第9話 審査の行方
ルシアンが王都へ発ったのは、秋が深まり始めた頃だった。
「推敲は完了しました。あとは、審査委員会に提出するだけです」
出発の朝、玄関先で彼はそう言った。
手には、私たちの論文が入った革の鞄。二週間の執筆と一週間の推敲。三週間分の努力が、あの中に詰まっている。
「審査は、どのくらいかかりますか」
「最短で三週間。ただし、異例の速さで審査を求めることになります。抵抗があるかもしれません」
ルシアンの表情は穏やかだったが、目の奥に緊張の色があった。
「抵抗、ですか」
「審査委員会には、様々な立場の人間がいます。学術的な価値だけで判断する者もいれば……そうでない者もいる」
政治的な思惑。
言葉にしなくても、分かった。
「具体的には、どのように進めるのですか」
「まず、他の委員に事前説明を行います。論文の意義を理解してもらえれば、審査会での議論がスムーズになる。それから——」
ルシアンは少し声を落とした。
「——問題は、ガストン卿です。宰相補佐で、審査委員の一人。王太子殿下に近い方です」
ガストン。
その名前には覚えがあった。断罪の夜、王太子の傍らに立っていた貴族。
「彼が反対に回る可能性は」
「高いでしょう。ですから、彼には別のアプローチを考えています」
「別の?」
「学術的価値だけでなく、『王国の利益』という観点から説明するつもりです。記録魔法による知識普及は、民の教育水準を上げ、ひいては国力の向上につながる。そういう論理で」
ルシアンの目が、真剣に光っていた。
「政治家には、政治家の言葉で話す必要があります」
この人は、学者であると同時に、政治の世界も理解している。
その両面を持っているからこそ、院長という地位にいるのだろう。
「ルシアン様」
「はい」
「無理は、しないでください」
私の言葉に、ルシアンは少し驚いた顔をした。
「私のために、危険を冒す必要はありません。もし審査が通らなくても——」
「通します」
ルシアンの声は、静かだが力強かった。
「貴女の論文には、学術的価値がある。それを世に出すのは、学術院院長としての責務です。政治的な思惑で潰させるわけにはいきません」
その言葉に、胸の奥が締めつけられた。
「……ありがとうございます」
「お礼は、審査が通ってからお願いします」
ルシアンは眼鏡の奥で目を細めた。あの表情が微笑みだと、もう分かるようになっていた。
「結果が出たら、すぐにお知らせします。それまで、どうかお体を大切に」
「ルシアン様こそ」
馬車に乗り込む前、ルシアンが振り返った。
「カミーユ嬢」
「はい」
「……また、お会いできることを楽しみにしています」
その言葉を残して、馬車は走り去った。
私は馬車が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
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ルシアンが去った後、日々は急に静かになった。
工房に入ると、並んだ二つの机が目に入る。片方は私の席。もう片方は、彼が使っていた席。
そこに座る人は、もういない。
三週間、共に過ごした時間。議論し、書き直し、時には行き詰まって沈黙した時間。夜中にお茶を淹れた台所。星を見上げた庭。
あの密度の濃い日々が、まるで夢だったかのように思える。
ふと、彼の席に置きっぱなしになったペンが目に入った。
インクで少し汚れた、使い込まれたペン。
……返さなければ。
そう思いながら、なぜかそのペンを手に取れなかった。
「寂しいかい」
マチルダ伯母が、工房の入口に立っていた。
「寂しいなんて——」
「顔に書いてあるよ。それに、さっきからその席をじっと見てる」
返す言葉がなかった。
「まあ、気持ちは分かるさ。あの坊やは悪くない。真面目だし、お前のことを本気で考えている」
「仕事の話です」
「はいはい」
伯母は肩をすくめた。
「で、待っている間、何をするつもりだい」
待っている間。
審査結果が出るまで、私にできることは限られている。でも、何もしないわけにはいかない。
それに——じっとしていると、余計なことを考えてしまう。
「識字教室を拡大します」
私は答えた。
「それと、絵本の増産。トマが集めてくれたデータによると、隣村にも需要があるそうです」
「ほう」
「子どもたちだけじゃなく、大人の中にも『字を学びたい』という人がいるらしくて。農作業の合間に通えるような、夜間の教室を開けないかと考えています」
「資金は大丈夫なのかい」
「ギヨームさんからの売上が安定してきました。それと、伯母様に甘えることになりますが——」
「必要なら出すよ。投資だと思ってる」
伯母はあっさりと言った。
「お前の事業は、いずれこの領地に利益をもたらす。先に投資しておくのは当然さ」
「ありがとうございます」
伯母の目が、少し柔らかくなった。
「お前、変わったね」
「……そうですか?」
「前は、『自分の価値を証明したい』と言っていた。今は、『届けたい人がいる』と言っている」
言われて、気づいた。
確かに、私は変わったのかもしれない。
断罪された時は、悔しさと怒りでいっぱいだった。自分を「無能」と呼んだ人たちを見返したいと思っていた。
でも今は、トマの顔が浮かぶ。子どもたちの顔が浮かぶ。字を覚えて、本を読んで、目を輝かせていた顔。
届けたい。
一人でも多くの人に、知識を届けたい。
それが、今の私の原動力だった。
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数日後、ルシアンから最初の手紙が届いた。
『審査委員会への提出は完了しました。予想通り、異例の速さでの審査には抵抗がありましたが、大祭前の発表という学術院の方針を理由に押し通しました。
