第3話 最初の一冊
エストレーユに来て、二週間が経った。
その間、私は準備に追われていた。
まずは工房の整備。
マチルダが用意してくれたのは、屋敷の別棟だった。
元は物置だったらしい。
扉を開けた瞬間、埃が舞い上がって咳き込んだ。
蜘蛛の巣だらけ。
床には枯れ葉が積もっている。
窓ガラスは曇って、外がほとんど見えない。
「……ここを、工房に」
正直、気が遠くなった。
でも——
「私の城だ」
そう思うと、少しだけ気持ちが変わった。
王都の実家では、自分の部屋さえ「与えられた」ものだった。
いつ取り上げられるかわからない、仮の居場所。
でも、ここは違う。
自分で掃除して、自分で整えて、自分で使う。
初めて手に入れる、「自分だけの場所」だ。
雑巾を持って、掃除を始めた。
---
三日かけて、埃を払い、床を磨き、窓を拭いた。
棚を入れ、机を置き、椅子を運ぶ。
汗だくになりながら、少しずつ形になっていく。
「よし……」
二週間後。
ようやく、工房らしくなった。
壁際に紙の保管棚。
中央に大きな作業机。
窓際に校正用の小机。
窓からは、林檎の果樹園が見える。
完璧とは言えないけど、十分だ。
——次は、材料の確保。
---
マチルダの紹介で、二人の職人と会うことになった。
紙職人のベルナール老人。
七十歳近い、白髪で痩せた男性だ。
背筋はぴんと伸びていて、目には職人の厳しさがあった。
「あんたが、本を作りたいって令嬢かい」
「はい。カミーユ・レヴィナスです」
「ふん。噂は聞いてる。王都で罪人扱いされたとか」
遠慮のない物言い。
私は、怯まなかった。
「罪状に身に覚えはありませんが、追放されたのは事実です」
「……ほう」
ベルナールは、少し目を細めた。
「言い訳しないのか」
「言い訳しても、何も変わりませんから」
沈黙。
老職人は、顎を撫でた。
「まあいい。紙は作れる。だが、わしの紙を無駄にするような真似はするなよ」
「無駄には、しません」
「どうやって本を作るんだ? 写本師を雇う金があるのか」
「いいえ。私の魔法で作ります」
「魔法?」
ベルナールの目が、怪訝そうに細まる。
「記録魔法です。見せましょうか」
---
私は、持ってきた白紙を一枚、机の上に置いた。
「この紙に、文字を写します」
目を閉じる。
脳裏に、文章を思い浮かべる。
前世で読んだ本の一節。
——『知識は力なり』。
左手首に、淡い光の紋様が浮かぶ。
魔力が流れる感覚。
手を紙にかざし——
転写。
紙の上に、文字が浮かび上がった。
くっきりとした黒い文字。
滲みも、かすれもない。
「これが記録魔法です」
顔を上げる。
ベルナールは、固まっていた。
目を見開き、紙を凝視している。
「……何だと?」
「もう一枚、やりましょうか」
今度は、もう少し長い文章。
同じ動作を繰り返す。
数秒で、紙に文字が並んだ。
「これを、何度でも繰り返せます。同じ内容を、同じ品質で」
ベルナールは、紙を手に取った。
震える指で、文字をなぞる。
「……写本師が一日かけても、これだけの量は書けん」
「はい」
「それを、今、ほんの数秒で……」
老職人は、私を見た。
その目に、驚きと——何か別の感情が浮かんでいた。
「大した魔法じゃないか。なぜ『無能』などと呼ばれる」
「戦えないからです」
私は、肩をすくめた。
「この国では、戦闘魔法以外は評価されませんから」
「……馬鹿げた話だ」
ベルナールは、ふんと鼻を鳴らした。
「まあいい。紙は用意してやる。だが、商売として成り立つかは別の話だぞ」
「わかっています」
「払いは先払いだ。それでいいなら、契約する」
「お願いします」
私は、頭を下げた。
---
インク職人のソフィ夫人にも、同じように実演した。
四十代くらいの、きびきびした女性だ。
「へえ……」
彼女は、紙の上の文字を眺めた。
「こりゃ確かに、すごいね」
「ご協力いただけますか」
「ああ、いいよ。面白そうじゃないか」
ソフィは、にやりと笑った。
「貴族の令嬢が、自分で商売を始めるなんてさ。見ものだよ」
皮肉も混じっているようだったが、悪意は感じなかった。
「ただし、金払いが悪けりゃ容赦しないからね」
「もちろんです」
