第7話 交差する思惑
手紙を出してから、十日が過ぎた。
返事が届いたのは、秋の風が冷たくなり始めた頃だった。
王立学術院の紋章が押された封筒を見た瞬間、心臓が跳ねた。封を切る指が、わずかに震える。
『カミーユ・レヴィナス嬢へ。お手紙、拝読いたしました。ご提示いただいた条件について、基本的にすべて承諾いたします』
息を呑んだ。
基本的にすべて。
ほぼ全面的な受諾だった。
『第一の条件について。段階的に進めることに異存はありません。信頼は時間をかけて築くものです。まずは小規模な共同研究から始めましょう。
第二の条件について。貴女の独立性は最大限尊重いたします。学術院は貴女のパートナーであり、上位機関ではありません。ただし、「独立性」の具体的な線引きについては、今後ご相談させてください。貴女の意向を無視するつもりはありませんが、学術院としての立場上、確認しておきたい点がいくつかございます。
第三の条件について。名誉回復は慎重に進めます。時期が来るまで、公式な動きは控えます。
第四の条件について。噂の出所を調査いたしました。詳細は別紙に記しますが、宮廷内部から意図的に流されている可能性が高いと判断しております』
第二の条件に、確認事項が付いていた。
当然だ、と思った。学術院の院長として、何も確認せずに全て丸呑みする方が不自然だ。むしろ、この一点だけを相談事項として挙げてきたことに、彼の誠実さを感じた。
手紙には、もう一枚の便箋が同封されていた。
別紙には、ルシアンの調査結果が記されていた。噂が最初に確認されたのは王宮の侍女の間。そこから貴族の夫人たちに広がり、社交界全体に浸透した。広がり方のパターンは、過去に聖女派が情報操作を行った際と酷似している——と。
マチルダ伯母の推測が、裏付けられた。
手紙の最後には、こう書かれていた。
『私は貴女の味方です。どうか、信じてください。まずは共同研究の計画を立てましょう。記録魔法の学術論文を、貴女と共に執筆したいと考えております。詳細は次の手紙でお伝えします。——ルシアン・オルレアン』
便箋を胸に当てた。
味方。
その言葉が、冷えていた胸の奥をゆっくりと溶かしていくのを感じた。
頬が熱い。
手紙を読んでいるだけなのに、なぜこんなに心臓が騒ぐのだろう。
---
——同じ頃、王都グランディール。王宮の一角にて。
聖女エミリアは、私室の窓から中庭を見下ろしていた。
秋の薔薇が咲き誇っている。赤、白、黄金。色とりどりの花弁が、午後の光を受けて輝いていた。
美しい光景だ。けれど、エミリアの心は凪いでいなかった。
「——それで、どうなっているの」
振り返らずに問うた。
背後に控えていた侍女——リディアが、静かに答えた。幼い頃からエミリアに仕えてきた、影のような女だ。表情を崩すことがなく、命じられたことを淡々とこなす。エミリアにとって、最も信頼できる駒だった。
「はい、エミリア様。噂は順調に広まっております。『断罪された令嬢が学術院と結託し、名誉回復を企んでいる』と。貴族の間では、不快感を示す声が増えております」
「不快感、ね」
エミリアは薄く笑った。
不快感では足りない。
あの女——カミーユ・レヴィナスは、消えなければならない。
「学術院の動きは」
「院長のオルレアン卿が、辺境に足を運んだという報告がございます。私的な訪問とのことですが……」
「私的?」
エミリアの声が、わずかに鋭くなった。
「あの堅物が、私的な理由で辺境まで行くと思う?」
「……いえ」
「何か企んでいるのよ。あの男も、あの女も」
エミリアは窓から離れ、椅子に腰を下ろした。
カミーユ・レヴィナス。
半年前、この手で断罪した女。神託によって「王国に災いをもたらす悪」と告げた女。
あの夜、すべて終わったはずだった。追放され、社会的に死んだはずだった。
なのに——
「辺境で本を作っている、ですって?」
エミリアは、報告書を手に取った。ギヨームという商人が王都に持ち込んだ絵本の写し。子ども向けの、素朴な絵本。
「民に知識を届ける、と。まるで聖人みたいじゃない」
声に、苛立ちが滲んだ。
神託で「悪」と断じた相手が、民衆に称賛されている。それは、神託の正当性を揺るがす。聖女の権威を傷つける。
「エミリア様」
リディアが、慎重に口を開いた。
「噂だけでは、効果が薄いかもしれません。より直接的な手段を——」
「分かっているわ」
エミリアは報告書を机に投げた。
「神託を整える必要があるわね」
「……整える、とは」
「神の意志は、時に曖昧なもの。それを民に分かりやすく伝えるのが、聖女の役目よ」
エミリアは立ち上がり、鏡の前に立った。
自分に言い聞かせるように、続けた。
「あの女が『災い』であることは、神が示された真実。私はただ、それをより明確にするだけ。具体的に、誰にも疑えない形で」
リディアの顔が、わずかに強張った。
神託は聖女の特権だ。神の声を聞き、民に伝える。それが聖女の役割。
