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第20話 天下布武、再起動

安土の城内へ足を踏み入れた瞬間、龍之介は本能寺とも都とも違う圧を感じた。


 人の数ではない。

 むしろ声は抑えられ、動きも整っている。

 だが、整っているがゆえに、そこへ通る一本一本の視線がよく分かった。


 見られている。


 当たり前だ。

 得体の知れぬ男が、上様の命で安土へ呼ばれた。

 本能寺で妙な朝があったらしい、その直後に。

 それだけで城中の耳と目がこちらへ向かぬわけがない。


 蘭丸は無駄を言わず、龍之介を導いた。

 影鷹は少し離れたところにいる。

 城に入ってからはさらに影が薄い。便利だが、見えぬとそれはそれで少し不安になる。


 廊を進む。


 安土の造りは、豪壮という言葉だけでは足りなかった。

 見せるための広さがある。

 威を感じさせる高さがある。

 そしてその上で、戦の城としての実用も捨てていない。

 信長という男の趣味、野心、合理、虚栄、その全部が混じって形になった場所だ。


 城の空気そのものが、「ここにいる者は天下の中心にいる」と言っているようだった。


「こちらに」


 蘭丸が言って止まった先は、評定のための広間だった。


 完全な大評定ではない。

 だが小さいとも言えぬ。

 信長が近しく使う重臣たちと、今後の流れを詰めるには十分な広さがある。


 龍之介が通されると、すでに何人かが座していた。


 まず目に入ったのは、大きい男だった。


 身体が大きいだけではない。

 そこに座っているだけで、「武で立ってきた男だ」と分かる。

 飾り気は少なく、だが重い。

 顔立ちには無骨さがあり、表情は厳しい。

 そして、龍之介を見た瞬間、その目が露骨に値踏みへ変わった。


 柴田勝家だと、龍之介は直感した。


 となれば、その少し奥、派手さはないが座り方が静かで、周囲をよく見ている男は丹羽長秀だろう。

 こちらは勝家ほど露骨ではない。

 だが一瞥の中に、「この男をどう位置づけるべきか」を測る冷静さがある。


 ほかにも数名いる。

 名はすぐ出ぬが、皆ただの陪臣ではない。

 安土において、信長が“いまこの場にいてよい”とした者たちだ。


 その中へ、自分が入る。


 異物である。

 誰がどう見ても。


 龍之介は無駄な気負いを出さぬよう、一礼した。


「三上龍之介にございます」


 勝家が、間を置かずに言った。


「聞かぬ名だな」


 いかにも柴田勝家らしい一言だった。


 龍之介は少しだけ口元を和らげる。


「はい。そうでしょうな」


「……ふん」


 勝家は露骨に気に入らぬ顔をした。

 だが龍之介にしてみれば、この手の相手の方がまだ分かりやすい。

 嫌なら嫌と顔に出す。

 その分、裏で笑いながら刺してくる相手よりは楽だ。


 丹羽長秀の方が静かに言う。


「本能寺におられた方、と伺っております」


「その通りにございます」


「そして、上様がこちらへ呼ばれた」


「はい」


 丹羽はそれ以上を言わない。

 だが、“なぜ”は明らかにその目の中にあった。


 そこへ、広間の空気がすっと変わる。


 信長が入ってきた。


 誰かが大声で名乗りを上げるわけでもない。

 だが、その場にいた全員がごく自然に姿勢を正す。

 やはり、この男はただ来るだけで場の軸を取り戻す。


 信長は上座へ着くと、すぐには話を始めなかった。

 全員を一巡り見た。

 勝家も、丹羽も、ほかの者も、そして龍之介も。

 その一巡りだけで、誰が何を抱えているかを量りに来るのが、この男の怖さだ。


「さて」


 信長が言った。


「妙な朝を越えて、妙な顔ぶれが揃うたな」


 広間に微かな緊張が走る。

 “妙な朝”と、信長自身が言った。

 そこにいる者たちは皆、何かを感じている。

 だが、どこまで口にしてよいか分からぬ。

 その微妙な均衡の上へ、信長はわざとそう言葉を置いたのだろう。


 勝家が先に口を開いた。


