第17話 光秀、まだ救われてはいない
明智光秀は、その日、誰よりも静かだった。
静かであることと、穏やかであることは違う。
人は時に、あまりに多くを抱えた時、かえって声も荒げず、顔も歪めず、ただ輪郭だけを保つように静かになる。
本能寺を去る光秀の背には、まさにそういう静けさがあった。
龍之介は、その背が本能寺の門を出ていくのを見送ったあとも、しばらくその残像を頭の中で払えずにいた。
助かった。
そう言えば言えるのかもしれない。
謀反は起きなかった。
信長は生きている。
光秀の首も、その場では繋がった。
史実のように、天王山であっけなく終わることもない。
だが、それを“助かった”の一言で片づけるには、あまりにも残ったものが重かった。
「三上殿」
午後に入ってから、蘭丸が短く呼びに来た。
「は」
「上様ではございませぬ」
「では」
「日向守殿にございます」
龍之介は一瞬だけ目を細めた。
「……本能寺へ戻ったか」
「いえ。寺外にて、少しだけお時間を、とのことにございます」
蘭丸の口調は相変わらず平板だったが、その目はわずかに警戒を強めていた。
当然だろう。
今朝、逆臣になりかけた男が、あらためて龍之介に会いたいと言う。
穏やかな話だけで終わると考える方が甘い。
「上様は」
「お許しにございます。ただし、“斬られるような真似をすれば、今度は助けぬ”と」
信長らしい、と龍之介は思った。
許すが庇いはしない。
使うが甘やかさない。
そういう距離感の男なのだ。
「承知した」
蘭丸は頷く。
「こちらも少し離れて見ております」
「それはありがたいような、ありがたくないような」
「どちらでも結構」
若い近習はそう言って、先に立った。
◇
本能寺の外れ、町筋へ出る手前の小さな空き地に光秀はいた。
供は最小限。
それも本当に最小限で、遠巻きに一、二人が気配を消している程度だ。
影鷹のような露骨な忍びの気配ではないが、明智方にもそういう者はいるのだろう。
光秀は木陰に立っていた。
朝に見た時と同じ装い。
だが、同じであって同じではない。
茶室で信長と向き合い、首を繋がれ、本能寺を去り、兵へ何事かを下ろし、それでもなお消えぬものを抱えた顔だった。
「お待たせした」
龍之介が近づくと、光秀は静かに振り向いた。
「いや」
短い返答だった。
だが無愛想ではない。
しばし、二人の間に沈黙が落ちる。
こういう時、下手に気遣った言葉はかえって軽い。
龍之介もまた、すぐには口を開かなかった。
やがて光秀の方が先に言う。
「……救ったつもりか」
その問いは、責めるようでもあり、試すようでもあった。
龍之介は少しだけ苦笑した。
「首が繋がった以上は、そう思いたくなる気持ちはある」
「なるほど。正直だ」
「だが、実際にはそう簡単でもない」
光秀の目が、ほんの少しだけ動いた。
「分かっておるではないか」
「日向守殿がまだ何も片づいておらぬことくらいは」
光秀はそこで、わずかに息を吐いた。
「片づいておらぬ」
その言葉を、彼は口の中で確かめるように繰り返す。
「そうだな。何も片づいておらぬ」
声は低い。
だがその奥には、疲れとも怒りともつかぬ濁りがある。
「私は今朝、上様を討つところまで腹を決めておった」
「うむ」
「兵も動かした。供の者らにも、明言はせずとも気配を読ませた。詰めれば、本能寺は燃えていたやもしれぬ」
「そうだろうな」
「それを、引っ込めた」
光秀は、そこで初めてほんの少しだけ目を伏せた。
「引っ込めて、生き延びた」
その言葉に込められた苦さは、相当なものだった。
討ってしまえば、逆臣として死ぬ。
討たずに退けば、何者とも言い切れぬまま、生きてその朝を抱え続ける。
どちらが楽かと言えば、あるいは前者なのかもしれない。
「日向守殿」
龍之介は静かに言った。
「いま死なずに済んだことを、損だと思うか」
光秀はすぐには答えなかった。
だが、その沈黙自体が答えに近かった。
「損か得かで言えば」
やがて光秀が言う。
「得ではあるまい」
「そうか」
「逆臣として討たれておれば、そこで終わる。筋は通る。家も潰れよう、名も濁ろう、だが少なくとも、自分の中では決着がついたであろう」
「……」
「だがいまは違う。私は何者にもなっておらぬ。忠臣でもなく、逆臣でもなく、ただ謀反に至りかけた腹を抱えたまま、生きておる」
風が吹いた。
六月の風は生ぬるい。
だが、その生ぬるさがかえって人を疲れさせる時もある。
「兵へは何と申された」
龍之介が問うと、光秀は口元を歪めた。
「上様への急ぎ言上と、その警固と、そう申した」
「配下は納得したか」
「納得した顔をしておった」
「しておった、か」
「疑う者もおろう。だが、あの場でそれ以上を問う者はおらぬ」
それはそうだろう。
主君がそう言うなら、表向きは従うしかない。
だが疑いも違和感も消えてはいない。
