第6話 揺れる天秤
ルシアンが去ってから、一週間が過ぎた。
毎日、返事を書こうとした。毎日、筆が止まった。
提携を受け入れるべきか。断るべきか。
頭では分かっている。学術院との提携は、私の事業にとって大きな助けになる。紙とインクの安定供給、流通網の整備、そして名誉回復の可能性。どれも、今の私には手が届かないものだ。
だが、心のどこかで警鐘が鳴っている。
王都との繋がりを持つことは、あの場所に再び巻き込まれることを意味する。断罪の夜を思い出すたびに、胃の奥が冷たくなる。
「また考え事かい」
工房の入口に、マチルダ伯母が立っていた。
「……分かりますか」
「お前は考え込むと、ペンを持ったまま止まる癖がある。もう三十分そのままだよ」
言われて、手元を見た。白紙の便箋に、インクの染みが一つ。書き出しすら決まっていない。
「伯母様」
「なんだい」
「私は、どうするべきだと思いますか」
マチルダは腕を組んで、壁に寄りかかった。
「お前に聞きたいことがある。提携を断ったとして、お前は今の規模で満足できるのかい」
答えに詰まった。
今の規模。識字教室の生徒は二十人を超えた。絵本の在庫は常に不足している。ギヨームからは追加注文が来ている。需要は確実にある。
けれど、私一人の魔力では、需要に応えきれない。
「……満足は、できません」
「だろうね」
伯母は頷いた。
「お前の夢は、本を届けることだ。一人でも多くの人に、知識を届けること。違うかい」
「違いません」
「なら、答えは出ているんじゃないのかい」
簡単に言う。でも、伯母の言葉には重みがあった。
「リスクを恐れて動かないのは、賢明なようで愚かだよ。リスクを見極めて、対策を立てて、その上で動く。それが本当の賢さだ」
冒険者として生き延びてきた人の言葉だった。
「対策、ですか」
「そうだ。お前が恐れているのは、王太子派に利用されることだろう。なら、利用されない条件を最初から提示すればいい」
条件。
その発想は、なぜか頭になかった。
「私から条件を出すのですか」
「当たり前だ。提携は対等な取引だよ。向こうの言いなりになる必要はない」
伯母の言葉が、胸に落ちた。
そうだ。私は「受け入れるか断るか」の二択で考えていた。でも、第三の選択肢がある。条件を付けて受け入れる。
「……ありがとうございます、伯母様」
「礼はいい。さっさと決めな」
伯母は手を振って、工房を出ていった。
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その日の夕方、ギヨームから手紙が届いた。
封を切ると、二枚の便箋が入っていた。一枚は商売の報告、もう一枚は——
『お嬢様へ。お知らせしたいことがございます。絵本は領都で好評を博しております。追加で二十冊、ご注文をお願いしたく存じます。また、王都の知人にも数冊を送ったところ、大変な反響がございました』
ここまでは良い知らせだった。
問題は、次の段落だった。
『ただし、一点、気がかりなことがございます。王都の書籍商に本を見せた際、「この本はどなたが作ったのか」と繰り返し聞かれました。私は正直にお答えしたのですが、その後、奇妙な噂が流れ始めたようです。「断罪された令嬢が、学術院と結託して名誉回復を企んでいる」と。貴族の間で広まっているとのことです。出所は分かりませんが、誰かが意図的に話を歪めて広めている印象を受けます。ご注意くださいませ』
手紙を持つ指が、冷たくなった。
噂。
ギヨームが王都の書籍商に話した。それが広まった。だが、「学術院と結託」という言葉はどこから出てきた。ギヨームは学術院のことなど知らないはずだ。
誰かが、別の情報源を持っている。
ルシアンの訪問を、誰かが監視していたのか。あるいは、学術院の内部に情報を漏らす者がいるのか。
「……まずいな」
呟いた声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
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翌朝、識字教室に向かった。
最近、生徒が増えたことでトマに初歩の文字を教える手伝いを頼んでいた。年の近い子ども同士の方が、緊張せずに学べることもある。
教室に入ると、トマが黒板の前に立っていた。チョークを手に、文字を書いている。
「いいか、これが『あ』だ。丸を描いて、棒を引く」
周囲には、年下の子どもたちが座っていた。真剣な顔でトマの手元を見ている。
私は入口で足を止めた。
トマは振り返らなかった。教えることに集中している。その横顔は、一ヶ月前とは別人のように見えた。
「先生、来たよ」
リゼットが私に気づいて手を振った。トマがようやく振り返る。
「あ、先生。すみません、勝手に始めちゃって」
「いいの。むしろ助かってる。続けて」
私は教室の隅に座った。
トマの教え方は、拙いけれど熱心だった。自分が学んだことを、そのまま伝えようとしている。つまずいた子には、「俺も最初はできなかった」と声をかける。子どもたちも、年の近いトマの言葉には素直に耳を傾けていた。
