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聖女の力を妹に奪われ魔獣の森に捨てられたけど、何故か懐いてきた白狼(実は呪われた皇帝陛下)のブラッシング係に任命されました

作者: アルカ

「——リリアナ、貴様との婚約は破棄する! そして、聖女のふりをして妹の功績を盗んだ罪で、この国からの追放を命じる!」


 王城の謁見の間。 頬を思いっきり殴られたかのような怒声を叩きつけられ、私の日常は音を立てて崩れ去った。

 目の前で私を見下ろしているのは、私の婚約者である第二王子カイル様。

 そして、その腕にべったりとしがみつき、勝ち誇ったような笑みを浮かべているのは、私の腹違いの妹、ミナだった。


「カイル様、お待ちください! 功績を盗んだなど、私は何も……!」

「黙れ! ミナは言ったぞ。お前が夜な夜なミナの部屋に忍び込み、『聖女の祈り』の魔力を吸い取っていたとな!」

「そ、そんな……! 私はそのようなことは決して――」


 魔力を吸い取るなんて芸当、私には絶対にできない。

 私は確かにこの国において聖女の一人に数えられているが、それはあくまで生まれ持った力であり、断じてミナから奪い取ったものではない。

 むしろ逆なのだ。ミナが私の力を奪ったのだ。

 どんな方法を使ったのかはわからないけれど、日に日に弱っていく私に対して、ミナはいつの間にか聖女としての力に目覚め、周囲からちやほやされ始めた。

 ミナのそれはあまりにも稚拙な嘘。けれど、カイル様は完全にミナに心酔してしまっていた。

 いくら弁明しても私の言葉なんて、何一つ届かなかった。


「お姉様、ごめんなさいねぇ。でも、嘘つきは泥棒の始まりって言うでしょう? これ以上罪を重ねる前に、罰を受けてくださいませ」


 ミナが意地悪そうにくすくすと笑う。

 本来ならば私の見方であるはずのお父様も、冷ややかな目で私を見ていた。

 ああ、そうか。もう私はとっくにあなたの娘じゃなかったんだ。最初からあの家に私の居場所なんてなかったんだ。


 お母様が亡くなってから、後妻に入った義母と、その連れ子であるミナ。

 お父様は後妻とミナを溺愛し、前妻の娘である私は「地味で華がない」という理由で、表舞台には決して出さず、聖女としての仕事をしているとき以外はまるで使用人のように扱われてきた。

 でも私はお父様が私を邪険に扱う本当の理由を知っている。

 お母様とお父様は恋愛結婚ではなく、政略結婚で結ばれただけの関係。

 お父様はお母様のことなど愛しておらず、本当に愛していたのはミナの母親だけだった。

 それでも、いつか認めてもらえると信じて、私は公爵家の裏方仕事を——領地の浄化や、家畜の世話、怪我人の治療を——必死にこなしてきたのに。


「衛兵! この女を『帰らずの魔の森』へ捨ててこい!」

「帰らずの魔の森!?」


 そこは、凶暴な魔獣が跋扈ばっこし、一度入れば二度と生きては出られないと言われる北の禁足地。

 追放というのは名ばかりの、実質的な死刑宣告だった。


「そんなっ……それだけは! お、お父様、助けて……!」

「ふん、お前などとうに私の娘ではないわ。汚らわしい盗人は魔獣の餌になるのがお似合いだろう」


 お父様は顔を背けた。

 絶望で、目の前が真っ暗になる。

 私の二十年間の人生は、こんなことで幕引きになってしまうの……?


