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無能と呼ばれた魔法で世界を変えてみせます  作者: 九葉(くずは)


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第5話 八年越しの邂逅 

手紙を受け取ってから、二週間が過ぎた。


返信を書くのに三日かかった。何度も書き直した。断る文面を考えたこともある。王都の機関と関わることは、せっかく手に入れた平穏を壊すかもしれない。


それでも、断れなかった。


八年間、探していた——その一文が、頭から離れなかった。


十歳の私が書いた論文を、誰かが読んでいた。父に「くだらない」と切り捨てられたあの論文を、価値のあるものとして探し続けた人がいた。


会って、話を聞きたい。


その気持ちには嘘をつけなかった。


返信には、エストレーユ領での面会を提案した。王都に行く気はなかった。断罪された場所に、自分から戻る勇気はまだない。


ルシアン・オルレアン院長からの返事は、三日後に届いた。


『承知いたしました。来週、お伺いいたします』


簡潔な文面だった。


---


約束の日、私は朝から落ち着かなかった。


工房を三度掃除した。棚の本を並べ直した。絵本の在庫を数え直した。意味のない行動だと分かっていても、手を動かしていないと不安に押しつぶされそうだった。


「そんなに緊張するなら、会わなければいいだろうに」


マチルダ伯母が呆れた顔で言った。


「会いたいから緊張するんです」


「ほう」


伯母の目が面白そうに光った。


「まあ、オルレアン家の息子なら悪い人間ではないだろう。母親とは昔、何度か組んだことがある」


「え?」


「冒険者時代の話さ。向こうは覚えていないかもしれないがね」


伯母はそれだけ言って、肩をすくめた。聞きたいことは山ほどあったが、窓の外で馬車の音がした。


昼過ぎ、馬車が屋敷の前に止まった。


窓から覗くと、一台の質素な馬車だった。王立学術院院長の来訪にしては、護衛もなく、紋章入りの馬車でもない。


馬車から降りてきたのは、長身の青年だった。


亜麻色の髪を後ろで束ね、銀縁の眼鏡をかけている。灰青色の瞳は穏やかで、どこか遠くを見ているような静けさがあった。服装は仕立ての良いコートだが、装飾は控えめだ。


私は深呼吸をして、玄関へ向かった。


---


「お初にお目にかかります、レヴィナス嬢。ルシアン・オルレアンです」


彼は丁寧に頭を下げた。院長という地位にある人間が、追放された令嬢に対してこの礼を取ることに、私は少し面食らった。


「カミーユ・レヴィナスです。わざわざお越しいただき、恐縮です」


「いえ。八年越しの願いが叶うのです。こちらこそ感謝しております」


八年越し。


その言葉を、彼は何でもないことのように口にした。


応接間に案内し、お茶を出した。マチルダ伯母は「若い者同士で話すといい」と言って姿を消した。その目が「オルレアン家なら大丈夫だ」と言っているように見えた。


「早速ですが」


ルシアンが口を開いた。


「貴女の論文について、お話しさせてください」


彼は鞄から一冊の冊子を取り出した。見覚えのある表紙だった。十歳の私が、拙い字で書いた論文の写し。


「これを読んだ時、私は十六歳でした。学術院の記録庫で、埋もれた投稿論文を整理する仕事をしていた時に見つけました」


ルシアンの声は静かだったが、熱がこもっていた。話し始めると、少しだけ早口になる。


「記録属性の魔法を、複製技術に応用する。その発想は、当時の私には衝撃でした。魔法学の常識を——いえ、常識という言葉では足りない。根本から覆す可能性があった」


彼は身を乗り出しかけて、はっとしたように姿勢を戻した。


「失礼。つい、熱くなってしまいました」


私は黙って聞いていた。


十歳の自分が何を考えていたか、正直よく覚えていない。ただ、記録属性を「無能」と呼ばれるのが悔しくて、何かに使えることを証明したかった。それだけだった気がする。


「執筆者を探しました。しかし、投稿時の記録には名前しかなく、レヴィナス家に問い合わせても『そのような論文は存在しない』と返答があるばかりで」


父だ、と思った。


父が握りつぶしたのだ。娘が「無能」な魔法について論文を書いたなど、家の恥だと考えたのだろう。


「諦めかけていた時に、貴女の噂を聞きました。エストレーユ領で本を作っている追放令嬢がいる、と。記録属性を使って、と」


ルシアンの灰青色の瞳が、逸らすことなく私を捉えた。


「八年間、ずっとお会いしたかった」


その言葉には、打算や社交辞令の匂いがなかった。純粋な、学者としての敬意と興味だけが込められていた。


胸の奥で、錆びついていた何かが軋んだ。


---


「見ていただきたいものがあります」


私は立ち上がった。


「工房へどうぞ」


ルシアンを工房に案内した。棚に並んだ絵本、積み上げられた練習帳、インクと紙の匂いが染みついた作業台。


「これが、記録魔法で作った本です」


私は絵本を一冊手に取った。


「実演をお見せします」


作業台に白紙の紙束を置いた。その隣に、完成した絵本を開いて並べる。


目を閉じ、魔力を集中させた。


指先に光が灯る。淡い銀色の輝き。


「『刻印』」