光秀自身もまた、それを分かっているのだ。
「上様もまた、私を殺さずに働かせると仰せになった」
光秀は淡々と言う。
「ありがたいことであり、残酷なことでもある」
「うむ」
「私は、あの方の前で“承知つかまつりました”と申した。だがその声を出した瞬間、自分でも滑稽でならなんだ」
「なぜだ」
「今朝まで主を討とうとしていた男が、その日のうちに“承知”も何もあるものか」
龍之介は、それにすぐには返さなかった。
滑稽。
たしかに滑稽かもしれない。
だが同時に、人が生きるというのはそういう滑稽さを飲み込んで続くものでもある。
戦国に限らぬ。
昨日まで憎んでいた相手と、今日は肩を並べて働くこともある。
死ぬつもりだった男が、その夜には飯を食って明日の段取りを考えることもある。
人は案外、きれいな筋だけでは生きていない。
「笑えぬか」
光秀が問う。
「いや」
龍之介は首を振った。
「むしろ、死なずにその滑稽さを抱える方が難しい」
光秀は龍之介を見た。
「難しい、か」
「逆臣として討たれれば、一つの筋にはなる」
「そうだな」
「だが、生きてしまったなら、今朝のおのれと、これからの自分と、上様との距離と、配下の視線と、全部を抱えて歩かねばならぬ」
龍之介は静かに続けた。
「そちらの方が、よほど骨が折れる」
光秀はそこで、ふっとかすかに笑った。
笑ったというより、口元が疲れて崩れたような表情だった。
「……おぬし」
「何だ」
「相変わらず、慰める気があるのかないのか分からぬな」
「甘い慰めは、おそらくお気に召すまい」
「当たり前だ」
その返しに、わずかばかり以前の光秀らしい理知が戻る。
ほんの一瞬だが、それがむしろ痛々しくもあった。
「では、どうせよと言う」
光秀が言った。
「生きて片づけよ、とでも申すか」
「申す」
龍之介は迷わず答えた。
光秀の目が細まる。
「簡単に言う」
「簡単ではない。だが、それしかない」
「……」
「日向守殿が今朝抱えたものは、死ねば終わる。だが生きたなら、片づける機会が残る」
龍之介は、光秀をまっすぐ見た。
「上様にぶつけた不満も、家中の歪みも、ご自身の中の怖れも、ぜんぶ生きておれば手を入れられる」
「手を入れる、か」
「逆臣となって死ねば、それは“明智光秀の裏切り”という一枚絵で終わる」
そこまで言って、龍之介は少しだけ息を整えた。
「だが、今朝止まった以上、日向守殿は一枚絵では終われぬ」
光秀の顔から笑いが消える。
「もっと醜く、もっとややこしく、生きたまま責任を負うしかない」
「……ひどいことを言う」
「その通りだ」
「慰めではないな」
「生きる方へ引っ張る言葉だ」
光秀はしばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「私は、上様に認められたかったのやもしれぬ」
龍之介は何も言わず、続きを待つ。
「恐れもした。苛烈さも恨んだ。だが、それでもなお、あの方に“日向、おぬしはようやっておる”と言わせたかったのだろう」
その声には、諦念に似た苦い笑いが混じっていた。
「滑稽だ」
「人は、案外そういうものだ」
「おぬしも、そうか」
龍之介は少しだけ考えた。
「……私は」
信長の顔を思い浮かべる。
あの男に“面白い”と言われた時の、奇妙な熱。
使うと言われた時の重さ。
たしかにそこには、自分を見られたいという俗な欲もあるのかもしれない。
「あるやもしれぬな」
正直にそう答えると、光秀は今度こそわずかに笑った。
「やはり変わった男だ」
「よく言われる」
「だが、おぬしのおかげで、私はいまひどく中途半端な地獄に立っておる」
「それもまた、よく分かる」
「怒らぬのか」
「怒ってもよい。むしろ怒られる筋はある」
光秀は少しだけ首を振った。
「いや。怒っておるのか、感謝しておるのか、自分でもまだ分からぬ」
それが本音だろう。
救われたのか。
邪魔されたのか。
首を繋がれたのか。
死に損ねたのか。
光秀自身、まだどちらとも決めきれない。
「ただ」
光秀が続ける。
「一つだけ、いまはっきり申せる」
「何だ」
「おぬしは、上様に気に入られすぎるな」
龍之介は瞬きをした。
「藪から棒だな」
「藪ではない。かなり近い棒だ」
光秀の声は珍しく、冗談めいていた。
だがその中身は本気だった。
「あの方に“面白い”と思われるのは、最初は結構なことに見える」
「そうだろうな」
「だが、あの方は面白い者ほど近くへ寄せる。近くへ寄せて、重く使う。使いながら、さらに先を見せる。気づけば、こちらの足場の方がなくなっておる」
龍之介は、信長との短い会話を思い返した。
たしかに、あの男はすでに本能寺の火消しだけでなく、その先の秀吉や勝家や都まで見ていた。
人を使う時、仕事を一つ与えて終わりではない。