こうして、材料の調達先が決まった。
マチルダの口利きで、納品は五日後。
驚くほど早いが、この辺りでは彼女の顔は広いらしい。
元A級冒険者の人脈は、伊達ではなかった。
---
材料が届いた日。
私は、工房にこもった。
机の上に、紙の束とインク壺。
それを見つめながら、深呼吸する。
——いよいよだ。
作るのは、子供向けの絵本。
文字が読めなくても、絵を見れば楽しめる。
シンプルな言葉で、物語を伝える。
前世の記憶を探る。
幼い従妹に読み聞かせた、絵本のことを思い出す。
『ちいさなネズミのぼうけん』。
小さなネズミが、森を旅する物語。
友達を作り、困難を乗り越え、家に帰る。
単純だけど、温かい話だった。
従妹は、読み終わるたびに言った。
『もう一回!』
何度も、何度も。
飽きずに、目を輝かせて。
——あの顔を、思い出す。
この世界の子供たちにも、同じ気持ちを届けたい。
同じように、目を輝かせてほしい。
「……やろう」
私は、白紙に手をかざした。
---
まずは、表紙。
小さなネズミが、リュックを背負って歩いている絵。
前世の絵本そのままではなく、この世界風にアレンジする。
服装を変え、背景を森にして——
脳裏に浮かんだ映像を、紙に転写する。
左手首が、淡く光る。
「……できた」
紙の上に、絵が浮かび上がった。
色も、線も、鮮明に。
思ったより、うまくいった。
前世で趣味だったイラストの技術が、そのまま使えるらしい。
「次」
ページをめくる要領で、次の紙に手をかざす。
物語の最初の場面。
ネズミが、巣穴から外を見ている絵。
その下に、文字。
『むかし むかし、ちいさな ネズミが いました』
シンプルな文章。
この世界の簡易文字を使う。
子供でも読めるように。
一枚、また一枚。
集中して、転写を続ける。
ネズミが森に出る。
リスに出会う。
川を渡れなくて困る。
カエルが助けてくれる。
嵐に遭う。
フクロウの巣で雨宿りする。
そして——家に帰る。
「……終わった」
気づけば、窓の外が暗くなっていた。
全二十ページ。
机の上に、絵本の原稿が積み上がっていた。
私は、それを手に取った。
パラパラとめくる。
ネズミの表情。
森の風景。
友達になった動物たち。
そして、最後のページ。
家に帰ったネズミが、家族に抱きしめられている絵。
『おうちに かえると、みんなが まっていました。おしまい』
——できた。
私の、最初の絵本。
胸の奥が、じんと熱くなった。
前世の従妹の顔が、浮かんだ。
あの子は、今頃どうしているだろう。
もう会えないけれど——
「この本を、届けるね」
私は、絵本をそっと抱きしめた。
あの子に読み聞かせたように。
この世界の子供たちにも、届けたい。
「さあ、次は複製だ」
原稿を見ながら、新しい紙に転写する。
一度「保存」した情報は、何度でも「出力」できる。
これが、記録魔法の本質だ。
二部目は、さらに早かった。
三十分で、一冊。
魔力の消費も、まだ余裕がある。
「一日に、十冊は作れそう」
これなら、いける。
——でも、「作った」だけじゃ意味がない。
これを、誰かに届けなければ。
「実際に、子供たちの反応を見ないと」
私は、マチルダに相談することにした。
---
「村に行きたい?」
マチルダは、夕食の席で首を傾げた。
「はい。子供たちに、絵本を見せてみたいんです」
「ふむ」
彼女は、ワインを一口飲んだ。
「悪いことじゃないが、気をつけな」
「何をですか?」
「あんたは『罪人の令嬢』だ。王都の噂は、ここまで届いてる。歓迎されるとは限らないよ」
わかっている。
でも——
「それでも、行きたいんです。実際に見てみないと、何もわからないから」
マチルダは、私の目をじっと見た。
数秒の沈黙。
「……いいだろう。明日、案内させる」
「ありがとうございます」
「ただし、無理はするな。嫌な顔をされたら、すぐに引きな」
「はい」
私は頷いた。
けれど、内心では決めていた。
少しくらい嫌な顔をされても、諦めない。
一人でも興味を持ってくれる人がいれば——
それで、十分だ。
---
翌日。
私は村を訪れた。
屋敷から歩いて三十分ほど。
小さな村だった。
