魔物からの逃走
金曜日更新、間に合いました!
このタイミングで確かめたいこととは。
理解が及ばず立ち止まった猪野に、オウジは「こっちだ」と背を向けた。
「先生、そっちは道から外れてますが」
「いいんだよ。あの集団と街をつなぐ直線から外れたいんだから」
そこにどんな意図があるのか。猪野にはわからない。
花紋の世界で、魔物は人を見つければ襲いかかっていた。相手の強さ弱さなど関係なく、近くにある生命を狙うのだ。
そこに生物的な意思の不在を感じさせられて、恐ろしく感じたことを猪野は覚えていた。
「こんなところで立ち止まっていたら、あの人たちが通り過ぎた後に私たちが一番魔物の近くになってしまうんじゃ……」
ぞわ、と寒気を感じたときには、いくつもの足音がすぐそばで聞こえる。目を向けなくともわかる、逃げる一団の先頭が迫っていた。
「あんたら、魔物が見えないのか! はやく逃げろ! 真っ直ぐ走れば街につく!」
先頭を走る男のひとりが叫んだ。
それが精一杯だったのだろう、あとはこちらに目もくれず、猪野とオウジの横を駆け抜けた。それに十人ほどの男女入り混じった人々が続く。
誰も彼も余裕がないのだろう、ちらちらと視線を感じはしたものの、荒い息だけを残して走り去って行った。
「先生、逃げましょう! 今ならまだ!」
「もう少し、待て」
腕にしがみつき促しても、オウジは動かない。
何を待てというのか。
一団が過ぎれば、地響きとともに巨鳥の群れがやってくる。荷物と、走って逃げ切れない子どもたちがその背に乗せられていた。
そのせいだろうか。巨鳥の足は、思い描いていたほどの速さはない。魔物との距離はもうそんなに開いていなかった。
「あああ、今すぐ走り出さなきゃ、私たちが魔物に狙われますよ!」
「もう少し。もう少しだけ待ってくれ」
必死に促すのにオウジは動かない。
焦りばかりがジリジリと身を焦がす。
「先生、もう鳥の群れがすぐそばに、ああ、目の前に来る……あっ」
猪野たちと鳥の群れ、それから魔物の距離が正三角形を描くほどになったとき。
逃げる巨鳥の一羽が脚をもつれさせた。
よろめいたその背から子どもが落ちそうだ。
「危ない!」
「おっ、おい!?」
気づけば猪野は駆け出していた。
オウジが焦った声を上げるのが聞こえたけれど、猪野は真っ直ぐ子どもに向かう。
なぜって、猪野が愛読してきた物語の主人公たちは、みんなそうして誰かを助けるためにためらわなかったから。
ずっと憧れだった。自身もそうありたいと思いながら今この瞬間を迎えて、猪野はためらわなかった。
──歩きやすい運動靴を履いていて良かった。
猪野は心の中で編集長に感謝する。
女性はヒール付きの靴、と決められていた時代もあったらしいけれど。今の編集長が「歩きやすいほうが仕事もはかどるでしょう」と暗黙のルールを無くしてくれたと聞いていた。
──編集長、さすがは頼りになるおじさまキャラ。ありがとうございますっ!
力強く踏み込み、ずり落ちかけた子どもを抱えながら巨鳥に飛び乗る。
「っだ、だれ!?」
「どうもこんにちは、猪野ふらんです! 魔物がすぐそこなので、ちょっと鳥さん失礼しますよ!」
子どもが驚いているけれど、ゆっくり自己紹介をしている暇はない。あとで安全な場所についたら、しっかり推しの話をしたいところである。
だが今は、と手綱を握る。
振り向けば魔物はすぐそこまで迫っていた。
──良かった、オウジ先生は狙われてない。
立ち尽くすオウジの横を魔物が素通りするのが見えて安心した。
けれど、同時に気を引き締める。オウジの次に近くにいる生物は、巨鳥に乗った猪野と子どもだ。それはつまり、魔物の標的となっているのは自分たちだということ。
集団はすでに遠く街のほう。
乗り手が姿勢を正したことで巨鳥の足取りは速さを取り戻したけれど、狙われた状態のままではいつか追いつかれる。
猪野は覚悟を決めて、手綱を握る手に力を込めた。
「先生、街で会いましょうっ」
遠ざかるオウジに叫んで猪野は前を向く。
オウジが返事をしたのかどうか。確かめている余裕はなかった。
なにせ鳥に乗るのは初めてなので。鳥どころか馬にだって乗ったことはないけれど。
──想像のなかでは何度となく乗ってきたのだから。ここで根性見ずにいつ見せる、猪野ふらんっ!