 結局私の言い分は一切通らず、刑は即日執行となった。

 粗末な麻の服一枚に着替えさせられ、馬車に詰め込まれる。

 あっという間に私の故郷だった町が遠ざかっていく。


 ——絶対に、許さない。


 涙と共に、胸の奥で黒い炎のような感情が渦巻いた。

 私を信じなかったカイル様も、私を利用するだけ利用して捨てた父も、すべてを奪ったミナも。

 もし生きて帰れるのなら、いつか必ず、この報いを受けさせてやる。


 けれど、そんな復讐心も、鬱蒼と茂る『魔の森』の入り口に放り出された瞬間、あっという間に恐怖に化けた。


「さあ、降りろ。運が良ければ、一晩くらいは生き延びられるかもな」


 衛兵たちは嘲笑いながら私を突き飛ばし、逃げるように馬車を走らせて去っていった。

 残されたのは、私ひとり。

 周囲からは、ひゅるりと冷たい風の音と、得体の知れない獣の唸り声が聞こえてくる。


「……寒い」


 北の森の冷気は、麻の服を通して肌を刺す。

 私は震えながら、あてもなく歩き出した。

 じっとしていれば凍え死ぬ。

 かといって、歩いた先に希望があるわけでもない。


 ガサリ。

 背後の茂みが大きく揺れた。

 どくんと心臓が跳ね上がる。

 振り返ると、暗闇の中に、爛々と輝く二つの金色の瞳が浮かんでいた。


「……っ!」


 大きい。

 熊などでは比にならないほどの巨体を見上げる。

 月明かりに照らし出されたのは、雪のように真っ白な毛並みを持つ、巨大な白き狼だった。


 ああ、終わった。

 私はここで、食べられて死ぬんだ。

 そう覚悟して目を閉じた、その時だった。


『……グルゥ……』


 聞こえてきたのは、威嚇するような咆哮ではなく、どこか苦しげな、助けを求めるような唸り声だった。

 恐る恐る目を開ける。  巨大な白狼は、私に飛びかかってくるどころか、その場にどうっと崩れ落ちたのだ。

 よく見れば、その美しい白銀の毛並みの一部が、どす黒い瘴気に侵され、赤黒く変色している。


「……怪我を、しているの?」


 本来なら逃げるべきだ。

 でも、私は昔から、傷ついた動物を放っておけない損な性分だった。

 屋敷で虐げられていた時も、私の唯一の友達は、厩舎の馬や庭の野良猫たちだったから。

 震える足を叱咤して、私は白狼に近づいた。

 もしここで警戒されて牙を剥かれたら終わり。

 でも、彼は苦しそうに荒い息を吐くだけで、動こうとしない。


「大丈夫、怖くないよ……」


 私はそっと、その巨大な前足に触れた。

 ひやりと冷たく、そして硬い。瘴気が固まって、皮膚を締め付けているようだ。


「痛かったね。今、楽にしてあげる」


 私は意識を集中させる。

 ミナに奪われたと言われたけれど、私にはまだこれがある。

 誰にも言っていなかったけれど、私の「聖女」としての力は、人間よりも動物や植物に適していた。

 どんな動物も私が撫でれば元気になる。

 怪我だってすぐに治る。

 人間に対しての回復能力が弱いことから私は聖女の中でも落ちこぼれ扱いされていたけれど、私は大好きな動物さんたちをいやすことが出来るこの力に誇りを持っていた。


 手のひらが淡く光る。

 瘴気に汚れた毛並みを、櫛で梳かすように指を滑らせると、黒い霧がすうっと霧散していく。

 ああ、よかった。

 まだこの子を何とかできるだけの力は残っていたみたい。


「……よし、綺麗になった」


 すると、今まで苦悶の表情を浮かべていた白狼が、ぱちりと目を開けた。

 金色の瞳が、至近距離で私を捉える。


『……なんと』


 え?  今一瞬、頭の中に、男の人の声が響いたような?


『余の呪いを解くどころか、極上の手触りで撫でてくるとは……。貴様、名はなんと言う?』

「しゃ、しゃべった!?」

『質問に答えよ。余の恩人たる貴様の名を教えろと言っている』

「え、えっと、リリアナ……ですけど、あなたは?」

『余はアジュラ四世。神聖なるアルマ帝国の皇帝である』

「……え、ええええええっっ!!?」


 それは私が生まれ育った国のすぐ隣にある巨大帝国、それを統べる皇帝陛下の名前だった。

 驚愕する私の前で、巨大な白狼の体が光に包まれていく。

 これが、私の運命を劇的に変える――そして、国一番の権力者に溺愛されることになる、もふもふスローライフの始まりだった。


「……え、ええええええっっ!!?」


 私の絶叫が、夜の魔の森にこだました。

 神聖アルマ帝国現皇帝アジュラ四世。

 それは、強大な軍事力と領土を持つ、この大陸の覇者の名だ。

 冷徹で無慈悲、逆らう者は容赦なく切り捨てる「氷の皇帝」として恐れられているはずの……。


「う、嘘ですよね? だって、皇帝陛下がこんな場所で、しかも狼の姿で……」

『嘘ではない。……む、そこだ。耳の裏をもう少し強めに頼む』

「あ……はい、ここ、でいいですか?」


 皇帝だと名乗られても、目の前にいるのは巨大なもふもふ。

 要望通り耳の裏を優しく撫でてみると、彼は気持ちよさそうに目を細め、後ろ足でリズムを取り始めた。

 はっきり言って威厳が全くない。


『ふぅ……生き返った心地だ。貴様の指は魔法のようだな』

「あ、ありがとうございます」

『ところで貴様はなぜこのような場所にいる。貴様のようなか弱き少女が立ち入ってよい場所ではないぞ』

「っ、それは……」

『話してみよ。礼代わりに聞いてやろう』


 そう言われてしまっては正直に答えるほかないので、仕方なく私はこれまでの出来事をすべて話した。

 妹の策略に嵌められたこと。婚約者に裏切られたこと。家族に見捨てられたこと。

 裏切られ絶望の果てに孤独に死ぬことを望まれたことを。


 ひとしきりブラッシングを堪能すると、白狼——皇帝陛下は、ゆっくりと身を起こした。

 その瞬間、彼の体が眩い光に包まれる。

 光の粒子が収束し、形作られたのは、人型のシルエット。


 光が晴れた後に立っていたのは、銀糸のような長髪に、黄金の瞳を持つ、息を飲むほど美しい青年だった。

 ただし、頭にはぴょこんと白い獣耳があり、腰からはふさふさの尻尾が生えているけれど。


「ええっ……!」

「そう怖がるな。呪いが完全に解けていないゆえ、耳と尾が残っているだけだ」


 アジュラ陛下は、裸体に身にまとっていたマントを羽織ると、私を見下ろした。

 だがその眼差しは、先ほどまでの甘えるようなものとは違い、鋭い支配者の色を帯びていた。


「リリアナ、言ったな。貴様は国を追放され、家族にも捨てられたと」

「……はい」

「ならば、未練はあるまい。余と共に我が帝国へ来い」

「え……?」


 アジュラ陛下は私の前に膝をつき、わざわざ同じ目線でそっと私の手を取った。

 その手は温かく、大きかった。


「余の呪いを解くには、貴様のその手が必要だ。……いや、訂正しよう。余が貴様を気に入った。貴様の手放しでは、もう眠れそうにない」

「へ、陛下……?」

「契約だ、リリアナ。余の専属ブラッシング係……いや、『聖獣の守護者』として余の側におれ。衣食住はもちろん、貴様を虐げた者たちが後悔して泣きついてくるほどの地位と名誉を約束しよう」


 黄金の瞳が、私を射抜く。

 地位も名誉もどうでもよかった。

 ただ、誰も私を必要としなかった世界で、この最強の聖獣(ひと)だけが、私を「必要だ」と言ってくれた。


「……私で、いいのですか? ただの、動物好きの役立たずですよ?」

「『ただの』ではない。今日からは余が貴様を唯一無二の存在にしてやると言っている」


 その言葉に、冷え切っていた心がじわりと熱くなる。

 私は涙を拭い、彼の手を握り返した。


「……はい! 謹んで、お受けいたします!」


 こうして私は、捨てられた森から、大陸最強の皇帝陛下に「お持ち帰り」されることになったのだ。


 陛下が指をパチンと鳴らすと、私たちの周囲の景色が一瞬で歪んだ。

 次に瞬きをした時には、鬱蒼とした暗い森は消え失せ、目の前には見たこともないほど豪華な白い石造りの宮殿がそびえ立っていた。


「……え? こ、ここは?」

「余の離宮だ。本宮ほどうるさい連中はおらぬ。まずはここでゆっくりと羽を休めるといい」


 転移魔法。

 おとぎ話でしか聞いたことのない高位魔法を、陛下は息をするように使ってみせたのだ。

 呆然とする私の前に、宮殿の扉が開き、整列したメイドや執事たちが一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、陛下!」

