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第14話 信長、龍之介を手元に置く

 蘭丸の案内で通された部屋は、先ほどの茶室とも、最初に信長と光秀が対面した座敷とも少し違っていた。


 本能寺の中でも、信長が人を近くで見る時に使うのだろうと思わせる部屋だった。

 広すぎず、狭すぎず、だが視線の逃げ場は少ない。

 障子の向こうには庭が見え、朝の光がやわらかく差している。

 その柔らかさとは裏腹に、部屋の内側には妙な緊張があった。


 信長がいる。


 ただそれだけで、空気は決まる。


 蘭丸は龍之介を通すと、信長の目配せひとつで静かに下がった。

 だが完全に遠ざかったわけではないだろう。

 襖の向こう、声が届き、何かあればすぐ踏み込める位置にいるはずだ。


 龍之介は一礼した。


 信長は庭を眺めるような顔で座していたが、龍之介が礼を取るとすぐに視線を向けた。


「座れ」


「は」


 短い言葉だ。

 だが断る余地はない。


 龍之介は勧められた位置へ座る。

 正面ではない。少しだけずらしてある。

 真正面に置けば対決の形になる。斜めに置くことで、問い詰めつつも話はさせる。

 そういう位置だった。


 この男、やはり場の作り方からしてうまい。

 威圧で押し潰すだけではない。相手が何を言いやすく、何を隠しにくいかまで含めて場を敷いている。


「さて」


 信長が言った。


「本能寺は燃えず、儂も生きておる。日向も首が繋がった」


「はい」


「おぬしの思惑通りか」


 いきなり来る。


 龍之介は少しだけ苦笑した。


「思惑通り、とは申しにくうございます」


「なぜだ」


「ここまでうまく行く保証は、どこにもございませなんだ」


「それでも動いた」


「はい」


 信長は、そこでほんの少し口元を歪めた。


「面白いな。勝てると決まっておらぬ賭けに、ずいぶん大きく張る」


「張らねば間に合わぬと思いましたゆえ」


「で、その賭けに儂を巻き込んだか」


「結果としては」


 龍之介がそう答えると、信長は鼻で笑った。


「結果として、ではあるまい。最初から巻き込む気であろう」


 まったくその通りだ。

 言い逃れの余地もない。


 龍之介は、そこで変に取り繕わぬ方がよいと判断した。


「……はい」


 信長の目が細くなる。


「素直だな」


「ここで違うと申しても、上様には通じぬかと」


「よい心がけだ」


 その一言に、少しだけ部屋の空気が動く。

 褒めたのか、試しているのか、たぶん両方なのだろう。


 信長は続ける。


「おぬし、儂と日向の間にどうやって割って入った」


「愛宕山にて、まず日向守殿へお目通りを願いました」


「それは知っておる」


「そこで、刀を一度見せました」


「ほう」


「言葉だけの妄人ではないと分かっていただくために」


 信長の眉がわずかに上がる。


「日向に刀を抜いたか」


「喉元までは」


「命知らずだな」


「その時点では、かなり」


「今もだろう」


「今もでございますな」


 信長は、それを聞いてわずかに笑った。

 口元だけだ。

 だが、この男が相手の命知らずをただの愚かさではなく、値として見ているのが分かる。


「で、何を申した」


「主を討てば、ご自身をも家をも天下をも押し出すことになる、と」


「大きく出たな」


「引いていては届かぬと考えました」


「それで日向が止まったか」


「止まりかけた、にございます」


 龍之介は慎重に言葉を選んだ。


「完全に折れたわけではございませぬ。ですが、まだ言葉へ戻れる余地があると見えました」


「余地、か」


「はい。あの方は理で動く御方にございます。理が残っている限り、刃へ行き切る前に割って入れると」


 信長は黙って聞いていた。


 龍之介は、その沈黙の中に値踏みを感じる。

 自分の言葉のどこまでが本音で、どこまでが後づけか。

 どこまでが経験で、どこからが作り話か。

 この男は、そういう境目を見ようとしている。


「では、なぜ儂まで届いた」


「日向守殿だけを止めても足りぬからにございます」


「ほう」


「上様とあの方の間にあるものは、日向守殿一人の思い違いでは済まぬと見ました。ゆえに、上様にも場へ出ていただかねばならぬと」


