オウジキロクの胸のうち
オウジはひとり、宿を出た。目に映る街の景色は前回、この世界に転移したときと変わらない。
忙しく行き交う人々は自身が生きるのに精一杯。道端や建物の隙間で命を繋ぐ弱者には、目もくれない。
──本当に何も変わってない。これで百年経っただと? だったらあいつらは、何のために命懸けで魔王を倒したっていうんだ。
オウジの胸にくすぶるのは苛立ち。苛立ちだけならば抑え込める。何度もしてきたことだから。
しかし、明るさを増していく街の通りを早足で歩きながら、オウジは苛立ちと同時にめまいを覚えていた。
「なんだってんだ、あの編集は……ガキか? いいや、今時ガキでもあんな青くねえだろ。もっとうまく生きてるだろ。なんだって編集長はあんな遠慮もねえやつを俺のとこに寄こしたんだ。嫌がらせか? 売れっ子でもねえくせに原稿をあげるのに何年も空けるのがいよいようっとうしくなって、遠回しに縁切りを促してるのか?」
ぶつぶつと口をついて出るのは、猪野への不平。
恥ずかしげもなく理想を口にする猪野の青さを思い出して、めまいが止まらない。
なにせ、彼女の青臭くってたまらない物言いは、オウジの記憶を刺激してくれてやまないのだから。
「罪のない子どもは救われるべき、か……」
その言葉にオウジは賛同したかった。賛同できる人間でありたかった。異世界に転移することなく、平和な日本で過ごせていたなら、何の苦もなく「その通りだな」と言えたに違いない。
けれどオウジは四度、異世界を経験してきた。
そのどれもが現代日本とは比べるべくもなく、文明は未発達で人の命が軽視されるものばかり。
度重なる絶望はオウジの精神を削り、傷口を諦観で塞いでどうにか息をしているありさまだった。
──かつての自分の青さはあの比ではなかった。
そうオウジが思い起こすのは遠い記憶。
一度目にこの世界へやってきたときのことだ。
今からもう、十四年も前のことになる。あれはオウジがまだ十九歳のときだったのだから事実、今の猪野よりも若かった。
そのころのオウジは、一度目の転移先でわけもわからないまま翻弄され、散っていく命をただ見ていることしかできない自分に苛立っていた。
だって異世界だ。転移だ。
夢と希望にあふれた十代の男子の心が躍らないはずがない。
だというのに、異世界に行ったオウジに特別な能力はなかった。見知らぬ世界に翻弄され、ただただ命の危機に怯え、主人公ではなかったのだと知らしめられるだけの日々。
そのストレスで総白髪となったころ、オウジはようやく日本へと帰ることができた。オウジにとってはおよそ半年にも及ぶ長い時間。けれど日本に戻ってみれば、ほんの数時間のできごと。
そんな短期間で白髪となり、荒んだ振る舞いをするようになったオウジは、周囲からすればひどく扱いに困る子どもだったことだろう。実際、近隣の住民たちや学校の友人知人たちは、傍目には急に性格の変わったオウジのことを面白おかしく噂の種にしてくれた。
あることないこと、好き勝手にささやく声はオウジ本人にも聞こえてきて、当時は参ったものだ。まだ周囲を気にする繊細な年頃であったから。
そんな繊細な少年を、世間体を気にする両親は持て余したのだ。
これは決してオウジの被害妄想ではない。
「居なくなるなら、そのまま居なくなってれば良かったのに!」
そう言ったのは母親だ。
彼女は三人の子を持つ親のわりには、どこか幼稚なところのある人であった。下世話なうわさ話のまとにされたのが、気に食わなかったのだろう。
どこかギクシャクとした家族の空気や、近隣から寄せられる無遠慮な視線への苛立ちのすべてを息子に向けたのだ。
「お前、どうしちゃったんだろうなあ。前はこんな面倒くさいやつじゃなかったのに」
そう言ったのは父親だった。
しみじみと、本当にしみじみと言うものだから、少年だったオウジは呆然としながらも「ああ、父は本心から俺のことを面倒くさいと思っているんだ」とわかってしまった。
自覚が無かったわけではない。
異世界の理不尽に何度も晒されたオウジは、振り返ってみればずいぶんと荒んでいた。
当然だ。突然、知らない世界で命と精神をすり減らし続けた、半年間。
荒れないはずがない。理不尽に怒りを抱かずにいられるわけがない。
けれどそんな事情は誰も知らない。
日本に戻ってみれば、半日にも満たない時間でオウジはすっかり変わってしまったのだ。
そしてわが子を持て余した両親は、遠くに住む祖父母の元へオウジを預けたのだ。
完全な厄介払いだった。
オウジ自身だって、行方不明になった子どもが半年後に突如として帰ってきたなら、どう対応していいのか困っただろう。けれどそう他人事のように考えられるようになったのは、年を重ねてからだ。
小説として、自身の体験を書き出して第三者の視点で読むようになりしばらくしてから。それでもまだ、納得はできていないけれど。