「上様、本能寺にて何かございましたか」


 直球だ。


 信長は勝家を見た。


「何か、とは」


「明智日向守殿が、朝まだきに本能寺へ急ぎ参られたとか」


「参ったな」


「都筋の込み入った件、とも聞きます」


「そう聞いたか」


 勝家の声は低い。

 だが無礼ではない。

 むしろ“聞くべきことは聞く”という柴田勝家の筋が通っている。


 信長はそこで、あっさりと言った。


「日向が急ぎ言上に来た。それだけだ」


 空気が少し動く。


 勝家は納得していない顔だった。

 丹羽は納得していない顔を隠している。

 ほかの者たちも、それぞれに違和感を呑み込んでいる。


 だが、信長が“それだけだ”と言えば、ひとまず表ではそう受けるしかない。

 この場はそういう場でもある。


「日向守殿は」


 丹羽が静かに問う。


「変わりなく」


「変わりなく働く」


 信長は即答した。


 それが決定だった。

 光秀をここで特別扱いしない。

 それ自体がメッセージになる。


「で」


 信長が、今度は龍之介へ視線を向ける。


「この男だ」


 広間の目が、改めて龍之介へ集まった。


 来る。


 ここからが、本題の一つだ。


「龍之介」


「は」


「皆に申しておけ。おぬしは都筋と武家筋の間を見る者として、しばらく儂の近くで働く」


 言い切った。


 勝家の眉がぴくりと動く。

 丹羽は表情を崩さないが、視線が一段深くなる。

 ほかの者たちも、一様に息を潜めた。


 妙な男を、信長がわざわざ位置づけた。

 つまりこれは気まぐれな客扱いではない。

 “役”を与えられたということだ。


 勝家がすぐに口を開いた。


「上様」


「何だ、柴田」


「そのような役目、家中にも担える者はおりましょう」


 正論だ。

 もっともだ。

 勝家からすれば、どこの誰とも知れぬ男をいきなり近くへ置く理由は薄い。

 しかも都と武家の間を見る役など、家中の信頼できる者へ振るべきだと思って当然だ。


 信長は、だが笑う。


「おるな」


「ならばなぜ」


「家中の者は、家中の理に染まりすぎておる」


 勝家の目が少し細くなる。


「……」


「都を見て、なお武を知り、しかも“変に外から見られる目”が要る」


 信長は続ける。


「今朝のようなことがあった後だ。いつもの顔ぶれだけで固めれば、かえって見えぬものもある」


 丹羽がそこで静かに言った。


「上様、この御方が“変に外から見られる目”である、と」


「そうだ」


 信長ははっきりと言う。


「胡散臭いが、面白い」


 勝家の顔に、露骨な不服が浮かんだ。


「面白い、で済む話にございますか」


「済まぬ」


 信長はあっさり答えた。


「だから“使う”のだ」


 その一言で、広間の空気が少し変わった。


 面白いから置く。

 それだけなら軽い。

 だが“使う”と言い切れば話は違う。

 信長は本気で役目を振っている。

 ならば、周囲もただの道化扱いでは済ませられない。


 龍之介はそこで初めて口を開いた。


「恐れながら」


 勝家の目がこちらへ向く。

 硬い。

 だが逸らすわけにはいかない。


「私は、どなたかの立場を奪いに参ったわけではございませぬ」


「ならば何しに来た」


 勝家の問いは鋭い。


 龍之介は一拍置いてから答えた。


「上様が生きておられる以上、その先を整えるためにございます」


 広間が静まる。


 言いすぎたか、と一瞬だけ思う。

 だが信長の前で縮こまった言葉を置いても意味がない。

 勝家のような相手にはなおさらだ。


「その先、だと」


 勝家が低く言う。


「何を知っておる」


「多くは知りませぬ」


 龍之介は率直に言う。


「ですが、今朝の本能寺が、ただの“無事で済んだ朝”ではないことくらいは」


 勝家は何も言わなかった。

 だがそこで否定しなかった以上、彼もまた何かを感じているのだろう。


 丹羽が静かに龍之介を見ていた。

