第21話 異物、評定の席に残る
評定は、思っていたよりあっさりと散じた。
もっとも、あっさりと見えただけで、実際に軽かったわけではない。
信長が「天下布武を、もう一度始める」と言い切ったあと、広間にいた者たちはそれぞれの顔のまま深く沈黙していた。
勝家は不服と納得を半々ほど呑み込んだ顔で。
丹羽は感情をほとんど表へ出さぬまま、しかし内側では明らかに何かを組み替えている目で。
ほかの者たちもまた、それぞれに本能寺の朝と、その先の天下の組み直しとを、己の持ち場へ引きつけて考え始めていた。
それゆえ、散じ方だけが静かだったのだろう。
座を立つ者、文を抱えて出ていく者、信長へ一礼して去る者。
誰も大きな声を立てぬ。
だが、その背の一つ一つが、“これで終わりではない”と語っていた。
龍之介も立つべきか一瞬迷った。
だが信長は、軽く指を動かしてそれを制した。
「龍之介、おぬしは残れ」
短い命だった。
広間の空気がほんのわずかに動く。
勝家の目が露骨にこちらへ向き、丹羽の視線も少し深くなる。
ほかの者らも、動揺を顔へは出さぬまま、“ああ、やはりそうか”と見る目になった。
異物は残される。
それだけで十分に意味があった。
ほかの者たちが去り、最後に蘭丸が襖を閉めた時、広間には信長、勝家、丹羽、そして龍之介だけが残った。
影鷹は無論いない。
ここから先は、あまりに家中の中の話だ。
しばし沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは、やはり勝家だった。
「上様」
低い、腹の底から出るような声である。
「何だ、柴田」
「この男を」
勝家の視線が龍之介を刺す。
「都筋の得体の知れぬ男を、なぜここまで近くへ置かれます」
飾りがない。
遠回しでもない。
だが無礼とも言い切れぬ。
これは柴田勝家なりの“筋を通した物言い”なのだろう。
信長へ真正面から問う。家中に不穏を残さぬためにも、曖昧なままにしない。
信長は、その問いにすぐには答えなかった。
代わりに、龍之介へちらと視線を寄越す。
どう答える、と見ているのか。
あるいは、自分の前で自分をどう置くかを試しているのか。
その両方かもしれない。
だが、この問いへはまず龍之介が口を挟むべきではないと感じた。
自分で自分の役目を大きく言うほど、信頼を損なう場でもある。
信長がようやく口を開く。
「柴田」
「は」
「おぬしは、この男を気に入らぬか」
「気に入る気に入らぬの前に、分からぬ」
勝家は言い切った。
「どこの何者で、どこまで腹があり、何に使えるかも定まらぬ。なのに上様は本能寺の朝からそのまま安土まで引き寄せ、政へ噛ませると仰せになる」
「うむ」
「それでは家中も量りかねます」
信長は鼻で笑った。
「量れぬものを側に置くのは、初めてではあるまい」
「上様ご自身はそうでしょう」
勝家の返しは早い。
「ですが、こちらは量れぬままでは困ります」
そこで丹羽長秀が静かに口を開いた。
「柴田殿の申すことはもっともにございます」
声は穏やかだ。
だが、その穏やかさの中身は鋭い。
「この御方を置かれるのは結構。ですが、使うなら使うで、役目の線をはっきり引くべきかと」
信長が目をやる。
「丹羽、おぬしも同じか」
「同じと申しますより」
丹羽は少しだけ視線を伏せた。
「異物を入れるなら、異物であるがゆえにどこへ使うかを明らかにしておかねば、周りが勝手に大きく見ます」
なるほど、と龍之介は思った。
さすが丹羽長秀である。
勝家は“気に入らぬ”と正面から出る。
丹羽は“どう置くかを決めねば周囲が揺れる”と整理してくる。
同じ不信でも、出し方が違う。
信長は少し楽しそうですらあった。
「よい。では、本人に申させよう」
嫌な振り方だ、と龍之介は内心で思う。
だがここで怯んではならない。
「龍之介」
「は」
「おぬし、自分を何だと思う」
問いが直球すぎて、かえって返しづらい。
勝家の目は重い。
丹羽の目は静かだが深い。
信長は面白がっているようで、実のところ一番厄介な一点を突いてくる。
龍之介は一つ呼吸を整えた。
「異物にございますな」
そう答えると、勝家の眉がぴくりと動いた。
「自分で申すか」
「今さら否定しても、見たままは変わりますまい」
龍之介は続ける。
「上様の家中にとって、私は都から急に滑り込んだ得体の知れぬ男にございます。しかも本能寺の朝のあと、そのまま安土へ連れてこられた」
勝家は黙って聞いている。