「うむ。……おい、この者を客間に案内しろ。湯浴みと食事、それから最高級のドレスを用意せよ。髪一本たりとも傷つけることは許さん」

「「かしこまりました!」」


 使用人たちは私を一目見て、ボロボロの服や泥だらけの姿に眉をひそめる——なんてことは一切なかった。

 むしろ、キラキラとした尊敬の眼差しを向けてくる。

 あの国では私のことをそんな目で見る人なんて一人もいなかったから、少しむず痒い感覚を覚えた。


「まあ、なんと可愛らしいお嬢様!」

「こちらへどうぞ! さあさあ、温かいお湯をご用意しておりますわ!」


 あれよあれよと言う間に、私は大理石のバスルームへと連行され、良い匂いのする泡に包まれて磨き上げられた。

 肌を刺すような寒さも、泥の不快感も、すべてが温かいお湯に溶けていく。


「……夢みたい」


 数時間前まで、私は死を覚悟していたのに。

 お風呂から上がり、ふわふわの最高級シルクのガウンに袖を通すと、鏡の中にはまるで別人のような自分がいた。

 少し痩せてしまったけれど、肌は艶を取り戻し、プラチナブロンドの髪も丁寧に手入れされて輝いている。


「リリアナ様、陛下がお待ちです」


 案内されたのは、夜景が一望できるテラス席だった。

 テーブルには、見たこともないような豪華な料理が並んでいる。

 そして、その奥でグラスを傾けているのは、先ほどの美しい青年——アジュラ四世だ。

 今は耳も尻尾も消えており、完全な人間の姿をしている。

 その圧倒的な美貌に、私は思わず息を呑む。


「……待っていたぞ。座れ」

「は、はい。失礼いたします」


 緊張して席に着くと、陛下はふっと口元を緩めた。


「見違えたな。やはり余の目に狂いはなかった。貴様は宝石のように美しい」

「そ、そんな……私なんて、ただの元公爵令嬢で……」

「謙遜はいらん。さあ、食え。遠慮は不要だ」


 促されて、スープを一口飲む。

 濃厚なポタージュの味が口いっぱいに広がり、思わず涙がこぼれそうになった。

 実家では、冷え切った残り物しか与えられなかった。

 こんなに温かくて美味しい食事は、いつぶりだろう。


「……美味しい、です」

「そうか。ならば好きなだけ食うがいい。これからは、毎食これがが当たり前になる」


 陛下は私の涙を見て見ぬふりをして、グラスを置いた。

 そして、真剣な瞳で私を見つめる。


「リリアナ。先ほど貴様の話を聞いて、決めたことがある」

「はい?」

「貴様を追放した愚かな国——サレス王国だったか。あそこには近々、余から『親善大使』を送ることにした」


 親善大使?  

 平和的な響きだが、陛下の瞳の奥には、氷のような冷徹な光が宿っていた。


「貴様という国宝級の聖女を()()()()()のだ。それ相応の『対価』を支払わせねばならんからな」


 その言葉の意味を、私はまだ深く理解していなかった。

 ただ、この温かいスープと、陛下の不器用な優しさだけが、今の私にとっての揺るぎない真実だった。


 食事を終え、ほっと一息ついた時だった。

 不意に、アジュラ陛下の眉間に深い皺が刻まれた。

 整った顔立ちが苦痛に歪み、グラスを持つ手が微かに震えている。


「陛下……? どうなさいましたか?」

「……っ、夜は、やはり駄目だな」


 陛下のつぶやきと共に、ボシュッ! という可愛らしい音がした。

 次の瞬間、目の前にいた美青年は姿を消し、そこには——。


「グルゥ……」


 巨大な、そして少し申し訳なさそうな顔をした白狼が、椅子の上に鎮座していた。

 サイズが大きすぎて、高級な椅子がミシミシと悲鳴を上げている。


「あ……狼の姿に?」

『うむ……。夜になると瘴気の活動が活発になり、人の姿を維持するのが辛くなるのだ。……不恰好で、すまない』


 陛下はシュンとした様子で、ふさふさの耳を伏せた。

 どうやら、この姿を見られるのを恥じているようだ。

 けれど、私にとっては。


「謝らないでください! その姿、とっても素敵です!」

『む?』

「白くて、ふわふわで、大きくて……あの、触っても?」


 私が身を乗り出すと、陛下は驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと鼻先を近づけてきた。許可の合図だ。

 私は遠慮なく、その豊かな胸毛に顔を埋めた。


「ん〜っ! 最高です……!」


 極上のシルクのような手触り。お日様のような温かい匂い。

 私は夢中で頬擦りをした。

 実家では家畜小屋のわら布団が友達だった私にとって、これは至高の贅沢だ。


『……ふ、くすぐったい。だが、悪くはない』


 陛下が喉をゴロゴロと鳴らす。

 その振動が心地よくて、私はうっとりと息を吐いた。


『リリアナよ。その状態で頼みたいことがある』

「はい、なんなりと! ブラッシングですか? それとも肉球マッサージ?」

『寝所へ来い。……今夜は、共に寝るぞ』 「……へ?」


 私の思考が停止した。

 と、共に寝る? 男女が? 出会ったばかりで?


