第12話 信長、日向守を叱る
「何が不満で、何が足りぬ」
信長のその言葉は、叱責ではなかった。
だが、叱責よりも重い。
怒鳴り散らして相手の口を塞ぐのではなく、逃げ道ごと塞いだうえで「言え」と命じている。
茶室の狭さが、その命の重みをさらに増していた。
光秀は、しばらく答えなかった。
答えを選んでいるのではない。
たぶん、言葉へ落とし込む前に、自分の腹の底にあるものをあらためて見ているのだ。
怒りだけなら簡単だ。
恨みだけならもっと簡単だ。
だが、それだけでないからこそ、ここまで来てしまった。
龍之介は黙っていた。
ここで自分が口を挟めば軽くなる。
軽くしてはいけない。
やがて光秀が、低く口を開いた。
「不満は、多うございます」
信長は動かない。
「申せ」
「丹波のこと」
光秀の声は平板だった。
だが平板であるがゆえに、そこに押し殺した熱が透ける。
「攻略は骨が折れました。地の利は悪く、人は容易に従わず、治めるにも力と手間を要した。上様の御威光あればこそ進められた戦ではありましたが、その陰でどれほど人が削れたか、現場におる者は皆知っております」
「うむ」
「それでも私はやりました。戦も、治めることも、上様の求めに届くよう、できる限り尽くしました」
「知っておる」
「ですが、働いたことが働きとして残るとは限らぬ」
そこで、光秀は初めてわずかに声を硬くした。
「丹波だけではございませぬ。都での折衝も、寺社とのやり取りも、公家との機微も、あれこれ火の粉を浴びる役目はだいたい私に回ってくる。私はそれを“役目”として受けてまいりました。ですが、いつしか役目ではなく、“都合のよい手”として扱われているように思えたのです」
信長の目が細くなる。
「都合のよい手、か」
「はい」
「便利だから使われると」
「その通りにございます」
「不満はそれか」
「それだけではございませぬ」
光秀はそこで、一度きつく息を吐いた。
「面目を潰されたと感じたこともございます。人前での叱責、軽んじられたと思う言葉、働きに比してあまりに薄い扱い――その一つ一つは、今にして思えば瑣末なことかもしれませぬ。ですが、瑣末なものほど積もれば重い」
信長は、それを遮らない。
「上様が私を見込んでおられたことは知っております」
光秀は続ける。
「だからこそ、重く使われたのでしょう。ですが、重く使われることと、心を削られることは別です」
その言葉が落ちた時、信長の眼差しが初めて少しだけ変わった。
怒りではない。
だが、「そこまで言うか」という鋭さはあった。
「削られる、とな」
「はい」
「おぬしほどの男が」
「おぬしほどの男でも、でございます」
光秀は、今度ははっきりと言った。
「私は人ではございますまいか。便利に働く手でも、考えなく動く歯車でもございませぬ」
茶室の空気が、ぴしりと鳴った気がした。
信長の沈黙が一段深くなる。
龍之介は、横から見ていて背筋に汗がにじむのを感じた。
この場が成立しているのは、信長がまだ怒鳴っていないからだ。
だが怒鳴らぬ代わりに、黙ったまま相手を測り直している。
「……そこまで思うておったか」
ようやく信長がそう言った時、その声は驚くほど低かった。
「思うておりました」
「ならば、なぜもっと早う言わぬ」
「申しても届かぬと思ったからです」
「それをまた申すか」
今度の信長の声には、わずかに熱が混じった。
「はい」
「届かぬと思うたから、主を討つところまで行くか」
「そこまで行った己が正しいとは申しませぬ」
光秀も引かない。
「ですが、上様が“言えばよかった”とおっしゃるのは酷にございます。言いにくい相手にしたのは、上様ご自身でもありましょう」
それは、言い切れば刃にもなる言葉だった。
信長の目が、すっと鋭くなる。
「日向」
「は」
「おぬし、いま自分が何を申しておるか分かっておるな」
「分かっております」
「儂に怖いと言い、言いづらい相手だと言い、そのうえでなお仕え続けた」
「はい」
「ならば、そこに甘えもあったのではないか」
光秀の顔が動く。
信長はそこを見逃さない。
「儂なら分かるだろう、察するだろう、おぬしほど働いておれば重みも分かるだろうと、どこかで思うておったのではないか」
光秀が、わずかに息を詰めた。
龍之介は心の中で、来た、と思った。