だが、神託を「整える」ことは——
「何か言いたいことがある?」
エミリアの視線が、リディアを射抜いた。
「……いいえ、エミリア様。仰せのままに」
「よろしい」
鏡の中の自分を見つめた。
金色の髪。碧い瞳。清らかな聖女の姿。
これは正しいことだ。
神の意志を、正しく伝えること。それが聖女の務め。
あの女が「悪」であることは、間違いない。神がそう告げたのだから。私はただ、それを民に分かりやすく示すだけ——
「準備を進めなさい。冬至の大祭までに、神託の内容を固める。あの女の脅威を——明確に示すために」
リディアは深く頭を下げた。
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——エストレーユ領。
ルシアンからの手紙を読み終えた後、私はマチルダ伯母に報告した。
「ほぼ全面受諾、か。第二条件に確認事項が付いているのは、むしろ誠実だね」
伯母は腕を組んで頷いた。
「何も聞かずに丸呑みする方が、かえって信用できない。あの男、ちゃんと考えて動いてるよ」
「はい。私も、そう思いました」
「それで、お前はどう感じた」
「……嬉しかったです」
正直に答えた。
「味方だと言ってくれる人がいるのは、心強いです」
「ふうん」
伯母の目が、意味ありげに光った。その視線の意味を考える前に、伯母は話題を変えた。
「それで、私の情報網からも連絡があった」
伯母の表情が、わずかに険しくなった。
「今朝、王都から来た。聖女が動くらしい」
「動く?」
「詳細は分からない。だが、冬至の大祭で何かを仕掛けるという噂だ」
大祭。
年に一度、王都で行われる大規模な祭典だ。聖女が神託を下し、王が民に祝福を与える。王国最大の宗教行事。冬至に行われるため、今から約二ヶ月後になる。
「神託を……」
「おそらくね。お前に関する神託を、改めて出す可能性がある」
胃の底に、冷たい石が落ちたような感覚があった。
半年前の断罪の夜が、脳裏に蘇った。
『この者は、王国に災いをもたらす悪である』
あの言葉が、もう一度繰り返されるのか。
いや——もっと具体的に、もっと明確に。
「対策は」
声が震えそうになった。それを押し殺すように、深く息を吸った。
伯母は私の様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
「怖いかい」
「……怖いです」
正直に答えた。
怖い。本当に怖い。あの夜のことを思い出すだけで、手が震える。
でも——
「でも、逃げません」
自分の声を聞いて、少し驚いた。思ったより、しっかりした声だった。
「逃げたところで、追いかけてくる。聖女にとって、私は『存在してはならない者』なんですから」
「……そうだね」
伯母は、挑むような笑みを浮かべた。
「なら、やることは一つだ」
「先に手を打つ」
私の言葉に、伯母は頷いた。
「そうだ。向こうが神託を出す前に、お前の評判を固める。学術院との提携を形にして、お前が『悪』ではないことを示す」
「でも、名誉回復は慎重に、とルシアン様と約束しました」
「慎重に進める、と約束しただけだろう。何もしないとは言っていない」
伯母の目が、鋭く光った。
「オルレアンの坊やに手紙を書きな。状況が変わった、と。大祭までに、何らかの形でお前の存在を王都に示す必要がある」
「示す、とは」
「学術論文だよ。共同研究の成果を、大祭の前に発表する。学術院が認めた研究者として、お前の名を王都に知らしめる」
それは——大きな賭けだった。
聖女と、正面からぶつかることになる。
「時間は」
「大祭まで約二ヶ月。論文を書いて、審査を通して、発表するには……ギリギリだ」
ギリギリ。
でも、不可能ではない。
「……分かりました」
私は頷いた。
「ルシアン様に、手紙を書きます」
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その夜、私は再び便箋に向かった。
『ルシアン・オルレアン様。お返事ありがとうございます。条件について、ご確認の件も含めて承知いたしました。独立性の線引きについては、今後ご相談させてください。
一つ、お伝えしなければならないことがあります。状況が変わりました。
聖女が、冬至の大祭で新たな神託を出す可能性があるという情報を得ました。おそらく、私に関する内容です。
つきましては、共同研究の発表を大祭前に行えないでしょうか。学術院が認めた研究者として、私の存在を示すことで、神託の効果を弱められるかもしれません。
無理なお願いであることは承知しております。お力をお貸しください』
ペンを置いた。
窓の外では、月が雲に隠れようとしていた。
怖い。
本当に怖い。
でも、もう決めた。
逃げない。戦う。
私の知識で、私の本で、私の存在で——戦う。
そして、隣には味方がいる。
その事実が、震える心を支えていた。