少なくとも、ここで妙に取り繕うよりはよかったらしい。
「ならば、その異物をどこへ使うべきか」
龍之介は信長をちらと見てから、あえて勝家と丹羽の方へ向き直った。
「私は、都・寺社・武家のあいだで、役目の重なりをほどくところにございます」
勝家が低く問う。
「役目の重なり、だと」
「はい」
龍之介は頷く。
「今朝の本能寺の件は、明智日向守殿お一人の心の弱さで片づけるには危うすぎます」
勝家の目が細まる。
だが遮らない。
「日向守殿は、強い御方です。戦も、都も、寺社も、顔も、理も、全部見られる。だからこそ重く使われた」
「それの何が悪い」
「悪くはございませぬ」
龍之介はすぐに答える。
「ただ、一人へ重ねすぎた」
丹羽の目が少しだけ動く。
「申せ」
「都と寺社と武家の理は、それぞれに違います。しかも上様の速さが加わる。そこを一人の器量で繋ぎ続ければ、できる者ほど保ちます。保つがゆえに、さらに寄せられる」
「……」
「そうして役目が重なる。境目が曖昧になる。どこまでが都の顔で、どこからが上様の命で、どこまでが家中への調整か。全部を一人へ載せれば、やがて歪みます」
勝家が鼻を鳴らした。
「役が重いなら、弱いだけではないか」
来ると思っていた反論だった。
龍之介はそこで、真正面から否定しなかった。
「そう見えることもございましょう」
勝家の目が少しだけ変わる。
反発を予想していたのだろう。
だが、龍之介はさらに続けた。
「ですが、強い者へ役目を寄せすぎれば、折れた時の被害が大きい」
広間の空気が少し張る。
「弱い者が一つ崩れるなら、その者一人で済むこともあります。だが強い者が何役も抱えたまま崩れれば、その下にぶら下がっていた流れまでまとめて揺れる」
勝家は黙る。
丹羽はさらに静かになる。
「日向守殿ほどの方が本能寺の朝まで行った。それ自体が、“あれほどの者でも危うい構造だった”という証にございます」
そこまで言ってから、龍之介は言葉を少し和らげた。
「これは、個人の資質だけではなく、役の置き方の話にございます」
丹羽が初めて少しだけ頷いた。
「なるほど」
勝家は腕を組む。
「つまり、日向ほどの男でも折れるなら、役目の載せ方を疑えと申すか」
「はい」
「だが、戦国にございます。重い役が来るのは当たり前だ」
「その通りにございます」
「ならば、結局は耐えるしかあるまい」
「耐えるべきところもございましょう」
龍之介は応じる。
「ですが、“耐えること”と“何も分けぬこと”は違います」
「……」
「同じ重い役でも、どこからどこまでがその者の役目かが見えていれば、まだ踏ん張りようもある。ですが、重ねたまま曖昧にしておけば、“できる者が全部やる”になります」
信長がそこで、ふっと笑った。
「よいな」
勝家がちらと信長を見る。
信長は続けた。
「柴田、おぬしならどうする」
「何を、にございます」
「日向ほどの器量があり、都も寺社も武も分かる者がおる。ならば全部やらせたくならぬか」
勝家は一瞬だけ黙り、それから低く答えた。
「……なりますな」
「であろう」
信長は笑う。
「だが、全部やらせれば、全部背負う」
その言葉に、勝家は口を閉ざした。
たしかにそうだ。
武の人間である勝家にも、その理屈自体は分かるのだろう。
ただ、武辺者としての感覚が先に“重いなら耐えよ”へ向かうだけで。
丹羽が静かに言う。
「役目の重なりを見よ、ということなら、この御方を置く意味は分かります」
信長が目をやる。
「ほう」
「都の顔を知る者であり、なお家中の当たり前に染まりきっておらぬ。だから、“なぜそこが詰まるのか”をかえって見つけやすい」
丹羽は龍之介を見る。
「ですが、それは役目の線がはっきりしておれば、の話です」
「そうだな」
信長が頷く。
「では、引こう」
そう言って、信長は龍之介を見た。
「おぬし、都と安土のあいだに新しく一本、筋を引け」
その一言に、龍之介の背筋が自然と伸びた。
一本、筋を引け。
言葉だけなら簡単だ。
だが中身は重い。
都と安土。その間にあるのは、距離だけではない。
公家の理、寺社の顔、武家の都合、信長の速さ、家中の力学、噂の流れ、面目の置き方。
それらが絡んだ縄のようなものに、新しい筋を一本通せと言うのだ。
「恐れながら」
龍之介は慎重に言った。
「それは、ずいぶんと大きい役目にございます」
「小さい方がよかったか」
信長の返しは速い。
「いえ」
「ならば引け」
簡単に言う。
だが、その簡単さの裏にある重さが分からぬほど、龍之介も鈍くはない。
