第10話 私の名前
王都グランディールに足を踏み入れたのは、半年ぶりのことだった。
馬車の窓から見える街並みは、記憶の中と変わらない。石畳の大通り、立ち並ぶ商店、行き交う人々。冬の空気は冷たく、吐く息が白く染まる。
だが、私は変わった。
断罪されて追放された時、私はこの街から逃げるように去った。今は、自分の足で戻ってきた。
「緊張していますか」
隣に座るルシアンが、穏やかな声で聞いた。
エストレーユ領を発つ前、彼が迎えに来てくれた。マチルダ伯母も同行している。「姪の晴れ舞台を見届けないわけにはいかないだろう」と言って、馬車にどっかりと座った。
「……少し」
正直に答えた。
「でも、大丈夫です。やるべきことは分かっていますから」
ルシアンは目を細めた。
「貴女なら、できます」
「当然さ」
マチルダ伯母が腕を組んで言った。
「ここまで来たんだ。あとは堂々とやればいい」
二人の言葉が、胸に沁みた。
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王立学術院は、王都の中心部にある壮麗な建物だった。
白い石造りの外壁、高い尖塔、ステンドグラスの窓。知識の殿堂にふさわしい威容を誇っている。
「ここが、学術院……」
「ええ。そして明日、ここで貴女の論文が発表されます」
ルシアンは私を院内に案内した。長い廊下、無数の書架、研究室の並ぶ棟。どこを見ても、本と知識に満ちていた。
「発表会場は大講堂です。収容人数は約三百名。明日は満席になる見込みです」
「三百人……」
「話題性がありますからね。『断罪された令嬢が書いた論文』は、良くも悪くも注目を集めています」
その言葉に、胃の奥がきゅっと締まった。
好奇の目。嘲笑。あるいは、敵意。
そういうものに晒されることは、覚悟している。
「怖くないと言えば、嘘になります」
私は正直に言った。
「でも、逃げません。ここまで来たんですから」
ルシアンは静かに頷いた。
「私も、傍にいます」
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発表の前夜、私は宿の部屋で原稿を読み返していた。
何度も推敲した文章。何度も練習した発表。
それでも、不安は消えない。
コンコン、とドアが叩かれた。
「カミーユ嬢、少しよろしいですか」
ルシアンの声だった。
ドアを開けると、彼は小さな包みを手にしていた。
「これを」
「何ですか」
「お守り、のようなものです」
包みを開くと、中には小さな銀のブローチが入っていた。羽根ペンを象ったデザイン。
「学術院の紋章です。正式な研究者に贈られるもので……本来は発表の後に授与されるのですが」
ルシアンは少し照れたように目を逸らした。
「貴女には、先に持っていてほしいと思いました。明日、貴女は一人ではない。学術院が、そして私が、貴女の後ろに立っている。その証として」
胸の奥に、熱いものがこみ上げた。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
「大切に、します」
ブローチを胸に当てた。冷たい金属の感触が、不思議と心を落ち着かせた。
「カミーユ嬢」
「はい」
「明日が終わったら、お伝えしたいことがあります」
ルシアンの目が、真剣だった。
「今は、発表に集中してください。でも、終わったら——必ず、聞いてください」
その言葉の意味を、問うことはできなかった。
「……分かりました」
ルシアンは小さく頷いて、部屋を出ていった。
一人になった部屋で、私はブローチを見つめた。
明日。
すべてが、決まる。
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発表当日。
大講堂は、人で埋め尽くされていた。
学者、貴族、商人、記者。様々な立場の人々が、席を埋めている。ざわめきが、波のように講堂を満たしていた。
客席の中程に、マチルダ伯母の姿があった。腕を組んで座り、こちらを見ている。目が合うと、小さく頷いてくれた。
——大丈夫。お前ならできる。
その視線が、そう言っているように感じた。
舞台袖で、私は息を整えた。
胸には、ルシアンからもらったブローチ。
「準備はいいですか」
ルシアンが隣に立っていた。
「はい」
「では、行きましょう」
舞台に上がった。
三百の視線が、私に集中した。
好奇、懐疑、期待、敵意。様々な感情が入り混じった視線。
その中に、見覚えのある顔があった。
金色の髪。碧い瞳。清らかな聖女の姿——エミリア。
彼女は最前列に座り、冷たい目で私を見ていた。
心臓が、早鐘を打った。
でも、逃げない。
「——本日は、お集まりいただきありがとうございます」
私は口を開いた。
「私はカミーユ・レヴィナス。本論文『記録魔法の複製技術と知識普及への応用可能性』の筆頭著者です」
声は、震えなかった。
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発表は、順調に進んだ。
「記録魔法は、従来『下位属性』として軽視されてきました。戦闘に使えない、派手な効果がない、というのがその理由です」
私は聴衆を見回しながら続けた。
「しかし、本研究は記録魔法に『複製』という新たな可能性があることを示しています」
