第19話 安土へ呼ばれた男
本能寺に静けさが戻った頃、龍之介のところへ来たのは蘭丸だった。
相変わらず足音は薄く、障子の向こうで名を告げる声も抑えられている。
だが短い付き合いでも分かる。
この若い近習が、何でもない使いで来る時と、主命をそのまま運んでくる時とでは、わずかに気配が違う。
「三上殿」
「何だ」
「上様より」
襖を開けて入ってきた蘭丸は、余計な前置きを置かずに言った。
「安土へ来い、とのことにございます」
龍之介は一瞬だけ、言葉を返さなかった。
来たか、と思う。
信長は本能寺を“生き延びた朝”で終わらせるつもりがない。
都の火消しだけで済ませる気もない。
ならば次は安土だ。
あそこは単なる城ではない。
信長が天下へ置こうとした形そのものだ。
都の曖昧さ、公家や寺社の顔、町筋の噂――そうしたものとは別の場所で、信長の理が最も濃く形になっている場所。
そこへ来いと言う。
つまり、本能寺の一件を知る奇妙な客人としてではなく、その先の信長政権の空気を見ろ ということだ。
「いつだ」
龍之介が問うと、蘭丸は即答した。
「早い方がよろしいと」
「ずいぶん大まかだな」
「上様のご命令ですので」
「便利な言葉だ」
「大変便利にございます」
蘭丸はまったく顔色を変えない。
だがその目には、わずかな探りがあった。
龍之介がこの命にどう反応するか、見ているのだろう。
怖じるか。浮かれるか。あるいは余計な条件をつけるか。
「承知した」
龍之介は短く答えた。
「準備いたそう」
蘭丸はほんの少しだけ目を細めた。
意外ではない。
だが“躊躇は見せぬか”と値踏みした顔だ。
「怖くはございませぬか」
不意に、蘭丸がそう言った。
龍之介は少しだけ笑う。
「安土がか」
「それもございます」
「上様の懐へさらに入れと言われて、怖くないわけがない」
その返答に、蘭丸は一拍置いたあと、わずかに頷いた。
「結構」
「褒めたのか」
「まさか」
そう返しつつも、先ほどまでよりほんの少しだけ棘が薄れた気がした。
「支度は最低限でよろしゅうございます。人目を引く大移動ではございませぬので」
「私ひとりか」
「上様のご意向としては、まずは最小限で」
「影鷹は」
「おそらく付くかと」
それを聞いて、龍之介は少しだけ安堵した。
戦国の都にも少しずつ慣れてきたとはいえ、地理も人脈も十分ではない。
影鷹のような“どこにでもいるのに、どこにもいない顔をした男”が一人いるだけで、かなり違う。
蘭丸は用件を終えると一礼し、すぐに出ていった。
やはり余計なことは言わない。
だが龍之介には、その背に“安土でのことはまた別だぞ”という無言の気配があるように思えた。
◇
支度といっても、大げさなものではなかった。
もともと龍之介の立場は、いまだに完全な家中の一角ではない。
信長の側に置かれているとはいえ、固定した屋敷や大所帯を持つわけでもない。
だから荷も少ない。着替えと最低限の文具、刀、少しばかりの銭。
それに、閻魔ちゃんの加護だか悪ふざけだか分からぬ守り袋。
その守り袋を手に取ると、妙なことを思い出す。
病室で死んで、死後に美少女閻魔と出会い、戦国へ来た。
本能寺を止めて、信長に使われ、今度は安土へ向かう。
人は時に、自分の人生が冗談のようだと感じる瞬間があるものだが、いまの龍之介はまさにその只中にあった。
「難儀なお顔で」
いつものように、影鷹がどこからともなく現れた。
「おぬし、本当に障子の隙間から生えてくるようだな」
「便利でしょう」
「慣れぬ」
「慣れてください」
相変わらず食えない。
「聞いておるだろうが、安土だ」
龍之介が言うと、影鷹は頷いた。
「上様らしい」
「そうか?」
「本能寺の一件を、都だけで閉じぬということでございましょう。安土へ連れていくなら、三上殿を“朝の異物”ではなく、“先も見せるに足る者”として試すおつもりかと」
龍之介は、少しだけ唸った。
「やはりそう見えるか」
「見えますとも」
