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第4話 転生前夜の仕様会議

「天正十年六月でよいのよな?」


 そう問われて、龍之介はすぐには答えられなかった。


 天正十年六月。

 西暦で言えば一五八二年。

 織田信長が本能寺に倒れ、明智光秀が天下の流れをわずか十三日だけ握り、やがて羽柴秀吉がその隙を呑み込む、あまりにも有名な月だ。


 史実好きにとって、その年月はただの数字ではない。

 紙の上で何度も読み、頭の中で何度も反芻し、何度も「もし」を考えてきた分岐点そのものだった。


「……近いな」


 ようやく龍之介がそう言うと、閻魔ちゃんは淡々と頷いた。


「近いぞ。おぬしの願いが“本能寺の先を見たい”である以上、遠くへ落としても意味が薄い」


「たしかに」


「十年前へ飛ばせば、足場を築く時間はある。だがそのぶん、因果の揺れは大きくなる。そなたが若い頃からずっと歴史に関われば、その時点で別の乱世になるかもしれぬ」


「それもそうだ」


「逆に変の前日や当日に放り込めば、間に合う可能性はあるが、できることは限られる。場合によっては、何もできぬまま斬られて終わりだ」


「それも、そうだろうな」


 龍之介は腕を組み、宙に浮かぶ光の帳面を見つめた。


 時代

 年齢

 身分

 肉体能力

 記憶保持

 持込制限

 因果干渉範囲


 どう見ても、転生前の打ち合わせというより、戦場へ送り出す前の作戦会議である。

 だが龍之介にしてみれば、その方がありがたかった。ふわふわした夢物語ではなく、条件と制約を一つずつ詰める方が性に合っている。


「では、順番にいこう」


 閻魔ちゃんが指を鳴らすと、帳面の時代の項目が柔らかく光った。

 どういう仕組みなのかは分からないが、いちいち演出が小気味よい。


「まず時代。候補は大きく分けて三つだ」


 彼女が指をひとつ立てる。


「一つ、かなり早い時期。信長がまだ尾張・美濃を固めきる前、あるいは上洛前後。これなら長期で仕込める」


 二本目の指が立つ。


「二つ、本能寺の数年前。足場づくりと人脈づくりに最低限の時間を確保しつつ、史実への干渉を限定する案」


 三本目。


「三つ、本能寺の極近傍。数日から数か月前に落とし、ほぼ一点突破で変に介入する案」


 どれも一長一短だった。


 龍之介は問う。


「そちらの立場としては、どれが扱いやすい」


「面倒が少ないのは三つ目だ」


「正直だな」


「正直で結構。干渉点が一点に絞られるぶん、世界の補修もしやすい。だが成功率は一番低い。おぬしが何もできず死ねば、それで終わりだ」


「二つ目は?」


「妥当だ。人と会い、身分を足場にし、最低限の布石を打てる。しかも歴史全体を一から塗り替えるほどの期間ではない」


「一つ目は?」


「面白いが、別作品になる」


 あまりに真顔で言うので、龍之介は思わず噴き出した。


「別作品とは何だ」


「本能寺を越えたいという話から始めておいて、延々と尾張統一前史や若き日の苦労話をやっていたら、読者も『まだか』となるだろう」


「……おぬし、本当に読者目線が強いな」


「言ったはずだ。面白さは大事だ」


 閻魔ちゃんは胸を張った。

 どうやらこの神格、単に死後行政の担当者なだけではなく、娯楽構造にも妙に敏いらしい。


 龍之介はしばし考えた。

 十年早ければできることは多い。しかし、そのぶん“本能寺を止める”という初期目標がぼやける。

 逆に直前すぎれば、信長や光秀に会うことすらかなわぬかもしれない。


「……二つ目、だな」


「数年前か」


「いや、数年もいらぬかもしれん」


 龍之介は目を細める。


「足場は必要だ。だが、長すぎると自分の行動のぶんだけ別の歴史が積もる。私がやりたいのは、歴史全部を最初から書き換えることではない。あくまで、本能寺という一点へ届くだけの助走が欲しい」