スライド代わりに、実際の絵本を掲げた。
「これは、私が記録魔法で複製した絵本です。原本と比較して、再現率は98%以上。一日に最大十冊の複製が可能です」
聴衆の一部が、身を乗り出した。
「従来、本の複製には熟練した写本師が数週間を要しました。私の技術を使えば、それが数分に短縮されます。これは、知識の普及に革命をもたらす可能性があります」
メモを取る音が、講堂に響いた。
データを示し、理論を説明し、応用可能性を語った。
聴衆の反応は様々だった。熱心に頷く者。腕を組んで考え込む者。そして、敵意を隠さない者。
だが、私は動じなかった。
「——最後に、本研究の社会的意義についてお話しします」
私はトマのことを語った。
「エストレーユ領に、トマという少年がいます。半年前、彼は自分の名前すら書けませんでした。文字は貴族のものだと思っていた。本を開くことさえ怖がっていた」
聴衆が、静かに聞いている。
「今、彼は本を読み、人に字を教えています。隣村でも識字教室を開くまでになりました。——知識は、人を変える力があります」
私は胸を張った。
「私の魔法は、かつて『無能』と呼ばれていました」
声が、講堂に響いた。
「でも、無能な魔法などありません。使い方を知らないだけです。私は、この魔法で本を作り、知識を届けることができました。一人でも多くの人に、学ぶ機会を届けたい。それが、私の願いです」
発表を終えた。
一瞬の沈黙。
そして——拍手が起こった。
最初は小さく、やがて大きくなっていく。講堂全体に、拍手の波が広がった。
マチルダ伯母が、客席で大きく手を叩いているのが見えた。
感情が溢れた。
認められた。
私の研究が、私の言葉が、認められた——
「——待ちなさい」
冷たい声が、拍手を切り裂いた。
エミリアが立ち上がっていた。
「聖女として、発言を許可します」
講堂が、静まり返った。
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エミリアは、ゆっくりと舞台に近づいてきた。
金色の髪が揺れる。碧い瞳が、私を射抜く。
「カミーユ・レヴィナス。貴女は半年前、神託によって断罪された身です」
その声は、甘く、毒を含んでいた。
「『王国に災いをもたらす悪』——それが、神の示された真実。その貴女が、王都に戻り、学術院で発表を行う。これは、神への冒涜ではありませんか」
聴衆がざわめいた。
「私は今、新たな神託を受けています」
エミリアは両手を広げた。聖女としての所作。神の声を伝える姿勢。
「神は告げています。『あの者の知識は、災いの種である。広まれば、王国に混乱をもたらす』——と」
心臓が、冷たくなった。
これが、彼女の策。
発表会という公の場で、神託を使って私を潰す。
「エミリア様」
私は声を絞り出した。
「その神託の根拠を、お示しいただけますか」
「根拠?」
エミリアの目が、冷たく光った。
「神託に根拠は不要です。神の声を聞くのが、聖女の役目。貴女のような罪人が、神の言葉を疑うなど——」
「——お待ちください」
新たな声が、講堂に響いた。
振り返ると、入口に一人の男が立っていた。
金髪。青い瞳。王族の威厳を纏った姿。
王太子レオポルド。
私を断罪した、あの男。
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王太子は、ゆっくりと講堂を歩いてきた。
聴衆が道を開ける。誰もが、息を呑んで見守っている。
「殿下……」
エミリアの顔に、動揺が走った。
「なぜ、ここに」
「聖女エミリア」
王太子の声は、冷たかった。
「私は、貴女の神託について調査を行いました」
エミリアの顔色が、変わった。
「調査……?」
「半年前の神託。『カミーユ・レヴィナスは王国に災いをもたらす悪である』——その神託の出所を、徹底的に調べさせた」
王太子は一歩、エミリアに近づいた。
「貴女の側近、リディアを知っているな」
エミリアの瞳が、揺れた。
「リディアは、三日前に私の元を訪れた。『すべてを話したい』と言ってな。貴女の立場が危うくなり、保身のために寝返ったのだろう」
「リディアが……」
「彼女は証言した。貴女が神託の『内容を整えていた』こと。『災い』という言葉が、神の声ではなく、貴女自身の創作であること」
講堂が、ざわめいた。
「嘘です!」
エミリアが叫んだ。
「リディアは裏切り者です! 私を陥れようとしているのです!」
「証言だけではない」
王太子は一枚の書類を取り出した。
「リディアの証言を元に、貴女の私室を調べさせた。これは、そこで見つかった草稿だ。貴女の筆跡で、『カミーユを排除する方法』と書かれている。神託の『案』も、複数記されていた」
エミリアの顔から、血の気が引いた。
「そ、それは……」
「聖女エミリア。貴女を神託詐称の疑いで拘束する」
衛兵たちが、エミリアを取り囲んだ。
エミリアは震えていた。
その目に、様々な感情が渦巻いているのが見えた。恐怖。怒り。そして——どこか、諦めのような色。
「……私は、間違っていない」
エミリアは呟いた。
「聖女の地位を守ることは、王国を守ることだった。あの女が称賛されれば、神託の権威が揺らぐ。私は——私は、正しいことをしようとしただけ……」
