第15話 なかったはずの火を、どう隠すか
火は出なかった。
だが、煙は残る。
龍之介は部屋へ通されてほどなく、そのことをいやというほど思い知らされた。
本能寺の廊下を走る足音は相変わらず抑えられている。
大声も上がらない。
誰も騒がない。
それでも、寺の空気は明らかに“普段通り”ではなかった。
障子越しに見える影が多い。
近習がすれ違う回数が増えている。
使いの者が短い文を運び、廊下の端で受け取る者は中身をその場で開かず懐へ入れる。
まるで誰もが「何も起きていない顔」をしながら、同時に「何かが起きかけた」ことを知っているようだった。
それが今朝の本能寺だった。
龍之介は机へ向かった。
蘭丸が最低限の筆と紙を置いていったのだ。
信長の無茶ぶり――日向をどう見せるか、秀吉へどう渡すか、都へ何を流すか――に応えるつもりなら、考えを文字へ落とす必要がある。
だが、いざ筆を手にすると、最初の一行がひどく重い。
何と書く。
本能寺で謀反が起きかけましたが、未遂に終わりました。
そんなことを正直に書けるはずがない。
では、何もありませんでした。
それもまた違う。
戦国の政治とは、事実そのものではなく、事実がどう置かれるか で決まるところがある。
起きたことを消すのではない。
起きたことへ、別の形を与える。
その“形”を誰が先に握るかで、後の流れはかなり変わる。
「難儀な」
龍之介が呟いたところで、障子の外から控えめな声がした。
「お取り込み中にございますか」
影鷹だった。
「入れ」
声をかけると、影鷹は音も薄く入ってきた。
相変わらず、忍びというのは人の部屋に入ってきても“入ってきた感じ”がしない。便利だが落ち着かぬ。
「上様より、三上殿のご意見を先に聞けとのこと」
「もうか」
「もう、にございます」
影鷹は少しだけ口元を緩める。
「本能寺が燃えなかった以上、次は“なぜ燃えなかったか”ではなく、“何があったことにするか”を先に押さえねばなりませぬ」
「まったくその通りだ」
「皆、待っておりますよ」
「嫌な待たれ方だな」
「それだけ、三上殿が妙な位置へ入ったということかと」
嫌でも実感する。
今朝まで自分は、歴史へ割って入るだけの男だった。
だがいまは、信長の近くで“起きなかった大事の後始末”に意見を求められる立場にいる。
滑稽で、重く、そしてたぶんかなり危うい。
「よし」
龍之介は筆を置いた。
「口で話した方が早い。上様はどこだ」
「まだ寺内にございます。日向守殿へ向ける表の言葉と、近習どもへの内々の指示を分けておられます」
「忙しいな」
「平時でも忙しゅうございます。まして今日は」
それもそうだ。
信長にとって今日の朝は、本来なら死ぬはずだった朝かもしれない。
その危機を凌いだ直後に、怒る間もなく次の処理へ移っているのだ。
怪物じみているが、天下人とはそういうものなのかもしれない。
◇
通されたのは先ほどの部屋ではなく、やや開けた座敷だった。
信長はそこにおり、蘭丸も控えている。
茶室ほどの密度ではないが、それでも気を抜ける空気ではない。
机上にはすでにいくつか文が置かれ、何本かの筆が使い分けられている。
信長は、まるで先ほどまで本能寺で腹を割る話をしていたのが嘘のように、すでに次の盤を指している顔をしていた。
「来たか」
「は」
「で、何と見る」
前置きがない。
いかにも信長らしい。
龍之介は一礼し、まず結論から申した。
「“何もなかった”では、かえって疑われます」
信長が頷く。
「うむ」
「ですが、“大事がありました”と認めるわけにもいきませぬ」
「うむ」
「ゆえに、日向守殿が急ぎの言上に来たこと自体は隠さぬ のがよろしいかと」
蘭丸の目がわずかに動いた。
彼もそこは同意見なのだろう。
「続きを申せ」
信長が言う。
