第3話 天国より、面白い場所へ
あなた、天国に行くより――もっと面白い生き方、してみない?
その言葉は、妙に軽やかに聞こえた。
だが、軽い調子で口にされたからといって、中身まで軽いとは限らない。
むしろ龍之介は、その一言の奥にあるものの重さを、すぐに感じ取っていた。
目の前の少女――閻魔ちゃん、と内心で呼んでいる存在は、先ほどまで役所勤めの中堅職員のような顔で死後行政の苦労を語っていた。
だがいま彼女が纏っている空気は、まるで違う。
人を裁く者の顔だった。
冗談めいた言い回しの下に、選別と、許可と、そして一種の試しが隠れている。
彼女はいま、龍之介の生き方そのものを見ているのだ。
「面白い生き方、か」
龍之介は、言葉をゆっくりと口の中で転がした。
「死んだ男に向ける勧誘としては、ずいぶんと俗だな」
「俗で悪いか」
「悪くはない。むしろ分かりやすくて助かる」
答えながら、龍之介は閻魔ちゃんの瞳を見返した。
逸らしてはいけない気がした。
これはたぶん、口先で取り繕って済む場面ではない。
「それは、転生の話か」
「察しがいいな」
「近ごろの物語では定番だからな。異世界、やり直し、二度目の人生。孫に勧められてずいぶん読んだ」
「それでよく受け入れられるものだ」
「慣れというものは侮れん」
「死後の世界に対する慣れ、という言い方はどうかと思うが」
そう言いながら、閻魔ちゃんはどこか楽しそうでもあった。
龍之介が「転生」という言葉そのものに過度な拒否反応を示さないのは、彼女にとって都合が良いのだろう。
もっとも、龍之介にしてみれば、都合が良いのは自分も同じだった。
もしこれが若い頃の自分なら、あるいはもっと取り乱していたかもしれない。
死ぬことへの恐れ、人生が終わることへの未練、失うものへの執着。そうしたものが、もっと濃く胸にあったはずだ。
だが百年生きて、それらの大半はすでに見送ってきた。
手に入れたものも、失ったものも、それなりにある。
悔いが全くないとは言わない。だが、悔いのない人生など、たぶん最初から人間には用意されていない。
だからこそ、彼は「終わり」を受け入れられたのだ。
その終わりの先に、まさか別の道がぶら下がっているとは思わなかったが。
「確認したい」
龍之介は言った。
「もし私がそれを断れば、どうなる」
「穏当に天へ送る」
「痛みもなく」
「なく」
「迷いもなく」
「それはそなた次第だが、少なくともこちらは余計な苦労をかけぬ」
「なるほど」
良い話ではある。
実に良い話だ。
百年生き、家族に看取られ、善く死んだ男が、そのまま穏やかな場所へ送られる。
理不尽でも、悲劇でもない。綺麗な結末と言ってよかった。
それで十分ではないか、と言われれば、その通りだと答えられる。
だが。
龍之介は、自分の膝の上に置いた手を見た。
若い手だ。
皺もなく、痺れもなく、病の色もない。
力を込めれば、かつてそうであったように、まっすぐ刃を握れそうな手だった。
百歳まで生きた男が、いまさら若さに未練を見せるのは見苦しいかもしれない。
だが嘘はつけなかった。
この身体がもう一度動くのだと言われれば、心は動く。
もう一度、足腰の心配なく歩けるのだと言われれば、胸のどこかが疼く。
もう一度、木刀でも真剣でも、全身で扱えるのだと言われれば――それは正直、かなり魅力的だった。
「……ずるい話だな」
ぽつりと漏らすと、閻魔ちゃんが片眉を上げた。
「何がだ」
「人間が何を惜しむか、分かった上で勧めている」
「勧誘の基本だ」
「やはり役所勤めの匂いがする」
「役所勤めを何だと思っておる」
「人間の欲と現実の折り合いをつける仕事だ」
閻魔ちゃんは一瞬だけ言葉に詰まり、やがて「……否定しにくい」とぼそりと言った。