「なるほど」


「一年……いや、長くても二年以内か。できればそれより短い方がいい」


「かなり絞るな」


「絞るべきだ。私の知っている史実に依る部分を残したい。そうでなければ、本能寺へ向かう前に別の分岐だらけになる」


 閻魔ちゃんは満足そうに頷いた。


「よい。自分が何をしたいかがぶれておらぬ」


「そのくらいは決めておかねばな」


「では、時代は本能寺の直前寄りで調整、と」


 帳面にさらさらと文字が走った。

 誰が書いているのか分からない。たぶん勝手に記録されているのだろう。便利だが、少し薄気味悪くもある。


 次に、年齢の項目が光る。


「さて、ここだ」


 閻魔ちゃんが言った。


「おぬし、見たところ三十前後の身体なら喜びそうだが」


「否定はせん」


「だろうな」


「だが、若すぎても困る」


「ほう」


「戦国で何かを動かすなら、ただ若いだけでは舐められる。もちろん二十そこそこでも活躍する者はいるが、少なくとも最初からまともに話を聞かせるには、それなりの年齢と風格があった方がいい」


「つまり?」


「三十代半ば前後が妥当かもしれん」


「欲がないな」


「あるぞ。かなりある。ただ、若返りたいだけなら二十代前半を望む。だが、今回は遊びに行くわけではない」


 そう言うと、閻魔ちゃんは「ふむ」と顎に指を当てた。


「身体能力の伸びしろは若い方があるぞ」


「承知している。だが、若さだけでは乗り切れん。相手は戦国だ。信長も光秀も秀吉も、皆こちらを値踏みしてくる。見た目があまりに青ければ、そもそも土俵に立てぬ」


「なるほどな」


「もちろん、極端に老ける必要もない。老成した精神に、働く身体。それが良い」


「贅沢だな」


「二度目の生なのだから、多少は贅沢を言わせてくれ」


「よかろう」


 閻魔ちゃんはくすりと笑い、帳面へ何事かを書き込んだ。


「では、年齢は三十代半ばを基本線に調整。外見は戦国で不自然ではない範囲で、武人として通る体格。病的な虚弱はなし、ただし完全無欠の英雄体ではない」


「それでいい」


「本当か? 筋骨隆々、天下無双、女性にもてて、見た者すべてが一目で惚れ込む美丈夫とか、そういう希望は」


「いらん」


「即答だな」


「むしろ不便だ」


「どう不便なのだ」


「目立つ」


 龍之介は真顔で答えた。


「目立つ男は監視される。武も政も、最初は多少地味なくらいでよい」


 閻魔ちゃんは一瞬ぽかんとし、それから楽しそうに笑った。


「転生希望者で『目立ちたくないから美丈夫は困る』と言った者は初めてだ」


「変な枠で初めてになりたくはないが」


「もうだいぶ変だぞ、おぬし」


「知っている」


 だが、自分でもこれは本音だった。


 若い肉体は欲しい。

 強い身体も欲しい。

 だが、それが“物語の主人公の都合の良い見た目”になる必要はない。むしろ戦国の実務に耐える、疲れにくい身体、怪我からある程度立ち直れる身体、長く動ける身体の方がありがたい。


