表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/46

第15話 なかったはずの火を、どう隠すか

火は出なかった。


 だが、煙は残る。


 龍之介は部屋へ通されてほどなく、そのことをいやというほど思い知らされた。


 本能寺の廊下を走る足音は相変わらず抑えられている。

 大声も上がらない。

 誰も騒がない。

 それでも、寺の空気は明らかに“普段通り”ではなかった。


 障子越しに見える影が多い。

 近習がすれ違う回数が増えている。

 使いの者が短い文を運び、廊下の端で受け取る者は中身をその場で開かず懐へ入れる。

 まるで誰もが「何も起きていない顔」をしながら、同時に「何かが起きかけた」ことを知っているようだった。


 それが今朝の本能寺だった。


 龍之介は机へ向かった。

 蘭丸が最低限の筆と紙を置いていったのだ。

 信長の無茶ぶり――日向をどう見せるか、秀吉へどう渡すか、都へ何を流すか――に応えるつもりなら、考えを文字へ落とす必要がある。


 だが、いざ筆を手にすると、最初の一行がひどく重い。


 何と書く。


 本能寺で謀反が起きかけましたが、未遂に終わりました。

 そんなことを正直に書けるはずがない。


 では、何もありませんでした。

 それもまた違う。


 戦国の政治とは、事実そのものではなく、事実がどう置かれるか で決まるところがある。

 起きたことを消すのではない。

 起きたことへ、別の形を与える。

 その“形”を誰が先に握るかで、後の流れはかなり変わる。


「難儀な」


 龍之介が呟いたところで、障子の外から控えめな声がした。


「お取り込み中にございますか」


 影鷹だった。


「入れ」


 声をかけると、影鷹は音も薄く入ってきた。

 相変わらず、忍びというのは人の部屋に入ってきても“入ってきた感じ”がしない。便利だが落ち着かぬ。


「上様より、三上殿のご意見を先に聞けとのこと」


「もうか」


「もう、にございます」


 影鷹は少しだけ口元を緩める。


「本能寺が燃えなかった以上、次は“なぜ燃えなかったか”ではなく、“何があったことにするか”を先に押さえねばなりませぬ」


「まったくその通りだ」


「皆、待っておりますよ」


「嫌な待たれ方だな」


「それだけ、三上殿が妙な位置へ入ったということかと」


 嫌でも実感する。


 今朝まで自分は、歴史へ割って入るだけの男だった。

 だがいまは、信長の近くで“起きなかった大事の後始末”に意見を求められる立場にいる。

 滑稽で、重く、そしてたぶんかなり危うい。


「よし」


 龍之介は筆を置いた。


「口で話した方が早い。上様はどこだ」


「まだ寺内にございます。日向守殿へ向ける表の言葉と、近習どもへの内々の指示を分けておられます」


「忙しいな」


「平時でも忙しゅうございます。まして今日は」


 それもそうだ。


 信長にとって今日の朝は、本来なら死ぬはずだった朝かもしれない。

 その危機を凌いだ直後に、怒る間もなく次の処理へ移っているのだ。

 怪物じみているが、天下人とはそういうものなのかもしれない。


     ◇


 通されたのは先ほどの部屋ではなく、やや開けた座敷だった。


 信長はそこにおり、蘭丸も控えている。

 茶室ほどの密度ではないが、それでも気を抜ける空気ではない。

 机上にはすでにいくつか文が置かれ、何本かの筆が使い分けられている。

 信長は、まるで先ほどまで本能寺で腹を割る話をしていたのが嘘のように、すでに次の盤を指している顔をしていた。


「来たか」


「は」


「で、何と見る」


 前置きがない。

 いかにも信長らしい。


 龍之介は一礼し、まず結論から申した。


「“何もなかった”では、かえって疑われます」


 信長が頷く。


「うむ」


「ですが、“大事がありました”と認めるわけにもいきませぬ」


「うむ」


「ゆえに、日向守殿が急ぎの言上に来たこと自体は隠さぬ のがよろしいかと」


 蘭丸の目がわずかに動いた。

 彼もそこは同意見なのだろう。


「続きを申せ」


