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第16話 羽柴秀吉、首をかしげる

中国筋の空気は、京とは違う。


 山が深く、土は赤く、風の匂いには汗と鉄と濡れた草が混じる。

 軍勢が動けばそのまま空気が重くなり、陣中で焚かれる火の煙さえ、京のそれよりずっと生々しい。

 人が生きるために働き、人を殺すために備える匂いが近いのだ。


 羽柴秀吉は、その朝も陣所の外へ出るなり、まず空を見た。


 青い。

 雲の流れは穏やかだ。

 天気だけなら悪くない。


 だが、秀吉は昔から知っている。

 空が穏やかな日ほど、人は足元の地獄を見落とす。


「殿」


 家臣が一人、膝をついて文を差し出す。


「京筋より、早馬」


「朝から忙しいのう」


 秀吉はそう言いながら文を受け取った。

 顔は笑っている。

 だが目は笑っていない。


 封を切る。

 筆跡は急いでいるが、乱れてはいない。

 それだけで、書いた者がただ慌てただけではなく、“急ぎでありながらも見られることを意識している”と分かる。


 読み進めた秀吉は、途中でふと眉を動かした。


「……ほう」


 それだけ言って、文を閉じる。


「殿?」


「いやなに」


 秀吉は軽く首を鳴らすように傾げた。


「妙な文じゃと思うてな」


 家臣は黙って次を待つ。

 この男のこういう時は、余計な口を挟まぬ方がよいと知っているのだろう。


 秀吉は、もう一度文を開いた。


 書かれていたのは、ごく表向きの報せだった。


 明智日向守、朝まだきに本能寺へ急ぎの言上に参る。都筋の込み入った件につき、上様と差しにての話あり。大事なし。


 それだけだ。


 それだけなのだが――秀吉はそこで、妙に鼻の奥がむず痒くなるのを覚えた。


「大事なし、か」


 呟く。


 大事なし。

 そうわざわざ書く時は、大事があったか、大事になりかけたか、そのどちらかだ。


 秀吉はそういう文を何度も見てきた。

 戦場でも、城下でも、都でも、人は本当に何もない時ほど“何もない”とはいちいち書かぬ。

 むしろ“何かありましたが、いまは何もありませんという形にしております”という時に、この種の文は生まれる。


「殿、何かございましたか」


 家臣がようやく問う。


「あるようで、ないようで、ないようで、あるのう」


「は」


「本能寺じゃよ」


 秀吉は文をひらひらと揺らした。


「明智が朝まだきに本能寺へ行ったとある」


「それは、急ぎの軍議か何かにございましょうか」


「かもしれぬ」


 秀吉はにこりと笑う。


「かもしれぬが、それだけなら“わざわざ”こうは書かぬ」


 家臣は沈黙した。

 この男の勘の鋭さを知っている者は、そこで軽々しく異論を挟まない。


「上様はご無事、とあります」


「そこがまた妙じゃ」


 秀吉は言う。


「上様がご無事であることを、誰が喜ばぬか。わしとて嬉しいとも。だが、なぜ“ご無事”と書く必要がある」


「……」


「日向が本能寺へ行った。それだけなら、“上様にお目通りあり”で足りる。そこへ“ご無事”だの“大事なし”だのが乗るのは、つまり無事であることそのものが文の芯になっておるということじゃ」