 この男は、勝家ほど露骨に当たらぬ。

 だが、その分だけ怖い。

 静かに見て、値を測り、あとで一番効くところへ手を入れてくるタイプに見える。


「上様」


 丹羽が言う。


「この御方を置かれるのは結構。ですが、役目の線は明らかにした方がよろしいかと」


「うむ」


 信長は頷いた。


「そこはこれから引く」


 その言い方に、龍之介は少しだけ内心で苦笑した。

 まだ引いていなかったのか、と。


 だがそれも信長らしい。

 先に人を置き、動かし、使いながら線を作る。

 設計図を完璧に書いてから始める男ではない。


「今日は」


 信長が言う。


「今朝の件を踏まえ、これより先の天下の形を見直す」


 その一言が、広間へ重く落ちた。


 見直す。


 本能寺の変を回避した。

 だから元の通り続ける、ではない。

 信長はここで、事態を危機回避ではなく再編の契機として使うと言っているのだ。


「日向の件もそうだ」


 信長は続ける。


「使える者を重く使う。そのこと自体は変えぬ」


 勝家がわずかに顎を引く。

 丹羽は無表情。

 龍之介もまた、信長らしいと思う。


 この男は、自分の速さをやめる気はない。

 そこは第18話ではっきり言った。

 変えるのは速さそのものではなく、速さを支える構造の方なのだ。


「だが」


 信長の目が鋭くなる。


「重く使えば、ただ削れるだけの者も出る。それではつまらぬ」


 その言葉に、龍之介は息を潜めた。


 信長が、こういう言い方をする。

 “可哀想だから手当てする”ではない。

 “折っては面白くない、つまらぬ”という言い方でしか認めない。

 だがそれで十分なのだろう。

 この男の理は、常にそういう形をしている。


「都と安土、寺社と武、働きと名分、その間をどう繋ぐか」


 信長は広間を見回した。


「そこを見直す」


 勝家が低く言う。


「それは、日向守殿のためにございますか」


「日向一人のためではない」


 信長は即答した。


「今朝のことを、ただ日向一人の迷いとして終わらせるなら、いずれ別の形で火が出る」


 その言葉には、鋭い現実感があった。


 勝家もそれ以上はすぐには返さない。

 彼も武の人間だが、愚かではない。

 光秀があそこまで行ったという事実が、ただの個人の乱心で片づかぬことは分かるのだろう。


「上様」


 丹羽が言う。


「となれば、今後の評定や役目の置き方にも手が入りますか」


「入る」


 信長ははっきり言う。


「都筋、寺社筋の捌きはこれまで以上に整理する。日向一人へ寄せすぎぬ。羽柴にも、柴田にも、見せるべきものと見せぬものを分ける」


 その中に、自分の名はまだ出てこない。

 だが龍之介は分かっている。

 自分はその“整理”のための異物として置かれている。


 そこへ、使いの者が一人、広間の外から文を差し出した。

 蘭丸が受け取り、信長へ渡す。


 信長はざっと目を通し、鼻で笑った。


「早いのう」


「何にございますか」


 勝家が問う。


「羽柴よ」


 その名に、広間の空気がまた動く。


 信長は文をひらりと揺らした。


「ご無事を喜ぶ文が来た」


 それは自然なことだ。

 自然なことだが、この場の全員が、その自然さの裏へ何かを見ている。


 龍之介は内心で、来たか、と思った。

 秀吉はもう動いている。


「羽柴らしい」


 丹羽が静かに言う。


「鼻が利く」


 勝家は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 だが否定はしていない。


 信長は文を机へ置いた。


「よい。羽柴もいずれ嗅ぎつけよう。だからこそ、先にこちらの形を固める」


 広間を見回し、言い切る。


「よいか。今朝、本能寺は燃えなんだ。ならば、儂も終わっておらぬ」


 その一言が、場を変えた。


 誰も声を出さない。

 だがその沈黙が、むしろ言葉の重さを増していた。


 本来ならこの朝で終わるはずだった天下人が、こうして安土の広間で“終わっておらぬ”と言う。