信長はただ責めているのではない。
光秀の理の中に潜んでいる“相手への期待”まで見抜いて、そこへ刃を入れている。
「……ございます」
光秀が絞るように言う。
「やはりな」
「ですが、それの何が悪いのです」
光秀の声が少しだけ荒れた。
「長く仕え、命を懸け、都も戦も治めてきた相手に、少しは察してほしいと思うことが、そこまで愚かにございましょうか」
「愚かとは言わぬ」
信長はぴしゃりと言った。
「だが甘い」
その一言は、酷薄なまでにまっすぐだった。
「儂はおぬしの父でもなければ、妻でもない。主だ。おぬしが何を抱えておるか、見えておっても全てを拾うとは限らぬ」
光秀の顔がこわばる。
「それが、上様の理ですか」
「そうだ」
信長は微塵も揺れない。
「拾ってほしければ、取りに来い。言え。ぶつけろ。できぬなら工夫せよ。それでも駄目なら、それをもって儂を斬る理にはならぬ」
鋭い。
あまりにも鋭い。
だが龍之介には、それがただの強弁ではなく、信長自身の生き方から出ている言葉だと分かった。
この男は、察しのよい優しい主であろうなどと初めから思っていない。
ぶつかる者はぶつかってこい、届かせたいなら届かせろ、という乱暴で、しかし筋の通った世界に生きている。
「日向」
信長はさらに続ける。
「おぬしが苦しかったのは分かる」
その言葉に、龍之介は少し意外さを覚えた。
信長は、まるで労るような調子では言わない。
だが、否定もしないのだ。
「だが苦しかったからといって、最後に主を討つしかないと思うたなら、貴様も大概だ」
光秀の肩が、ほんの僅かに揺れた。
「……」
「都も戦も人も分かる男が、最後にそこで詰むか。そこまで行ったなら、もはや儂だけの落ち度ではあるまい」
光秀はすぐに返さなかった。
返せなかった、と言うべきかもしれない。
それは痛いところだろう。
信長が悪い。信長が怖い。信長が速い。
それは間違っていない。
だが、それを理由に最後の線を越えかけたのもまた、光秀自身だ。
茶室の中で、光秀は静かに息を整えた。
「……その通りにございます」
ようやくそう言った時、その声には苦さがあった。
「上様だけが悪いとは申せませぬ」
「当然だ」
「ですが」
光秀は顔を上げる。
「私だけが弱かったとも申したくはございませぬ」
「申さずともよい」
信長の返答は速い。
「弱かったのではない。抱え込み方を誤ったのだ」
龍之介は、その言葉に内心で頷いた。
そうだ。
光秀は弱かったのではない。
有能で、真面目で、理が立つからこそ、抱え、耐え、整理し、最後に自分の理で自分を追い詰めた。
それが厄介なのだ。
信長が言う。
「儂もまた、使える者を使いすぎたのだろう」
その言葉は謝罪ではなかった。
柔らかな悔恨でもない。
ただ、事実として置かれた。
それで十分だと、龍之介は思った。
信長という男がこの場で「悪かった」などと安く言えば、かえって薄くなる。
使いすぎた。折っては意味がない。
それがこの男なりの認め方だ。
光秀もまた、それを分かった顔をした。
すぐに許されたような顔ではない。
だが、少なくとも“駒として切り捨てられたわけではなかった”と、ようやく実感した顔だった。
「……上様」
光秀が言う。
「私は、上様に認めていただきたかったのやもしれませぬ」
信長は、わずかに眉を上げた。
「今さらか」
「今さら、にございます」
「面倒な男よな」
「よく存じております」
そのやりとりに、ほんの少しだけ乾いた笑いの気配が混じった。
和やかではない。
だが、先ほどまでの“斬るか斬られるか”の硬さからは、ひとつ外れた。
龍之介は、そこでようやく口を開く。
「恐れながら」
「何だ」
信長の目がこちらを向く。
「お二人とも、今この場で全部を綺麗に片づけようとはなさらぬ方がよろしいかと」
信長が口元を歪める。
「綺麗に片づく顔に見えるか」
「見えませぬ」
「であろう」
「ですが、今ここで“すべて分かった”“すべて許した”のように終わらせると、かえって危うい」
光秀も黙って聞いている。
「日向守殿の中にはまだ苦みが残るでしょう。上様の中にも、なぜそこまで抱え込んだ、という苛立ちは残るはずです」
「残るな」
信長があっさり言う。
「ならば、残るままでよろしいかと」
光秀の目が龍之介へ向く。
「残るままで」