 信長が言う。


「本能寺へ参ったのは事実。供回りが多かったのも事実。ならばそこを無理に隠せば、見た者ほど臭うと感じます」


「その通りだ」


「ですので、“都筋に不穏あり。日向守殿が警固を厚くして急ぎ言上に参られた”――まずはその形で押し通すのがよろしいかと」


 信長は黙って聞いている。

 龍之介は続けた。


「ただし、“不穏”の中身は曖昧に」


「なぜだ」


「具体にすると、その具体が独り歩きいたします。寺社か、公家か、将軍家か、あるいは外様か。名を置けば、その名ごとに敵も味方も勘ぐり始めます」


 蘭丸がそこで口を開いた。


「では、曖昧なまま押し切ると?」


「はい。都絡みの機微は、外へ漏らせぬこともある――その理屈は、この時代ではむしろ自然かと」


 信長が小さく笑う。


「なるほど。曖昧さを、都の力で正当化するわけだな」


「戦国において、曖昧さは時に武器にございます」


「おぬし、やはり奉行向きだな」


「現場向きにございます」


「しつこい男よ」


 だが、その声音は悪くない。

 少なくとも、見当違いとは思っていないらしい。


「では日向の兵はどうする」


 信長が問う。


「動きが妙であったことは、見た者には見えておろう」


 そこだ、と龍之介は思った。


「兵の位置は、“上様の警固”に転じたと見せるしかございませぬ」


「ほう」


「本能寺へ参る以上、日向守殿が自らの身だけでなく上様の御身にも万一を考え、兵を慎重に置いた――そういう形に」


 蘭丸が少し眉を寄せた。


「少々無理がございませぬか」


「ございます」


 龍之介は即答した。


 蘭丸の目が一瞬だけ見開かれる。


「……あるのか」


「ございます。ですが、無理のない話を作るのではなく、一番飲み込みやすい無理を置く のが肝要かと」


 信長の目が、面白そうに細くなった。


「一番飲み込みやすい無理、か」


「はい。完全な真実は広げられませぬ。ならば、完全な嘘でもなく、見た者が“まあ、そういうこともあるか”と飲み込める線で止めるべきです」


 龍之介はそこで、さらに言葉を足す。


「日向守殿ほどの御方が、何もなく本能寺へ大人数で押しかけたとなれば臭う。だが“都の不穏に備え、つい兵を厚くした”なら、やりすぎとは見られても、まだ筋は通る」


「やりすぎ、か」


「はい。そこは少しやりすぎでよいかと」


「なぜだ」


「日向守殿のお立場が立つからにございます」


 信長の目が少しだけ鋭くなる。


「申せ」


「今朝のことを、ただ“妙な動きでした”で終わらせれば、日向守殿の配下は不安を深めます。何のために動いたのか、主君は何をしたのか、それが曖昧すぎるからです」


「うむ」


「ですが“上様への急ぎ言上にて、警固を過分にした”なら、配下は不満を抱いてもまだ従う理屈があります。日向守殿の面目も、辛うじて保てる」


 蘭丸は黙った。

 不服そうではある。

 だが理は分かるという顔だった。


 信長は、そこで初めてはっきり頷いた。


「よい」


「ありがたく」


「では、日向にはその形で自分の兵へ下ろさせるか」


「はい。できれば、日向守殿ご自身の口から」


「なぜだ」


「誰かが整えた言葉ではなく、ご自身の口から“今朝の動きは上様への急ぎ言上とその警固であった”と言わせねば、配下はもっと疑います」


 信長は小さく鼻を鳴らした。


「日向には苦い役目だな」


「生きて続けるとは、そういうことかと」


 その言葉に、信長は少しだけ口元を動かした。

 笑いとも、感心ともつかぬ表情だった。


「蘭丸」


「は」


「日向に伝えよ。今朝のことは、警固を厚くした急ぎ言上とせよ。中身は“都筋ゆえ詳細は伏す”で押せ」


「御意」


 蘭丸は一礼したが、すぐには下がらなかった。


「上様」


「何だ」


「妙な勘繰りをする者が、近習の中にもおりましょう」


「おるだろうな」


「どう抑えますか」


 信長は、そこで少し考えた。


 龍之介は、その短い沈黙の中に、この男がすでに先の先まで見ている気配を感じた。


「抑えぬ」


 信長はあっさり言った。


 蘭丸がわずかに顔を上げる。


