第8話 二人の論文
ルシアンからの返信は、三日後に届いた。
『状況は理解いたしました。大祭前の発表、私も全力で協力いたします。
ただし、時間がありません。論文の審査には最低三週間を要します。逆算すると、執筆に使える時間は一ヶ月程度。通常の共同研究では考えられない速度ですが、やるしかありません。
つきましては、私がエストレーユ領に滞在し、直接執筆作業を行いたいと考えております。学術院には休暇届を出します。ご迷惑でなければ、三日後にお伺いいたします』
手紙を読み終えて、私は深呼吸をした。
三日後。
ルシアンが来る。
しかも、滞在して共同執筆。
鼓動が速くなる。仕事の話なのに、なぜこんなに落ち着かないのだろう。
「休暇届、ねえ」
マチルダ伯母が、意味ありげに口角を上げて言った。
「院長が休暇を取って辺境の令嬢のところに泊まり込む。世間がどう見るか、分かっているのかね、あの坊やは」
「仕事です。論文執筆のためです」
「はいはい」
伯母の笑みが深くなった。何を言っても無駄だと悟り、私は話題を変えた。
「客室の準備をしなければ」
「もうしてあるよ。使用人たちが張り切ってる。『若い殿方がいらっしゃる』ってね」
顔が熱くなった。
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三日後、ルシアンは約束通りやってきた。
前回と同じ質素な馬車。前回と同じ銀縁の眼鏡。ただし、今回は大きな鞄を二つ抱えていた。
「お待たせいたしました」
玄関で出迎えると、ルシアンは少し息を切らしながら頭を下げた。
「資料を持参しました。記録魔法に関する先行研究、学術院の審査基準、過去に通過した論文の傾向……必要と思われるものは、すべて」
鞄の中身をちらりと見た。
本。本。本。そして、びっしりと書き込まれたメモの束。
「……すごい量ですね」
「時間がないので、準備できるものは全て持ってきました」
ルシアンの目は真剣だった。興奮で少し早口になっている。
「早速、始めましょう。一日も無駄にできません」
その熱意に、胸の奥に小さな火が灯った。
この人は、本気で私のために動いてくれている。
「はい。工房へどうぞ」
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工房に机を二つ並べ、作業環境を整えた。
壁には白紙を貼り、論文の構成を書き出していく。ルシアンが全体の流れを提案し、私がそれに意見を加える。
「まず、序論で記録魔法の現状と課題を整理します」
ルシアンがペンを走らせながら言った。
「次に、貴女の複製技術の原理を解説。実験データとして、複製の精度、魔力消費量、一日あたりの限界数を示します」
「それから、応用可能性ですね。出版への利用、知識普及への貢献」
「そうです。最後に、今後の展望と課題。審査委員が求めるのは『学術的価値』と『社会的意義』の両方です」
構成が決まると、分担を決めた。
私が担当するのは、記録魔法の実践面。自分の技術を言語化し、データを整理する。ルシアンが担当するのは、先行研究との接続と、学術的な文脈への位置づけ。
「貴女の技術は革新的です。ただ、学術論文として認められるには、既存の研究との関係を示す必要がある」
「既存の研究、ですか」
「ええ。記録魔法に関する研究は少ないですが、ゼロではありません。百年前のエルヴィン・ベルクの研究、五十年前のマリア・ヴァイスの分類……これらを踏まえた上で、貴女の技術がいかに革新的かを示すのです」
ルシアンの説明は明快だった。学術の世界には、学術の世界のルールがある。そのルールを知らなければ、どんなに優れた技術も認められない。
「分かりました。私は実践面を、ルシアン様は理論面を」
「そうです。そして、両方を繋ぐ部分は一緒に書きましょう」
一緒に。
その言葉に、また胸が騒いだ。
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執筆作業は、想像以上に過酷だった。
朝から晩まで、二人で机に向かう。私が書いた文章をルシアンが添削し、ルシアンが書いた文章を私が確認する。議論し、修正し、また議論する。
「この表現は曖昧です。『高い精度』ではなく、具体的な数値を」
「98%の再現率、でいいですか」
「それでいきましょう。あと、この段落は論理の飛躍があります。AからCに行く前に、Bを説明する必要がある」