「本能寺へ参ったのは事実。供回りが多かったのも事実。ならばそこを無理に隠せば、見た者ほど臭うと感じます」
「その通りだ」
「ですので、“都筋に不穏あり。日向守殿が警固を厚くして急ぎ言上に参られた”――まずはその形で押し通すのがよろしいかと」
信長は黙って聞いている。
龍之介は続けた。
「ただし、“不穏”の中身は曖昧に」
「なぜだ」
「具体にすると、その具体が独り歩きいたします。寺社か、公家か、将軍家か、あるいは外様か。名を置けば、その名ごとに敵も味方も勘ぐり始めます」
蘭丸がそこで口を開いた。
「では、曖昧なまま押し切ると?」
「はい。都絡みの機微は、外へ漏らせぬこともある――その理屈は、この時代ではむしろ自然かと」
信長が小さく笑う。
「なるほど。曖昧さを、都の力で正当化するわけだな」
「戦国において、曖昧さは時に武器にございます」
「おぬし、やはり奉行向きだな」
「現場向きにございます」
「しつこい男よ」
だが、その声音は悪くない。
少なくとも、見当違いとは思っていないらしい。
「では日向の兵はどうする」
信長が問う。
「動きが妙であったことは、見た者には見えておろう」
そこだ、と龍之介は思った。
「兵の位置は、“上様の警固”に転じたと見せるしかございませぬ」
「ほう」
「本能寺へ参る以上、日向守殿が自らの身だけでなく上様の御身にも万一を考え、兵を慎重に置いた――そういう形に」
蘭丸が少し眉を寄せた。
「少々無理がございませぬか」
「ございます」
龍之介は即答した。
蘭丸の目が一瞬だけ見開かれる。
「……あるのか」
「ございます。ですが、無理のない話を作るのではなく、一番飲み込みやすい無理を置く のが肝要かと」
信長の目が、面白そうに細くなった。
「一番飲み込みやすい無理、か」
「はい。完全な真実は広げられませぬ。ならば、完全な嘘でもなく、見た者が“まあ、そういうこともあるか”と飲み込める線で止めるべきです」
龍之介はそこで、さらに言葉を足す。
「日向守殿ほどの御方が、何もなく本能寺へ大人数で押しかけたとなれば臭う。だが“都の不穏に備え、つい兵を厚くした”なら、やりすぎとは見られても、まだ筋は通る」
「やりすぎ、か」
「はい。そこは少しやりすぎでよいかと」
「なぜだ」
「日向守殿のお立場が立つからにございます」
信長の目が少しだけ鋭くなる。
「申せ」
「今朝のことを、ただ“妙な動きでした”で終わらせれば、日向守殿の配下は不安を深めます。何のために動いたのか、主君は何をしたのか、それが曖昧すぎるからです」
「うむ」
「ですが“上様への急ぎ言上にて、警固を過分にした”なら、配下は不満を抱いてもまだ従う理屈があります。日向守殿の面目も、辛うじて保てる」
蘭丸は黙った。
不服そうではある。
だが理は分かるという顔だった。
信長は、そこで初めてはっきり頷いた。
「よい」
「ありがたく」
「では、日向にはその形で自分の兵へ下ろさせるか」
「はい。できれば、日向守殿ご自身の口から」
「なぜだ」
「誰かが整えた言葉ではなく、ご自身の口から“今朝の動きは上様への急ぎ言上とその警固であった”と言わせねば、配下はもっと疑います」
信長は小さく鼻を鳴らした。
「日向には苦い役目だな」
「生きて続けるとは、そういうことかと」
その言葉に、信長は少しだけ口元を動かした。
笑いとも、感心ともつかぬ表情だった。
「蘭丸」
「は」
「日向に伝えよ。今朝のことは、警固を厚くした急ぎ言上とせよ。中身は“都筋ゆえ詳細は伏す”で押せ」
「御意」
蘭丸は一礼したが、すぐには下がらなかった。
「上様」
「何だ」
「妙な勘繰りをする者が、近習の中にもおりましょう」
「おるだろうな」
「どう抑えますか」
信長は、そこで少し考えた。
龍之介は、その短い沈黙の中に、この男がすでに先の先まで見ている気配を感じた。