それが少し可笑しくて、龍之介は小さく笑った。
だが笑いながらも、内心は静かに揺れていた。
転生。
たしかに、物語では何度も見てきた。
若返り、やり直し、別の世界、新たな生。読者としては面白い。だが当事者になるとなれば話は別だ。
第一に、そんなものを本当に自分が望んでよいのか。
第二に、望んだとして、それは何のためなのか。
若い身体が欲しいからか。
強さが欲しいからか。
あるいは、失ったものを取り戻したいからか。
龍之介は、自分の胸に問いかける。
だが返ってきた答えは、それらのどれとも少し違っていた。
「……私は」
言葉を探すように口を開く。
「自分の人生が嫌だったわけではない」
「知っている」
閻魔ちゃんの返答は静かだった。
「むしろ、ずいぶん恵まれていた方だと思う。戦の時代を越え、仕事に恵まれ、妻を得て、子を持ち、孫にも囲まれた。死に方まで含めれば、上等なくらいだ」
「うむ」
「だから、やり直したいという気持ちとは少し違う」
龍之介はそこで一度、息を吸った。
「やり直し、ではないのだ。たぶん」
閻魔ちゃんは急かさない。
彼女はただ、まっすぐに続きを待っていた。
「もしもう一度生きるなら、今度は違う生を見たい。違う景色を見たい。そういう気持ちはある」
「ほう」
「だが、それだけなら天国でも良いのかもしれん。穏やかな場所で静かに眺めるだけなら、それでも満たされるだろう」
「では、何が足りぬ」
「手触りだ」
言ってから、龍之介自身がしっくり来た。
「私はたぶん、見ているだけでは駄目なのだ。手を出したくなる。足を踏み入れたくなる。工夫したくなる。鍛えたくなる。関わりたくなる」
現場の技術者として生きた癖かもしれない。
武を好んだ性かもしれない。
あるいは、歴史好きというものの業なのかもしれなかった。
書物の中の過去を読むたびに、龍之介はいつも少しだけ悔しかった。
なぜそこへ立ち会えないのか。
なぜ見ているだけなのか。
なぜ、あの瞬間に一言言えないのか。
そんなことを考えても仕方がない。
歴史は記録であって、触れられるものではない。
だからこそ歴史なのだと、頭では分かっていた。
だが。
「……本能寺がなければ、と」
龍之介は呟いた。
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。
閻魔ちゃんは何も言わない。
ただ、その続きを促すように瞳を細めた。
「何度も考えた」
龍之介は、過去の自分が何度となく抱いた空想を、初めて誰かに打ち明けるような気分で口にした。
「もし本能寺の変がなければ。織田信長があそこで死ななければ。あの後、日本はどうなったのかと」
語っていて、胸の奥が熱を持つのが分かる。
学者めいた厳密な検証ではない。
酒の席の歴史談義でもない。
もっと幼く、もっと執着めいた願いだった。
「信長が好きなのだな」
閻魔ちゃんが言った。
「好きだ」
龍之介は即答した。
「嫌いな部分も多い。苛烈すぎる。人を追い詰める。周りがついていくには速すぎる。人の心が分からぬ男でもある。だが、それでも好きだ」
「なぜ」
「先を見ていたからだ」
龍之介の声は、自然と低くなっていた。
「戦だけの男ではない。領国、商い、流通、寺社、朝廷、外との関わり。あれほど先まで見ていた者は、あの時代にはそうおるまい。粗い。危うい。だが、あそこで死ぬには惜しすぎる男だった」
言いながら、脳裏に史料の断片が浮かぶ。
楽市、城下町、南蛮との接触、天下布武の印判、朝廷との距離感。
英雄としての信長だけではない。あの男の持っていた「まだ形にならぬ未来」そのものが、龍之介には眩しかった。
