第2話 エストレーユの風
馬車に揺られること、五日。
長い旅だった。
腰は痛むし、体は強張る。
宿に泊まっても、慣れないベッドでは熟睡できない。
それでも、頭の中では計画が形を成していった。
本を作る。
知識を届ける。
私の価値を、証明する。
——具体的には、どうすればいい?
前世の記憶を掘り起こしながら、私は考え続けた。
窓の外の景色が、少しずつ変わっていく。
王都を出た時は、まだ石造りの建物が並んでいた。
けれど南西に進むにつれて、木造の家が増える。
畑が広がり、果樹園が点在する。
遠くには、深い緑の森が見えた。
「エストレーユ領に入りました」
御者の声が聞こえた。
私は窓から身を乗り出す。
小さな村が見えた。
茅葺き屋根の家々。
井戸の周りに集まる女性たち。
畑で働く農夫たち。
素朴な、穏やかな風景。
王都の喧騒とは、まるで違う世界だった。
「……ここが、私の新しい居場所」
呟いてみる。
実感は、まだ湧かなかった。
---
分家の屋敷は、村の外れにあった。
二階建ての、堅牢な石造り。
貴族の邸宅にしては質素だけど、元は冒険者ギルドの宿舎だったと聞いている。
実用的で、飾り気がない。
馬車が止まる。
御者が扉を開けてくれた。
「お嬢様、到着でございます」
「ありがとう」
五日間座りっぱなしで、足が強張っている。
よろめきながら馬車を降りると——
「よく来たね、カミーユ」
低い、よく通る声。
顔を上げる。
屋敷の入り口に、一人の女性が立っていた。
銀色の短い髪。
日焼けした肌。
右頬から顎にかけて、一本の刀傷。
鋭い灰色の目が、私を見据えている。
背筋がぴんと伸びた立ち姿。
足の開き方、腕の位置——どこにも隙がない。
戦い慣れた人の佇まいだと、直感的にわかった。
——マチルダ伯母。
レヴィナス家の分家当主。
元A級冒険者。
エストレーユ子爵。
私が最後に会ったのは、確か……8年前だ。
父の名代として、本家の祝宴に来ていた。
遠くから見ただけで、話したことはほとんどない。
「話は聞いてるよ」
伯母は、腕を組んだまま言った。
「災難だったねえ」
その言葉に、同情の色はなかった。
かといって、冷たいわけでもない。
淡々としている。
事実を事実として受け止めている、そんな印象。
私は、どう反応すべきか迷った。
「……ご迷惑をおかけします」
とりあえず、頭を下げる。
本家から「厄介者」を押し付けられた。
そう思われていても、おかしくない。
警戒しないと——
「何を堅くなってるんだい」
伯母は、ふっと笑った。
笑うと、刀傷のある顔が途端に温かくなる。
「ここじゃ、そんな気を使わなくていい。入りな。茶を淹れよう」
---
屋敷の中は、外観以上に質素だった。
装飾品はほとんどない。
代わりに、武器や防具が壁に飾られている。
長剣、短剣、弓。
傷だらけの革鎧。
獣の牙で作られたらしい首飾り。
冒険者時代の戦利品だろう。
「見ての通り、貴族らしくない屋敷だろう」
伯母は廊下を歩きながら言う。
その歩き方にも隙がない。
足音を殺す癖が、今でも残っているようだった。
「使用人も最低限しかいない。自分のことは自分でやる。それでいいかい?」
「はい、問題ありません」
むしろ、ありがたい。
使用人が多いと、監視されているような気分になる。
王都の実家では、常にそうだった。
応接間に通された。
簡素だけど、清潔な部屋。
窓からは、果樹園が見えた。
林檎の木だろうか。
白い花が、風に揺れている。
「座りな」
伯母は、向かいのソファに腰を下ろした。
使用人が紅茶を運んでくる。
カップを受け取り、一口飲む。
……美味しい。
王都の高級茶葉とは違う、素朴な味わい。
けれど、体に染み渡るような温かさがあった。
「さて」
伯母が、カップを置いた。
灰色の目が、まっすぐに私を見る。
「あんたが10歳の時に書いた論文、読ませてもらったことがあるんだ」
——え?