当時は、危険な異世界から必死に帰ってきた息子に対する親の仕打ちに腹を立てた。
帰ってこなければ良かったと思いもした。
自分自身との折り合いをどうにかつけた。適度な距離感で見守ってくれる祖父母がいなかったなら、成せなかっただろう。
そうして、オウジが落ち着きを取り戻した、その矢先だった。
二度目の異世界転移が起きたのは。
──あれは十九の時だったか……気づいたら、この花紋の世界に居たんだよなあ。
一度目の転移で荒んだ心が回復した折。
今度こそ何かを変えてやると、二度も異世界に転移した自分は特別な存在なのだと、思っていた。思ってしまった。
──若かったんだよなあ。いや、馬鹿だっただけか。
オウジは弱者が食い物にされるこの世界を変えようと足掻いてもがいて、絶望した。
三度目、四度目と繰り返される転移のなかで、知らしめられたのは己がなにひとつ特別ではないという、事実だけ。
はじめての転移から今日の日までに、身につけたのは諦めだけ。
今も、露天の向こうから届く物欲し気な視線に見向きもしない。
薄汚れ、痩せた人がそこにいることはわかっていた。子どもなのか、瘦せぎすの大人なのかはわからない。土埃に汚れてくすんだ姿の中で、ぎょろりとした双眸だけが白々と光を放ちながらオウジを見つめている。
まるで鏡だな、とオウジは冷めた思いで足を止めた。痩せ細ったその人のためではない。自身のために、露天の前で立ち止まっただけ。
そのせいで、哀れな姿がよく見えた。表情のないその瞳は、諦観と羨望に塗れてオウジを映している。
あの人物にもわかっているのだ。オウジが、道行く人が自分を助けてくれることなどないと。そんな期待はするだけ無駄だと、理解しているのだ。
──いっときの旅人でしかない自分に何ができる?
たとえオウジが有り金を渡したところで、別の浮浪者に奪われて終わりだろう。悪くすれば、金だけでなく命まで取られるかもしれない。
かもしれない、ではなかった。オウジはそれを見たことがあった。いいや、その事態を引き起こしてしまったことがあったのだ。
ちっぽけな正義感。
誰かを助けられる自分に酔っていたのかもしれない。
過去に花紋の世界で過ごした時に、オウジは有りったけの金を道端でうずくまる者へと渡した。
そして、見たのだ。その翌朝。受け取った相手が、ボロ雑巾のように息絶えているのを。
オウジの心は粉々に打ち砕かれた。
渡すと決めた時には誇らしささえ感じていたというのに。受け取る相手の顔に戸惑いと怯えだけでない、喜びがにじむのを確かに覚えていたのに。
浅はかな行動は、ささやかな命に奪う価値を与え、オウジに後悔と絶望をもたらしただけだった。
だから、オウジは猪野に子どもを売るように告げた。
──守りきれねえってわかってるんだから、さっさと手放しゃいいんだ。
金を出して買った労働力ならば、いくらか大切に使ってもらえる可能性があるのだと告げたところで、納得するような相手ではなさそうだったが。
猪野のことを思い出して、オウジはため息の代わりに財布を取り出す。
足を止めたのは露天の前。古着を扱っているのだろう。並ぶのはほどほどの質をしたケープ。街に溶け込むにはうってつけの、派手すぎず地味すぎない品物だ。
「なあ、その羽織ものくれるか」
「はいよ」
商品と金と。露天商とオウジが互いに差し出した拍子。
「あっ」
声を上げたのは露天商だ。
ふたりの手がぶつかって、オウジの手から小銭がこぼれる。
小銭は弾かれるように露天の隙間を縫って、痩せこけた人の目の前へ。
ぱ、と伸びた手が小銭を掴むと、その人は駆け出した。
「あっ! 待て!」
「いいさ」
露天商が追いかけようとするのをオウジは止めた。振り向いた露天商は、眉を寄せている。
「いいのかい?」
「追っかけてつまんねえ怪我するよりか、ましさ。ほら。小銭だけなら持ってんだ」
肩をすくめてこぼした分の小銭を足して差し出せば、露天商が体をオウジに向ける。あからさまに笑顔を浮かべているのを見るに、取りこぼした分の金額を自分が持たなくて良いと、安堵しているのだろう。
みみっちいなどとは思わない。表立って助けの手を差し出す勇気を持たないオウジもまた、この露天商と大差ないのだから。
──あんなはした金を手に入れたところで、飯が腹一杯食えるわけでなし。つまんねえ偽善だ。
自分自身に吐き捨てて、オウジは買ったばかりのケープを羽織る。
ただでさえ個人として認識されにくい異世界転移者が、ますます街に溶け込んだことだろう。
そうして向かうのは、宙からの水が落ちていくその真下。
水も、金も力も持つ有力者たちが暮らす街の中央だ。
──つまんねえ人生だろうと、知らなきゃいけねえ。賢者が、勇者や聖女があのあとどうなったのか。なんで賢者の名が百年後に語られなくなっているのか。
知ってどうするのか。しょせんは一時的にこの世界のいるだけの異物のくせに、と自問する心は無視して、オウジは街の中央を目指した。