「もし本能寺がなければ、日本はもっと早く変わったかもしれん。あるいは、もっと早く壊れたかもしれん。どちらにせよ、あの一点で潰えた可能性が、確かにあった」
龍之介は、ゆっくりと拳を握った。
「若い頃は、ただの空想だった。年を取ってからは、諦めもついた。史実は史実だ。変えられぬものは変えられぬ。そう思ってきた」
だが。
いま、自分は死んだ。
そして死んだ先に、若い身体と新しい生の話を持ってきた美少女閻魔がいる。
それならば。
「……もし」
龍之介は顔を上げた。
「もし本当に、私に別の生を選ぶ余地があるのなら」
閻魔ちゃんの瞳が、わずかに愉しげに揺れる。
「穏やかな場所で終わるのも悪くはない。だが、どうせなら私は――見たい」
「何を」
「本能寺の先をだ」
言った瞬間、自分の中の何かが定まる音がした。
「ただ知りたいのではない。ただ眺めたいのでもない。あの変を越えた先に何があるのか、この目で見たい。できるなら、その一手に触れたい」
「触れる、か」
「そうだ」
龍之介は静かに、しかしはっきりとうなずいた。
「私は、史実を完全に思い通りにしたいわけではない。歴史の神にでもなりたいわけでもない。だが、あの一点だけは……あの一点だけは、ずっと惜しかった」
惜しい、という感情は妙だ。
自分の人生ではない。他人の死だ。何百年も昔の出来事だ。
それなのに、龍之介にとって本能寺の変は、長く胸の奥に刺さった小骨のようなものだった。
あれさえなければ。
あれが別の形で収まっていたなら。
そう思うたび、戦国史は別の顔を見せた。
「なるほどなあ」
閻魔ちゃんは頬杖をつき、どこか感心したように龍之介を見ていた。
「やはり面白い」
「人を見世物のように言う」
「見世物ではない。素材だ」
「もっと悪いな」
「そうか? 神格に素材として認められるのは名誉なことだぞ」
「ありがたいような、ありがたくないような」
龍之介がそう返すと、閻魔ちゃんはくすりと笑った。
その笑いには、先ほどの試すような鋭さだけでなく、本気で愉快がっている響きも混じっていた。
「よい。では、もう少し具体的に聞こう」
彼女は膝を正した。
「転生とは言ったが、何も好き放題の願いを叶える福袋ではない。条件はある。制約もある。与えるもの、与えぬもの、その線引きも必要だ」
「それはそうだろうな」
「無制限に与えれば、物語にならぬ」
「……いま、職務ではなく読者目線のようなことを言わなかったか」
「気のせいだ」
たぶん気のせいではなかった。
だが、龍之介もそこを突っ込むのはやめておいた。
この閻魔ちゃんという存在、どうやらかなり娯楽への理解が深い。
「ひとつ確認する」
龍之介は言った。
「転生とはいっても、まったくの異世界とは限らぬのだな」
「限らぬ。異世界もあれば、別の時代、別の可能性、枝分かれした歴史層もある。そなたの場合、相性が良いのは後者だ」
「歴史層」
「平たく言えば、現世と似ていて少し違う流れの世界だ。完全に同じ歴史へそのままねじ込むと、帳尻が合わなくなることがあるのでな」
「帳尻合わせか」
「非常に大事だ。世界は意外と事務的にできている」
「夢があるような、ないような話だ」
「夢だけで回る世界なら、こちらも苦労せぬ」
閻魔ちゃんはそう言って、指先で宙をなぞった。
すると二人の間に、淡い光の輪がいくつも浮かび上がった。
水面のような円の中に、それぞれ違う景色が映っている。
森の中の石造りの城。巨大な空飛ぶ船。見たこともない獣が走る砂漠。どこか未来めいた都市。
そして、ひとつの輪の中には、見慣れた瓦屋根と城郭、甲冑の群れ、幟の林立する風景があった。
戦国だ。
龍之介の視線が自然とそこへ吸い寄せられる。
「露骨だな」