「儂にも、か」


「はい」


「怖くはなかったか」


「怖うございました」


「だろうな」


「ですが」


 龍之介は信長を見た。


「上様ほどの御方であれば、刃より先に話す価値をお分かりになるとも思うておりました」


 信長の目が少しだけ動く。


「買いかぶりか」


「期待でございます」


「期待」


「はい。上様は、ただ人を斬って終えるだけの御方ではない」


 信長は、その言葉にしばし答えなかった。

 龍之介も、そこで余計な言葉を足さない。


 やがて信長が言う。


「……儂を、そう見ておるか」


「そう見ております」


「面白いな」


 信長の声には、少しだけ本気の興味が混じった。


「儂を恐れる者は多い。儂を利用しようとする者もおる。儂に取り入ろうとする者はさらに多い。だが、儂に“期待する”と言う者は存外少ない」


「それは、皆怖いからにございます」


「おぬしも怖いのであろう」


「怖いですな」


「ならばなぜ期待する」


 龍之介は、一瞬だけ考えた。


 この問いには、綺麗事を返しても意味がない。

 まして“天下のため”だの“国のため”だのと大きく出れば、この男には見透かされる。


「惜しいからです」


 信長が目を細める。


「またそれか」


「はい」


「儂が惜しいか」


「上様が、にございます」


 龍之介は静かに答えた。


「ここで終わるには、あまりに惜しい。国を変えるだけでなく、その先まで手を伸ばせるかもしれぬ御方が、ここで絶たれるのは惜しい」


 信長は、そこで庭に目を向けた。

 庭の木々は朝の風に揺れている。

 本能寺は静かだ。

 静かだからこそ、この男もまた何か思うところがあるのかもしれない。


「……おぬし」


 信長が再び龍之介を見る。


「変わった男だな」


「よく申されます」


「日向もそう言うておった」


「そうでございましょう」


 信長は少し笑った。


 そこから先、少しだけ間があった。

 信長は沈黙のまま、人を見る。

 その沈黙に耐えられず、自分から余計なことを喋る者は多いのだろう。

 だが龍之介は、ここで口を滑らせぬよう、ただ背筋を保っていた。


 やがて信長が、ぽつりと言う。


「おぬし、政は分かるか」


 唐突なようでいて、唐突ではない問いだった。


「大局は、上様ほどには」


「当然だ」


「ですが、人と現場がどう崩れるかを見るのは多少」


「多少、な」


 信長が鼻で笑う。


「おぬしの多少はあまり信用ならぬ」


「褒め言葉として受け取りましょう」


「勝手にせよ」


 その上で、信長は少し身を乗り出した。


「ならば答えよ。今朝の件、どう収める」


 来た、と龍之介は思った。


 ここが本題だ。

 信長はもう、龍之介を“面白い男”として見ているだけではない。

 使えるなら使う。

 その値踏みの段に入っている。


「まず」


 龍之介は慎重に口を開いた。


「表向き、日向守殿は急ぎの言上に来た。それで押し通すしかございませぬ」


「それは先ほども言うた」


「はい。ですが、そのためには周辺の動きを揃える必要がございます」


「申せ」


「日向守殿の兵の動きに不審を感じた者がおりましょう。ならば、あくまで警護と緊急応対のための配置だったと見せねばなりませぬ」


「兵の動きそのものは消えぬからな」


「左様にございます」


「で、どうする」


「露骨に“何もありませんでした”とすると、かえって臭います」


「うむ」


「ですので、何かあったことは隠しきらぬ方がよろしいかと」


 信長の目が少し細まる。


「何かあったことを、隠さぬ」


「はい。“都の空気に不穏があり、日向守殿が急ぎ言上に参られた。そこで上様と差しで話があった”――その程度までは、むしろ認めた方が自然です」


「なるほど」


「ただし、その中身を広げぬこと。家中には“都絡みの込み入った話”として煙に巻く。中途半端に軍議めいた匂いを出せば、余計な勘繰りを呼びます」


 信長は、静かに頷いた。


「続けよ」


「日向守殿の方でも、兵や近臣へ説明が必要でしょう。大事が起こると思っていた者ほど、起きなかったことに不安を抱きます。ならば“上様への急ぎ言上であり、それ以上でも以下でもない”と、顔を潰さずに下ろす言葉が要ります」