「抑えぬ」
信長はあっさり言った。
蘭丸がわずかに顔を上げる。
「申されますと」
「疑う者は疑えばよい。だが形が先に固まっておれば、それ以上は動けぬ」
龍之介は内心で、やはりこの男は強いと思った。
隠し切るのではない。
むしろ疑いが残ることまで織り込んで、それでも動けぬよう形を先に打つ。
力のある者の政治だ。
「ただし」
信長が続ける。
「日向を必要以上に嗅ぎ回る者がおれば、儂が鬱陶しい」
「御意」
「今朝の件はそこで終わりだ。終わらぬと思う者がいても、終わったことにする」
その言葉は、命令というより、現実を固定する宣言だった。
戦国では、こういう言葉を言い切れる者が強い。
だが、龍之介には分かっていた。
この“終わったことにする”は、寺の内側であって、天下全体ではない。
「上様」
「何だ」
「問題は、羽柴殿にございます」
蘭丸が一瞬だけ視線を動かした。
やはり、ここだ。
信長は頷く。
「申せ」
「羽柴殿ほどの御方なら、今朝の空気を嗅ぎつけます。たとえ現場におらずとも、明智勢の動き、本能寺での不自然な沈黙、そこから“何かがあった”と見るやもしれませぬ」
「見るだろうな」
「ですが、そこで先に“急ぎ言上の朝であった”という形が都側からも流れていれば、羽柴殿も飛びつきにくうなります」
信長が目を細める。
「都側から、か」
「はい。寺の中だけで固めるのでは足りませぬ。外へ出た時に、“本能寺で何かあったらしい”ではなく、“今朝、明智日向守殿が急ぎ言上に参られたらしい”という噂が先に走るように」
「なるほど」
「その際、“何を申したか”は濁す。ですが“何かあった”の中身だけを嗅がせぬよう、先に器だけ置く」
蘭丸が、そこでようやく口を開いた。
「都の町筋へ、自然に流す必要がございますな」
「はい。露骨に触れ回れば逆効果です。ですが本能寺に出入りする者、寺社筋、公家筋、その辺りに“急ぎ言上であったらしい”がふわりと乗れば、十分にございます」
信長はしばらく無言で考えていた。
やがて、庭へ目をやったまま言う。
「おぬし、火消しがうまいな」
「火が出なかったからこそ、かもしれませぬ」
「出た後より、出る前の方が面倒だぞ」
「まったく」
龍之介も同感だった。
火が出れば、まだ敵味方が明確になる。
だが今朝のように、火が出なかったことで“何かありそうだった気配”だけが残る方が、むしろ後始末は難しい。
消すべき実体がなく、疑いと勘だけが宙を漂うからだ。
「蘭丸」
信長が言う。
「寺社筋と都側へは、“日向が急ぎ言上に来た”までを流せ。余計な尾鰭は削げ」
「御意」
「ただし、誰が流したかは見せるな」
「承知」
蘭丸は一礼して下がった。
部屋に残ったのは、再び信長と龍之介だけになる。
少しの静けさが落ちた。
外では本能寺の日常が続いているようでいて、その実、いまこの瞬間も寺の中と外とで“今朝をどういう朝だったことにするか”が組み上がり始めている。
信長がぽつりと言う。
「日向は助かったと思うか」
唐突な問いに、龍之介は少しだけ考えた。
「首は繋がりました」
「そうだな」
「ですが、助かったとはまだ申せませぬ」
信長の目が、ちらりとこちらを向く。
「なぜだ」
「生きて続ける方が、今朝のあの方には辛うございます」
「……」
「ご自身が何をしかけ、何を引っ込めたか。それを抱えたまま配下へ顔を見せ、今まで通り働き、上様へも仕えねばならぬ」
信長は、その言葉を黙って受けた。
「しかも、今朝のことは表では“何もなかった顔”で通る。苦しみを苦しみとして表へ出せぬまま、内へ抱え込む形になります」
「それで潰れるか」
「潰れるかもしれませぬ」
「ならば、どうする」
信長はすぐに次を問う。
この男は本当に、思考を止めない。
「働かせることです」