ルシアンの指摘は的確だった。厳しいが、決して否定的ではない。「こうすればもっと良くなる」という方向性を常に示してくれる。
一方で、私もルシアンの文章に意見を言った。
「この部分、専門用語が多すぎませんか。審査委員は分かるかもしれませんが、将来この論文を読む人のことを考えると——」
「なるほど。平易な言葉に置き換えましょう」
ルシアンは素直に受け入れた。自分の意見に固執せず、より良いものを目指す姿勢。
対等だ。
彼は私を「教え導く」のではなく、「共に作る」相手として扱っている。
それが、何より嬉しかった。
しかし、作業は順調には進まなかった。
五日目の夜、私は序論の書き直しで行き詰まった。
「駄目です。何度書いても、しっくりこない」
机の上には、丸めた紙が山のように積み上がっていた。ボツになった草稿の数は、もう数えていない。
「問題は、導入部分です」
ルシアンが私の原稿を読み直しながら言った。
「記録魔法の『無能』という偏見に触れるかどうか。触れれば感情的になりすぎる。触れなければ、なぜこの研究が重要なのかが伝わらない」
「そうなんです。どちらを選んでも、何かが欠ける」
二人で黙り込んだ。
窓の外では、とっくに日が暮れていた。時計を見ると、夜中の二時を過ぎている。
「……少し、休みましょうか」
ルシアンが言った。彼の顔にも、明らかな疲労の色があった。目の下に隈ができている。
「いえ、もう少し——」
「カミーユ嬢」
ルシアンは静かに、しかしきっぱりと言った。
「倒れては意味がありません。明日の朝、新鮮な頭で考え直しましょう」
その言葉に、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。
「……そうですね」
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翌朝、不思議なことに、答えが見つかった。
「客観的な事実から始めればいいのです」
朝食の席で、ルシアンが言った。
「記録魔法が『無能』と呼ばれてきた歴史。それは偏見ではなく、『事実として、そう扱われてきた』という記述にする。感情を排して、客観的に」
「なるほど……」
「その上で、本研究がその評価を覆す可能性を示す。感情ではなく、データで」
霧が晴れるような感覚があった。
「やってみます」
その日のうちに、序論は完成した。
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執筆七日目の夜。
遅くまで作業を続けていた私たちは、休憩のために工房を出た。
屋敷の裏手には小さな庭がある。秋の夜風が心地よかった。満天の星が、黒い空に散らばっている。
「少し、息抜きをしましょう」
ルシアンが言った。彼の声には疲労が滲んでいたが、どこか穏やかだった。
しばらく黙って星を見上げていた。
「冷えてきましたね」
私が言うと、ルシアンは頷いた。
「お茶でも淹れましょうか。温まります」
「私が淹れます」
「いえ、私が——」
「お客様に淹れさせるわけには」
「共同研究者です。お客様ではありません」
ルシアンは目を細めて微笑んだ。その表情に、不覚にも見惚れてしまった。
結局、二人で台所に立つことになった。
湯を沸かしながら、ルシアンが口を開いた。
「カミーユ嬢」
「はい」
「……いえ」
彼は言葉を切った。湯気の立つ鍋を見つめている。
「何ですか」
「論文の話ではないのですが」
ルシアンは眼鏡を押し上げ、どこか困ったように続けた。
「貴女と一緒に仕事ができて、嬉しいです」
息が、浅くなった。
「八年間、貴女の論文を読み続けてきました。いつか執筆者に会いたいと思っていました。でも、実際に会って、一緒に仕事をして……想像以上でした」
「想像以上、とは」
「貴女は、私が思っていた以上に聡明で、情熱的で、そして——」
ルシアンは言葉を切った。
何かを言いかけて、飲み込んだ。その一瞬の躊躇いが、妙に気になった。
「——強い人だと思いました」
強い。
それは、きっと彼が本当に言いたかった言葉ではない。
でも、今はそれでいい。
「……強く、ないです」
私は首を振った。
「怖いことばかりです。聖女のこと、神託のこと、王都のこと。夜、眠れないこともあります」
「それでも、貴女は逃げなかった。戦うと決めた。それは、強さです」