「はい。消してしまおうとするから、後で妙な形で噴きます。だが今は、少なくとも刃にせず、言葉に置き換えられた。それで十分にございます」
信長は、少しだけ考えたあと、ふっと笑った。
「なるほどな。妙なところで現場仕事の匂いがする」
「火種を完全に消すより、まず延焼を止める方が先にございます」
「上手いことを言う」
「本業ではありませぬが」
「いや、案外そちらが本業かもしれぬぞ」
そこで信長は改めて光秀を見た。
「日向」
「は」
「おぬしの首は取らぬ」
その一言が、茶室へ重く落ちた。
光秀の肩がほんの僅かに動いた。
助かった、という顔ではない。
だが確かに、その言葉は重かった。
「ただし」
信長の声が低くなる。
「この件は、儂の前だけで終わらせる」
「……御意」
「家中にも、諸将にも、妙な火種として広げることは許さぬ。本能寺の朝、日向は急ぎの言上に来た。ただそれだけだ」
「御意」
「そのうえで」
信長の目が鋭くなる。
「次に同じところまで抱え込んだら、その時は本当に斬る」
光秀は深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
龍之介はその姿を見て、奇妙な安堵と重さを同時に感じていた。
本能寺は燃えなかった。
光秀は死なない。
信長もまだ生きている。
だが、それで何もかも丸く収まったわけではない。
むしろ、収まらなかったからこそ生き延びたのだ。
きしみも苦みも、全部抱えたまま次へ進むしかない。
それが人の関係であり、戦国の政治なのだろう。
信長が、ふと龍之介へ目を向けた。
「龍之介」
「は」
「おぬし、なかなか面倒なものを持ち込んでくれたな」
「恐れ入ります」
「褒めてはおらぬ」
「存じております」
信長は小さく鼻を鳴らす。
「だが、つまらぬ男ではない」
「ありがたきお言葉にございます」
「それも褒めてはおらぬ」
「重ねて存じております」
その返しに、信長はとうとう声を立てぬまま笑った。
光秀もまた、ほんの僅かにだが口元を緩める。
茶室に差す朝の光は、先ほどより少し高くなっていた。
本来ならこの頃には火が上がり、怒号が飛び交っていたかもしれない。
だが今ここには、燃え残ったものではなく、燃やさずに済んだ火種が置かれている。
それをどう扱うかは、これから先の話だ。
信長が立ち上がった。
「茶は終わりだ」
その一言で、場がまた政の顔へ戻っていく。
「日向、今日は下がれ。頭を冷やせ」
「は」
「そして明日からは、今まで通り働け」
光秀が目を上げる。
「今まで通り、にございますか」
「今まで通りでは足らぬかもしれぬがな」
信長は言う。
「少なくとも、死んでおらぬ以上は働け。生きておる者の始末は、生きておるうちにせねばならぬ」
その言葉に、光秀はようやく深く、深く頭を下げた。
「……御意」
そこには謝罪も、忠誠の誓いも、全部は含まれていない。
だが少なくとも、ここで死ぬよりははるかに重い“生きて続けろ”という命があった。
龍之介はその姿を見て、心の底でひとつ思う。
光秀は、まだ救われてはいない。
だが、死ぬことで終わる道からは外れた。
それだけで、歴史はもう取り返しのつかぬところまで動き始めている。
光秀が茶室を辞そうとした時、信長がふいに言った。
「日向」
光秀が振り返る。
「はい」
「次に腹に何か溜めたなら、まず儂にぶつけろ」
短い沈黙のあと、光秀が答える。
「……怖うございますが」
「構わぬ。怖がったまま来い」
その一言に、光秀の顔がほんの一瞬だけ崩れかけた。
涙ではない。
だが、張り詰めていたものが一筋だけ緩んだような顔だった。
「承知、つかまつりました」
そう言って光秀が去る。
襖が閉まる。
茶室に残されたのは、信長と龍之介だけだった。
しばし、静寂があった。
信長は、庭の方へ目をやりながらぽつりと言う。
「……妙な朝になったな」
龍之介は静かに答えた。
「はい」
「本来なら、儂はここで死んでおったかもしれぬ」
龍之介の背筋を、冷たいものが走る。
この男は、分かっているのだ。
すべてではないにせよ、今朝がどれほど危うかったかを。
「で、龍之介」
「は」
信長が、ゆっくりとこちらを見る。
「おぬしは何者だ」
その問いは、これまでで一番静かで、これまでで一番逃げ場のないものだった。