「顔を潰さずに、か」


「はい。今朝の動きは、日向守殿の中でまだ整理がついておりませぬ。ここで家中の視線まで一気に失えば、かえって危うい」


 信長は、それを聞いてわずかに口元を上げた。


「おぬし、日向に甘いな」


「甘くはございませぬ」


「そうか?」


「生きて続けさせる方が、死なせるより難しいと見ております」


 その一言に、信長の目が細くなる。


「……面白い」


「ありがたき」


「褒めてはおらぬが、今のはかなりよい」


 そう言ってから、信長は少し考えるように視線を落とした。


「では、秀吉はどう見る」


 龍之介の内心が、少しだけ引き締まる。


 やはりそこに来る。

 信長ほどの男が、羽柴秀吉を念頭に置かぬはずがない。


「嗅ぎつけましょう」


 龍之介は率直に言う。


「だろうな」


「ですが、嗅ぎつけることと、確かな証を得ることは別にございます」


「どう違う」


「羽柴殿が“何かあった”と感じるのは避けられませぬ。ですが、“本能寺で日向守殿が謀反に至りかけた”と確信するには材料が足りぬよう整えるべきかと」


 信長は黙って聞く。


「羽柴殿ほどの御方なら、違和感だけで十分に動き始めるやもしれませぬ」


「その通りだ」


「ですが、動き始めたとしても、それを正面から咎める理がなければ、まだ抑えが利きます」


 信長は、そこでようやくはっきりと笑った。


「なるほど。おぬし、怪しい火を消すのでなく、燃え広がる向きを制御するつもりか」


「火種を消せぬなら、その方が現実的かと」


「奉行向きだな」


「現場向きにございます」


「同じようなものよ」


 その言葉に、龍之介は少しだけ苦笑した。


 奉行向き。

 まさか戦国へ来て、天下人直々にそんな評価を受けるとは思わなかった。


 信長はそこで、少しだけ真顔に戻る。


「龍之介」


「は」


「おぬしを、しばらく儂の手元に置く」


「……は」


「妙な言い回しだが、そうするしかあるまい。今朝のことを見た者、感じた者、日向の機微、家中の反応、都の空気。どれも今すぐ処理が要る」


「承知いたしました」


「承知するのはよいが、意味は分かっておるか」


 信長の目が鋭くなる。


「面白いから置くのではない。使うから置く」


「は」


「儂の近くは、日向の近くとはまた違う重さがある。妙な気の利かせ方をすれば足を掬われる。利かせぬなら置く意味がない」


「……肝に銘じます」


「よろしい」


 その一言が、ずいぶん重かった。


 これは気まぐれな寵遇ではない。

 試用だ。

 しかも、信長本人の手元に置かれるということは、同時に家中から“どこの誰とも知れぬ男が、なぜ近くにいるのか”と見られることでもある。


 火種を消すために近くへ置かれる。

 だがそのこと自体が、新しい火種にもなりうる。


 信長はそこまで見越したうえで、なお龍之介を置くと決めたのだろう。

 つまり、面白さ以上に“使えるかもしれぬ”と踏んだということだ。


 それは光栄でもあり、ひどく危険でもある。


「蘭丸」


 信長が呼ぶと、すぐに襖が開いて蘭丸が入ってくる。


「は」


「龍之介を、今日よりしばらく近くへ置く。怪しい動きがあればすぐ上げよ。だが無駄に当たるな」


 蘭丸の目が一瞬だけ龍之介へ向く。

 やはり納得してはいない。

 だが命は命として受けるしかない。


「御意」


「部屋も用意せよ。日向の件が落ち着くまで、本能寺と都の動きが見える位置がよい」


「承知」


 蘭丸は短く答えた。


 この若い近習もまた、恐ろしく有能だと龍之介は改めて思う。

 不満や警戒を顔へまったく出さぬわけではない。

 だがそれを主命の邪魔にせぬだけの訓練と才がある。


 信長は最後に、龍之介へ視線を戻した。


「おぬし」


「は」


「今朝、儂を救ったと思うか」


 龍之介は、一瞬だけ考えた。


 ここで「はい」と答えるのは違う。

 だが「いいえ」と言うのもまた、嘘になる。


「……分かりませぬ」


 やがて、そう答えた。


「本能寺は燃えませなんだ。上様も生きておられる。ですが、その先まで良き方へ向かうかは、まだ何とも」


 信長はその答えに、ゆっくりと頷いた。


「よい」


「は」


「その顔ができるうちは、まだ使える」


 それだけ言うと、信長はもう庭の方へ視線を戻した。


 話は終わりだということだろう。

 だが完全に終わったわけではない。

 “使う”と決めた以上、次からはもう、問いに答える側ではなく働く側へ回される。


 蘭丸が小さく促す。


「三上殿」


「うむ」


「こちらへ」


 龍之介は一礼して立ち上がった。


