第1話 最期の願いは、今期アニメの最終回
三上龍之介は、自分が死ぬのだろうと、かなり前から分かっていた。
医者の口ぶりが少しずつやわらかくなった頃には、もう察していたし、娘や孫たちが病室で妙に明るく振る舞うようになってからは、ああ、皆も分かっているのだなと受け止めていた。
百年も生きれば、そういう空気は分かる。
窓の外は、よく晴れていた。
春とも初夏ともつかぬ柔らかな日差しが、白い病室の壁に薄く滲んでいる。消毒液の匂い、乾いたシーツの感触、規則正しく鳴る機械音。病院という場所は、最後まで生と死の境目を曖昧にしているものだと、龍之介は半ば感心しながら天井を見上げていた。
「じいじ、苦しくない?」
ベッド脇の椅子から、孫娘がそっと尋ねてくる。高校生になったばかりのその子は、泣くのを我慢しているのが丸分かりで、鼻の頭が少し赤かった。
「苦しくはないさ」
龍之介はかすれた声で答え、ゆっくりと笑った。
「腹が減っているくらいだ」
「こんな時まで……」
娘が呆れたように眉を下げ、その隣で息子が「親父らしいな」と小さく笑う。笑い声はすぐに途切れたが、それでも空気が少しだけ和らいだ。
龍之介はその様子を見るのが好きだった。
若い頃は戦場も見た。焼けた町も、飢えた人間も、理不尽な死も見た。終戦の後は工場に入り、油にまみれ、怒鳴られ、怒鳴り返し、現場の技術者として何十年も働いた。結婚もした。子を育て、家を守り、妻を見送り、友を見送り、それでも自分はずいぶん長くこちら側に残った。
良い人生だったのかと問われれば、良かったと答えられる。
見栄でもなく、本当にそう思えた。
もっとも、真っ当な好々爺だったかと問われれば、少し首をひねるが。
「じいじ、ほら」
孫息子がスマートフォンの画面をこちらへ向けてくる。
「前に言ってたやつ。今日の夜、最終回だって」
画面には、深夜アニメの告知が映っていた。剣と神々と宇宙戦艦と美少女が全部乗せになったような、いかにも近年らしい作品である。龍之介は入院してからもそれを毎週楽しみにしていて、展開について孫たちと本気で語り合っていた。
「そうか……今夜か」
「録画しとく?」
「いや、録画してもな」
言いかけて、龍之介は小さく肩をすくめた。
もう、自分は今夜まで保たないだろう。身体の奥に流れる時間が、静かに、しかし確実に終わりへ向かっているのが分かる。
不思議と怖くはなかった。
未練がないわけではない。だが未練と恐怖は別物だ。百年も生きれば、やり残しを数えればきりがないし、逆に言えば、いちいち数えていたら死ねもしない。
娘がタオルで目元を押さえながら言う。
「お父さん、本当に最後まで変わらなかったね」
「そうか?」
「戦争の話より刀の話、仕事の話より寺の話、寺の話より最近はアニメの話ばっかりだった」
「文化は大事だ」
「そういう話じゃないのよ」
泣き笑いのような声に、病室の空気がまた少し揺れた。
龍之介は目を閉じた。
若い頃から、剣が好きだった。槍も好きだった。弓も銃も好きだった。
戦うことそのものが好きだったわけではない。そんなものを好きだと言い切れるほど、人の死に鈍くはなれなかった。ただ、技が好きだった。人が長い時間をかけて練り上げた理屈と工夫と鍛錬の結晶、その極みに触れるのが好きだった。
だから武術を学んだ。剣術も、槍術も、柔も、古武道も、齧れるだけ齧った。年を取ってからも朝の素振りはやめなかったし、寺社仏閣を巡っては古い奉納額や錆びた刀傷に見入った。戦国史も好きだった。史料も読むし、俗説にもいちいち目を光らせた。
そのくせ、孫に勧められればラノベも読むし、変身ヒロインものに本気で泣くし、ロボットアニメの最終決戦で拳を握る。
我ながら、ずいぶんと節操のない人生である。
「じいじ」
小さな手が、皺だらけの手を握る。
孫娘の手だった。あたたかい。
「向こうでも、刀とかあるかな」
「どうだろうな」
「おばあちゃん、待ってるかな」
「待ってるとしたら、遅いって怒られそうだ」
今度は本当に、皆が少し笑った。
それでよかった。
泣き顔だけを残して死ぬのは、どうにも性に合わない。
呼吸が浅くなる。胸の奥がひゅう、と細く鳴る。
目を開けると、窓の向こうの青が、少しだけ滲んで見えた。
妻のことを思い出した。
工場で指を焼いた日のことも、初めて娘を抱いた日のことも、息子と殴り合い一歩手前の喧嘩をした日のことも、孫たちにタブレットの使い方を教わった日のことも、妙に等しい重さで胸に浮かぶ。
人間の最後とは案外、人生の大事件だけでできているわけではないらしい。
夕餉の匂い。古い木刀の重み。参道の石段。蝉時雨。工場の鉄の熱。妻の小言。孫の笑い声。そんな断片が静かに寄せては返していく。
龍之介は、自分が満ち足りているのを知った。
ああ、悪くなかった。
本当に、悪くない人生だった。
ただ――。
「じいじ?」