「では次。身分」


 この項目が光ると、場の空気が少し引き締まった。


 龍之介も自然と姿勢を正す。

 ここが、一番難しいところかもしれなかった。


「希望は?」


 閻魔ちゃんが尋ねる。


「高すぎず、低すぎず、だ」


「ふわっとしておるな」


「当然だ。高すぎる身分は行動を縛る。低すぎる身分は手が届かぬ」


「具体的に」


「農民や町人では、本能寺に関わるには遠い。足軽でも間に合わぬだろう。かといって、いきなり大名では不自然だし、調整が大変すぎる」


「そこまでは同意する」


「ならば、公家か、その周辺か」


 言ってから、龍之介は少し考え直した。


「いや、ただの公家では弱いな。武が使える公家、あるいは公家の血を引く武人。そういう立場なら、信長にも光秀にも近づける余地がある」


「面白いところを突く」


「戦国は刀だけで動いていたわけではない。朝廷、寺社、名分、家格、その辺りを無視しては信長にも届かぬ」


 閻魔ちゃんは細い指で膝をとんとんと叩いた。


「つまり、武家と公家の中間に立てるような身分が欲しいのだな」


「そうだ。どちらの言葉も多少は通じる位置が良い」


「便利だな」


「便利でなければ届かぬ」


「その便利さを与えるには、それなりの設定が要るぞ」


「だろうな」


「血筋、家、知己、最低限の家臣、表向きの経歴。全部用意せねばならぬ」


「だから会議なのだろう」


 龍之介が言うと、閻魔ちゃんは「そういうことだ」と頷いた。


「よし、そこは私の方で何案か引いてみる。完全な架空人物として差し込むか、史料の隙間に入れられる立場を作るか」


「後者の方が好きだな」


「なぜ」


「完全な架空の大物だと、戦国の手触りが薄れる。史料の影や、抜けた隙間にいる方が、現実に踏み込む感じがする」


「分かっておるではないか」


「歴史ものを読む側としての我儘だ」


「嫌いではない」


 閻魔ちゃんはそう言って、身分の項目にも何事かを書き込んだ。


 帳面の文字が流れ変わるたび、龍之介の心は奇妙に静まっていく。

 夢が具体になるというのは、こういう感覚なのかもしれない。

 ぼんやりした願いだったものが、条件の形を得るたび、むしろ現実味が増していく。


「次は肉体能力だ」


 閻魔ちゃんの目が少し悪戯っぽくなった。


「ここは欲が出るところだぞ」


「出るだろうな」


「例えば、剣術は現世で極めた水準をそのまま継承したいとか」


「それは欲しい」


「槍、弓、馬術、柔、兵法、さらには異常な反射神経や夜目、怪力、超回復、未来予知など」


「そこまで行くと違う」


「どこまでが違う」


「人間の範囲を超えるあたりからだ」


 龍之介は即答した。


「私は武を好む。だからこそ分かる。理を積み、身体を削り、年数を重ねて届くものに価値がある。最初から何でもできてしまっては、面白くない」


「また面白さを持ち出す」


「大事だろう?」


「大事だ」


 閻魔ちゃんはそこは迷わず肯定した。


「では、継承するのは現世で鍛えた感覚と理合か」


「そうだ。身体そのものが若返るのだから、技の理解と感覚は欲しい。だが、戦国の身体で使いこなすには再調整がいるだろう。そのくらいが自然だ」


「なるほど。完全再現ではなく、経験の持ち越し」


「それで十分どころか、過分だ」


「控えめだな」


「控えめか?」


「転生希望者の多くは、ここで“神速の剣”“百発百中”“毒無効”“一騎当千”“ついでに魔法も”などと盛り始める」


「盛りすぎだろう」


「盛るのだ。人の欲はそういうものだ」


「耳が痛いが、しかし……いや、分からんでもない」


 龍之介は苦笑した。


 たしかに、若返りと聞けば欲も出る。

 今の理屈を並べている自分ですら、内心どこかで“昔よりもっと鋭く動けたら”という願いがある。

 だが、そこに神の手が入りすぎれば、それはもはや自分の技ではなくなる。


「剣は欲しい。だが私の剣でありたい」


 龍之介は、少しだけ言葉を選びながら続けた。


「現世で積んだ理合、体捌き、間合い、呼吸。そういうものが戦国の若い身体で自然に噛み合う形ならありがたい。だが、それ以上は贅沢だ」


「馬は?」


「多少は乗れる程度で良い。必要なら向こうで学ぶ」


「弓は?」


「実用に足るくらい」


「鉄砲は?」


「知識はあってよいが、万能射手にする必要はない」


「怪力は?」


「いらん」


「夜目は?」


「人間並みでよい」


「毒耐性」


「そんなものがあると面倒な展開が減る」


「今、完全に読者目線で話しておるな」


「おぬしに言われたくはない」


 二人は同時に少し笑った。


 笑いながらも、龍之介は自分の中で線引きを確かめていた。


 欲しいものはある。

 だが、欲しいものすべてを貰ってしまえば、自分が歴史へ踏み込む意味が薄れる。

 現場で悩み、工夫し、勝ったり負けたりするからこそ、生きる実感が出るのだ。


「よし」


 閻魔ちゃんはうなずいた。


「肉体能力は“人間の上澄み”程度に収める。現世の鍛錬由来の理合を持ち越し、若い肉体に合わせて高水準で馴染ませる。だが超常にはしない」


「それでいい」


「では次。記憶保持」


 これは龍之介にとって、ほとんど答えは決まっていた。


「全面保持だ」


「迷わぬな」


「歴史知識も、人生経験も、家族の記憶も、全部欲しい。捨てる理由がない」


「家族のことまで持っていくか」


「当然だ」


 龍之介は少しだけ目を伏せた。


「二度目の生を望むとしても、あの百年をなかったことにはしたくない。妻も、子も、孫も、私を私にした時間だ。都合よく青春だけ持ち帰って、あとは切り捨てるのは……筋が違う」