龍之介は言った。
「ほう」
「ですが、今まで通りに重く使うだけではまた同じことになります。仕事はさせる。責も持たせる。ですが、少なくとも“何のためにその役を負わせるのか”を少し下ろすべきかと」
信長の口元が僅かに動く。
「日向も、そう申しておったな」
「上様の言葉が足りぬと」
「面倒な」
「面倒にございます」
信長は鼻で笑った。
「だが、そうかもしれぬな」
その一言は軽い。
だが、信長という男がそれを口にするのは決して軽くない。
「では」
彼は改めて龍之介を見た。
「日向の件は、形を先に固める。都へもその形を流す。秀吉には、勘は持たせても証は持たせぬ」
「はい」
「そのために、おぬしはしばらく儂の近くで働け」
龍之介は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「よい」
信長はそこでふっと笑った。
「本能寺を止めた褒美が、火消しとは因果なものよな」
龍之介も苦笑した。
「まことに」
「だが、それもまた面白い」
「上様は、何でも面白がりすぎにございます」
「そうでなければ天下など取れぬ」
まったく返す言葉がない。
それがこの男の強さであり、危うさでもあるのだろう。
◇
部屋を辞したあと、龍之介はしばらく廊下を歩きながら考えていた。
本能寺は燃えなかった。
その事実を“どう隠すか”を考えることになるとは、つい昨夜の自分は思ってもみなかった。
だが、いまははっきり分かる。
戦国において、真実は一つでも、語られる形は一つではない。
そしてその形を先に握る者が、次の流れを握る。
これは嘘ではない。
だが真実そのままでもない。
戦国の政治とは、そういう曖昧さの上に立っている。
「難しい顔をなさっておりますな」
影鷹が、またいつの間にか並んでいた。
「おぬし、本当に壁から生えてくるように現れるな」
「便利でしょう」
「便利だが心臓に悪い」
「慣れてください」
龍之介は鼻を鳴らし、それから小さく息を吐いた。
「上様は、もう次を見ておられる」
「でしょうな」
「本能寺をどう収めるか、その先に羽柴殿をどう見るか」
「左様にございます」
「怖い男だ」
「いまさら」
「いまさらだが、改めてだ」
影鷹は少しだけ笑った。
「で、どうなさいます」
「何をだ」
「本能寺の後始末をなさるのか、それとも歴史を変えた責任に青くなって逃げたくなるのか」
「嫌な二択だな」
「ですが、どちらかです」
龍之介は少し黙り、それから言った。
「逃げたくは、少しある」
「正直で結構」
「だが、ここで逃げれば本当に本能寺を止めた意味がなくなる」
「その通り」
「ならば、やるしかあるまい」
影鷹は頷いた。
「ようやく腹が据わってまいりましたな」
「まだ半分だ」
「半分据われば、戦国では上等でございます」
たしかに、そのくらいかもしれない。
本能寺は終わった。
いや、本能寺が“終わらなかった”ことが終わった、と言うべきか。
そして次は、京の外へ広がる不穏をどう扱うか。
龍之介は本能寺の空を見上げた。
陽はもう高くなりつつある。
時間は進む。
歴史も進む。
しかも今度は、史実のレールから外れたまま。
その時、廊下の向こうから使いの者が駆けてきた。
足音は抑えているが、急ぎであるのは分かる。
影鷹がすっと半歩前へ出て、その者の言葉を受けた。
「どうした」
小声で問うと、使いの者も声を潜める。
「中国筋より、早馬の報せ」
その一言で、龍之介の胸がひとつ強く鳴った。
影鷹がこちらを見た。
「……来ましたな」
「ああ」
羽柴秀吉だ。
本能寺が起きなかった世界で、最初に違和感を嗅ぎつける男。
あるいは、本来ならそこで一気に時代を掴んでいたかもしれぬ男。
火は出なかった。
だが煙を嗅ぐ者は、もう動き始めている。




