強い時がある。


 もし本能寺の変を“避けられぬ歴史の必然”だとしても、それでも惜しい。

 もし信長が生き延びた先に、より激しい戦と混乱が待っていたとしても、それでも惜しい。

 理屈では割り切れないその感情こそが、たぶん自分をここまで引っ張ってきた。


「立派ではないな」


 龍之介が苦笑すると、閻魔ちゃんは首を振った。


「いや、むしろよい」


「そうか?」


「救国だの天命だのを大仰に掲げる者より、よほど始末がいい」


「始末」


「本心が分かるということだ。理想だけを掲げる者は、現地で理想通りにいかなくなると脆い。だが、惜しい、放っておけぬ、触れたい――そういう個人的な執着は案外強い」


 言われてみればその通りかもしれない。

 龍之介自身、若い頃から“正義”や“使命”だけで動けた覚えはない。

 面白いからやる。納得できぬからやる。放っておけないからやる。

 そうした個人的な熱の方が、長く続くものだと知っている。


「ただし」


 閻魔ちゃんの声が少し低くなる。


「個人的な熱だけでは、本能寺の先は支えきれぬぞ」


「分かっている」


「信長を救うのは、一人を助ける話ではない。あれで死ぬはずだった男が生きるということは、その後に動く全ての歯車がずれるということだ」


「だろうな」


「光秀の運命も変わる。秀吉の台頭も変わる。柴田の立場も、家康の動きも、朝廷との距離も、地方大名の読みも、何もかも変わる」


「分かる」


「本能寺は、止めて終わりではない。止めた瞬間から、別の地獄が始まるかもしれぬ」


 そこまで言われて、龍之介は足を緩めた。


 別の地獄。


 たしかにそうだ。


 史実では、本能寺の変ののち、秀吉が一気に駆け上がる。

 だが信長が生き残ったなら、その後の権力構造はまるで別になる。

 光秀をどう扱うか。罪を問うのか、和睦させるのか。

 秀吉は納得するのか。勝家はどう出る。家康は何を見る。朝廷はどう距離を取る。

 信長その人もまた、命を狙われた後で以前と同じではいられない。


 救うとは、未来の責任を抱き込むことだ。


「……正直に言えば」


 龍之介は口を開いた。


「そこまで綺麗に収める自信はない」


「うむ」


「自信はない。ないが、だからといって最初から手を出さぬのも違うと思っている」


「なぜ」


「百まで生きて分かったのだがな」


 龍之介は少し遠い気持ちで言った。


「人は、先の全部に責任が持てる時しか動いてはいけない、などと言っていたら、たぶん何もできん」


 工場の現場でもそうだった。

 設備を入れ替える。新しい工程を試す。やらねば改善はない。だが、結果の全てを事前に読み切ることなどできはしない。

 結局は、不確実さを抱いたまま決めるしかない時がある。


 もちろん、それと歴史改変を一緒にするのは乱暴だ。

 だが、何かを動かすとはそういうことでもある。


「読めぬ部分はある。失敗もある。だが、それでも手を打つ価値があると思うなら、覚悟を決めるしかない」


 閻魔ちゃんは何も言わなかった。

 だが歩幅が少しだけ緩み、龍之介に合わせるようになった。


「……たぶん私は」


 龍之介は続けた。


「信長を救いたいだけでは足りぬのだろう」


「ほう」


「救った後まで見ねばならぬ。でなければ、本当にただの自己満足になる」


「その通りだ」


「だから、怖い」


 その一言は、思っていた以上に素直に口をついて出た。


 怖い。

 本能寺そのものが怖いのではない。

 人を斬ることも、死にかけることも、もちろん怖い。だがもっと根の深い恐れがある。


 自分の判断が、何十人、何百人、もしかすると何万という人間の生死に響くかもしれない。

 信長一人を救うつもりが、別の場所で別の火種を生むかもしれない。

 それでも決めるのは、自分だ。


「ようやく、そこへ来たか」


 閻魔ちゃんが静かに言った。


「何だ」


「覚悟の入口だ」


 龍之介は彼女を見た。

 閻魔ちゃんの顔に、茶化す色はない。


「本当に介入する者は、だいたい二度震える」


「二度?」


「最初は“行けるかもしれない”と知った時。次に、“本当に行ったら取り返しがつかぬ”と分かった時だ」


「いまが二度目か」