「上様」
丹羽が口を開く。
「筋を引くと言うても、形が要りましょう」
「申せ、龍之介」
信長がこちらへ振る。
龍之介は一度呼吸を整え、頭の中で第18話から考えていたことをまとめる。
「まず必要なのは、都の話を“都のまま”安土へ持ち込まぬことかと」
勝家の眉が動く。
「どういう意味だ」
「都の話は、顔を立て、角を立てず、曖昧さを残すことで回ることがございます」
「それが都か」
「はい。ですが、そのまま安土へ持ち込めば、“で、何が言いたい”となる」
信長が笑う。
「その通りだ」
「逆に、安土の命は速く、重く、直に人へ届く。そのまま都へ落とせば、顔が潰れ、反発を生む」
丹羽が頷く。
「つまり、両方の言葉をそのまま流すのでなく、途中で噛み砕く役が要る」
「はい」
「日向にそれが寄りすぎていた」
「まさに」
龍之介は続けた。
「ですので――」
そこで少しだけ言い淀む。
ここから先は、家中の役目に手を入れる話になる。
軽々に言えば角が立つ。
だが言わねば役目を与えられた意味がない。
「都側の受け口と、安土側の噛み砕き役を、少なくとも意識して分けるべきかと」
勝家が低く言う。
「役を増やすのか」
「増やすというより、いま曖昧に重なっているものへ境目を引く」
「……」
「一人が都で聞き、安土で解き、さらに寺社の顔も立て、武家へも下ろし、最後に上様へ届ける――それを全部やれば、また同じことが起こりえます」
信長は、そこで満足そうに頷いた。
「よい」
そして勝家と丹羽を見回す。
「聞いたな」
勝家は腕を組んだままだったが、先ほどより露骨な拒絶は薄れていた。
丹羽は最初から冷静だ。
受け入れたわけではないが、“使い道はある”と判断している顔である。
「上様」
勝家が言う。
「この男、気に入る気にはまだなれませぬ」
「構わぬ」
「だが、言うことに理はあります」
その一言は、勝家なりの大きな譲歩だった。
信長が笑う。
「気に入らずとも働けるなら十分よ」
「……は」
丹羽も静かに言う。
「この御方、少なくとも“都の匂い”と“安土の重さ”が食い違うところをよう見ておられる」
「ほう」
「ただし、筋を引くには実際に見て回らせた方がよろしいかと。言葉だけではなく、人の流れ、文の流れ、誰がどこで詰まるか」
信長が頷く。
「うむ。そうする」
そして龍之介を見る。
「龍之介」
「は」
「今日より、おぬしはただの客ではない」
「承知しております」
「ならば、都の話も、寺社の顔も、家中の重さも、いちいち見て拾え。拾って、どこへ筋を引くべきか持ってこい」
龍之介は深く頭を下げた。
「承知つかまつりました」
「よい」
信長はそう言って、ふっと笑う。
「異物は、異物らしく働け」
その言葉に、広間の空気がひとつ定まった。
もう、自分は“本能寺の朝に紛れ込んだ妙な男”ではない。
家中にとって異物でありながら、その異物性ごと役に立てと命じられた。
それは受け入れられたというより、使う前提で危険物保管庫から出された ような気分でもあった。
勝家が立ち上がる。
「では、上様」
「何だ」
「この異物が、どこまで噛まずに働けるか、見せていただきましょう」
言い方は相変わらずだ。
だが最初よりはわずかに棘が減っている。
少なくとも“今ここで追い出せ”の段階は越えたらしい。
丹羽も静かに一礼する。
「私も、しばらく見ておきましょう」
それだけ言う。
だがこの男に「見ておきましょう」と言われるのは、かなり怖い。
静かに見られ、静かに値をつけられるのだから。
勝家と丹羽が去ったあと、広間には再び信長と龍之介だけが残った。
信長は少しだけ楽しそうだった。
「どうだ」
「何がでしょう」
「柴田と丹羽の値踏みよ」
龍之介は正直に言った。
「骨が折れますな」
「そうであろう」
「ですが、お二人とも上様に忠にございます」
「当然だ」
「その忠の形が違うだけで」
「見えておるではないか」
信長は満足そうに言う。
「ならば、次だ。筋を引けと申したな」
「はい」
「何から始める」
龍之介は一瞬だけ考え、それから答えた。
「まずは、人の流れを見ます」
「ほう」
「誰が都の声を受け、誰がそれを安土へ持ち込み、誰が上様へ届け、誰がまた外へ下ろすのか。その一本一本を洗わねば、筋は引けませぬ」
信長は頷いた。
「よい。では始めよ」
短い。
だが、それで十分だった。
本能寺を止めたあとの“後始末”は、ここで本格的な仕事へ変わったのだ。