魔力が絵本の頁を走査し、情報を読み取る。文字、絵、配置、インクの濃淡——すべてを記録する。


「『転写』」


記録した情報が、白紙の紙束に流れ込む。銀色の光が紙面を滑り、文字と絵が浮かび上がっていく。


数秒後、白紙だった紙束は、絵本と同一の内容を持つ本になっていた。


指先がじんと痺れた。一冊程度なら問題ないが、連続すると消耗する。


目を開けると、ルシアンが息を呑んでいた。


彼の灰青色の瞳は大きく見開かれ、眼鏡の奥で光っていた。学者が未知の現象を目撃した時の、純粋な驚嘆の表情だった。


「……これは」


ルシアンは震える手で、複製された絵本を手に取った。頁をめくり、原本と見比べ、また頁をめくる。


「完全な複製だ。転写の精度が——いや待ってください、魔力効率は——一冊あたりの消費量は——対象の情報量と比例するのか、それとも——」


彼の口から、質問が滝のように溢れ出した。話すほどに早口になり、眼鏡がずれるのも気にしていない。


紅茶のカップに手を伸ばしかけて、興奮のあまり止まる。そのまま質問を続ける。


私は少しだけ笑った。


「お茶、冷めますよ」


「あ——失礼しました」


ルシアンは慌てて姿勢を正した。頬がわずかに赤い。


「つい、夢中に……」


「いえ。嬉しいです」


その言葉は、自然に出てきた。


私は質問に一つ一つ答えた。一日の複製限界は約十冊。それ以上は翌日に頭痛が残る。転写の精度は集中力に依存する。対象が複雑なほど消耗が激しい。


ルシアンは熱心にメモを取りながら聞いていた。時折、「なるほど」「素晴らしい」と呟く。その様子は、王立学術院の院長というより、新しい知識に夢中になった学生のようだった。


「レヴィナス嬢」


一通り質問が終わった後、ルシアンは真剣な表情で言った。眼鏡を直し、姿勢を正す。院長の顔に戻っていた。


「学術院と正式に提携していただけませんか」


予想していた言葉だった。


「提携、とは具体的にどのような」


「貴女の技術を学術院で研究させていただきたい。また、貴女の出版事業を学術院が支援することも視野に入れています。紙やインクの安定供給、流通網の整備、そして——」


ルシアンは一度言葉を切った。


「貴女の名誉回復にも、協力できるかもしれません」


名誉回復。


その言葉に、心臓が跳ねた。


断罪された私が、公的に名誉を回復する。それは夢のような話だった。同時に、危険な話でもあった。


頭の中で、可能性を計算する。


学術院は王家と繋がりが深い。私を断罪したのは王太子だ。王太子派がこの動きを知れば、「断罪を覆そうとしている」と反発するだろう。最悪の場合、学術院を通じて私の活動を潰しにかかるかもしれない。逆に、私を利用して王太子派内の権力争いに巻き込まれる可能性もある。


「……即答はできません」


私は正直に言った。


「学術院は王家との関係が深い。私を断罪したのは王太子殿下です。提携が公になれば、王太子派から『断罪を無効化しようとしている』と見なされる可能性があります。学術院にも、私にも、不利益が生じるかもしれません」


ルシアンは頷いた。反論も、説得もしなかった。


「当然のお考えです。リスクを無視して突き進むほど、私も愚かではありません。慎重に進める方法を、一緒に考えさせてください」


一緒に。


その言葉が、不思議と胸に残った。


「信頼していただけるまで、お待ちします」


その言葉に、嘘はないように聞こえた。


「一つ、お聞きしてもいいですか」


「何なりと」


「なぜ、私的な休暇を使ってここに来たのですか。公務として来ることもできたはずです」


ルシアンは少し驚いた顔をした。それから、眼鏡の奥の瞳を細めた。


「公務として来れば、記録が残ります。『院長が断罪された令嬢に会いに行った』という記録が。それが貴女にとって不利に働く可能性がありました」


実務的な理由だった。


だが、彼は続けた。


「それに——八年間探し続けた論文の執筆者に、公務として会うのは無粋だと思いました」


その言葉を、どう受け取ればいいのか分からなかった。


ただ、頬が少し熱くなったのを感じた。


---


ルシアンは夕方に帰路についた。


「お返事は、急ぎません。貴女のお気持ちが決まった時に、お聞かせください」


馬車に乗り込む前、彼はそう言った。そして、少しだけ微笑んだ。


「また、お会いできることを楽しみにしています」


「必ず、お返事します」


私は頭を下げた。


馬車が走り去るのを見送りながら、私は胸に手を当てた。心臓がまだ速く鳴っている。


「で、どうだった」


いつの間にか隣に立っていたマチルダ伯母が、意味ありげに口角を上げて言った。


「……真面目な方でした。興奮すると早口になるところは、少し可愛らしかったですけど」


言ってから、自分の言葉に驚いた。可愛らしい? 私は何を言っているのだ。


「ほう。可愛らしい、ね」


伯母の笑みが深くなった。


「それだけです」


「はいはい」


夕陽がエストレーユの丘を染めている。同じ景色なのに、二週間前とは違って見えた。


八年間、探してくれた人がいた。


私の論文を、価値のあるものとして見てくれた人がいた。


その事実が、胸の奥で静かに温かく灯っていた。

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