影鷹は平然としている。
「それに、安土を見ておけという意味もありましょう」
「信長の城、か」
「信長の城にして、信長の頭の中の形でもございます」
その言い方は、妙に腑に落ちた。
安土城。
龍之介にとっても、それは歴史の中で特別な場所だ。
単なる城ではない。
権威であり、夢であり、見せびらかしであり、挑発であり、信長という男が“天下人はこうある”と世へ叩きつけた構造物だ。
本能寺が信長の危うさの極まる場所だとすれば、安土はその危うさが最も美しく形になった場所かもしれない。
「会いたくはあった」
龍之介がぽつりとこぼすと、影鷹が目を細めた。
「安土に、でございますか」
「うむ。城というより、あの男があれをどう建てたのかに興味があった」
「やはり変わったお方だ」
「褒めておるのか」
「いえ。感想です」
まったく素直さのない男である。
「だが、怖いな」
龍之介は正直に言った。
「安土へ行くということは、本能寺の一件を抱えたまま、今度は家中の中へ入るということだ」
「そうなりますな」
「都の噂だけでは済まぬ。柴田、丹羽、羽柴、ほかにもおる。皆、妙な男が上様の近くにいると見れば、探るだろう」
「探ります」
「即答だな」
「間違いなく探りますので」
それも当然だった。
戦国の権力中枢に、得体の知れぬ男が急に現れる。
しかも本能寺で何かあったらしい朝の直後に、信長が手元に置いて安土へ連れていく。
怪しまれぬ方がおかしい。
「まあ、そういうものだ」
龍之介は荷をまとめながら呟いた。
「軽く覗いて帰る、というわけにはいかぬな」
「ここまで来て、それを望んでおられたのですか」
「少しは」
「甘うございます」
影鷹の言葉は容赦がなかった。
だが、その通りでもある。
本能寺を止めた。
ならば、その先の信長の天下に触れずに済むはずがない。
怪物を生かした以上、その棲処へも入らねばならないのだ。
◇
安土へ向かう道は、都の空気とは違っていた。
京を出ると、人の密度が少しずつほどけていく。
町筋のざわめき、寺社の鐘、公家屋敷の塀、そうしたものが遠ざかり、代わりに道と土と川と風が前へ出てくる。
荷駄が通る。百姓が行き交う。武士が馬を走らせる。
戦国の道は、人の階が混じり合いながらも、それぞれの身分の匂いを失ってはいない。
龍之介は馬上から周囲を見ていた。
若い身体は馬にもよく馴染む。
現代で嗜んだ程度の経験しかなくとも、転生の際に調整された身体の感覚と、現世で積んだ理屈のおかげか、思っていた以上に不格好ではない。
もちろん、戦国武将のように自在というわけではない。だが少なくとも、“馬上でみっともない”と思われずに済むくらいにはなっていた。
「便利な身体だ」
龍之介が呟くと、横を行く影鷹が言う。
「その便利さで命を拾うこともありましょう」
「だといいが」
「安土では、まず目で拾われます」
「嫌な言い方だな」
「実際その通りかと」
影鷹は前を見たままだ。
「都はまだ、人を曖昧にしてくれます。都筋、公家筋、寺社の口利き、そういう曖昧さで生きられる」
「うむ」
「ですが安土は違う」
「どう違う」
「あそこは、上様の城にございます」
その一言に、妙な重みがあった。
「つまり」
「誰が何を持ち、どの役に立ち、どれほど使えるか――それが都より剥き出しでございます」
なるほど、と龍之介は思う。
都は顔の世界だ。
安土は信長の世界だ。
ならばそこでは、曖昧さよりも、役に立つかどうかがより露骨に見られる。
龍之介は道の先へ目をやった。
まだ安土城は見えない。
だが、近づくほどに空気が少しずつ変わる気がした。
道が整っている。人の流れに張りがある。
物資を運ぶ者の顔も、どこか“あの城へ向かう道”を意識しているように見える。
「信長の城、か」
龍之介が言う。
「いや、信長の夢、でしょうな」
影鷹が返す。
「夢」
「はい。城であり、見世物であり、権威であり、脅しであり、上様が“こういう世にする”と見せつける形にございます」