「申されますと」


「疑う者は疑えばよい。だが形が先に固まっておれば、それ以上は動けぬ」


 龍之介は内心で、やはりこの男は強いと思った。


 隠し切るのではない。

 むしろ疑いが残ることまで織り込んで、それでも動けぬよう形を先に打つ。

 力のある者の政治だ。


「ただし」


 信長が続ける。


「日向を必要以上に嗅ぎ回る者がおれば、儂が鬱陶しい」


「御意」


「今朝の件はそこで終わりだ。終わらぬと思う者がいても、終わったことにする」


 その言葉は、命令というより、現実を固定する宣言だった。

 戦国では、こういう言葉を言い切れる者が強い。


 だが、龍之介には分かっていた。

 この“終わったことにする”は、寺の内側であって、天下全体ではない。


「上様」


「何だ」


「問題は、羽柴殿にございます」


 蘭丸が一瞬だけ視線を動かした。

 やはり、ここだ。


 信長は頷く。


「申せ」


「羽柴殿ほどの御方なら、今朝の空気を嗅ぎつけます。たとえ現場におらずとも、明智勢の動き、本能寺での不自然な沈黙、そこから“何かがあった”と見るやもしれませぬ」


「見るだろうな」


「ですが、そこで先に“急ぎ言上の朝であった”という形が都側からも流れていれば、羽柴殿も飛びつきにくうなります」


 信長が目を細める。


「都側から、か」


「はい。寺の中だけで固めるのでは足りませぬ。外へ出た時に、“本能寺で何かあったらしい”ではなく、“今朝、明智日向守殿が急ぎ言上に参られたらしい”という噂が先に走るように」


「なるほど」


「その際、“何を申したか”は濁す。ですが“何かあった”の中身だけを嗅がせぬよう、先に器だけ置く」


 蘭丸が、そこでようやく口を開いた。


「都の町筋へ、自然に流す必要がございますな」


「はい。露骨に触れ回れば逆効果です。ですが本能寺に出入りする者、寺社筋、公家筋、その辺りに“急ぎ言上であったらしい”がふわりと乗れば、十分にございます」


 信長はしばらく無言で考えていた。

 やがて、庭へ目をやったまま言う。


「おぬし、火消しがうまいな」


「火が出なかったからこそ、かもしれませぬ」


「出た後より、出る前の方が面倒だぞ」


「まったく」


 龍之介も同感だった。


 火が出れば、まだ敵味方が明確になる。

 だが今朝のように、火が出なかったことで“何かありそうだった気配”だけが残る方が、むしろ後始末は難しい。

 消すべき実体がなく、疑いと勘だけが宙を漂うからだ。


「蘭丸」


 信長が言う。


「寺社筋と都側へは、“日向が急ぎ言上に来た”までを流せ。余計な尾鰭は削げ」


「御意」


「ただし、誰が流したかは見せるな」


「承知」


 蘭丸は一礼して下がった。


 部屋に残ったのは、再び信長と龍之介だけになる。


 少しの静けさが落ちた。

 外では本能寺の日常が続いているようでいて、その実、いまこの瞬間も寺の中と外とで“今朝をどういう朝だったことにするか”が組み上がり始めている。


 信長がぽつりと言う。


「日向は助かったと思うか」


 唐突な問いに、龍之介は少しだけ考えた。


「首は繋がりました」


「そうだな」


「ですが、助かったとはまだ申せませぬ」


 信長の目が、ちらりとこちらを向く。


「なぜだ」


「生きて続ける方が、今朝のあの方には辛うございます」


「……」


「ご自身が何をしかけ、何を引っ込めたか。それを抱えたまま配下へ顔を見せ、今まで通り働き、上様へも仕えねばならぬ」


 信長は、その言葉を黙って受けた。


「しかも、今朝のことは表では“何もなかった顔”で通る。苦しみを苦しみとして表へ出せぬまま、内へ抱え込む形になります」


「それで潰れるか」


「潰れるかもしれませぬ」


「ならば、どうする」


 信長はすぐに次を問う。

 この男は本当に、思考を止めない。


「働かせることです」


 龍之介は言った。


「ほう」


「ですが、今まで通りに重く使うだけではまた同じことになります。仕事はさせる。責も持たせる。ですが、少なくとも“何のためにその役を負わせるのか”を少し下ろすべきかと」