その声は、最後には消え入りそうに小さくなった。
「連れていけ」
王太子の命令で、衛兵がエミリアを連行した。
彼女は抵抗しなかった。ただ、最後に一度だけ、私を振り返った。
その目に何があったのか、私には読み取れなかった。
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エミリアが連行された後、講堂は騒然となった。
王太子が、私の前に立った。
「カミーユ・レヴィナス」
その声は、半年前とは違っていた。断罪の夜の、冷たく傲慢な声ではない。
「私は、貴女に謝罪しなければならない」
王太子が、頭を下げた。
聴衆から、驚きの声が上がった。王族が、追放された令嬢に頭を下げている。
「私は、エミリアの言葉を信じ、貴女を断罪した。調査もせず、証拠も求めず、神託という言葉だけで。——それは、私の過ちだった」
頭を上げた王太子の目には、後悔の色があった。
「貴女の名誉は、正式に回復される。断罪は取り消され、レヴィナス家への処分も撤回される。遅すぎたことは、承知している。だが、これが私にできる償いだ」
私は、しばらく言葉が出なかった。
半年前、この男に全てを奪われた。婚約者の地位。家族との絆。社会的な名誉。
怒りがないと言えば、嘘になる。
でも——
「殿下」
私は口を開いた。
「謝罪は、受け入れます。でも、私が欲しいのは償いではありません」
王太子が、息を呑んだ。
「私が欲しいのは、私の研究を正当に評価してもらうこと。私の活動を続ける自由。そして——私の人生を、私自身で決める権利です」
王太子は、しばらく私を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……分かった。貴女の望みは、叶えられるだろう」
王太子は踵を返し、講堂を出ていった。
残されたのは、ざわめく聴衆と、舞台の上の私。
客席から、マチルダ伯母が立ち上がった。
「よくやったね、カミーユ」
その声は、講堂中に響いた。
「お前は、自分の力で道を切り開いた。私は誇りに思うよ」
涙が、視界を滲ませた。
そして——
「カミーユ嬢」
ルシアンが、傍に来ていた。
「見事でした」
その声は、温かかった。
---
発表会の後、私たちは学術院の庭に出た。
冬の夕暮れ。空が、橙から紫へと変わっていく。冷たい風が頬を撫でたが、心は温かかった。
「お伝えしたいことがある、と言いましたね」
私が切り出すと、ルシアンは少し驚いた顔をした。
「覚えていてくださったのですね」
「忘れるわけがありません」
ルシアンは、ゆっくりと息を吐いた。
「カミーユ嬢。いえ——カミーユ」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「私は、貴女に出会えて幸運でした。八年前、貴女の論文を読んだ時から、私は貴女を探していた。会いたいと思っていた。そして、実際に会って——」
ルシアンの灰青色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめた。
「私は、貴女を愛しています」
息が、止まった。
「学者として尊敬しているだけではありません。一人の女性として、貴女を愛しています。貴女の聡明さ、情熱、強さ、そして優しさ。すべてが、愛おしい」
頬が、熱くなった。
「私と、共に歩んでいただけませんか。研究者として。そして——人生の伴侶として」
私は、すぐに答えられなかった。
嬉しかった。嬉しくて、涙が出そうだった。
でも同時に、怖かった。
幸せになっていいのだろうか。
断罪された私が。「無能」と呼ばれた私が。
こんなに真っ直ぐな想いを、受け取っていいのだろうか。
「……カミーユ?」
ルシアンの声に、不安が滲んでいた。
私は、自分の胸に手を当てた。
ブローチの感触がある。彼がくれた、学術院の紋章。
——貴女は一人ではない。
その言葉を、思い出した。
私は、もう一人じゃない。
支えてくれる人がいる。認めてくれる人がいる。愛してくれる人がいる。
それを、受け入れてもいいのだ。
「……ずるいです」
私は笑いながら、涙を拭った。
「こんな日に、こんなことを言うなんて」
「すみません。でも、これ以上待てなかった」
ルシアンも、少し泣きそうな顔で笑っていた。
「返事を、聞かせてください」
私は、彼の手を取った。
温かい手。インクで少し汚れた、学者の手。この三週間、共に論文を書いた手。
「私も、あなたを愛しています」
ルシアンの瞳が、大きく揺れた。
「私は、あなたに出会えて幸運でした。私の論文を見つけてくれて、私を探してくれて、私の味方になってくれて。あなたがいなければ、私は今日ここに立っていなかった」
彼の手を、しっかりと握った。
「共に歩みましょう。研究者として。そして——人生の伴侶として」
ルシアンの顔が、幸せそうに綻んだ。
彼が、私を抱きしめた。
温かかった。
この温もりを、ずっと探していたのかもしれない。
---
冬の空に、一番星が輝いていた。
私の名前は、カミーユ・レヴィナス。
かつて「無能」と呼ばれ、「悪」と断罪された女。
でも今は——
知識を届ける者。
本を作る者。
愛する人と共に歩む者。
私の物語は、ここから始まる。