「あ、あの、それはさすがに、展開が早すぎるのでは……!」

『何を勘違いしている。治療だ、治療』


 陛下は呆れたように鼻を鳴らすと、ひょいっと私を背中に乗せた。

 そのまま宮殿の廊下を風のように駆け抜けていく。


「きゃっ!?」


 たどり着いたのは、私の部屋の倍以上はある広い寝室だった。

 部屋の中央には、大人五人が余裕で寝られそうな天蓋付きのキングサイズベッドが置かれている。

 陛下はベッドの上に私を降ろすと、その巨体を横たえ、期待に満ちた金色の瞳で私を見上げた。


『貴様が触れていると、呪いの痛みが引くのだ。だから、余が眠りにつくまで撫でていてくれ』

 「あ……そういうこと、でしたか」


 少しだけドキドキして損をした気分になりながら、私は陛下の隣に座った。

 近くで見ると、やはり毛並みの奥にうっすらと黒いおりのようなものが見える。

 これが呪いの正体なのだろう。


「お任せください。私、これでも動物……あ、いいえ、聖獣様のケアには自信があるんです」


 私は呼吸を整え、両手に魔力を込めた。

 優しく、ゆっくりと。  頭から背中、そして尻尾の先へ。

 私の手が触れた場所から、黒い澱が光の粒子となって消えていく。


『……ほう。これは、良い』


 陛下の目がとろんとしていく。

 強張っていた筋肉がほぐれ、大きな体がリラックスしてベッドに沈み込んでいくのがわかった。


『……不思議だ。サレスの連中は、貴様のこの力を無能だと断じたのか?』

「はい。人間には治癒効果がほぼありませんから。妹のミナのように、兵士の傷を癒やすことはできません」


 私が自嘲気味に答えると、陛下は不機嫌そうに低く唸った。


『やはり愚かだな、人間どもは。……余にとって、この手は何よりも得難い。これほど安らぐ夜は、呪いを受けてから初めてだ』


 大きな前足が、そっと私の腰に回される。

 引き寄せられ、私はもふもふの毛皮の中にすっぽりと包み込まれた。


『リリアナ。貴様は無能などではない。余の救世主だ。……だから、お前は余にとって必要な存在なのだ』

「陛下……」


 眠気に抗うような、甘えた声。

 噂に聞いていた冷徹な「氷の皇帝」の面影はどこにもない。

 ここにいるのは、ただ温もりを求めている一匹の孤独な狼だった。


 誰かに必要とされたい。

 ずっとそう願っていた。

 でも、まさか私の居場所が、白狼に化けた皇帝陛下の腕の中だったなんて。


「……はい。どこへも行きません。おやすみなさい、アジュラ様」


 私は温かい毛並みに顔を埋めた。

 陛下の寝息が規則正しいリズムを刻み始める。

 その温もりに包まれて、私もまた、追放されてから初めての、泥のない、寒くない、安らかな眠りにつくのだった。


 サレス王国、王城。

 リリアナを追放したその翌日。

 第二王子カイルは、上機嫌でグラスを傾けていた。


「いやあ、清々しい朝だ! あの陰気な女がいなくなっただけで、城の空気が澄み渡ったようだ」

「ふふ、そうですわねカイル様。お姉様……いいえ、あの罪人がいなくなって、私もようやく安心して過ごせますわ」


 カイルの隣に寄り添うのは、リリアナの異母妹ミナだ。

 彼女は今朝、正式にカイルの婚約者として発表されたばかりだった。

 リリアナから奪った聖女の地位、そして次期王妃の座。

 すべてが彼女の思い通りになっていた。


「しかしミナ、お前の力は本当に素晴らしいな。昨日のパレードでも、民衆はお前の『聖女の輝き』に夢中だったぞ」

「ええ。だってお姉様の魔法は地味で、見ていてもつまらないものでしたから。これからのサレス王国には、私のような華やかな聖女こそふさわしいのです」


 二人が互いを褒め称え、甘い時間を過ごしていた、その時だった。

 バンッ!  部屋の扉が乱暴に開かれ、近衛騎士団長が血相を変えて飛び込んできた。


「で、殿下! 大変です!」

「なんだ騒々しい。余韻に浸っていたところだぞ」

「お取込み中大変申し訳ございません。しかしながら急ぎご報告したいことが……!」

「……ちっ、話せ。手短にな」

「王家直轄の厩舎きゅうしゃで、軍馬たちが一斉に暴れ出したのです!」

「はあ? 馬が暴れた程度で、なぜ私が呼ばれる。その程度のことは騎士団で鎮圧しろ」

「それが……手がつけられないのです! 騎乗しようとした騎士たちが次々と振り落とされ、怪我人が続出しております。どうか、ミナ様の『聖女の癒やし』で馬たちを鎮めていただけないでしょうか!」


 カイルは眉をひそめたが、すぐにミナを見てニヤリと笑った。


「なるほど。ミナの聖女としての力を騎士団に見せつける良い機会だな。行こうか、ミナ」

「ええ、お任せくださいカイル様。たかが馬の一頭や二頭、私の愛でイチコロですわ」


 ミナは余裕の笑みを浮かべ、カイルと共に厩舎へと向かった。  ——この時までは、二人とも完全に舐めきっていたのだ。  今まで王家の馬たちが大人しかったのは、毎朝リリアナがこっそりと訪れ、愛情を込めて世話をしていたからだという事実に。