 それはただの生存宣言ではない。

 再開宣言だ。


「天下布武は、まだ途上よ」


 信長の目が鋭く光る。


「畿内を抑え、都を押さえ、それで終わりではない。西も、東も、海の向こうも、まだ見るべきものがある」


 勝家の背がわずかに伸びる。

 丹羽の目も深くなる。

 ほかの者たちも、信長の言葉に引き込まれていく。


 龍之介は、その光景を見て胸の奥が少し冷えた。


 やはりそうだ。

 本能寺を止めたということは、この男の未来をもう一度動かしてしまったということなのだ。

 しかも、この場にいる誰もが、その未来へまた巻き込まれていく。


「今朝で終わるはずだったものを、終わらせなんだ」


 信長が続ける。


「ならば、次へ進むだけよ」


 広間の空気は、もはや完全に変わっていた。

 本能寺をどう誤魔化すかの話ではない。

 その先、どう天下を回し直すかの話になっている。


 信長はそこで、龍之介へ視線を向けた。


「龍之介」


「は」


「おぬしも聞いたな」


「はい」


「では、今日よりおぬしは“朝の客人”ではない」


 広間の視線がまた集まる。


「儂の政に噛ませる異物だ」


 勝家の眉が動く。

 丹羽は無表情のまま、だが確実にその言葉を受けた。

 龍之介自身も、その位置づけの剥き出しさに少しだけ息を詰める。


 客人ではない。

 異物。

 そして政に噛ませる。


 つまり信長は、周囲の不信も警戒も承知の上で、自分をそのまま家中へ投げ込んだのだ。


「……上様」


 龍之介は慎重に口を開いた。


「何だ」


「ずいぶん、面倒な役回りを」


「嫌か」


 問いは短い。

 だが軽くはない。


 龍之介は、広間の全員の視線を感じた。

 ここで退けば、それまでだ。

 だが受ければ、本当に後戻りはなくなる。


「嫌ではありませぬ」


 やがて、そう答えた。


「怖くはございますが」


 信長の口元が上がる。


「よい」


「ですが」


「まだ申すか」


「噛ませる以上は、噛み砕かれぬようご配慮を」


 一瞬、勝家が目を見開き、次いで鼻で笑った。

 丹羽の目にも、わずかに面白がる色が差す。


 信長は、はっきりと笑った。


「案ずるな。噛み砕かれるなら、その程度だ」


「配慮になっておりませぬな」


「儂の配慮はいつもその程度よ」


 広間に、微かな笑いの気配が生まれた。

 まだ重い。

 だが、本能寺の朝から続いていた張りつめ方とは違う。

 信長が“先”を口にしたことで、皆の意識がそこへ引っ張られたのだ。


 勝家が低く言う。


「上様」


「何だ」


「ならば、妙な朝は妙な朝として置くしかございますまい」


「そうだ」


「そのうえで、先をどう組み直すか、にございますな」


「ようやく乗ってきたか、柴田」


「乗らぬわけにも参りますまい」


 勝家はそう言って、ちらと龍之介を見た。

 嫌いではある。

 だが、いまは完全に弾くべき時でもないと判断した顔だった。


 丹羽も静かに頷く。


「では、安土と都の役割の引き直しからにございますな」


「うむ」


 信長が言う。


「始めるぞ。天下布武を、もう一度な」


 その言葉に、龍之介は静かに息を呑んだ。


 再起動。


 本来ここで終わるはずだった信長の構想が、もう一度動き出す。

 しかも今度は、本能寺を越えたことを知る信長として。

 光秀を生かし、秀吉に嗅がれ、勝家と丹羽を巻き込み、自分までその中へ押し込んだ状態で。


 これはもう、“本能寺を止めた後日談”ではない。

 完全に別の本編だ。


 龍之介は、広間の上座にいる信長を見た。


 この男は怪物だ。

 本来止まるはずだったところで止まらず、むしろその朝を踏み台にして次の天下を始めようとしている。


 自分は、その怪物を生かしてしまった。


 その実感が、ようやく腹の底へ深く落ちた。

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