第10話 信長、腹を割る
襖が開いた瞬間、龍之介はまず光を見た。
朝の光だ。
庭先から差し込む柔らかな陽が、障子と柱と板の間に薄く広がっている。
炎ではない。
煤でもない。
本来なら死の朝として語られるこの刻に、本能寺の奥は静かな朝の明るさを保っていた。
その光の中に、男がいた。
織田信長。
龍之介は、思わず息を呑むのを堪えた。
奇矯でも豪奢でもなかった。
少なくとも、最初の印象はそうだ。
派手な威圧で人をねじ伏せる類ではない。
むしろ座している姿は静かで、無駄がなく、思っていたよりも端整ですらあった。
だが、その静けさが尋常ではない。
場の中心が、最初からこの男にある。
誰かが声を張って支配しているのではない。
信長がそこにいるだけで、他の全員が“その場に呼ばれた者”になる。
それが、肌で分かった。
年の頃は四十代半ば。
眼差しは鋭いが、粗野ではない。
むしろ、目の前のものを一瞥で切り分け、値をつけ、使えるかどうかを測りきる速さが怖い。
人を睨んでいるのではなく、人の中身を見ている目だった。
この男か、と龍之介は思った。
この男が、あの織田信長。
自分が何十年も本で読み、惜しいと願い、会ってみたいと望んだ男。
その本人が、いま静かにこちらを見ている。
「……ほう」
信長が最初に漏らしたのは、その一言だった。
大声ではない。
だが妙に通る声だった。
「朝まだきより、面白い顔ぶれよな」
光秀が礼を取り、龍之介もそれに倣う。
「上様」
光秀の声は落ち着いていた。
昨夜までの揺れを、少なくとも表には一切出していない。
「急ぎ、申し上げたき儀あり、参上つかまつりました」
「急ぎと聞いた」
信長の視線は、いったん光秀へ向けられ、すぐに龍之介へ移る。
「で、そちらの見慣れぬ男は何ぞ」
蘭丸が脇で静かに控えている。
影鷹はこの場へは入っていない。
ここから先はもう、本当に龍之介一人だ。
龍之介は礼を保ったまま答えた。
「三上龍之介と申します。都筋にて、日向守殿へ急ぎお耳入れした者にございます」
「都筋」
信長が口元をわずかに動かす。
「都筋の者にしては、腰の据わりが武張りすぎておるな」
初手から来た。
ごまかしの利かぬ目だ。
蘭丸どころではない。
この男の前では、中途半端な装いは一目で剥がれる。
「少々、剣にも通じております」
龍之介が言うと、信長は小さく鼻で笑った。
「少々で済むなら、世の兵法者は泣くぞ」
愛宕山で光秀の前に見せた一閃が、なんらかの形で伝わっているのかもしれない。
あるいは、この男は立ち居振る舞いだけでそこまで見るのだろう。
「まあよい」
信長はそう言って、顎をわずかに上げた。
「日向、話せ」
その一言で場が締まる。
龍之介は横目で光秀を見た。
ここまでは想定通りだ。
まずは光秀が話す。
自分は必要な時まで出すぎない。
光秀は一つ呼吸を置き、静かに口を開いた。
「上様。都と天下の形について、いまこの場で腹を割って申すべき時と存じ、参りました」
信長の眉が、ほんの僅かに動いた。
予想と違ったのだろう。
軍略か、急報か、あるいは何らかの訴えかと思っていたところへ、いきなり“腹を割る”と来た。
それでも信長は遮らない。
「続きを申せ」
「申し上げにくきことゆえ、人払いを願いたく」
その言葉に、蘭丸の気配が微かに張る。
当然だ。
いまこの場で、光秀が不穏なことを言い出している。しかも人払いを求める。
史実を知る者からすれば、心臓に悪いなどというものではない。
だが信長は、蘭丸へ視線をやらぬまま言った。
「蘭丸」
「は」
「控えよ。だが遠くへは行くな」
「御意」
蘭丸が一礼して下がる。
完全に姿を消したわけではない。襖一枚、声が届く距離の外へは出ていないだろう。
それでいい。
その程度の警戒は、むしろ必要だ。
信長は、今度は龍之介を見た。
「で、その男はどうする」
ここだ、と龍之介は感じた。
光秀と信長だけにすれば、本音は出る。
だが古傷も直にぶつかる。
誰かが場を外から見ている目で繋がねば、この会談は危ない。
光秀が先に答えた。
「龍之介殿には、残っていただきたく」
「なぜだ」
「この場を、軍議ではなく対話として整えるためにございます」
信長の目が細まる。
「日向、おぬしがそんな言い方をするとはな」
「左様にしなければならぬと、思い至りました」
その返答に、信長の眼差しが一瞬だけ鋭くなった。
龍之介はぞくりとした。
この男、ほんの一言二言の変化で、相手の内部に何が起きたかを嗅ぎ取る。
怖ろしいほどに敏い。
「……よい」
やがて信長は言った。
「ならば、その男もおれ。だが、下らぬ芝居であれば、最初に斬る」