 ♢♢♢


 厩舎に到着すると、そこは地獄絵図だった。

 普段は誇り高いサレス王国の軍馬たちが、目を血走らせ、柵を破壊しようと暴れまわっている。


「ヒヒィィィン!!」

「うわあっ! 鎮まれ! ぐあっ!」


 騎士たちが必死に手綱を引くが、馬たちはそれを蹴散らしていく。

 その光景に、ミナは少しだけ顔を引きつらせた。


「な、なんですの……? 汚らわしい獣の分際で……」

「ミナ、頼んだぞ。あの暴れている黒馬を鎮めてやってくれ」

「は、はい……」


 カイルに促され、ミナはおずおずと前に出た。

 彼女は「聖女」らしく両手を組み、祈りのポーズをとる。


「ああ、怒りに飲まれた可哀想な馬さんたち……。さあ、私の聖なる光で癒やされなさい——!」


 ミナの体から、きらきらとした派手な光が放たれる。

 それは見た目だけは美しく、人間たちからは「おおっ!」と感嘆の声が上がった。

 ――だが。


「ブルルルッ!!」


 光を浴びた瞬間、馬たちの興奮が収まるどころか、さらに激昂したのだ。

 ミナの放つ魔力は、人間には心地よく見えても、敏感な動物たちにとっては「香水の原液を浴びせられた」ような、強烈な不快感を伴うものだった。


「キャアッ!?」


 一頭の馬が柵を乗り越え、ミナに向かって突進してきた。

 泥とわらにまみれたひづめが、ミナの着飾ったドレスを直撃する。


「ぶべっ!?」


 ミナは無様に吹き飛び、馬糞が散らばる床に顔から突っ込んだ。


「ミナ!?」

「いやあああっ! 臭い! 汚い! なんなのよこの駄馬!! 処刑して! 今すぐ殺してよ!!」


 聖女らしからぬ金切り声が響き渡る。

 その醜態に、騎士たちの間にどよめきが走った。

 今までなら、リリアナがそっと近づくだけで、どんな荒馬も仔猫のように大人しくなったというのに。


「お、おい……どうなっているんだ……?」


 カイルは呆然と立ち尽くしていた。

 ミナの力があれば万事解決するはずだった。リリアナなど不要だったはずだ。

 だが、現実はどうだ。

 馬一頭鎮められず、糞まみれになって泣き叫ぶ「新しい聖女」。


 ふと、厩舎の隅で震えていた老いた飼育係が、ボソリと呟いたのが聞こえた。


「……リリアナ様がいれば、こんなことにはならなかったのに」


「なんだと?」

「あ、いえ! なんでもございません!」


 カイルは飼育係を睨みつけたが、胸の中に小さく、しかし無視できない「違和感」が芽生え始めていた。

 本当に、追放すべきはリリアナだったのか?  いや、そんなはずはない。あんな地味な女に、特別な力などあるわけがないのだ。


「ええい、ミナを医務室へ運べ! 馬たちは麻酔矢で眠らせろ!」


 カイルの怒鳴り声が虚しく響く。

 だが、これはまだ序章に過ぎなかった。

 リリアナという「要石」を失ったサレス王国は、この日から、動物だけでなく、魔獣や疫病といったあらゆる厄災に見舞われることになるのだ。


 アジュラ陛下との衝撃的な——そしてとろけるように幸せな一夜が明け、私は鳥のさえずりと共に目を覚ました。

 隣を見ると、そこにはすでにもぬけの殻。

 どうやら陛下は早朝から公務に向かわれたらしい。

 代わりにサイドテーブルには、『公務が終わり次第戻る。それまでは自由にして構わん』という、シンプルな内容のメモ書きと、すぐ傍に一輪の真紅の薔薇が置かれていた。


「ふふ、陛下らしい」


 私は身支度を整え、離宮の散策に出ることにした。

 向かう先は前々から気になっていたところだ。

 昨夜は陛下の転移魔法で一瞬だったけれど、ここは帝都を見下ろす高台にある「空中庭園」として有名な場所らしい。


「わぁ……綺麗……」


 テラスに出た私は、思わず声を上げた。

 眼下には雲海が広がり、庭園には色とりどりの花が咲き乱れている——はずだったのだが。


「困った……これでは陛下に合わせる顔がない……」


 庭園の一角で、初老の男性が頭を抱えて座り込んでいた。

 彼の周りにある花壇だけ、なぜか植物がぐったりと萎れ、茶色く変色しているのだ。

 どうやら彼はこの離宮の庭師長らしく、そばには数人の若い庭師や、魔法使いのような格好をした人たちも集まっている。


「どうしたのですか?」

 「あ、あなたは確か陛下の――い、いやお見苦しいところをお見せいたしましたな。実は……」


 庭師長は慌てて立ち上がると、悲痛な面持ちで説明してくれた。

 この区画には、帝国でも希少な『月光樹』という、魔力を帯びた樹木が植えられている

 しかし今朝になって急に枯れ始め、魔導師たちが最高級の肥料や回復魔法をかけても、全く効果がないのだという。


「恥ずかしながら原因が全く分からないのです。虫などに食われているわけでもありませんし、私の知識にある病気でもおそらくありません。ですが有様で、これではまるで生きる気力を失ったかのようで……」


 その言葉に同意するように魔導師の一人が首を振る。

 私はそっと、枯れかけた樹木に近づいた。

 うん。確かに、弱っている。

 でも多分、病気とかそういうのじゃない。

 おそらくこれは……。


「……誰か、泣いてる?」


 木の中から、かすかに「しくしく」という泣き声のような波動を感じた。

 おそらくこれは普通の人間には聞こえない、自然の声。

 私が優しく手をかざすと、大樹の中から淡い光が飛び出して私の掌の上に着地した。


「みゅぅ……」


 そこにいたのは、手のひらサイズの小さな生き物だった。

 リスのような見た目だが、背中には葉っぱのような羽が生え、額には小さな宝石がついている。

 『カーバンクル』——植物の成長を司る、庭園の守り神だ。


「なるほどね。この子が原因だったんだ」

「そ、それは守り神様!? いつの間に!」


 庭師たちが驚く中、私はカーバンクルの背中を指先で優しく撫でた。

 震えていた体が、少しずつ落ち着いていく。

 よく見ると、彼の体は明らかにやせ細っていて、ふさふさなはずの大きな尻尾も弱弱しくへたり込んでいた。

 だけど私の顔を見るや否や、何かを求めるように強く訴えかけてきた。


「みゅぅ! みゅー!」

「可哀想に……精霊力が何かに奪われちゃったのね。大丈夫。私が分けてあげる」

「みゅ!」


 精霊力。それは超自然的存在である精霊が存在を維持するために必要なエネルギー。

 この子はお気に入りのこの庭園の植物が元気に育つように見守っていたようだけど、ある日突然何者かに襲われて精霊力を根こそぎ奪い取られてしまったらしい。

 そのせいでこの子は自然回復を待っていては死んでしまうほど消耗してしまい、生き残るためにやむなく庭園の植物たちのエネルギーを吸い上げてしまったようだ。

 もしここに妹のミナがいたら、この子の言葉なんかには一切耳を傾けず、諦めるか、或いは無理やり回復魔法を浴びせて状況が悪化していたことだろう。

 動植物、そして精霊たちを守るために必要なのは、一方的な「施し」ではなく、彼らに寄り添う「理解」なのだ。

 歩み寄る姿勢を示せば、きっと彼らも頼ってくれる。


「じっとしててね。大丈夫。すぐに終わるから」


 私は手のひらに淡い光を宿しながらカーバンクルを撫でる。

 私はどういうわけか精霊たちと同じような力を持っているので、私の魔力は瞬く間に彼の体に吸い込まれていった。

 ついでにぼさぼさになった毛を整えてあげる。


「よし、これで最後……はい、綺麗になったわよ」


 仕上げに櫛で毛並みを整えてあげると、カーバンクルの尻尾は再び新品のモップのようにふわふわになった。


「みゅ〜〜!!」


 カーバンクルは歓喜の声を上げ、私の頬にすりすりと身体を擦り付けてきた。

 すると、どうだろう。

 彼から溢れ出した喜びの波動が、金色の光となって周囲に広がっていく。


 ドワッ!!