閻魔ちゃんが言う。
「仕方あるまい」
「いや、仕方はあるのだが、まあよい」
彼女は光の輪の中から、戦国の景色を映したものを指先で軽く弾いた。
輪はすう、と二人の間へ近づき、絵巻のように広がっていく。
そこには山河があり、城があり、人がいた。
足軽の草履、武士の具足、商人の天秤、寺の甍、港の帆影。
知識として知っていた時代が、手を伸ばせば触れられそうな距離にある。
龍之介の喉が、無意識に鳴った。
「どうだ」
「ずるい」
「また言ったな」
「こちらが何に惹かれるか、分かった上で見せている」
「もちろんだ」
閻魔ちゃんは平然としている。
「ただし、勘違いするなよ、三上龍之介。これは観光ではない。戦国に生まれれば、死は近い。飢えも病も裏切りもある。理不尽も、報われぬ努力も山ほどある。知識があっても、現場では容易く潰れる」
「だろうな」
「おぬしは百年生きたが、それは現代での話だ。衛生も医療も安全もある時代の百年だ。戦国では、若く強くとも、呆気なく死ぬ」
「だろう」
「恐ろしくはないか」
龍之介は少し考えた。
恐ろしいか、と問われれば、もちろん恐ろしい。
戦争を知る者として、死を甘く見る気はない。
若い頃ならともかく、百まで生きた今ならなおさら、命の重さは分かる。
だが。
「恐ろしい」
彼は正直に答えた。
「だが、恐ろしいから価値があるものもある」
「ほう」
「若い頃は、死が近いのは当たり前だった。理不尽も、命が消える速さも、嫌というほど見た。それでも人は飯を食い、笑い、働き、好きになり、守りたいものを作る」
龍之介は戦後の焼け跡を思い出していた。
何もかも失ったような場所でも、人は案外、明日の段取りを考える。
釘を打ち、屋根を直し、鍋をかけ、子どもを叱る。
生きるとはそういうことだと、彼は体で知っていた。
「安全な場所で、何も失わぬまま、ただ眺めるだけの人生も悪くない。だが私はたぶん、それだけでは飽きる」
「飽きる、と来たか」
「言葉が軽いかもしれんが、本音だ。どうせもう一度生きるなら、手応えのある方がいい」
閻魔ちゃんはしばらく黙っていた。
その沈黙は否定ではなく、測定に近かった。
やがて彼女は、ふっと息をついた。
「なるほど。そなたは、穏やかな終わりを嫌っているわけではないのだな」
「嫌ってはいない」
「ただ、それとは別に、もう一度火のある方へ行きたい」
「そういうことになる」
閻魔ちゃんは頬杖をやめ、改めて龍之介を正面から見た。
「ならば問う。もし戦国へ送るとして――そなたは何を望む」
「何を、とは」
「立場、時代、肉体、才覚、記憶の保持、持ち込みの有無。転生にも設計は必要だ」
その言い方は妙に実務的で、かえって龍之介にはありがたかった。
夢物語を夢物語のままで語らず、現実に落とし込む話し方だ。
そうでなければ、自分もたぶん本気になれない。
「まず」
龍之介はゆっくり言った。
「記憶は欲しい。歴史を変える可能性を考えるなら、知らぬまま行っても意味が薄い」
「妥当だ」
「だが、何もかも万能にする必要はない。むしろ、それでは面白くないし、歴史に失礼だ」
「そこは同感だな」
「肉体は若い方がいい。武を使える身体が欲しい。だが無敵は要らん。勝てぬ相手には勝てぬし、老いを知った後なら、若さの価値も分かる」
「ほう」
「立場は……」
そこまで言って、龍之介は口をつぐんだ。
戦国時代で本能寺へ介入する。
それを現実として考えた瞬間、夢想だけでは済まなくなる。
ただの農民では間に合わぬ。名もなき足軽でも難しい。公家でも武士でも、ある程度動ける足場がいる。
だが高すぎる身分は、それはそれで不自然だし、融通が利かぬ。
思考が、自然と現場の段取りになっていく。