「『記録属性の応用可能性について——魔法複製技術の理論的考察』」
私は、カップを取り落としそうになった。
その論文は。
父に見つかって、破り捨てられた。
「こんな役に立たない研究に時間を使うな」
そう言われて。
目の前で、紙が裂ける音を聞いた。
あれは——8年前のことだ。
「どこで、それを……」
「写しをね、こっそり本家の書庫から持ち出したのさ」
伯母は、悪戯っぽく笑った。
「あんたの父上には内緒だよ。あの人は、捨てたつもりでいるだろうからね」
写しがあった。
誰かが、写しを残していた。
「でも、なぜ……」
「あんたの母親のこと、知ってたからね」
伯母の目が、一瞬だけ遠くを見た。
「……まあ、その話はいずれ。今は論文の話だ」
母のこと?
私の母は、私が5歳の時に病死した。
ほとんど記憶がない。
何か、関係があるのだろうか。
聞きたいことはあったけれど、伯母は話を続けた。
「読んだ時は驚いたよ」
「10歳の子供が、あれだけの論理を組み立てられる。『記録』属性の可能性を、あそこまで具体的に考察できる」
「……でも、役に立たない研究だと」
「誰がそう言った? あんたの父親かい?」
伯母は、鼻で笑った。
「あの人は、戦えない魔法を『無能』だと思い込んでる。百年前の価値観のまま止まってるのさ。北の帝国との戦争で、戦闘魔法だけが持て囃された時代の」
その言葉に、胸が詰まった。
初めてだった。
私の論文を、「面白い」と言ってくれる人。
私の属性を、「無能」と決めつけない人。
「伯母様……」
「マチルダでいい。伯母様なんて堅苦しいのは性に合わない」
そう言って、伯母——マチルダは立ち上がった。
窓際まで歩き、外を見ながら言う。
「で、あんた。これからどうするつもりだい?」
---
これからどうするか。
馬車の中で、ずっと考えていたことだ。
「……本を作りたいんです」
私は、言った。
「本?」
マチルダが振り返る。
「私の魔法で」
「ふむ」
彼女は、再びソファに座り直した。
「記録魔法で本を作る。どうやって?」
「複製です」
私は、身を乗り出した。
「私の魔法は、見たものを保存して、別の媒体に転写できます。つまり——」
「一度書いた内容を、何度でもコピーできる、と」
「そうです」
「なるほど。それで?」
マチルダの目が、鋭くなった。
冒険者として戦場を生き抜いた人の目だ。
興味を持っている。
でも、まだ判断は保留している。
「今、この世界の本は全て写本です」
私は続けた。
「一冊作るのに、写本師が何日もかかる。だから——」
「高価で、貴族しか買えない」
「はい」
「あんたの魔法なら、一日で何冊も作れる。価格を下げられる。そういうことかい」
「そうです」
理解が早い。
マチルダは顎に手を当て、考え込んだ。
「面白い。確かに、理屈は通る」
「もっと多くの人に本を届けられます。知識が広がります」
「それで、あんたは何を得る?」
「……え?」
「慈善事業じゃないんだろう? あんた自身は、何を得たいんだい」
その問いに、私は言葉を詰まらせた。
何を得たいか。
復讐?
違う。
名誉?