 音を立てて、周囲の枯れ木に緑が戻り、つぼみが一斉に開花した。

 あたり一面に甘い花の香りが満ちる。

 それは魔導師たちが束になっても成し遂げられなかった、生命の奇跡だった。


「お、おおおお……!」

「枯れ木が一瞬で!? なんと……これが守り神の――否、聖女様の力……!」

「素晴らしい! なんというお力だ!」


 庭師長たちが涙を流して拝んでいる。

 そこまで過剰な反応をされるとちょっとむず痒いな。


「——騒がしいと思えば。何事だ」


 凛とした声が響き、人垣が割れる。

 公務を早めに切り上げたのか、アジュラ陛下が立っていた。

 陛下は蘇った庭園と、私の肩に乗ってドヤ顔をしているカーバンクルを見て、すべてを悟ったように口元を緩めた。


「なるほど。気難しい庭園の守り神まで手懐けたか」

「陛下! リリアナ様は凄いです! 一瞬で庭園を蘇らせました!」

「うむ。当然だ。リリアナは余が見込んだ『至高の聖女』だからな」


 陛下は私の腰を引き寄せると、庭師たちの前で見せつけるように私の髪に口づけを落とした。


「人間にも、動物にも、精霊にも愛される。……全く、余のきさきにするにはもったいないほどの逸材だ。だが、渡さんぞ」

「へ、陛下っ! 皆様が見ております!」

「見せつけているのだ。この国一番の宝は、余のものだとな」


 真っ赤になる私を見て、陛下は楽しそうに笑う。

 サレス王国では「無能」と蔑まれていた私の力が、ここでは「奇跡」として讃えられている。

 その事実が、私の胸を温かく満たしていた。


 ——その頃。

 私の元婚約者たちは、暴れる馬の対処に追われ、城中が糞まみれになるという大惨事を迎えているとはつゆ知らず。

 私は平和で美しい花々と、もふもふたちに囲まれ、かつてない幸せを噛み締めていたのだった。


 離宮での平穏な日々は、唐突な来訪者によって破られた。


「陛下、緊急の報告がございます」


 私とアジュラ陛下がテラスでティータイム(という名のブラッシングタイム)を楽しんでいると、近衛騎士が慌てた様子で駆け込んできた。


「サレス王国より、特使が到着しました。……リリアナ様の引き渡しを要求しております」

「……なんだと?」


 アジュラ様の金色の瞳が、一瞬で凍てつくような殺気を帯びる。

 私の心臓がドクリと跳ねた。

 サレス王国。私を捨てた故郷。

 まさか、こんなに早く接触してくるなんて。


「特使の名は?」

「ガリエル公爵。……リリアナ様の実父でございます」


 お父様……!

 血の気が引いていくのがわかる。

 あの人の冷酷な目つき、罵声を浴びせられた記憶がフラッシュバックして、指先が震え出した。


「リリアナ」


 震える私の手に、大きく温かい手が重ねられた。


「恐れることはない。貴様は余の守護者であり、この国の至宝だ。誰にも指一本触れさせん」 「陛下……」 「来い。愚かな客人に、誰の所有物に手を出そうとしているのか、教えてやる必要があるな」


 ♢♢♢


 本宮の謁見の間。  

 玉座に座るアジュラ陛下の隣に、私はなぜか豪奢な椅子を用意され、座らされていた。  

 目の前には、見覚えのある——かつて私を見下していた父、ガリエル公爵が立っている。  

 父はやつれ、以前のような覇気はない。服もどこか薄汚れている。  

 だが、その目は相変わらず傲慢な光を宿していた。


「お会いできて光栄でございます。偉大なる神聖アルマ帝国皇帝陛下」

「……挨拶は不要だ。用件を言え」


 アジュラ様の冷たい声にも怯まず、父は私を睨みつけた。


「そうですか……では単刀直入に申し上げます。そこにいる娘、リリアナを返していただきたい」

「ほう? 貴国が『無能』として追放した娘をか?」

「ええ、そうです。どうやら手違いがあったようでしてな。我が国では今、原因不明の疫病と凶作が蔓延しており、聖女の手が足りんのです」


 父は悪びれもせず、まるで落とした財布を拾いに来たかのような口ぶりで続けた。


「リリアナ、いい加減に戻って来い。ミナもお前を許すと言っている。カイル殿下も、側室としてなら置いてやってもいいと仰せだ。これほどの温情はないぞ?」


 流石にこの言葉には我が耳を疑った。

 許す? 側室?  いったい何を言っているの?

 自分たちが私を殺そうとしたことなど、まるでなかったかのような言い草。  

 あまりの身勝手さに、恐怖よりも先に、怒りがこみ上げてくる。


「……お断りします」


 私は震える声を絞り出した。


「私はもう、あなたの娘ではありません。サレス王国には戻りません」

「なんだと!? 親に向かってその口の利き方は——」


 父が激昂し、私に掴みかかろうと一歩踏み出した、その瞬間。


 ドオォォォン!!