「そうだろうな」


 龍之介は苦笑した。


「さすが現場担当、よく見ている」


「伊達に何人も振り落としておらぬ」


「嫌な経験値だな」


「積みたくて積んだわけではない」


 そう言いながらも、閻魔ちゃんの声音には少しだけ誇りのようなものが混じっていた。

 現場を回す者の誇りだ。

 綺麗事だけで進めないことを知り、それでも進めるべき時を見極めようとする者の顔だった。


 やがて二人は、細長い廊下の突き当たりへ辿り着いた。


 そこには、一枚の大きな屏風が立てられていた。

 金地に墨と彩で山河が描かれている。だがただの絵ではない。近づくほどに奥行きが増し、川が流れ、雲が動き、城の屋根に光が差すのが見える。

 戦国日本の地図だった。


 近江、尾張、美濃、丹波、京。

 見慣れた地名が、いまにも息をしているように浮かび上がっている。


「これが」


「候補となる歴史層の地図だ」


 閻魔ちゃんが言う。


「そなたを落とす先の最終調整はこれからだが、その前に、どこへ手を伸ばすかをはっきりさせる」


 彼女が指を上げると、地図の中の京のあたりが淡く光った。

 続いて、本能寺の位置らしき一点に赤い火が灯る。

 それを囲むように、愛宕山、坂本、安土、中国方面への街道が順に浮かんでいった。


「史実の流れを単純に言えば」


 閻魔ちゃんは屏風を見つめたまま言う。


「信長は本能寺に宿す。光秀は亀山から兵を進める。『敵は本能寺にあり』、で終わる」


「うむ」


「だが、そなたが触れるなら、その前のどこかだ。変の最中に飛び込んで炎の中から救う、という手もなくはないが、成功率は著しく低い」


「それは分かる」


「本能寺の中で一人二人斬ってどうにかなる話ではないからな」


 その通りだった。


 火と混乱の只中で信長一人を逃がしても、その後の収拾はさらに難しくなる。

 しかも本能寺そのものへ潜り込むには、相応の立場と信頼が要る。

 現実的に考えれば、もっと前の段階で手を打つべきだ。


「ならば」


 龍之介は屏風の上の愛宕山付近へ視線を向けた。


「やはり、光秀か」


 閻魔ちゃんは頷く。


「まずはそこだ。信長本人を説くより先に、光秀をどうするかを決めねばならぬ」


「光秀を止める」


「簡単に言えばな。だが止め方はいくつかある」


 彼女が指を振ると、地図の上に三つの光点が浮かんだ。


「一つ。力で止める。つまり斬るか、拘束する」


「乱暴だな」


「分かりやすくはある。だが後が最悪だ。光秀を排しても、信長側が事情を呑み込めるとは限らぬ。光秀配下も動揺する」


「却下寄りだ」


「二つ。信長に先に知らせ、待ち伏せさせる」


「それも荒れる」


「うむ。信長は助かるが、光秀との関係は完全に断ち切れる。秀吉や他家臣がどう動くかも読みにくい」


「三つは」


「光秀本人に踏みとどまらせる」


 龍之介は、ゆっくりと息を吐いた。


 やはり、それか。


「最も綺麗だが、最も難しいな」


「その通り」


 閻魔ちゃんは一度こちらを見た。


「おぬしはどれを望む」


 問われて、龍之介はすぐには答えなかった。

 答えは心のどこかで決まっている。

 だが簡単に口へ出したくなかった。


「光秀を斬れば、止まるかもしれん」


「うむ」


「信長に知らせて討たせれば、もっと確実かもしれん」


「うむ」


「だが、それでは“本能寺”は消えても、“本能寺を生んだ歪み”は残る」


 屏風の中の光秀の位置へ、龍之介は目を据えた。


「光秀が何を見失い、何を抱え、どこで踏み外したか。それを放置したまま力で黙らせても、別の形の火種になるだけだ」


「理屈としては正しい」


「なら、まずは会うべきだ」


 閻魔ちゃんの目がわずかに細まる。


「話して、止まると思うか」


「分からん」


 龍之介は正直に言った。


「理を尽くしても止まらぬかもしれん。斬り合いになるかもしれん。私を妄言の徒として切り捨てるかもしれん。それでも、最初にやるべきはそこだと思う」


「なぜ」


「人の心で始まった変なら、まず人の心へ手を入れるべきだ」


 それは綺麗事かもしれなかった。

 戦国において、最後にものを言うのは兵数と武威と運である。