龍之介は、それを聞きながら胸の内が少し熱くなるのを感じた。
会ってみたかった。
見てみたかった。
安土城を、ただ史料の中の存在としてではなく、いま息をしている権力の姿 として。
そう思う一方で、その場所へ自分が“招かれて”ではなく“試されに行く”のだという現実もある。
「複雑なお顔だ」
影鷹が言う。
「会いたかったものへ会いに行けるのは嬉しい」
「うむ」
「だがその会場が試験場でもある」
「うむ」
「そういうお顔でございます」
「便利だな、おぬしは」
「観察が仕事にございますので」
やがて道の向こう、遠くに、それは見えた。
最初はただの高まりのように思えた。
次に、それが山と人工の線を混ぜた巨大な構造であると分かる。
さらに近づくと、城だと知れる。
安土城。
龍之介は思わず馬上で息を止めた。
大きい。
それは予想していた。
だが、“大きい”という言葉では足りぬ。
山そのものを掴み、そこへ信長の意志を何重にも被せたような姿だった。
天に向かって重なっていく層。
人に見せつけるための高さ。
守るためだけではない、見ろと命じるような構え。
「……ほう」
それしか言えなかった。
龍之介は、城が好きだった。
史跡も、本も、図面も見てきた。
だが目の前のそれは、知識として知っていた安土城よりもっと生々しく、もっと傲慢で、もっと魅惑的だった。
信長がなぜこれを建てたのか。
ひと目見ただけで分かる。
住むためだけではない。
勝つためだけでもない。
世界に対して、自分の大きさを信じさせるため の城なのだ。
「……とんでもないな」
龍之介の呟きに、影鷹が小さく笑う。
「ようやく来た、というお顔で」
「本で見るのと実際では、まるで違う」
「でしょうとも」
「これは、城というより……」
「上様そのもの、に見えますか」
龍之介は、ゆっくり頷いた。
まさにそうだ。
大きく、派手で、理に叶い、そしてどこか危うい。
人を惹きつけるが、近くへ行けば呑み込まれそうでもある。
安土城は、信長の性質をそのまま石と木へ起こしたような城だった。
その時、先触れの兵が前へ走り、こちらの到着を告げに行く。
城下の空気が一段張ったように見えた。
「もう戻れぬな」
龍之介が言うと、影鷹は平然と答えた。
「本能寺の時点で戻れておりませぬ」
「それもそうか」
「ですが、ここから先はさらに“都の客人”では済みませぬ」
「……だろうな」
安土へ入る。
それは信長の政の中心へ、自分が足を入れるということだ。
そしてそこには、おそらくすでに何人かの重臣がいる。
柴田勝家、丹羽長秀、もしかすると書状越しに秀吉の気配もあるかもしれぬ。
皆、妙な男が上様の手元に置かれたと知れば、必ず見る。
笑顔でも、無言でも、目で値踏みする。
龍之介は、安土城を見上げながら胸の内で静かに思う。
本能寺を止めた。
だがその先は、もっと大きい。
この城は、そのことを嫌でも教えてくる。
燃えなかった朝の先にあるのは、小さな安堵ではない。
怪物が生き延びたことで、さらに広がる天下の形そのものだ。
城門が近づく。
兵が道を開ける。
人々の視線がこちらへ集まる。
信長に呼ばれて安土へ入る者を見る目だ。
歓迎ではない。
好奇と、警戒と、値踏みが混じっている。
「三上殿」
影鷹が低く言った。
「何だ」
「最初に会うのが誰であれ、怯えぬことです」
「怯えておるぞ」
「それは胸の内に留めて」
「難しい注文だ」
「安土ゆえ」
龍之介は、少しだけ笑った。
恐ろしい。
だが、同時に胸が高鳴るのも否定できない。
こういう場所を見たかった。
こういう男が作る天下の中心を、この目で確かめたかった。
それがいま、自分の前にある。
城門をくぐる。
空気が変わる。
都の気配はもう遠い。
ここから先は安土だ。
信長の城であり、信長の理がむき出しで息をする場所。
そして、その奥で待つのはきっと、次の問いだ。
龍之介は、息を整えた。
安土へ呼ばれた男として、もう観客ではいられない。