 落雷のような轟音が響き、父の足元の床が弾け飛んだ。


「ひぃっ!?」


 父が尻餅をつく。  

 玉座にかけたままのアジュラ陛下が、片手を軽く振っただけだ。

 それだけで、父の足元には深さ数メートルのクレーターが穿たれていた。  

 アジュラ陛下は、もはや人間としての擬態を保てないほどに、激しい怒りの魔力——そして獣の殺気を立ち昇らせていた。


「——もういい。失せよ」

「え、あ、え……」

「失せよと言った」


 地獄の底から響くような声。  

 父だけでなく、周りの騎士たちさえも恐怖で凍りつく。

 腰が砕け動くことが出来ない父に、呆れ果てたかのように言葉をかける


「リリアナは『返せ』と言われて返すような物ではない。余が選び、余が愛し、余が求めた、唯一無二の伴侶だ」

「は、伴侶……!? 皇帝の妃だと……!?」 「

「左様。貴様らがドブに捨てた宝石は、余が拾い上げ、最も輝く場所に据えた。今さら返せだと? どの口が言うか」


 アジュラ陛下が立ち上がる。

 その背後に、巨大な白狼の幻影が揺らめいた。


「消えろ。二度と余の愛し子の前に顔を見せるな。……さもなくば、サレス王国ごと地図から消し去ってくれる」

「ひ、ひぃぃぃぃっ!!」


 圧倒的な「格」の違い。

 捕食者と被食者の差。  

 父は恐怖のあまり泡を吹き、転がるようにして謁見の間から逃げ出した。


 静寂が戻った部屋で、アジュラ様はふぅ、と息を吐き、私に向き直った。  

 その顔は、いつもの甘い表情に戻っている。


「……怖がらせたか? 少し力を込めすぎたかもしれん」

「い、いいえ……」


 私は胸を押さえた。  

 ドキドキしている。

 でもそれは恐怖ではない。  

 これほどまでに強く、激しく、誰かに守られたことなどなかったから。


「ありがとうございます、アジュラ陛下……大好きです!」


 私が感極まって抱きつくと、陛下は一瞬驚いた顔をして、それから嬉しそうに私の頭を——ちょうど狼の時と同じように、わしゃわしゃと撫で回してくれたのだった。


 サレス王国、王城の地下深く。

 かつては神聖な儀式が行われていたその場所は今、腐臭と絶望に満ちていた。


「なんで……なんでうまくいかないのよ!」


 ミナは叫びながら、高価な花瓶を床に叩きつけた。

 王都の状況は悪化の一途をたどっていた。

 父であるガリエル公爵は帝国への交渉に失敗して逃げ帰り、今は部屋に引きこもって震えている。

 カイルも、暴れる馬に蹴られた怪我が治らず、ミナに「早く治せ」と当たり散らすばかり。

 そして何より許せないのは、民衆の声だ。

 