ルシアンの灰青色の瞳が、私を真っ直ぐに見ていた。
「私は、そんな貴女を尊敬しています」
頬が、熱くなった。
何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
湯が沸く音だけが、静かに響いていた。
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翌日から、執筆はさらに加速した。
休憩時間を削り、食事も簡素になった。マチルダ伯母が夜食を差し入れてくれることが増えた。
「若いからって無理するんじゃないよ」
伯母は温かいスープを置きながら、二人の様子を見回した。机の上には原稿と資料が山積みになっている。
「ありがとうございます、伯母様」
「礼はいいよ。ただ、たまには窓を開けな。インクの匂いで頭がおかしくなるよ」
伯母は呆れた顔をしていたが、その目は優しかった。
ルシアンが頭を下げた。
「ご心配をおかけしております」
「心配なんかしてないさ。若い二人が夜通し机に向かってるのは、まあ、悪くない光景だね」
伯母は意味深に笑って、部屋を出ていった。
その言葉の意味を考える余裕もなく、私たちは作業に戻った。
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執筆十日目、トマが工房を訪ねてきた。
「先生、何か手伝えることないっすか」
トマは真剣な顔で言った。
「最近、先生忙しそうで。識字教室も俺がやってるけど、他にも何か——」
「トマ……」
「俺、字も読めるようになったし。難しいことは分かんないけど、できることなら何でもします」
その言葉に、胸が熱くなった。
ルシアンが穏やかな声で言った。
「では、お願いしたいことがあります」
「本当っすか!」
「論文には、実証データが必要です。貴女の——カミーユ嬢の活動が、実際にどんな成果を上げているか。それを示す情報を集めてほしいのです」
「具体的には、何を」
「三つあります」
ルシアンは指を立てた。
「一つ目。識字教室に通っている子どもの人数と、字を覚えた人数。二つ目。絵本を読んだ子どもたちが、どんな感想を持ったか。三つ目。一番人気の本は何か、その理由は何か」
「分かりました!」
トマの目が輝いた。
「任せてください。村の子どもたち全員に聞いてきます!」
駆け出していくトマの背中を見ながら、私は笑った。
「ありがとうございます。彼にも役割を与えてくださって」
「彼は貴女の最初の『成果』です。論文に彼の存在を入れることは、学術的にも意義がある」
ルシアンは真剣な顔で言った。
「それに——彼の成長は、貴女の活動の価値を証明しています。それを、審査委員にも見せたい」
この人は、本当に——
私のことを、私の活動を、心から認めてくれている。
そのことが、言葉にできないほど嬉しかった。
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執筆開始から二週間。
論文の初稿が完成した。
「……できた」
最後の一文を書き終えた時、私は呆然と呟いた。
机の上には、丸めた紙の山。何度も書き直した草稿。インクで汚れた指。徹夜続きで重くなった瞼。
すべてが、この瞬間のためにあった。
「できましたね」
ルシアンも、疲労と達成感が入り混じった顔で言った。彼の目の下の隈は、私と同じくらい濃くなっていた。
『記録魔法の複製技術と知識普及への応用可能性——エストレーユ領における実践的研究』
四十ページに及ぶ論文。二人で書き上げた、初めての共同研究。
「これから推敲と修正が必要ですが、ひとまず——」
ルシアンが立ち上がり、私に向き直った。
「おめでとうございます、カミーユ嬢。貴女の技術が、初めて学術の形になりました」
彼は手を差し出した。
私はその手を取った。
温かかった。大きくて、インクで汚れていて、この二週間を共に戦った手。
「ルシアン様も、おめでとうございます」
「私は補佐しただけです。これは、貴女の論文です」
「いいえ」
私は首を振った。
「二人の論文です」
ルシアンは少し驚いた顔をした。
そして、表情を和らげた。
「ええ。二人の論文です」
握った手を、どちらからともなく離した。
名残惜しいような、照れくさいような気持ちがあった。
窓の外では、秋の夕陽がエストレーユの丘を橙色に染めていた。