 家臣の顔色が少し変わる。


「まさか……」


「まさか、と思うじゃろう?」


 秀吉はそこで笑みを消した。


「だが、人は“まさか”の時ほど、先に丸めた言葉をよこす」


 陣中の空気が、わずかに張る。


 周囲には兵もおり、物資も運ばれ、誰かが叫ぶ声もする。

 中国筋の戦は止まっておらぬ。

 だが秀吉の頭の中では、いまこの瞬間、戦場の地図よりも京の本能寺の朝が大きくなっていた。


 明智光秀。

 都に強く、理を操り、人の顔色と公家の機微を読む男。

 その光秀が朝まだきに本能寺へ向かった。

 しかも“込み入った件”として処理されている。


 臭わぬはずがない。


「殿」


 別の家臣が、少し遅れて新たな文を持ってきた。


「寺社筋より」


「見せよ」


 秀吉は受け取り、ざっと目を走らせた。


 こちらはもっと曖昧だった。

 今朝、本能寺にて明智日向守入寺。都の細事につき、何事か差しにての話ありし由。

 それだけである。


 だが、だからこそ秀吉は確信を深めた。


 文言が揃いすぎている。

 違う筋から来たはずの報せが、妙に同じ方向を向いている。

 これは自然発生した噂ではない。

 誰かが先に“そういうことだった形”を流している。


「ほう……」


 秀吉は、今度は本気で感心したように息を漏らした。


「これは、誰ぞが先に器を置いたのう」


「器、と申されますと」


「本能寺で何かあった。だが中身は見せぬ。代わりに“都の込み入った話”“急ぎ言上”“大事なし”という器だけを先に配っておる」


 秀吉は文をたたきながら続ける。


「これは、ただの火消しではない。火の跡を消しておるのではなく、“最初からこういう朝だったことにする”という処理じゃ」


 家臣たちの顔つきが変わる。


 彼らにはまだ全貌は見えていない。

 だが少なくとも、主君が“何かとんでもないことが京で起きかけた”と嗅ぎ取ったのは分かったのだろう。


「日向守殿が、何かをなさいましたか」


 若い家臣が慎重に問う。


 秀吉はすぐには答えなかった。

 そして答えぬまま、空を見る。


 本能寺。

 明智光秀。

 上様は生きている。

 にもかかわらず、“ご無事”“大事なし”とわざわざ触れられている。

 これはほとんど、答えの輪郭だけが残っているようなものだ。


「日向が、何かをしたか」


 秀吉はゆっくりと言った。


「あるいは、何かをするところまで行って、引っ込めたか」


 その一言で、周囲の空気がさらに張る。


 家臣たちも愚かではない。

 いまの言葉が意味する先は、そう多くない。


「……殿、まさか」


「まさか、じゃ」


 秀吉は笑う。

 だがその笑いは軽くない。


「じゃが、まさかの匂いがする」


 明智光秀が、本能寺で、朝まだきに、急ぎの言上。

 それだけで十分に怪しい。

 そしてその怪しさの上へ、妙に整った文言が被せられている。


 これはつまり――何か大きなことが起こる寸前で、起こらなかった と見るのが自然だった。


 秀吉の胸の奥で、ぞわりとしたものが走る。


 本能寺の変。

 そんな言葉はまだ、この世界の誰も知らない。

 だが、もしも今朝、明智が本能寺で刃を向けていたなら。


 もしもそれが途中で止まったのだとしたら。


 もしも上様が生きておられるその朝を、誰かが先に“そういう朝だった”ことにして回っているのだとしたら。


「……誰じゃ」


 秀吉は、誰へともなく呟いた。


 明智光秀一人では、こういう火消しの器は作れぬ。

 いや、作れぬことはないが、あの男ならもっと硬く、もっと理で押し切る形になるはずだ。

 今回のこれは、理もある。だが同時に“人が飲み込みやすい嘘ではない嘘”になっている。


 そこに、明智光秀とは別の手触りを感じた。


「殿?」


 家臣が不安そうに問う。


「いや」


 秀吉はようやく視線を戻す。


「日向の後ろに、誰かおる」


「誰か、にございますか」


「そうじゃ。上様でもなく、日向でもなく、もうひとり。場を整えるのがうまい者がおる」


 それは確信ではない。

 だが、ほとんど確信に近い勘だった。


 文言の置き方。

 噂の流し方。

 “何かあった”を“何かあったらしい朝”へ作り替える手つき。

 それはただの慌てた火消しではない。

 相手の心の流れまで見た処理だ。


「面白いのう」


 秀吉はそう言った。


 家臣たちは、その“面白い”がどちらの意味か測りかねて、口を閉ざす。


 もちろん、上様が生きておられるのは喜ぶべきことだ。

 それに異論はない。