それも違う。
「……私の価値を、証明したいんです」
気づけば、そう答えていた。
「『無能』と呼ばれてきました。私の魔法は役に立たないと。私には価値がないと」
マチルダは、黙って聞いている。
「でも、違うと思うんです。私の魔法には、可能性がある。それを——自分の力で、証明したい」
長い沈黙。
マチルダの目が、じっと私を見つめていた。
「——いいねえ、その目」
彼女は、にやりと笑った。
「あたしが冒険者だった頃を思い出すよ。無謀だって笑われても、やると決めたらやる。そういう目だ」
「じゃあ——」
「ただし」
マチルダは、指を折りながら言った。
「現実の話をしよう」
「はい」
「一つ。この領地じゃ、文字を読める農民は二十人に一人もいない」
厳しい現実。
でも、予想していたことだ。
「二つ。紙は高い。インクも高い。材料費だけで、かなりの金がかかる」
「はい」
「三つ。王都で『罪人』扱いされた娘の商売を、誰が買うと思う?」
現実の壁が、次々と突きつけられる。
確かに、その通りだ。
理想だけでは、何も動かない。
でも——
「紙が高いなら、安く仕入れる方法を探します」
私は、言った。
「売れる当てがないなら、『売れる本』を考えます。読める人がいないなら——」
一呼吸置く。
「読める人を、増やします」
「増やす?」
「文字を教えるんです。無料で」
マチルダの眉が、ぴくりと動いた。
「需要がないなら、需要を作る。市場がないなら、市場を作る。それが——」
前世の記憶が、口を動かしていた。
「——商売の基本だと、思いますから」
沈黙。
マチルダは、じっと私を見ていた。
その目に、何か——懐かしむような光が浮かんだ気がした。
「……あんた、本当にあの人の娘だねえ」
「え?」
「なんでもないさ」
マチルダは立ち上がった。
「いいだろう。屋敷の一角を工房にしていい。紙職人とインク職人の知り合いもいる。紹介してやるよ」
胸が、熱くなった。
「ただし」
マチルダは、人差し指を立てた。
「資金は自分で回すんだよ。あたしはスポンサーにはならない」
「え?」
「あんたの『事業』なんだから。自分の足で立たなきゃ意味がない」
厳しい言葉。
でも、その目は温かかった。
「甘やかすつもりはないけどね。見守ってはやるさ」
「……ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
「マチルダ」
「ん。いい呼び方だ」
彼女は窓際に歩いていき、外を見ながら言った。
「今日は休みな。部屋を用意させてある。明日から、本気で始めるんだろう?」
「はい」
「なら、今夜はゆっくり寝ることだ。これからは忙しくなるよ」
---
与えられた部屋は、屋敷の二階にあった。
質素だけど、清潔な部屋。
窓からは、果樹園が見える。
夕日に照らされて、林檎の木々が金色に輝いていた。
「……きれい」
思わず、呟いた。
王都の景色とは、まるで違う。
高い建物もない。
人混みもない。
騒音もない。
ただ、風の音と、鳥の声だけが聞こえる。
ベッドに腰を下ろす。
ふかふかの羽毛布団。
清潔なシーツ。
ふと、枕元に目が留まった。
小さな花瓶に、一輪の花が活けてあった。
白い花。
林檎の花だろうか。
——誰が、活けてくれたんだろう。
使用人だろうか。
それとも、マチルダ本人だろうか。
どちらにしても。
これは、「歓迎」の印だ。
厄介者を押し付けられた、と思っていた。
面倒な罪人を預かることになって、迷惑がっているはずだと。
でも、違った。
マチルダは、私の論文を読んでいた。
私の可能性を、見ていてくれた。
8年も前から。
そして、この部屋。
この花。
「……っ」
胸が、締め付けられる。
扉を閉めて、ようやく一人になった。
五日間、張り詰めていた糸が、少しだけ緩む。
断罪の夜から、ずっと気を張っていた。
泣いたら負けだと思った。
弱さを見せたら、終わりだと思った。
でも——
目頭が、熱くなった。
——泣くな。
断罪の夜も、泣かなかった。
馬車の中でも、泣かなかった。
今さら泣いてどうする。
「……でも」
声が、震えた。
認めてくれる人が、いた。
待っていてくれる人が、いた。
それだけで——こんなにも、救われるものなのか。
「嬉しい、な……」
涙が、一筋だけ頬を伝った。
すぐに手の甲で拭う。
窓の外、夕日が沈んでいく。
星が、一つ、二つと瞬き始める。
王都より、ずっと近くに見える。
「……ここでなら、やれるかもしれない」
私は、立ち上がった。
窓を開ける。
夜風が、頬を撫でた。
冷たいけど、心地いい。
明日から、始まる。
新しい人生が、始まる。
本を作る。
知識を届ける。
私の価値を、証明する。
——まずは、何から始めよう。
子供向けの絵本がいいかもしれない。
文字が読めなくても、絵なら楽しめる。
子供が喜べば、親も興味を持つ。
そこから、少しずつ——
「よし」
私は、拳を握った。
窓の外に、満天の星空が広がっていた。