誰かが顔を覗き込む気配がする。
龍之介は、薄く目を開け、かすれた唇を動かした。
「……ひとつだけ、心残りがある」
娘が身を乗り出した。息子も、孫たちも顔を寄せる。
家族の表情には、それぞれの覚悟と悲しみが浮かんでいた。
おそらく皆、遺言のようなものを想像したのだろう。
財産の話かもしれない。家のことかもしれない。
あるいは、戦争を生き抜いた父として、百年を見た老人として、何か深い言葉を残すのではないかと。
龍之介は、その期待をたぶん裏切った。
「今期アニメの……最終回……見たかったな……」
一瞬、沈黙が落ちた。
次いで、孫息子が吹き出した。
「じいじ、それかよ!」
「最期の言葉がそれ!?」
「いや、でもじいじらしい……」
娘は泣きながら笑い、息子は顔を覆って肩を震わせた。孫娘は「録画しとくから!」と半泣きで叫んでいる。
その反応が可笑しくて、龍之介は喉の奥で小さく笑った。
うまく声にはならなかったが、それで十分だった。
病室の光がゆっくり遠のいていく。
握られた手のあたたかさも、やがて水の中へ沈むように薄れていく。
機械音が遠くなる。誰かが名を呼んでいる。
最後に思ったのは、ああ、結局、人は死ぬ間際まで人間のままなのだな、ということだった。
英雄にも賢者にもならず、好きなものを好きだと思ったまま終われるなら、それはきっと幸福だ。
そうして三上龍之介は、百年の生涯を終えた。
◇
――だが、終わったはずの意識は、そこで不意にまた浮かび上がった。
はじめに感じたのは、静けさだった。
病室の機械音も、人の泣き声もない。
しん、と澄んだ静けさ。耳が痛くなるような無音ではなく、寺の本堂に足を踏み入れた時のような、音そのものが落ち着いて沈んでいる静けさだった。
龍之介は、ゆっくり目を開けた。
見上げた先には木組みの高い天井がある。白ではない。木だ。しかも古びてはいても薄汚れてはいない、よく手入れされた木の色だ。鼻をくすぐるのは消毒液ではなく、乾いた畳と木の匂い。それに、どこかほのかに香の気配も混じっている。
「……ほう」
思わず、そんな声が漏れた。
身体を起こす。驚くほど自然に起き上がれた。さっきまで病床に伏し、肺が絞られるような感覚に耐えていたはずなのに、妙に身体が軽い。軽いというより、痛みも重さもない。
見回せば、そこは広い和室だった。
いや、和室というには少し広すぎる。板の間と畳敷きが組み合わされた大広間で、奥には几帳にも似た仕切り、左右には太い柱、遠くには閉ざされた襖。寺社とも、武家屋敷とも、役所とも取れる、不思議な空間だった。
死後の世界、というものを本気で想像したことはない。
極楽浄土にしては俗っぽいし、地獄にしては落ち着きすぎている。
「……死んだ、のだろうな」
口にしてみると、その言葉は案外するりと胸に収まった。
悲鳴も混乱もない。
もちろん驚いてはいる。だが、狼狽というほどではない。
百年も生きたのだ。死んだ後に少しくらい珍妙なことが起きても、「そういうこともあるか」と思えてしまうあたり、自分でもどうかしていると龍之介は思う。
膝に手を置き、ゆっくりと呼吸する。
ちゃんと息は吸える。
苦しさはない。視界も妙に澄んでいる。
耳を澄ませば、どこか遠くで風が鳴るような気配がした。
「さて」
龍之介は、小さく呟いた。
「ここがあの世なら、ずいぶん趣味が良い」
そう言った途端、前方の襖がすう、と音もなく開いた。
人の気配がある。
龍之介は自然と姿勢を正した。
長い人生で染みついた癖だった。目上か、敵か、あるいはそのどちらでもない何かが現れる時、人はまず相手を見る前に呼吸を整えるべきだと、彼は知っている。
開いた襖の向こうから現れた影を見て、しかし龍之介はさすがに一度、瞬きをした。
若い娘だった。
いや、娘というにはあまりにも整いすぎていて、気配が奇妙だった。
黒髪は夜のように艶やかで、白い肌には人ではない澄み方がある。装いは古風な和装だが、どこか威厳を帯び、そのくせ顔立ちは驚くほど愛らしい。大きな瞳には、人を試すような光が宿っていた。
美少女。
龍之介は脳内でそう評したあと、さすがに自分で少し呆れた。
死後の世界で最初に出てきた感想がそれか、と。
だが、その少女がこちらを見て、すっと顎を上げた瞬間、場の空気が変わった。
可憐だ。
それでもなお、一目で分かる。
この娘は、ただの娘ではない。
人の形をしていても、人の尺度では測れぬ何かだ。
少女は龍之介を見つめ、ふっと口元をゆるめた。
「三上龍之介殿」
声は澄んでいた。鈴のようでいて、妙に耳の奥へ響く。
「お目覚めのところ悪いが、少し話をしてもらうぞ」
龍之介は、その言葉の重みと、少女の纏う得体の知れぬ威に触れ、ようやく理解した。
ああ、なるほど。
ここは本当に、死後の世界なのだ。
そしてたぶん、目の前のこれは――
閻魔大王とは、とても思えぬほどの美少女だった。