 だが同時に、もし本能寺で何かが起こりかけたのなら、それは自分の将来にとって決定的な分岐でもあったはずだ。


 秀吉はそこまでを明確な言葉にはしない。

 だが胸の奥では、確かに何かが音を立てている。


 本来なら上様が死に、自分の才覚で一気に天下の中心へ躍り出たかもしれぬ朝。

 その可能性は、今朝、どこかで潰えたのかもしれない。


 それを潰したのは明智か。

 上様か。

 それとも、その背後にいる“誰か”か。


 秀吉は笑みを浮かべた。


 笑みである。

 だが喜びの笑みではない。

 獲物の足跡を見つけた狐のような、細くて冷たい笑みだった。


「殿」


 家臣の一人が恐る恐る問う。


「いかがなさいます」


「何をじゃ」


「京へ、何か」


「むろん何かする」


 秀吉は文をたたみ、袖へ入れた。


「ただし、慌ててはならぬ。いま大きく動けば、こちらが“何かあったと確信しておる”と知らせるようなものじゃ」


「では」


「耳を増やす」


 秀吉の返答は速かった。


「本能寺にいた者、都筋、寺社筋、日向の近辺。どこでもよい。今日の朝を“妙だ”と思った者の舌を拾え」


「承知」


「それから」


 秀吉は少しだけ考えて続ける。


「“急ぎ言上”という器を誰が置いたかを見よ」


 家臣が首を傾げる。


「器、にございますか」


「そうじゃ。こういう噂は自然には揃わぬ。誰かが先に流れを作った。日向の配下か、上様の近習か、都筋の誰かか。そこを見つける」


 秀吉の声は穏やかだった。

 だがその穏やかさの下にある執念は、家臣たちにも伝わったのだろう。

 皆、顔を引き締めて「は」と頭を下げる。


「それと」


 秀吉は軽く指を振った。


「上様へは、まずはご無事を喜ぶ文を出す」


「それだけでよろしいので」


「よい。今はそれでよい」


 秀吉はにっこり笑った。


「ここで妙に探る文を送れば、こちらの鼻が利きすぎるのを上様に知られる。わしは、まだそこまであからさまにはせぬ」


「承知」


「日向へは」


 秀吉はそこまで言って、一瞬止まる。


「……今はまだ送らぬ」


「送らぬので」


「日向は今、たぶん一番顔を作るのに必死じゃ。そこへわしから文をやれば、向こうもまた理屈を厚くする。いま欲しいのは、作った顔ではなく、こぼれた本音よ」


 その判断の速さに、家臣たちが小さく息を呑む。


 やはり秀吉という男は、ただ賢いだけではない。

 人がどの瞬間に最も脆くなるかをよく知っている。


 上様のご機嫌取りも、人たらしも、城攻めも、こういうところから来ているのだろう。


「殿」


 年嵩の家臣が静かに言う。


「上様がご無事なら、まずはめでたきことにございます」


「もちろんじゃ」


 秀吉はにこやかに頷く。


「それはまこと、ありがたいことよ」


 その言葉に偽りはない。

 秀吉は信長の才を知っている。

 生きていてくれる方が大きな戦も動きやすい。

 だが同時に、信長が死んでいたなら自分の時代が早まったかもしれぬという計算が、一片もないとは言い切れない。


 その両方がこの男の中にある。

 忠も、打算も、野心も、どれか一つではなく全部ある。

 だから怖い。


「じゃがの」


 秀吉は空を見たまま言う。


「本能寺で何かが起こりかけて、しかも誰かがそれを綺麗に包んだのなら、そやつは放っておけぬ」


「なぜに」


「上様の近くへ、また一人“面白い者”が入り込んだということじゃ」


 その言い方は軽い。

 だが実際にはかなり重い意味を持っていた。


 信長の近くにいる者が増える。

 しかもただの家臣ではなく、場を整え、火を消し、言葉の器を置ける者。

 そんな者がいるなら、今後の政にも軍にも、人の配置にも確実に響く。


 秀吉は、ふっと笑った。


「誰か知らぬが、面白いのう」


 家臣たちは、その言葉の裏を読むまでもなく頭を垂れた。


 秀吉が“面白い”と言う時は、興味と警戒が同時に走っている時だ。

 そしてこの男が興味を持った相手は、だいたい碌な目に遭わぬ。


「わしも、会うてみたくなったわ」


 その一言が、陣中の空気を静かに冷やした。


     ◇


 本能寺では、昼へ向けてなお静けさが保たれていた。


 だがその静けさの外側で、もう動き始めている者がいる。

 龍之介はまだそのことを知らない。

 信長も蘭丸も、秀吉がどこまで嗅ぎつけたかまでは、まだ読めぬ。


 それでも、天下のどこかで羽柴秀吉が首をかしげた。


 その事実だけで、歴史はまた一段、別の方向へ動き始めていた。

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