 閻魔ちゃんは、しばし黙って龍之介を見ていた。


 からかいのない目だった。


「よい答えだ」


 やがて彼女はそう言った。


「記憶の保持は負荷も大きいが、おぬしなら耐えるだろう」


「負荷?」


「若い身体に百年分の記憶を乗せるのだ。己を保てぬ者もいる。過去に引かれすぎる者も、逆に現在を壊す者もいる」


「だが、そこを削れば私ではなくなる」


「その通りだ」


 閻魔ちゃんはうなずいた。


「では保持。ただし、情報の即時検索性は少し落とすぞ」


「何だ、それは」


「人の脳に合わせるということだ。全部が本棚のように整列していては不自然だろう。思い出そうとすれば出てくる、という程度にしておく」


「それは、むしろありがたい」


「であろう?」


 死後行政のくせに妙に細かいところへ気が回る。

 いや、細かいからこそ死後行政なのかもしれなかった。


「次。持込制限」


 この言葉に、龍之介はわずかに身構えた。


 持ち込めるもの。

 それはつまり、現代知識以外に何を手元へ持って行けるかという話だ。


「何か欲しいものはあるか」


「……正直に言えば、刀は欲しい」


「正直でよろしい」


「だが、現代製の名刀を一本放り込めば済む話でもないだろう」


「済まぬな」


「むしろ、その時代に馴染まぬ」


 龍之介は少し考えた。


 愛着のある品はある。若い頃から使ってきた木刀、妻にもらった守り袋、孫がくれた根付。どれも思い出は深い。

 だが、それらをそのまま戦国へ持っていくのは、どこか違う気がした。


「品物そのものは、なくてもいい」


 やがて彼は言った。


「ほう?」


「私物は向こうで手に入れればよい。刀も、その時代の鉄で打たれたものを使う方がいい。現代の便利な道具を一つだけ持ち込んで無双する話ではあるまい」


「物分かりが良すぎて少し不気味だな」


「私を何だと思っている」


「転生前に電子辞書とかライターとか精密工具箱とかを欲しがる類の者かと」


「気持ちは分かるがな」


「分かるのか」


「分かる。だが、今回は違う」


 龍之介は少し微笑んだ。


「持ち込むなら、形あるものではなく、癖の方が良い」


「癖?」


「毎朝、身体を整える習慣。道具を手入れする習慣。現場を見て段取りを組む癖。そういうものだ」


「……なるほど」


「品物は壊れるし、失う。だが癖は身につく。生き残るのは、案外そちらだ」


 閻魔ちゃんは、しばらく龍之介をじっと見た。

 その視線は測るというより、どこか感心しているようでもあった。


「本当に、面白いな」


「またそれか」


「まただ。欲がないわけではない。ちゃんと若い身体も欲しがるし、刀も欲しがる。だが、肝心なところでは物ではなく己を選ぶ」


「現場では、結局そうなる」


「百年生きた男の答えだな」


「そうかもしれん」


 帳面にまた文字が刻まれる。


「持込制限は、基本なし。現代物品の直接持込は不可。ただし、精神習慣、技術知識、生活知識は保持。加えて、象徴的な小さな加護を一つ付けるかどうかは保留」


「加護?」