龍之介は静かに頭を下げた。
「もっともにございます」
信長の口元が僅かに歪む。
面白がっているのか、試しているのか、その両方か。
やがて三人だけの場になった。
外の気配は遠い。
朝の光だけが静かに差し込み、庭で葉の揺れる影が障子へ映っている。
この静けさの中で、本来なら起こるはずだった惨劇の代わりに、いまは言葉が置かれようとしている。
信長が、まず光秀を見た。
「で」
その声は静かだ。
「腹を割るとは、何を申す」
光秀は少しの間、黙っていた。
昨夜、愛宕山で龍之介に見せた揺れは、いま表には出ていない。
だが完全な平静でもない。
腹を括った者の静けさと、最後の一線を越えぬよう踏みとどまる緊張が同時にあった。
「上様」
光秀が言う。
「私は、長くお仕えしてまいりました」
「知っておる」
「戦にも、都の折衝にも、寺社にも、公家にも、できる限りのことを尽くしてまいりました」
「それも知っておる」
「そのうえで、申し上げます」
光秀は顔を上げた。
「上様は、あまりにも先へ進みすぎておられる」
信長は動かなかった。
怒りも見せぬ。
だが場の温度がひとつ下がった気がした。
「ほう」
「天下を見ておられる。都を見ておられる。諸国の行く末も、外との関わりも。多くの者が見えぬ先まで見ておられる」
「で、何が悪い」
「悪くはございませぬ」
光秀の声は低い。
「だが、速すぎます」
龍之介は息を潜めた。
ここだ。
ここが、本当に言わねばならなかったところだ。
「上様の速さに、皆がついていけるわけではない」
光秀は続ける。
「ついていこうと努めても、その足場が砕ける者もおります。都の機微を汲む者、家中の面を保つ者、地方の事情を抱える者。皆、上様の大きさを支えようとして、逆に削れていく」
「……」
「それでも上様は、なお前へ出られる。人がついてきているか、ついてこられているかを、あまり振り返られぬ」
信長の目が、ゆっくりと細くなった。
「日向」
「は」
「それを申すために、朝早く本能寺まで来たか」
「はい」
「命を懸けてまで」
「……はい」
その「はい」は、昨夜までとは意味が違った。
もはや謀反の覚悟ではない。
この場で本音をぶつける覚悟だ。
信長は、そこで初めて龍之介へ視線を移した。
「おぬしが言わせたか」
来た、と龍之介は思った。
ここで余計な言い訳は不要だ。
だが光秀の言葉を自分の手柄のように扱うのも違う。
「申すべきことを、申す場へ持ってきただけにございます」
「器用なことを言う」
「不器用なままでは、ここまで来られませぬ」
信長の口元が、わずかに上がる。
「面白い男だ」
「そうありたいと思うております」
「そうか」
信長はまた光秀へ戻る。
「で、日向。おぬしは、儂が人を見ぬと言うか」
「見ておられます」
「ほう」
「見てはおられる。だが、見たうえで斬り捨てるのが早い」
部屋の空気が張る。
普通なら、ここで信長が怒鳴っていてもおかしくない。
だがこの男は怒鳴らない。
むしろ、相手がどこまで踏み込むかを見ている。
「おぬしは、儂が怖いか」
不意に信長が問うた。
光秀は答えず、一拍置いた。
その間の長さこそが答えのようでもあった。
「怖うございます」
やがて光秀は言った。
「恐れぬ者はおりませぬ」
信長は少しだけ顎を引く。
「ならば、それでよいではないか」
「よくはありませぬ」
光秀は、はっきりと返した。
「恐れで動く者は、いつか恐れゆえに壊れます」
その言葉が落ちた瞬間、信長の眼差しが初めて変わった。
怒ったのではない。
だが、ただの家臣の訴えを聞く目ではなくなった。
相手を“ものを言う者”として認めた目だ。
龍之介は、その変化を感じた。
いけるかもしれない。
まだ、完全ではない。だがただの叱責や処断の流れではなくなっている。
「……儂を恐れるか」
信長が低く繰り返す。
「はい」
「憎いか」
「……時に」
「時に、か」
「ですが」
光秀はそこで息を整えた。
「惜しくもございます」
龍之介の胸が、そこで微かに熱を持った。
光秀もまた、その言葉を使った。
惜しい。
それは理屈だけで動いていない証でもある。
信長は、今度こそわずかに目を見開いた。
想定していなかったのだろう。
恐れる、憎む、ならまだ分かる。
だが惜しいと来る。
「何がだ」
信長が問う。
「上様が、でございます」
光秀は静かに言った。
「この国をこれほどまでに大きく動かせる御方は、他におりませぬ。ゆえに、なおのこと危うい」
部屋が静まる。
信長は光秀を見ていた。
表情は薄い。
だが龍之介には、その内側で何かが動いたのが分かった。