猪野は巨鳥の尻を叩く。
「ギュエーッ」
抗議するように巨鳥が鳴いて、速度が上がった。
「わ、わあっ」
「落としませんからっ。鳥の首にしがみつかないで!」
ガクガク揺れる鳥の背で、悲鳴をあげた子どもが体を固くする。
その身が放り出されないように、猪野は子どもを両腕で抱え込んだ。
「がんばれ、がんばれ、がんばって!」
「ギュッギュッギュエー!」
駆ける駆ける駆ける。
猪野も必死だが、鳥も必死だ。なにせ魔物に捕まれば食われるのだから。
「あと少し、街までがんばれ!」
もう街は近くに見えていた。
街をぐるりと囲む塀の高さも、閉ざされた見上げるほど大きな門も、その上で動く人々の姿も、空から降る水のきらめきさえも見てとれる。
「門を! 開けてくださーい!」
「無理だ!」
門兵だろうか、武装した男が門の上から叫び返した。
「魔物が近すぎる! 街に入られるわけにはいかねえ!」
「そんなっ」
街に辿り着きさえすれば助かると信じて、駆けてきたのに。猪野は思わず悲鳴を上げる。
それに応えたのは、腕の中の子どもだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、あたしがとろいから……!」
震える体。悲しみに満ちた声。
黙って揺れに耐えていた子がしぼりだした悲哀に満ちた感情に、猪野は衝撃を受けた。
──どうしてこの子が謝るのか。悪くなんてないのに。なぜって、私が悲鳴なんかこぼしたからだ! ヒーローじゃないって気づかせてしまったから。私が助ける力を持たないから、この子は自分を責めてるんだ!
確かに猪野に特別な力はない。奇跡を起こす花の紋も現れなかった。
だけど、それがなんだ。
今、この子を死なせずにいられるのは猪野しかいない。
猪野だけがこの子を生かせる可能性を持っているのだ。
──私の憧れたヒーローたちは諦めなかった。諦めずに、行動し続けた! だったら私はどうすべきか。そんなの、決まってる!
猪野は顔をあげた。震える手をきつく握りしめることで誤魔化して、すぐ後ろに迫っているだろう魔物には目を向けずに。
「おじさん! 他に入り口は!? どうにか魔物をまいてそっちに向かう!」
「右周りに進め! 街を囲む塀を右回りに進めば、小門があるっ。あっちなら開閉の時間が短いから、なんとかなるかもしれねえ!」
「信じますよっ」
手綱を操り、鳥の頭を男が指差す方へ向ける。
急な方向転換について来られなかったのだろう。迫っていた魔物が真っ直ぐ街の塀にぶつかった。水風船をぶつけたかのようにべちゃっと黒が広がって、飛び散る。
──もしかして自爆したのでは!?
期待した猪野だった、けれど。
飛び散った魔物の黒い破片がねちゃねちゃと動いて、一箇所に集まりだす。明らかに生物とは異なるその動きに、猪野の背中がぞわっと粟立つ。
蠢く黒いものたちは、ざわめくようにこちらへ這い寄る。
「鳥さん、急いで!」
「ギュエッ」
当然だと言わんばかりに鳴いた鳥が頼もしい。
実際、猪野が振り向いている間も巨鳥は脚を動かし続けていた。
魔物が飛び散り集まるのに時間をかけたぶん、先ほどよりは距離が空いている。
「これだけ離れて門を目指せたなら、きっと助かります!」
子どもを励ます言葉はその実、猪野自身が奮い立つために必要だった。
──これで小門も開けてもらえなかったら……いやいや、ヒーローはこんな時に弱気にならない! 信じて駆けるのみっ。
にじみそうな不安を押し込めて街の塀に沿って進んでいく。
──どこ、どこにあるの、小門は。まだか、まだなのか!
前を向く合間に振り返れば、じわじわと魔物との距離が縮みはじめていた。
吹き出す焦りに目を凝らし、永遠に続くように思われる塀をにらみつけていると。
「ここだ!」
不意に、扉程度に小さく途切れた塀の一部から、身を乗り出した青年がいた。
手を振る姿に気付いたのだろう、巨長がぐんと速度を増す。振り向けば、魔物の黒い姿はまだ追いついてはいなかった。
──鳥もわかるのか。最後の力を振り絞れるなら、鳥頭じゃないんだな。
どうでも良いことを思いながら、猪野は門のうちがわへ滑り込んだ。
「閉めろ閉めろ!」
「騒ぐ暇があるなら腕を動かせ」
「わーかってるっての! 動かしてるだろっ」
賑やかな声と門の閉じる音を、猪野は巨鳥の背中で聞く。興奮しているのか、脚が止まりきらないのか。巨鳥は猪野たちを乗せたまま、門の内側でバタバタと走り回る。
「わ、わわっ。おち、落ち着いてくださいっ。もう大丈夫、ですから! 大丈夫、ですよねっ?」
ぐるぐるバタバタ。落ち着きのない鳥の背から落ちないよう、手綱を握りながらたずねれば。
塀の壁についた梯子をよじ登り、高い塀の向こうを伺っていた青年のひとりが「ああ」と静かにうなずく。
「魔物はあんたたちを見失ったようだ。そのまま真っ直ぐ進んでる。ああ、街から離れている。街道沿いにも誰もいないから、そのうち消えるだろう」
遠く、魔物の姿を見ているのだろう。実況を終えた青年が飛び降りた。
「よっ、と」
その身体を受け止めたのはもうひとりの青年だ。門から身を乗り出していたのは、彼だろう。
ようやく巨鳥も落ち着きを取り戻してきたので、猪野は子どもを抱えて鳥の背から降り、青年たちと向き合う。
「助かりました! あなたたちは主人公の素質がありますねっ」
猪野なりの賞賛に、青年たちが目を丸くした。