 去り際、ふと信長が言う。


「龍之介」


 龍之介は振り返る。


「次は、本能寺のことだけでは済まぬぞ」


「……はい」


「日向をどう見せるか。秀吉へどう渡すか。勝家にどう嗅がせぬか。都へ何をどう流すか。考えておけ」


 それは無茶ぶりだった。

 だが信長という男が人へ仕事を投げる時は、たぶんいつもこんな具合なのだろう。


「承知いたしました」


「よろしい」


 それだけで終わる。


 龍之介は部屋を辞しながら、胸の奥で静かに理解していた。


 本能寺を止めた。

 光秀を逆臣にせずに済ませた。

 だがその褒美に待っていたのは、休息でも満足でもない。


 もっと大きな歯車のすぐ脇へ、信長自ら引きずり込まれることだった。


     ◇


 廊下へ出ると、蘭丸が前を歩く。


 しばらく互いに口を開かなかった。

 本能寺の中は依然として静かだ。

 だがその静けさの中に、先ほどまでとは違う“処理のための動き”が少しずつ混じり始めているのが分かる。


 近習が低い声で指示を受けている。

 使いの者が走る。

 誰も騒がぬまま、今朝のことを“何もなかった朝”として形作ろうとしている。


「……三上殿」


 不意に蘭丸が言った。


「何だ」


「上様に気に入られたと、浮かれぬ方がよろしい」


 龍之介は、その言葉に少しだけ笑った。


「気に入られた、というより使われるのだろう」


 蘭丸は横目で見た。


「分かっておられるなら結構」


「だが、おぬしも容赦がないな」


「上様のお側は、面白さだけで残れる場ではございませぬ」


「さきほども言うておったな」


「大事なことゆえ」


 蘭丸は続ける。


「上様は、面白いと思えば近くへ置かれる。ですが、使えぬと見れば捨てるのも早い」


「だろうな」


「日向守殿の件で上手く立ち回ったことと、これからも生き残れることは別です」


「承知しておる」


「ならばよろしい」


 短いやり取りだった。

 だが蘭丸の言葉には敵意だけでなく、実務的な忠告も混じっていた。

 この若者は、主君に妙な異物が近づいたことを嫌ってはいる。

 だが一度“近くに置く”と決まった以上は、その異物が役に立つか立たぬかを冷静に見定めようともしている。


 やはり、ただの忠義者ではない。

 信長の近習にあるだけの鋭さがある。


「部屋はこちらに」


 蘭丸が一室を示す。


 本能寺の一角、庭も廊も見えるが、同時に人目も逃れにくい場所だ。

 客人としては丁寧だが、監視にも向く。

 信長らしい、と龍之介は思った。


「よい部屋だ」


「上様の近くですので」


「監視しやすい、の間違いではないか」


「そのように受け取られても困りませぬ」


 蘭丸は涼しい顔で言う。

 さすがにこのあたり、隠す気もないらしい。


「ひとつだけ、教えておきましょう」


 蘭丸が言った。


「上様は、いま本能寺のことだけを見ておられるのではございませぬ」


「だろうな」


「日向守殿をどう扱うか、その余波が誰へ飛ぶか、もう先を考えておられる」


「秀吉か」


 蘭丸の目が一瞬だけ止まる。


「……勘がよろしい」


「わりと露骨に出たぞ」


「失礼」


 そう言いながらも、蘭丸は表情をほとんど崩さない。


 だが今ので十分だった。

 やはり次の火種は秀吉だ。

 本能寺が起きなかった世界で、あの男が何を感じ、どう動くか。

 信長も蘭丸もすでにそこを見ている。


 龍之介は部屋へ入り、しばし一人になると、ようやく小さく息を吐いた。


 畳の匂い。

 差し込む光。

 燃えなかった本能寺の静けさ。


 そして、信長の言葉が頭の中で反芻される。


 日向をどう見せるか。秀吉へどう渡すか。勝家にどう嗅がせぬか。都へ何をどう流すか。


 いきなり重い。


 あまりにも重い。

 だが、これが本能寺を止めた先なのだろう。


 歴史の一点を変えるとは、ただ火を消すことではない。

 その後に残る煙を、風の向きを読みながら捌くことだ。


 龍之介は、静かに膝へ手を置いた。


「……さて」


 独り言ちる。


 病室で死んだ百歳の男が、いまは戦国の本能寺で、信長の側に置かれている。

 我ながら、とんでもないところまで来てしまった。


 だが、ここで呆けている暇はない。


 本能寺は燃えなかった。

 ならば次は、その“燃えなかったこと”をどう天下へ流すかだ。


 そして、その先には羽柴秀吉がいる。


 龍之介はゆっくりと目を閉じた。


 止めたはずの歴史が、むしろここから本格的に動き出す気配がした。

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