 だが本能寺に限って言えば、もっと前の段階で人の心が詰んでいたように龍之介には思える。


 信長の強さ。

 光秀の繊細さ。

 周囲の空気。

 積もり積もった軋み。

 それらが炎になったのなら、最初の一手は炎ではなく、その前の火種に触れるべきだ。


「なるほど」


 閻魔ちゃんは小さく頷いた。


「そこまで考えるなら、たしかに最初の相手は光秀であるべきだな」


「ただし」


 龍之介は苦く笑う。


「実際に会ってみれば、即座に考えを変えるかもしれん。あまりに頑ななら、別の手を考えねばならぬ」


「現実的でよろしい」


「理想は理想として持つ。だが現地では、現地の顔を見て決めるしかない」


「その姿勢なら、まだ壊れにくい」


 閻魔ちゃんは満足そうに言った。


 そして屏風の上で、愛宕山の位置が一際強く光った。

 どうやら次の会議の焦点はそこらしい。


「では、整理しよう」


 彼女は仕事人の顔に戻る。


「目標は六月二日以前に光秀へ接触すること。方法は対話を第一とする。ただし、失敗した場合の次善策を持つこと」


「次善策」


「信長への直接接触だ。あるいは本能寺周辺の警備と退避経路の確保。いずれにせよ、光秀が止まらぬ可能性を前提に、二の矢三の矢が要る」


 その言葉に、龍之介の背筋が伸びる。


 そうだ。

 願うだけでは足りない。

 止められなかった場合の備えまで含めて、本能寺へ向かわねばならない。


 救うとは、希望的観測ではなく段取りのことだ。


「……覚悟が、少し形になってきた気がするな」


 龍之介が言うと、閻魔ちゃんはふっと笑った。


「ようやくか」


「遅いか」


「いや。むしろ早い方だ。大半は『信長に会いたい』の時点で浮かれて終わる」


「会いたくはあるがな」


「だろうな。おぬし、相当好きだものな」


 その言い方が妙に茶化していて、龍之介は少し咳払いした。


「好みと実務は別だ」


「はいはい」


「何だその相槌は」


「いや、百歳まで生きた男が、歴史上の推しに会う直前みたいな顔をしておるので」


「そんな顔をしているか」


「しておる」


 龍之介は自分でも少しだけ頬が緩んでいるのを感じ、苦笑するしかなかった。


 たしかに会いたい。

 織田信長という男に、会ってみたい。

 史料でしか知らぬ声を、言葉を、呼吸を、自分の目で確かめてみたい。

 だがその願いを叶えるには、まず光秀を越えねばならない。


 推しに会う前の高揚と、歴史の分岐へ立つ恐れが同時に胸にあるというのも、なんとも妙な話ではあった。


「よろしい」


 閻魔ちゃんは屏風へ向き直り、袖を払った。


 すると、地図の上にさらに細かな線が浮かび上がる。街道、川筋、寺社、城、宿場。

 そして愛宕山から本能寺へ至るまでの幾筋ものルートが、血管のように広がっていく。


「次はいよいよ、落とし所の最終選定だ」


「どこへ、どう降りるか」


「そうだ。そなたが最初に目を覚ます場所、会う人間、手元にある札、それで初手が決まる」


 龍之介はその地図を見つめた。


 もう引き返す気はなかった。

 怖さはある。むしろ増した。

 だが、怖いままで進むと決めたからこそ、ようやく覚悟という言葉が胸へ収まり始めている。


 本能寺の変。

 天正十年六月二日。

 その日へ向かうのではない。

 その日に呑まれぬために、そこまでの一歩一歩を組み立てていくのだ。


「閻魔殿」


「何だ」


「ひとつ、言っておきたい」


「申せ」


 龍之介は屏風から目を離さず、静かに言った。


「もし行くなら、私は本気でやる」


「そうだろうな」


「途中で怖気づかぬとは言わん。迷わぬとも言わん。だが、逃げはせん」


 閻魔ちゃんは答えなかった。

 代わりに、ほんの少しだけ口元を上げた。


「ならばよい」


 その一言だけで十分だった。


 屏風の上で、六月へ向かう道筋が淡く赤く灯っていく。

 まだ見ぬ戦国の空気が、絵の向こうから流れ込んでくるようだった。


 そして閻魔ちゃんは、仕事の声で言った。


「では、次だ。乱世に降りる準備を始めるぞ」

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