どの位置に立てば、どこまで手が届くか。
その感覚が懐かしかった。
「……考え始めると、俄然やる気が出てくるな」
呟くと、閻魔ちゃんが愉快そうに目を細めた。
「やはりそうなるか」
「人を工具好きの職人のように言う」
「違うのか?」
「否定はしづらい」
龍之介は苦笑した。
その時だった。
ふいに、先ほど閻魔ちゃんが見せた戦国の光景の中で、一つの場面が鮮明に浮かび上がった。
炎だ。
夜でも朝でもない、あの独特の赤。
寺の屋根、黒煙、叫び、焼ける木の匂いまで伝わってきそうな幻。
本能寺。
龍之介の呼吸が止まる。
これは彼の願いそのものだ。
あの炎を止められるかもしれないという話なのだ。
見たい。
触れたい。
いや、もうそれだけではない。
止めたい。
「……閻魔殿」
「なんだ」
「もし、私がそれを選ぶなら」
「うむ」
「行き先は、戦国だ」
閻魔ちゃんの目が、わずかに細くなる。
「やはりな」
「しかも、ただ戦国を見たいのではない」
「本能寺だな」
「そうだ」
龍之介は、はっきりとうなずいた。
「どうせ二度目をやるなら、あの一点へ踏み込みたい。織田信長が死ぬあの瞬間、その前後。そのあたりに行きたい」
「かなり危険な注文だぞ」
「承知の上だ」
「本当に?」
「本当にだ」
閻魔ちゃんは少しのあいだ黙っていた。
その沈黙は先ほどまでと少し違った。
冗談を交えた様子見ではなく、本格的な審査に入る前の、神格としての測り。
やがて彼女は、静かに言った。
「そなた、自分で思っている以上に面倒な願いを口にしているぞ」
「だろうな」
「本能寺の変は、大きい。現世で語られる以上に、大きい。あれは単なる一武将の死ではない。多くの因果が絡み合った結節点だ」
「だろう」
「そこへ触れれば、当然、歴史は揺らぐ」
「揺らがせたいのだ」
「その先で、どれほどの人間が救われ、どれほどの人間が別の形で不幸になるかは分からぬぞ」
龍之介は、その言葉にすぐには答えなかった。
それはまったくその通りだったからだ。
英雄を一人救うことが、世界を良くするとは限らない。
信長が生き延びた先に、より大きな戦乱があるかもしれない。
秀吉の時代が来ないことで救われる者もいれば、逆に掬えなくなる者もいるだろう。
歴史を変えるとは、気持ちよく一手打って終わる話ではない。
だが、それでも。
「分からぬ」
龍之介は、正直に言った。
「良くなる保証もない。悪くなる可能性もある。だから、本来なら手を出さぬ方が賢いのだろう」
「うむ」
「だが、賢さだけで天国に行けるほど、私はできた人間ではない」
閻魔ちゃんの口元が、かすかに動いた。
「私は、あの一点を見過ごして終わるのが、ずっと惜しかった。何百年も前のことなのに、まるで自分の手が届かなかった失敗のように感じていた」
「……」
「だとしたら、たとえ結果が分からなくとも、一度くらいは手を伸ばしてみたい」
龍之介は、静かに、しかし迷わず言い切った。
「それで失敗したなら、その責も引き受ける」
沈黙が落ちた。
長いようでいて、ほんの数息の沈黙だった。
閻魔ちゃんは龍之介の顔を見ていた。
その目は笑っていない。
可愛らしさも、役所臭さも、今は影を潜めている。
ただ、人ならざる者が、人の覚悟を量っている目だった。
やがて。
彼女は、すう、と小さく息を吐いた。
「よし」
「……よし、とは」
「今のでだいたい腹は決まった」
「こちらの願いが通るか」
「まだ全部ではない。だが、少なくとも“案として進める価値あり”だ」
「案として」
「死後行政を甘く見るな。稟議は大事だ」
「稟議があるのか……」
「あるとも。だが私には現場裁定権限がある。ある程度までは押し切れる」