「お守りみたいなものだ。露骨な奇跡ではない。運命に爪を引っかける程度の、小さな後押し」


「それは便利そうだ」


「だろう?」


「だが、何でもありにならぬなら、そのくらいはありがたい」


「素直でよろしい」


 そして最後に、帳面の一番下の項目が強く光った。


 因果干渉範囲


 この文字だけ、ほかより重く見える。


「ここが一番大事だ」


 閻魔ちゃんの声も、少し低くなった。


「どこまで歴史へ手を入れることを許すか。あるいは、どこから先は世界の補修が追いつかぬとみなすか」


「……つまり、転生しても“やりすぎるな”という話か」


「そうだ」


 龍之介はゆっくり頷いた。

 それは当然の話だった。


「私は神ではない」


「うむ」


「本能寺を止めたいとは思う。だが、その先の全てを自分で設計しきれるとも思っていない。まして、現代知識で好き放題に文明を飛ばすつもりもない」


「本当に?」


「多少はやりたくなるかもしれんがな」


「正直でよろしい」


「だが、やりすぎれば世界が壊れる。私が見たいのは、戦国が戦国の延長で変わっていく姿だ。現代人が一人で未来をねじ込む話ではない」


 閻魔ちゃんは目を細めた。


「では、そなたにとって最初の干渉線は」


「本能寺の回避」


「その後は?」


「信長に、生き延びた後の選択肢を持たせることだ」


「信長に、か」


「そうだ。信長を救ったなら、その先を生きるのは結局、信長や光秀や秀吉や、その時代の人間たちだ。私一人が天下人ごっこをして回るのは違う」


「……」


「もちろん、必要なら手は打つ。朝廷にも近づこう。政にも口を出す。戦にも立つ。だが主役はあくまで、その時代だ」


 そこまで言ってから、龍之介は少しだけ苦く笑った。


「もっとも、実際に向こうへ行けば、そんな綺麗事では済まぬだろうが」


「済まぬな」


「だろうな」


 二人は静かに笑い合った。


 その笑いのあと、閻魔ちゃんはふっと真面目な顔に戻る。


「よし。おおよそ見えた」


「どうだ」


「かなり良い」


「かなり、か」


「欲と理性の釣り合いが取れている。夢は大きいが、手順が現実的だ。何より、“歴史を動かしたい”より“歴史の中へきちんと入りたい”が先にある」


 閻魔ちゃんはそこで、小さく頷いた。


「それなら、世界もまだ受け入れやすい」


「世界に嫌われたくはないからな」


「好かれもせぬがな」


「厳しい」


「現実とはそういうものだ」


 ひどくもっともな返答だった。


 閻魔ちゃんは帳面を閉じる。

 今度の音は、これまでより少し重かった。

 会議が一段落した音だと、龍之介には分かった。


「では、まとめるぞ」


 彼女は指折り数えながら言う。


「時代は本能寺直前寄り。ただし一点突破で死ぬだけにならぬ程度の助走期間あり。年齢は三十代半ば前後。武人として自然な体格。身分は武と公の両方に足をかけられる位置を新設計。肉体能力は人間上位、だが超常ではない。記憶は全面保持。持込物品は基本なし、知識と習慣は保持。干渉範囲はまず本能寺、以後は時代の人間を主に据える方向」