事前説明は概ね順調です。四名の委員のうち三名は、論文の学術的価値を認めてくださいました。残る一名にも、明日お会いする予定です。
懸念はやはりガストン卿です。先日お話しした通り、『王国の利益』という観点から説明を試みましたが、反応は芳しくありませんでした。彼にとって、貴女は依然として『断罪された令嬢』なのでしょう。
ですが、諦めません。審査会までに、もう一度機会を作るつもりです。
お待たせして申し訳ありませんが、もう少しお時間をください』
手紙を読み終えて、私は息を整えた。
順調とは言えない。でも、ルシアンは諦めていない。
なら、私も信じて待とう。
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審査を待つ間、私は手を止めなかった。
識字教室は、週三回から週五回に増やした。夜間クラスも試験的に始めた。参加者は予想以上に多く、農家の若者や、商店の手伝いをしている女性たちが集まった。
「先生、俺でも字が読めるようになりますか」
三十代の男性が、恥ずかしそうに聞いてきた。
「もちろんです。年齢は関係ありません」
「でも、子どもと一緒に習うのは……」
「大丈夫です。大人だけのクラスを用意しています。同じ立場の人たちと一緒に学べますよ」
男性の顔が、明るくなった。
こういう瞬間が、私を支えていた。
絵本の増産も進めた。『ちいさなネズミのぼうけん』に加えて、新しい本も作った。農業の基礎知識をまとめた実用書。簡単な計算を教える本。大人向けの、字の練習帳。
魔力の消耗は激しかったが、休息を取りながら続けた。一日十冊の限界を守りつつ、少しずつ在庫を増やしていった。
トマは、私の右腕になっていた。
「先生、隣村の人たちが本を買いたいって言ってます」
「何冊くらい?」
「十冊。あと、識字教室をそっちでもやってほしいって」
「隣村で……」
「俺が教えに行ってもいいっすか? 基礎なら、俺でも教えられます」
トマの目は真剣だった。
「先生一人じゃ手が足りないでしょ。俺も手伝いたいんです」
感情がこみ上げた。
「……お願いしてもいい?」
「任せてください!」
トマは嬉しそうに走り去った。
その背中を見ながら、私は思った。
一人じゃない。
もう、一人じゃない。
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審査提出から二週間が過ぎた頃、マチルダ伯母の情報網から新しい知らせが届いた。
「面白いことになってきた」
伯母は、王都から届いた手紙を読みながら言った。
「何かあったのですか」
「王太子殿下が、聖女の動きを探っているらしい」
「王太子が……?」
「ああ。前から噂はあったんだ。王太子と聖女の間に、微妙な空気があるってね。でも、最近になって具体的に動き出したらしい」
私は息を呑んだ。
王太子レオポルド。断罪の夜、私を公衆の面前で糾弾した人物。エミリアの神託を信じて、婚約破棄を宣言した人物。
その彼が、エミリアを疑っている?
「どういうことですか」
「詳しいことは分からない。ただ、王太子が側近に『聖女の神託の根拠を調べろ』と命じたという話だ。聖女が『神託を整える』と言い始めてから、何かを感じ取ったのかもしれない」
「それは……」
「まだ楽観はできない。王太子が聖女を完全に切り捨てるとは限らないからね。だが、敵が一枚岩でないのは良いことだ」
伯母の言葉に、私は小さく、しかし確かに頷いた。
王太子がエミリアを疑い始めている。それは、もしかしたら——
希望の光かもしれない。
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審査提出から三週間目の朝。
待ちに待った手紙が届いた。
王立学術院の紋章。ルシアンの筆跡。いつもより厚い封筒。
震える手で封を切った。
『カミーユ嬢へ。
お待たせいたしました。審査結果をお知らせします。
論文は、審査委員会で承認されました。
審査会は、予想以上に激しい議論になりました。ガストン卿は「断罪された人物の論文を学術院が認めることは、王家の判断を否定することになる」と強く反対されました。
しかし、他の四名の委員は学術的価値を認めてくださいました。特に、魔法理論の権威であるヴェルヌ教授が「この研究は百年に一度の革新だ。政治的思惑で潰すべきではない」と発言されたことが決め手になりました。
最終的に、賛成四、反対一で承認が決定しました。
大祭の三日前、学術院の公開発表会で論文を発表する機会が与えられます。発表者は、筆頭著者である貴女です。
これは、貴女が勝ち取った機会です。
つきましては、発表の準備のため、王都にお越しいただきたく存じます。
お待ちしております。
——ルシアン・オルレアン』
手紙が、手から滑り落ちそうになった。
承認された。
論文が、承認された。
「……通った」
声が震えた。
「通ったんですか?」
マチルダ伯母が、私の顔を覗き込んだ。
「はい。通りました。賛成四、反対一で……」
言葉が続かなかった。
涙が、頬を伝った。
「よくやったね」
伯母が、私の肩を叩いた。
「お前の努力が、認められたんだ」
努力。
十歳の時に書いた論文。「くだらない」と言われて破棄された論文。
八年の時を経て、ようやく——
「伯母様」
「なんだい」
「私、王都に行きます」
涙を拭いながら、私は言った。
「発表をします。私の研究を、私の言葉で、王都の人たちに伝えます」
伯母は、満足そうに口元を緩めた。
「行っておいで。お前の舞台だ」
窓の外では、冬の気配を帯びた風が吹いていた。
大祭まで、あと十日。
私の戦いが、始まる。