茅葺き屋根の家が二十軒ほど。
中央に井戸と広場。
その周りに畑が広がっている。
広場に着くと、何人かの村人がこちらを見た。
露骨に顔をしかめる者。
そそくさと離れていく者。
こちらを見ないふりをする者。
——まあ、予想通りだ。
「あの、すみません」
私は、近くにいた女性に声をかけた。
「お子さんに、これを見せてもいいですか?」
絵本を見せる。
女性は、怪訝そうな顔をした。
「……何だい、それ」
「絵本です。子供向けの——」
「うちの子に関わらないでくれ」
女性は、私の言葉を遮った。
「貴族様の道楽に、付き合ってる暇はないんだ」
そう言って、子供の手を引いて去っていった。
隣にいた男性は、そもそもこちらを見ようともしない。
畑仕事に戻っていく背中が見えた。
——冷たい反応と、無関心。
どちらにしても、歓迎はされていない。
でも、まだ諦めない。
私は、広場のベンチに座った。
絵本を膝の上に置き、開いて見せる。
誰かが興味を持ってくれるのを、待つことにした。
風が吹く。
ページがぱらぱらとめくれる。
五分。
十分。
誰も近づいてこない。
小さな女の子が、こちらを見ていた。
目が合う。
——興味がありそうだ。
手を振ってみる。
女の子が一歩近づこうとした、その時——
「こら、行くよ!」
母親らしき女性が、女の子の手を引いた。
「あの人に近づいちゃだめ」
「でも、絵が——」
「だめ」
女の子は、名残惜しそうにこちらを見ながら、連れていかれた。
——やっぱり、難しいか。
胸が、少し痛んだ。
でも、諦めるのは早い。
もう少しだけ——
「なにそれ」
声がした。
顔を上げる。
一人の少年が、立っていた。
日焼けした肌。
ボサボサの茶色い髪。
好奇心に満ちた、明るい茶色の目。
十五歳くらいだろうか。
農家の子供らしい、質素な服を着ている。
「絵? きれいだな」
少年は、私の膝の上の絵本を覗き込んだ。
警戒心は、まるでなかった。
「これ、何?」
「絵本よ。絵と文字で、物語を伝えるもの」
「物語?」
「ええ。このネズミが冒険する話」
少年の目が、きらりと光った。
「見ていい?」
「もちろん」
私は、絵本を差し出した。
少年は、受け取って、ページをめくり始めた。
「すげえ……」
目を輝かせている。
「動物が、服着て、歩いてる……」
一枚一枚、丁寧に見ていく。
でも——文字のページになると、表情が曇った。
「……これ、なんて書いてあるんだ?」
私は、息を呑んだ。
「読めない?」
「文字は、習ったことねえから」
少年は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「農家の三男だし。読み書きなんて、必要ねえって言われて」
——そうか。
この村の識字率は、二十人に一人以下。
読めない子の方が、当たり前なのだ。
でも——この子は、興味を持っている。
絵本を見る目が、輝いている。
その目を見て、私は決めた。
「私が読んであげる」
「え?」
「座って。読み聞かせてあげるから」
少年は、目を丸くした。
そして——ぱあっと、顔を輝かせた。
「いいのか!?」
「ええ、もちろん」
少年が、隣に座る。
私は、絵本を開いた。
「『むかし むかし、ちいさな ネズミが いました』」
声に出して、読み始める。
少年は、目を輝かせて絵を見つめている。
「『ネズミは、おおきな もりを たびすることに しました』」
ページをめくる。
「『みちの とちゅうで、リスに であいました』」
「おお、リスだ!」
少年が声を上げた。
「こいつ、どんぐり持ってる!」
「そうね、どんぐりが好きなのね」
「俺も好きだぞ、どんぐり! 炒ると美味いんだ!」
思わず、笑ってしまった。
素直な反応が、嬉しい。
読み進める。
ネズミが川を渡れなくて困っていると——
「あ、カエルが来た! 助けてくれんのか?」
「そう、カエルさんが背中に乗せてくれるの」
「すげえ! いいやつだな、カエル!」
少年は、身を乗り出して聞いている。
物語の展開に一喜一憂して、声を上げる。
まるで、前世の従妹みたいだ。
——ああ、この感覚。
読み聞かせの、喜び。
誰かが、物語に夢中になってくれる。