一ヶ月半前、自分の名前も書けなかった少年が、今は人に教えている。
胸の内側に、小さな灯がともった。
教室が終わった後、トマが近づいてきた。
「先生、最近なんか元気ないっすね」
「そう見える?」
「うん。なんか、難しい顔してる時が多い」
子どもは鋭い。
「少し、悩んでいることがあるの」
「俺に言っても分かんないと思うけど、聞きますよ」
トマは真剣な顔で言った。その表情が、大人びて見えた。
「ありがとう。でも、大丈夫。自分で決めなきゃいけないことだから」
「そっか」
トマは少し寂しそうな顔をしたが、すぐに笑った。
「先生が決めたことなら、俺は応援しますよ。先生のおかげで、俺、字が読めるようになったんだから」
その言葉が、胸に響いた。
届いている。
私の本は、確かに届いている。
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その夜、私は便箋に向かった。
ルシアンの顔が浮かんだ。興奮すると早口になる癖。眼鏡の奥の、真剣な瞳。「八年間、ずっとお会いしたかった」と言った時の、嘘のない声。
あの人なら、信じられるかもしれない。
そう思った自分に、少し驚いた。
今度は、筆が止まらなかった。
『ルシアン・オルレアン様。ご提案いただいた提携について、お返事いたします。私は、条件付きで提携をお受けしたいと考えております』
条件を書き連ねた。
第一に、提携は段階的に進めること。——いきなり大きく動けば、反発も大きくなる。最初は小規模な共同研究から始め、信頼関係を築いた上で拡大したい。これが、私の慎重さの限界だった。
第二に、私の事業の独立性を尊重すること。——学術院の下請けになるつもりはない。対等なパートナーとして協力する形でなければ、私の意味がない。これだけは、譲れなかった。
第三に、名誉回復については慎重に進めること。——正直に言えば、これが一番怖い。時期尚早な動きは、かえって反発を招く。あの断罪の夜を、もう一度味わいたくない。
第四に、王都での噂について情報を共有すること。——誰が、何の目的で流しているのか。それを知らなければ、対策が立てられない。貴方の力を、貸してほしい。
『以上の条件をご検討いただければ幸いです。お返事をお待ちしております』
署名を入れて、封をした。
手紙を持って、窓の外を見た。
月が出ていた。エストレーユの丘を、青白い光が照らしている。
怖くないと言えば嘘になる。
王都との繋がりを持つことは、あの断罪の夜に近づくことだ。もう一度、あの冷たい視線に晒されるかもしれない。もう一度、全てを奪われるかもしれない。
けれど。
トマの顔が浮かんだ。文字を覚えて、人に教えるようになった少年。
子どもたちの顔が浮かんだ。絵本を読んで、目を輝かせていた顔。
ギヨームの手紙が浮かんだ。「好評を博しております」という言葉。
届けたい人がいる。
届けなければならない人がいる。
そのために、動く。
「リスクを見極めて、対策を立てて、その上で動く」
伯母の言葉を、声に出して繰り返した。
私は、動く。
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翌朝、手紙を馬車便に託した。
王都へ向かう馬車が、朝霧の中を走り去っていく。
その姿を見送りながら、私は深呼吸をした。
賽は投げられた。
あとは、返事を待つだけだ。
工房に戻ろうとした時、マチルダ伯母が玄関に立っているのが見えた。その手には、封を切った手紙が握られていた。
「出したのかい」
「はい」
「そうか」
伯母は頷いた。その目には、承認の色があった。
「なら、次はこちらも動くとしよう」
「こちら、とは」
「王都の噂の出所だよ」
伯母は手にした手紙をひらひらと振った。
「昨夜、王都の古い仲間から連絡があった。冒険者時代に世話になった情報屋でね。噂の広がり方に特徴があるらしい。宮廷の侍女や従者の間から始まって、貴族の社交界に流れている」
「それは、つまり——」
「王宮に近い誰かが、意図的に流している。そして、王宮に近くて、お前を敵視する理由がある人間といえば——」
伯母の目が、鋭く光った。
「聖女派だ」
その言葉に、首筋を冷たい指でなぞられたような感覚が走った。
聖女。エミリア。
断罪の夜、私を告発した少女の顔が、脳裏に浮かんだ。
「なぜ、彼女が」
「お前が活躍すれば、断罪の正当性が揺らぐ。神託で『悪』と断じた相手が、民に知識を届けて称賛されている。それは聖女の権威を傷つける」
——なるほど。
私は、存在するだけで彼女にとっての脅威なのだ。
「対策は」
「方向性は考えてある。だが、お前の返事が先だった。学術院と手を組むなら、向こうの情報網も使える。私の伝手と合わせれば、噂の出所を特定できるはずだ」
伯母は不敵に笑った。
「さあ、反撃の準備だ」
朝霧が晴れていく。
エストレーユの丘に、朝日が差し込んでいた。