その先の、そのまた先へと、いつの間にか巻き込んでいく。
「日向守殿の警告として受け取っておこう」
「警告というより、呪詛に近いかもしれぬがな」
「物騒だな」
「事実だ」
光秀の目が、ほんの少しだけ遠くなる。
「私は、あの方の近くにおりすぎた」
「……」
「近くにおる者ほど、あの速さと重さをまともに受ける。だから、気に入られるのもほどほどにせよ」
龍之介は少しだけ苦笑した。
「それは、私にどうこうできる話ではない気もする」
「まことにそうだ」
「なら、せめて踏ん張るしかないな」
「そういうことだ」
そこまで言ってから、光秀はふと真顔に戻った。
「龍之介殿」
「は」
「今朝のこと、私は忘れぬ」
「……うむ」
「おぬしに止められたことも、上様の前で腹を割らされたことも、忘れぬ」
その声音は重い。
恩とも恨みとも決めきれぬ重さだ。
「だからこそ申す。もしこの先、おぬしが上様の御側で何かを動かすなら、軽く思うな」
「承知している」
「本能寺を止めたことより、その先の方がよほど大きい」
「分かっているつもりだ」
「つもりでは足りぬ」
光秀は言い切った。
「あの方が生きておられる限り、天下はもっと大きく、もっと速く動く。止まるはずの怪物を、おぬしはもう一度歩かせたのだ」
その一言は、龍之介の胸の奥へ深く落ちた。
止まるはずの怪物。
たしかにその通りだ。
本能寺で終わるはずだった信長の未来を、自分は生かしてしまった。
良いことばかりではあるまい。
むしろ、ここから先の方がよほど危うい可能性だってある。
「……その言い方は、かなり刺さるな」
龍之介が言うと、光秀は静かに頷いた。
「刺さらねばならぬ」
沈黙が落ちる。
木陰の風はぬるく、遠くで町のざわめきがする。
戦国の昼は、誰か一人の苦しみを待ってはくれない。
どれほど大きな朝を越えようと、腹は減るし、兵は動くし、文は届く。
生きている限り、次が来る。
光秀は、やがて小さく息を吐いた。
「私は戻る」
「兵の元へか」
「うむ。何事もなかった顔でな」
「辛い役目だ」
「だが、生きておる以上はやるしかあるまい」
それは茶室で信長が言ったことでもあり、いま光秀が自分へ言い聞かせていることでもあるのだろう。
「日向守殿」
龍之介は最後に声をかけた。
光秀が足を止める。
「何だ」
「今朝のことを、救いと呼ぶか地獄と呼ぶかは、まだ先でよい」
光秀は何も言わない。
「だが、少なくとも死なずに済んだ以上は、まだ片づける手がある」
「……」
「それを使えるうちは、使った方がよい」
しばしの沈黙のあと、光秀は低く答えた。
「覚えておこう」
それだけ言って、彼は歩き出した。
背筋は伸びている。
だが朝よりも少しだけ重い。
それでも歩く。
逆臣として死ななかった代わりに、今日からは“何者とも言い切れぬ自分”を抱えて生きねばならぬのだ。
龍之介は、その背を見送りながら思う。
光秀は、まだ救われてはいない。
だが、だからこそ生きている意味があるのかもしれない。
◇
本能寺へ戻る道すがら、龍之介はずっと考えていた。
救う。
止める。
変える。
言葉にすればきれいだ。
だが実際には、人はそう簡単に“救われた側”にも“救った側”にも収まらない。
助けられたことが恨みになる時もある。
死ねなかったことが苦しみになる時もある。
それでも生きるしかないという形でしか、歴史が前へ進まぬこともある。
影鷹がどこからともなく現れ、隣へ並んだ。
「いかがでした」
「重い男だった」
「日向守殿にございますか」
「それもある。だが、自分も含めてだ」
影鷹は何も言わず、続きを待つ。
「本能寺を止めた、で済む話ではなかった」
「でしょうな」
「止めた後の方が、よほど重い」
「それもまた、でしょうな」
あまりに平然と言うので、龍之介は少しだけ笑った。
「おぬし、もう少し驚いてくれてもよいのではないか」
「忍びが驚いてばかりでは務まりませぬ」
「便利な言い訳だな」
「便利にできておりますので」
影鷹は少しだけ目を細めた。
「ですが、三上殿」
「何だ」
「いまのお顔は、朝よりだいぶ戦国の顔にございます」
龍之介は足を緩めた。
「どういう顔だ、それは」
「一人救ったと思って喜ぶ顔ではなく、一人救ったせいで十人ぶん考えねばならぬと気づいた顔です」
「……あまり嬉しくない評価だな」
「ですが、上様の近くにおるなら、その方が向いております」
本能寺の屋根が見えてくる。
静かだ。
だが、その静けさの中で、もう次の処理は始まっている。
光秀はまだ救われていない。
自分もまた、褒美などもらってはいない。
ただ、先へ進むしかないところに押し出された。
そしてその先には、信長がいて、秀吉がいて、まだ見ぬ大きな波が待っている。
龍之介は、本能寺を見上げた。
燃えなかった寺。
だがここから先、もっと大きなものが燃え始めるかもしれない。