そこを押し切るのか、と龍之介は思ったが口には出さなかった。
この閻魔ちゃん、どうもかなり現場で独断専行するタイプである。
「では、次だ」
閻魔ちゃんは指を一本立てた。
「そなたに特例転生の資格を与える方向で検討する。ただし、条件は細かく詰める」
「ふむ」
「中途半端な時代設定では本能寺に届かぬ。届いたとしても、何もできず死ぬだけかもしれぬ。だから、どの時期に、どの立場で、どの身体で放り込むかを詰めねばならぬ」
「まるで新規事業の立ち上げだな」
「近い」
閻魔ちゃんは即答した。
「そして何より」
「何より?」
彼女は、唇の端を少し上げる。
「そなた自身が、どれだけ本気かを、もう少し見たい」
「まだ見るのか」
「当たり前だ。貴重な転生枠なのだぞ。去年など、異世界で美少女に囲まれたいだけの男を三十七人は弾いた」
「三十七人」
「ひどかった。『スローライフしたい』と言いながら三日で飽きる顔をしていた」
「それはたしかに弾いてよい」
「だろう? こちらも適性は見る」
龍之介は苦笑した。
死後の世界の審査基準が思った以上に厳格かつ俗世的である。
だが逆に言えば、それはありがたかった。
きちんと選ぶということは、この話がただの思いつきではないということだ。
「よろしい」
龍之介は背筋を伸ばした。
「では、こちらも本気で応じよう」
「その意気だ」
閻魔ちゃんはにやりと笑った。
最初に現れた時の神秘的な気配とは違う、年若い少女らしい生き生きした笑みだった。
だが次の瞬間、彼女はまた少しだけ真面目な顔に戻る。
「三上龍之介」
「うむ」
「おぬしの望みは分かった。穏やかな終わりを捨ててでも、もう一度、生の手触りが欲しい。しかも、ただ若返って遊びたいのではなく、本能寺という歴史の結節点へ踏み込みたい」
「そうだ」
「なら、次は具体だ。夢物語を現実へ落とす」
そう言って閻魔ちゃんは、再び宙へ指を走らせた。
すると、二人の間に新たな光の帳面が開く。
そこには項目が並んでいた。
時代
年齢
身分
肉体能力
記憶保持
持込制限
因果干渉範囲
思わず龍之介は呻いた。
「ずいぶん本格的だな」
「ここからが本番だ」
閻魔ちゃんは少し顎を上げ、いかにも仕事のできる顔をした。
「天国に行くより面白い場所へ行きたいのなら、仕様を詰める必要がある。中途半端なまま放り込んで『やっぱり無理でした』では、こちらも困る」
「分かる」
「だろう? 現場は段取りが九割だ」
「それも分かる」
龍之介は、口元に笑みが浮かぶのを感じた。
死んだはずなのに、不思議と心が軽い。
いや、軽いだけではない。
胸の奥に、久しく味わっていなかった熱が灯っている。
段取りを考える時の熱。
何か大きなことの前に、頭の中で図面を引く時の熱。
若い頃、工場の新設備の立ち上げ前夜に感じた高揚にも似ていた。
自分は本当に、もう一度やる気らしい。
閻魔ちゃんはそんな龍之介の顔を見て、満足そうにうなずいた。
「よし。では次から、転生前夜の仕様会議に入る」
「会議か」
「会議だ」
「死後まで会議とは、人の業は深いな」
「業が深いから死後があるのだ」
妙に説得力のある返答だった。
龍之介は笑い、そして同時に、自分の中で何かが決定的に動き出したのを感じていた。
もう、ただの興味ではない。
もう、ただの空想でもない。
本能寺の先へ。
それは百年抱えた空想の続きであり、死んだ後にようやく手を伸ばせる現実でもあった。
閻魔ちゃんは、帳面へ手をかざしながら言う。
「では、まず確認しようか。時代は――」
彼女の目が、わずかに愉しげに細まる。
「天正十年六月でよいのよな?」
その年月を聞いた瞬間、龍之介の背筋に、鋭いものが走った。
本能寺の変。
まさに、その時だ。