その顔を見られる、幸せ。
「——『おうちに かえると、みんなが まっていました』」
最後のページ。
「『おしまい』」
本を閉じる。
少年は、しばらく黙っていた。
そして——
「すげえ」
ぽつりと、言った。
「すげえ、面白かった」
「本当?」
「ネズミ、頑張ったな。友達もできて、ちゃんと帰れて」
少年は、絵本を見つめた。
その目が、少し潤んでいるように見えた。
「……俺も、読めるようになりてえ」
その言葉が、胸に響いた。
「読めるように、なりたい?」
「ああ」
少年は、顔を上げた。
真剣な目だった。
「そしたら、一人でも読めるだろ? 何度でも。誰にも頼まなくても」
その言葉に、心が震えた。
「でも、農家の三男だし。教えてくれる人なんて——」
「私が教える」
気づけば、そう言っていた。
「え?」
「文字を、教えてあげる。無料で」
少年の目が、大きく見開かれた。
「本当かよ!?」
「本当よ」
私は、立ち上がった。
胸の奥で、何かが動いた。
——これだ。
本を作るだけじゃ、駄目だ。
読める人が、いなければ意味がない。
だから——読める人を、増やす。
識字教室を、開こう。
「あ、俺、トマってんだ!」
少年が、勢いよく手を差し出した。
「トマ。よろしくね」
私は、その手を握った。
荒れた手のひら。
農作業で鍛えられた、硬い手だった。
「俺、絶対読めるようになる! 約束だ!」
その笑顔を見て——
私は、確信した。
この道は、間違っていない。
---
屋敷に戻ると、マチルダが待っていた。
「どうだった?」
「……一人、見つけました」
「一人?」
「興味を持ってくれた子が。トマって名前の」
マチルダは、ふっと笑った。
「ああ、村長ガブリエルの甥っ子だね。やんちゃ坊主だよ」
「知ってるんですか?」
「狭い村だからね。みんな顔見知りさ」
マチルダは、私の顔をじっと見た。
「で、その一人のために、何をするつもりだい?」
私は、深呼吸した。
「識字教室を開きます」
「ほう」
「文字を教えます。無料で。読める人を、増やすんです」
マチルダは、眉を上げた。
「また仕事を増やしたね」
「……すみません」
「謝ることじゃないさ」
彼女は、にやりと笑った。
「悪くないと思うよ。本を売りたいなら、読める客を増やすのは理に適ってる」
「はい」
「ただし、反発もあるだろう。『農民に学問など不要だ』って考える奴は多い」
「わかっています」
「それでもやるかい?」
私は、頷いた。
「やります」
トマの目を思い出す。
『俺も、読めるようになりてえ』
あの言葉を、忘れられない。
「あの子の目を見たら——諦められなくなりました」
マチルダは、しばらく私を見ていた。
そして——
「いいねえ、その目」
また、そう言った。
「あんたの母親も、そういう目をしてたよ」
——母が。
私は、言葉を失った。
母のこと。
マチルダは、何を知っているのだろう。
聞きたかった。
でも——
「その話は、いずれね」
マチルダは、窓の外を見た。
「今は、あんたの教室の話だ。場所は、屋敷の広間を使っていい」
「……ありがとうございます」
「感謝は結果で示しな。さあ、準備を始めるよ」
---
その夜。
私は、窓辺に立っていた。
星空を見上げながら、考える。
本を作る。
文字を教える。
知識を届ける。
やるべきことが、山のようにある。
でも——
「トマ」
あの少年の顔を思い出す。
荒れた手のひら。
真剣な目。
『俺も、読めるようになりてえ』
この世界には、知識に飢えている人がいる。
機会さえあれば、学びたい人がいる。
私の魔法は、その人たちのためにあるんだ。
——母も、そういう目をしてた。
マチルダの言葉が、頭をよぎる。
母は、どんな人だったのだろう。
私と同じ「記録」属性だったと聞いた。
同じように、何かを成し遂げようとしていたのだろうか。
いつか、聞いてみよう。
でも今は——
「やるべきことを、やろう」
私は、拳を握った。
明日から、識字教室の準備を始める。
最初の生徒は、トマだ。
彼が文字を読めるようになった時——
私の事業は、本当の意味で始まる。
窓の外で、星が静かに瞬いていた。




