第4話 文字を届ける
教室に使っている倉庫の窓から、午後の光が斜めに差し込んでいた。
埃っぽかった空間は一ヶ月で様変わりしている。壁には私が描いた文字表が貼られ、床には藁を敷いた座布団が並ぶ。贅沢とは言えないが、子どもたちが文字を学ぶには十分だった。
「先生、できた」
トマが手を挙げた。
膝の上には『ちいさなネズミのぼうけん』が開かれている。最後のページだ。
私は彼の隣に腰を下ろした。
「読んでみて」
トマは唇を動かしながら、一字一字を追った。
「ネズミは……おうちに、かえりました。おかあさんが……まっていました。おわり」
声は小さかったが、確かに響いた。
一ヶ月前、この子は自分の名前すら書けなかった。文字は貴族のものだと思っていた。本を開くことさえ怖がっていた。
「全部読めたね」
私の声が少し震えた。
トマは照れくさそうに頬を掻いた。でも、その目は輝いていた。
「先生の絵、好き。ネズミがまるくて、かわいい」
「ありがとう。トマが読んでくれて、私も嬉しい」
周囲の子どもたちが集まってきた。12人。最初は4人だったのが、噂を聞いて増えた。親たちの反応は様々だったが、「文字が読めれば騙されない」という実利が効いたらしい。
赤毛のリゼットがトマの肩を叩いた。
「ずるい、トマばっかり褒められて」
「お前も読めるようになればいいだろ」
「読めるもん! ……たぶん」
子どもたちの笑い声が倉庫に満ちる。
この音を聞くたびに、胸の奥が温かくなる。断罪された日には想像もできなかった光景だ。
教室が終わり、子どもたちが帰っていく。
トマだけが残った。
「先生」
「どうしたの」
「この本、他の村にもあったらいいのに」
私は瞬いた。
「他の村?」
「うん。前に話した従兄弟がいるんだ、隣村に。あいつも本読みたいって言ってた。でも、本は高いって」
それは分かっていた。この世界で本は贅沢品だ。写本は時間がかかり、一冊の値段は平民の月収に届く。私の絵本は魔力で複製するから安く作れるが、材料費はかかる。
「考えておくね」
曖昧な返事しかできなかった。
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夕食後、工房で在庫を数えた。
教室用に配った分を除くと、絵本が28冊。農業の基礎知識をまとめた小冊子が15冊。識字教室用の文字練習帳が20冊。
魔力を注いで複製するたびに、指先が痺れる。一日の限界は10冊程度。それ以上やると翌日に頭痛が残る。
トマの言葉が頭から離れなかった。
他の村にも届けたい。でも、私一人の魔力には限界がある。
「考え事かい」
マチルダ伯母が工房に顔を出した。
「生徒が増えて嬉しいんだけど、本が足りなくて」
「ふむ」
伯母は棚に並んだ絵本を手に取った。
「売ればいい」
「え?」
「対価を取れ、という意味だ。材料費と労力に見合う金を受け取れ。慈善事業は立派だが、お前が倒れたら元も子もない」
売る。
その発想が、なぜか私の中で引っかかった。
前世の私は本を「商品」として見ていた。出版社で働いていたから当然だ。でも今の私は、本を「贈り物」として作っていた。子どもたちに文字を届けたくて。
「……でも、買える人は限られます」
「最初はそうだろう。だが、売れば次の本を作る金ができる。循環だよ」
伯母の言葉は、いつも実務的だ。冒険者として生き延びてきた人の論理。
「考えてみます」
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翌日、客が来た。
領都から馬車で半日の距離を来たという商人だった。名前はギヨーム。四十代半ば、人の良さそうな丸顔に、抜け目ない目をしている。
「お嬢様が作っておられる本の噂を聞きまして」
応接間でお茶を出しながら、私は警戒を隠さなかった。
「噂、ですか」
「ええ。領都の市場で話題になっておりましてね。『エストレーユの追放令嬢が、子どもでも読める不思議な本を作っている』と。私は王都にも取引先がありまして、そちらでも話が広がっているようです」
王都。
その言葉に、鳩尾がきゅっと締まった。
「どのような話題でしょう」
「様々ですな。嘲笑う者もおれば、興味を持つ者もおります。私は後者でして」
ギヨームは鞄から銀貨の袋を取り出した。
「10冊、お譲りいただけませんか。子ども向けの絵本を。領都の知人に見せたいのです」
10冊。
私は計算した。材料費だけなら銀貨5枚で足りる。だが、前世で学んだことがある。卸値と小売価格は違う。商人が転売するなら、私が受け取るべきは「作り手としての適正価格」だ。
「用途をお聞きしても?」
「正直に申し上げます。売れるかどうか試したいのです。売れれば、継続的にお取引をお願いしたい」
嘘はなさそうだった。
「では、銀貨10枚でお譲りします」
ギヨームが目を丸くした。
「……銀貨10枚。1冊あたり銀貨1枚ですか」
「材料費、魔力、そして私の技術への対価です。転売なさるなら、そちらの利益は別途お考えください」
前世なら当たり前の交渉だ。でも、この世界で「技術への対価」を主張する平民や追放令嬢は珍しいのだろう。
ギヨームはしばらく私の顔を見つめていたが、やがて笑った。
「結構です。お嬢様は商才がおありだ」
商談は成立した。
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ギヨームが去った後、私は工房に戻った。
手の中には銀貨10枚。ずしりと重い。
これで紙を買える。インクも補充できる。新しい本を作れる。
トマの言葉が蘇った。
「他の村にもあったらいいのに」
届けられるかもしれない。もっと多くの人に。
その時、マチルダ伯母が封筒を持って現れた。
「お前宛だ。王都から」
封蝋の紋章を見て、息を呑んだ。
王立学術院の紋章だった。
「……どうしてここに」
「貴族の追放先は公式記録に残る。調べれば分かることさ」
伯母の声は淡々としていた。だが、その目には何か——知っていて黙っている色があった。
封を切る指が震えた。
便箋には几帳面な文字が並んでいた。
「レヴィナス嬢。貴女が十歳の折に王立学術院へ投稿された論文の写しが、記録庫に保管されておりました。『記録属性の応用可能性について——魔法複製技術の理論的考察』。私はこの八年間、執筆者を探しておりました。記録属性の可能性について、直接お話を伺いたく存じます。ご都合をお聞かせください」
署名は、ルシアン・オルレアン。
王立学術院院長。
私の手から便箋が滑り落ちた。
投稿していたのだ。十歳の私は、父に見せる前に学術院へ論文を送っていた。そして父に「くだらない」と破棄された後、そのことを忘れていた。
記録庫に、写しが残っていた。
八年間、探されていた。
「……なぜ」
呟いた声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
マチルダ伯母が、静かに微笑んだ。その視線は便箋の署名に向けられている。何かを懐かしむような、それでいて試すような目だった。
「面白くなってきたじゃないか」
窓の外では、夕陽がエストレーユの丘を赤く染めていた。
トマの笑顔が思い浮かんだ。文字を読めるようになった子どもたち。銀貨を握りしめた手。そして、八年前の自分を探していたという見知らぬ学者。
届けたい人が、また増えた。