「聞けば聞くほど、やれそうな気がしてくるな」


「怖くなってきたか?」


「少しな」


 龍之介は正直に答えた。


「だが、怖いということは、ようやく現実味が出てきたということでもある」


「うむ。その感覚は大事だ」


 閻魔ちゃんはゆっくり立ち上がった。

 座っていた時よりも、少しだけ背が高く見えた。

 威厳なのか、気配なのか、そのあたりはよく分からない。


「三上龍之介」


「何だ」


「この仕様でいくなら、そなたはもう“死んだ老人”では終わらぬ」


「そうだろうな」


「若い身体を得る。剣も振るうだろう。人も斬るかもしれぬ。人を救うかもしれぬし、逆に己の判断で誰かを破滅させるかもしれぬ」


「だろう」


「それでも行くか」


 龍之介は、少しだけ目を閉じた。


 家族の顔が浮かぶ。

 妻の声が浮かぶ。

 病室の窓の青、孫が見せたスマホの画面、最後に握った手の温もりが蘇る。


 あれは確かに、自分の人生だった。

 完結した、良い人生だった。


 だからこそ。


 だからこそ、二度目は中途半端には選べない。


 目を開け、龍之介は閻魔ちゃんを見た。


「行く」


 短く、だが迷いなく言う。


「今さら引き返して、天国で静かに茶でも飲んでいろと言われても、たぶん落ち着かん」


「茶はうまいぞ」


「うまいだろうな。だが、今の私はそちらへ行ったら、きっと本能寺のことばかり考える」


 閻魔ちゃんの口元が、ゆっくりと綻んだ。


「そうか」


「そうだ」


「なら、次だ」


 彼女は袖を払うようにして向きを変えた。

 すると、部屋の奥の襖がひとりでに開き、その向こうにまた別の空間が現れる。


 先ほどまでの静かな広間とは違う。

 細長い廊下のようでいて、壁のあちこちに古地図や系図、武将の名を書いた札が浮かんでいる。

 まるで巨大な作戦本部だった。


「……死後の世界にしては、ずいぶん物騒な景色だな」


「転生配置室だ。ここから先はもっと実務だぞ」


「本当に役所だな」


「だから言ったではないか」


 閻魔ちゃんは少し得意げに言い、そして振り返る。


「次は、そなたが最初に誰に会い、どこへ降りるかを詰める。ここを誤ると、本能寺に届く前に終わる」


「光秀か、信長か、その周辺か」


「そのあたりだ。加えて、家臣も必要だな。最低限、動かせる手足がなければ話にならぬ」


「なるほど」


「面白くなってきたであろう?」


 龍之介は、その問いにふっと笑った。


「悔しいが、かなりな」


「よし」


 閻魔ちゃんは満足げに頷いた。


「では、転生前夜の仕様会議、第一段階は終了だ」


 そう言って彼女は、廊下の先へ歩き出す。

 黒髪がさらりと揺れ、冠の「閻魔」の文字が妙に堂々と見えた。


 龍之介も立ち上がる。


 若い身体は軽かった。

 軽いが、心の方はむしろ重みを増している。

 夢が、段取りを得た。

 段取りが、責任を呼ぶ。

 責任が、ようやくこれを現実にした。


 本能寺の先へ行く。

 そのための道筋が、いま確かに引かれ始めている。


 閻魔ちゃんが、歩きながらふいに言った。


「そういえば、言い忘れていたが」


「何だ」


「このあと、最初に会う相手の候補をいくつか出す。その中には当然、かなり気まずい相手も含まれるぞ」


「例えば」


 閻魔ちゃんは振り返らずに答えた。


「明智光秀だ」


 龍之介の足が、ほんの一瞬だけ止まった。


 本能寺を止める。

 そのために避けて通れぬ名だ。


 閻魔ちゃんはそんな龍之介の沈黙を楽しむように、少しだけ肩越しに笑う。


「さあ、次の会議を始めよう。歴史に踏み込むなら、まずは謀反人候補との距離感からだ」

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