この男は、ただ褒められて喜ぶ人物ではない。
恐れられることにも慣れている。
だが“惜しい”と、“危うい”が並ぶのは、さすがに新鮮だったのかもしれない。
「龍之介」
不意に名を呼ばれた。
「は」
「おぬしは、どう見る」
来た。
ここで自分が出る。
だが出すぎてはいけない。
光秀と信長の言葉を奪わず、それでいて場を次へ進めるだけの一言が要る。
「恐れながら」
龍之介は一礼し、顔を上げた。
「上様は、人を使うのがうますぎます」
信長の眉がほんの少し動く。
「それが、日向守殿をここまで追い詰めた一因かと」
「……ほう」
「上様は、使える者へは容赦なく役目を与え、その役目を果たせばさらに重くする。見込みがあるからこそですが、それが重すぎる時もある」
信長は黙って聞いている。
「日向守殿ほどの方なら、なおさらです。戦も都も寺社もこなし、面子も繋ぎ、汚れも引き受ける。できるからこそ任される。ですが人は、使い続ければ摩耗いたします」
龍之介は、そこで少しだけ笑みを含めた。
「現場でも、働く者を使い潰す上役は嫌われます」
その言い方に、信長の口元がわずかに歪んだ。
「現場、か」
「はい。どの世でも、前に出る者は後ろの疲れを忘れがちにございます」
信長は、そのまま少し考えるように視線を流した。
怒ってはいない。
だが受け流してもいない。
「面白い」
やがて信長が言う。
「日向は儂が速すぎると言い、おぬしは使いすぎると言う」
「どちらも、同じことの裏表にございます」
「……かもしれぬな」
信長が、そこで初めて少しだけ肩の力を抜いた。
その一瞬だった。
それまで張り詰めていた場が、ほんのわずかに“会話できる場”へ近づいた。
龍之介は逃さず、静かに言った。
「上様」
「何だ」
「ここで軍議のように是非を争っても、たぶん答えは出ませぬ」
「ならば」
「茶を」
信長の目が、すっと細まる。
「茶、とな」
「はい。日向守殿と、腹を割るにはその方がよろしいかと」
光秀は何も言わない。
だが反対もしていない。
昨夜定めた策の、ここが肝だ。
「儂と日向で茶を飲め、と」
「できれば、そこで」
信長はしばし無言だった。
その沈黙が長い。
龍之介は自分の鼓動が耳に近くなるのを感じた。
ここで拒まれれば、まだ流れは壊れうる。
やがて信長は、ふっと息を吐いた。
「……よい」
短い一言だった。
だが龍之介には、それがどれほど大きいか分かった。
茶の席へ移る。
それはすなわち、ここを即断即決の処断の場にしないということだ。
信長が立ち上がる。
その動きひとつで、場がまた引き締まる。
しかし先ほどまでの冷たさだけではない。
何が出るか分からぬ、濃い場へ移る前の静けさだ。
「龍之介」
「は」
「おぬしも来い」
龍之介は一瞬だけ目を瞬いた。
「よろしいので」
「儂が面白いと思ううちは、よい」
あまりに信長らしい返答で、龍之介は心の中で苦笑した。
「ありがたく」
「ただし」
信長の目が鋭くなる。
「場を壊せば、最初におぬしを斬る」
「肝に銘じます」
「よろしい」
信長はそう言って、襖の奥へ歩き出した。
光秀が続く。
龍之介もまた、その背を追う。
廊を進むあいだ、朝の光が板の間に長く差していた。
本能寺はまだ静かだ。
燃えていない。
誰も死んでいない。
その事実が何よりも重かった。
茶室へ向かう途中、光秀がごく小さく言った。
「龍之介殿」
「は」
「ここから先は、たぶん本当に腹を割ることになる」
「でしょうな」
「上様は、人を斬るより先に、人の肝を試すことがおありだ」
「覚悟しております」
「……しておらぬ顔だが」
「内心はかなりしております」
「そうか」
その短いやりとりに、昨夜からの距離が少しだけ縮まっているのを感じた。
だが油断はない。
この先で信長と光秀が本当に腹を割れば、それは同時に、互いの最も深いところを抉り合うことでもある。
龍之介は自分に言い聞かせた。
ここからが、本当の勝負だ。
本能寺を燃やさなかっただけでは足りない。
信長と光秀の間に残った火種を、火薬庫ごと抱えたまま次へ運ぶことはできない。
茶室の前へ至る。
信長が先に入り、光秀が続き、龍之介もその末へ座る。
炉の気配、茶の道具、張りつめた静けさ。
武の場とは違う。
だが、ここはここで戦場だ。
信長が、座したまま二人を見た。
「さて」
その一言に、茶室の空気が決まる。
「ここからは、本当に腹を割ろうか」
龍之介は、自分の背筋が自然と伸びるのを感じた。
歴史は、まだ燃えていない。
その代わり、いまここで、人の腹の底が火を吹こうとしている。