 信長の口元が僅かに動く。


「日向も、そう申しておったな」


「上様の言葉が足りぬと」


「面倒な」


「面倒にございます」


 信長は鼻で笑った。


「だが、そうかもしれぬな」


 その一言は軽い。

 だが、信長という男がそれを口にするのは決して軽くない。


「では」


 彼は改めて龍之介を見た。


「日向の件は、形を先に固める。都へもその形を流す。秀吉には、勘は持たせても証は持たせぬ」


「はい」


「そのために、おぬしはしばらく儂の近くで働け」


 龍之介は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


「よい」


 信長はそこでふっと笑った。


「本能寺を止めた褒美が、火消しとは因果なものよな」


 龍之介も苦笑した。


「まことに」


「だが、それもまた面白い」


「上様は、何でも面白がりすぎにございます」


「そうでなければ天下など取れぬ」


 まったく返す言葉がない。


 それがこの男の強さであり、危うさでもあるのだろう。


     ◇


 部屋を辞したあと、龍之介はしばらく廊下を歩きながら考えていた。


 本能寺は燃えなかった。

 その事実を“どう隠すか”を考えることになるとは、つい昨夜の自分は思ってもみなかった。


 だが、いまははっきり分かる。


 戦国において、真実は一つでも、語られる形は一つではない。

 そしてその形を先に握る者が、次の流れを握る。


 これは嘘ではない。

 だが真実そのままでもない。

 戦国の政治とは、そういう曖昧さの上に立っている。


「難しい顔をなさっておりますな」


 影鷹が、またいつの間にか並んでいた。


「おぬし、本当に壁から生えてくるように現れるな」


「便利でしょう」


「便利だが心臓に悪い」


「慣れてください」


 龍之介は鼻を鳴らし、それから小さく息を吐いた。


「上様は、もう次を見ておられる」


「でしょうな」


「本能寺をどう収めるか、その先に羽柴殿をどう見るか」


「左様にございます」


「怖い男だ」


「いまさら」


「いまさらだが、改めてだ」


 影鷹は少しだけ笑った。


「で、どうなさいます」


「何をだ」


「本能寺の後始末をなさるのか、それとも歴史を変えた責任に青くなって逃げたくなるのか」


「嫌な二択だな」


「ですが、どちらかです」


 龍之介は少し黙り、それから言った。


「逃げたくは、少しある」


「正直で結構」


「だが、ここで逃げれば本当に本能寺を止めた意味がなくなる」


「その通り」


「ならば、やるしかあるまい」


 影鷹は頷いた。


「ようやく腹が据わってまいりましたな」


「まだ半分だ」


「半分据われば、戦国では上等でございます」


 たしかに、そのくらいかもしれない。


 本能寺は終わった。

 いや、本能寺が“終わらなかった”ことが終わった、と言うべきか。

 そして次は、京の外へ広がる不穏をどう扱うか。


 龍之介は本能寺の空を見上げた。


 陽はもう高くなりつつある。

 時間は進む。

 歴史も進む。

 しかも今度は、史実のレールから外れたまま。


 その時、廊下の向こうから使いの者が駆けてきた。

 足音は抑えているが、急ぎであるのは分かる。

 影鷹がすっと半歩前へ出て、その者の言葉を受けた。


「どうした」


 小声で問うと、使いの者も声を潜める。


「中国筋より、早馬の報せ」


 その一言で、龍之介の胸がひとつ強く鳴った。


 影鷹がこちらを見た。


「……来ましたな」


「ああ」


 羽柴秀吉だ。


 本能寺が起きなかった世界で、最初に違和感を嗅ぎつける男。

 あるいは、本来ならそこで一気に時代を掴んでいたかもしれぬ男。


 火は出なかった。

 だが煙を嗅ぐ者は、もう動き始めている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