『リリアナ様がいなくなってから、陽の光が弱くなった気がする』

『作物が育たないのは、新しい聖女様の力が偽物だからじゃないか?』


「偽物? 私が? ふざけないでよ! 私はリリアナなんかよりずっと可愛くて、華やかで、優秀なのよ!」


 ミナは爪を噛んだ。

 聖女の力。それは確かに、最初はあったはずなのだ。

 リリアナが近くにいた頃は、ちょっと祈るだけで周囲が輝き、皆が褒め称えてくれた。

 だがあの女がいなくなってから、まるで蛇口を閉められたように、魔力が湧いてこなくなった。


 ——違う、お前が力を失ったのではない。


 不意に、背後の闇からドロリとした声が響いた。


「っ!? だ、誰!」


 ——お前は元々、何も持っていなかったのだ。『搾取』する器以外はな。


 闇の奥から滲み出してきたのは、不定形の黒い影だった。

 それは王城の地下に古くから封印されていた『悪魔』。

 かつてこの地を荒廃させ、精霊力を喰らい尽くそうとした厄災の権化。


 ——あの忌々しい『白き光』を持つ娘……リリアナといったか。

 奴がこの城にいたからこそ、我は封印され、手出しできなかった。

 奴の放つ清浄な波動が、我ら魔性の者にとっての猛毒だったからだ。


「リリアナが……魔除けだったって言うの?」


 ミナの顔が憎悪に歪む。

 あんな地味で薄汚れた姉が、自分たちを——いや、この国そのものを守っていたというのか。

 そんなこと、認めるわけにはいかない。


 ——力が欲しいのだろう? 娘よ。

 ——我と契約せよ。お前のその『奪う才能』は素晴らしい。

 我を受け入れれば、国中の精霊力を根こそぎ奪い取り、お前だけの力にできるぞ。

 そうすれば、あの憎き姉も見返せる。


「……本当?」

 「ああ。リリアナなど足元にも及ばない、最強の聖女になれる」


 最強。

 その甘美な響きに、ミナの瞳から理性の光が消えた。

 彼女はふらふらと影に手を伸ばす。


「いいわ。あげる。私の体も、魂も……だから力をちょうだい。あの女をひれ伏させる、絶対的な力を!」


 ——契約成立だ。


 黒い影が爆発的に膨張し、ミナの体を飲み込んだ。

 その日、サレス王国の王都から青空が消えた。

 城を中心にどす黒い瘴気が噴出し、触れた植物を枯らし、動物たちを凶暴化させながら、生きとし生けるものの活力を貪り始めたのだ。


 ♢♢♢


 一方、アルマ帝国、離宮のテラス。


「……っ!」


 アジュラ様の膝の上で微睡んでいた私は、心臓を鷲掴みにされたような悪寒を感じて飛び起きた。


「どうした、リリアナ」

「陛下……風が、悲鳴を上げています。精霊たちが……逃げ惑っている」


 南の空を見る。

 遠くサレス王国の方向から、おぞましい気配が空を黒く染めながら近づいてくるのが見えた。

 あれは、ただの疫病や災害じゃない。

 もっと根本的な、世界を喰らい尽くす悪意の塊。


「……なるほど。愚か者たちが、決して触れてはならぬ封印を解いたか」


 アジュラ様が立ち上がる。

 その瞳は、冷徹な皇帝の色に戻っていた。


「リリアナ。あれはほぼ間違いなく『暴食の悪魔』だ。精霊力を喰らう害虫め、せっかく余がこの身を呪いに侵されながらも封じたというのに……」

「悪魔……」

「放っておけば、この帝国まで枯れ果てるだろう。……征くぞ、リリアナ」

「え?」

「余が噛み砕き、貴様が癒やす。二人で後始末をつけるぞ」


 陛下が手を差し伸べる。

 かつての私なら、怖くて足がすくんでいただろう。

 でも今は、最強のパートナーが隣にいる。

 それに、あんなものに私の大切な新しい居場所を壊させたりはしない。


「はい! お供します!」


 私はその手を強く握り返した。

 因縁の故郷へ。最後の決着をつけるために。


 サレス王国の国境を越えた瞬間、肌にまとわりつくような不快な空気が私たちを包んだ。

 かつて緑豊かだった平原は枯れ果て、家畜たちは痩せ細り、目から光を失っている。

 王都へ近づくにつれ、その惨状は酷くなっていった。


「ひ、ひぃぃ……助けてくれ……」

「ううっ、もうだめだ……」


 道端には力尽きた人々が倒れ込んでいる。

 その中には、かつて私を「地味だ」と嘲笑っていた貴族たちの姿もあった。

 彼らの華美な衣装は泥にまみれ、見る影もない。

 私たちは転移魔法で一気に王城の上空へと移動した。

 そこには、信じられない光景が広がっていた。


「な、なんだあれは……!」


 城が、巨大な黒いドーム状の何かに飲み込まれかけている。

 その中心にいたのは、異形の怪物だった。

 人の形はしているが、背中からは漆黒の触手が無数に伸び、周囲の大地から無理やり精霊力を吸い上げている。

 顔の左半分だけがかろうじてミナの面影を残していたが、右半分は崩れた泥のように醜く歪んでいた。


『アァ……力が……もっと、もっとよコセェェェ!!』


 耳障りな叫び声。

 あれが、私の妹の成れの果てらしい。


「ミナ……」

「……見るに堪えんな。欲望に飲まれ、器そのものが壊れている」


 アジュラ陛下が吐き捨てるように言う。

 その時、崩れかけた城のバルコニーに、父とカイルの姿が見えた。


「お、おい見ろ! あれはアルマ帝国の皇帝だ!」

「それにリリアナもいるぞ! おいリリアナ! 助けてくれ! ミナが狂ったんだ!」

「そうだ! お前の妹だろう! なんとかしろ!」


 二人は私たちに向かって必死に手を振っていた。

 自分たちが私を捨てたことなど忘れ、恥も外聞もなく命乞いをする姿。

 かつてはあんなに大きく見えた父やカイルが、今は豆粒のように小さく、哀れに見えた。


「……黙れ、下種どもが」


 アジュラ様が一睨みすると、強烈な覇気に当てられた二人は白目を剥いて気絶した。


「さて、リリアナ。掃除の時間だ」

 「はい!」


 アジュラ陛下の体が光に包まれる。

 顕現したのは、あの夜に出会った時よりもさらに巨大で、神々しいほどの威圧感を放つ白狼の姿。

 私はその背中にしっかりと掴まる。


『行くぞ!』


 アジュラ陛下が咆哮と共に急降下する。

 隕石のような衝撃が、異形の怪物——ミナを襲った。


『ギャァァァァァ!!』


 ミナの悲鳴が響く。

 アジュラ陛下の爪が黒い触手を切り裂き、牙が瘴気を噛み砕く。

 圧倒的な戦闘力。

 しかし、ミナと融合した悪魔もまた、しぶとかった。


『イタイ……許サナイ……お姉様ダケハ、許サナイィィ!!』


 ミナの触手が再生し、鞭のように私たちを襲う。

 さらに悪いことに、切断された触手が周囲の空間からさらに無理やり精霊力を吸い上げようとしていた。


『チッ、きりがないな。倒すこと自体は容易いが、これ以上暴れさせれば、この土地自体が死ぬぞ』


 アジュラ様が忌々しげに唸る。

 悪魔は倒されるたびに、再生のために周囲の生命力を奪う。

 力でねじ伏せようとすればするほど、サレス王国が滅びに近づくという悪循環。

 だからこそ、かつてアジュラ様はこの身を犠牲にして「封印」を選んだのだ。


 でも、今は違う。私がいる。


「陛下、私をあの子の懐まで連れて行ってください! そうすれば多分――なんとかなります!」

『……承知した。しっかり掴まっておれよ、余の愛し子!』


 白狼が空を駆ける。

 無数の触手を紙一重で躱し、アジュラ様はミナの懐へと飛び込んだ。

 目の前には、悪魔の核と融合し、憎悪に染まったミナの顔。


『死ネェェェェ!!』


 迫りくる黒い泥。

 私は恐れずに手を伸ばした。

 攻撃魔法じゃない。防御魔法でもない。

 私が使うのは、いつだって一つだけ。


「——こんなに汚れちゃって……。大丈夫、すぐに綺麗にしてあげるから」


 私の手が、ミナの額にある「悪魔の核」に触れた。



 ドクン。

 私の魔力が流れると同時に、暴れていた黒い泥が一瞬で硬直した。


「人間には効かなくても……あなたはもう、半分『魔獣』でしょう?」


 私は静かに告げた。

 悪魔と融合したミナは、もはや人間ではない。

 私の対動植物の力の対象内だ。


 本来、動物のケアというのは、汚れを落とし、絡まった毛を解き、あるべき姿に戻してあげること。

 ならば、このドロドロとした欲望と悪意の塊も、私にとっては「酷い毛玉」と同じだ。

 だから私がグルーミングでそれを取り除いてあげる。

 私の手から、眩いプラチナの光が奔流となって溢れ出す。

 それは攻撃的な衝撃波ではなく、どこまでも優しく、温かい光。

 しかし、汚れきった悪魔にとっては、存在を否定される最強の浄化光だった。


『ギ、ギギ……ヤメロ、熱イ、溶ケルゥゥゥ!!』

「ごめんね。でも、その子をあなたの餌にしてあげるわけにはいかないの」


 私は櫛で梳かすように、魔力を核の深部へと浸透させる。

 ミナの魂にへばりついた悪魔の概念を、根こそぎ引き剥がすイメージで。


 ボシュゥゥゥッ!!


 黒い泥が悲鳴を上げながら蒸発していく。

 私が吸い取った穢れは、背後にいるアジュラ様がすかさず噛み砕き、消滅させてくれる。

 完璧な連携だった。


『ア、アァ……お姉、さま……?』


 黒い泥が剥がれ落ち、中からミナの体があらわになる。

 悪魔が消滅すると同時に、空を覆っていた暗雲が割れ、一条の光が差し込んだ。


 ♢♢♢


 戦いが終わり、王城の中庭には静寂が戻っていた。

 悪魔は完全に消滅し、アジュラ様の呪いも——悪魔という元凶が消えたことで——完全に浄化された。

 地面には、ミナが力なく横たわっていた。

 おそらく命に別状はない。ただ眠っているだけだ。

 だが、その体からは魔力が完全に失われていた。

 聖女の力はもちろん、悪魔から得た力も、全て。


「う、うう……私の、力が……」


 ミナが呆然と自分の手を見つめる。

 そこへ、気絶から目覚めた父とカイルが駆け寄ってきた。


「ミナ! 無事か! おい、聖女の力はどうなった!?」

「早くこの国を元通りにしろ! じゃないと俺たちは破滅だぞ!」


 二人が心配していたのは、ミナの体ではなく、彼女の「利用価値」だけだった。

 ミナは絶望した目で二人を見上げ、そして私を見た。


「……どうして。どうして殺さなかったのよ」

「殺す必要性を感じなかったからよ。あなたのことは憎いけど、死んでほしいわけじゃないの」

「っ、なんで! なんであんたはいつもそうなのよ! 私の方が明るくて可愛くて何倍も魅力があるのに、聖女ってだけで私よりも価値があるなんてズルいじゃない!」

「だから……奪ったの?」

「そうよ! 聖女の力さえあれば私は完璧になれる! みんなが私を必要とするって思って!!」

「……その結果がこれよ。特別な力があったって、完璧になんてなれるわけじゃない。見てみなさい、あなたを見る彼らの目を」

「ッ……!」


 私は冷たく言い放った。

 人間の姿に戻ったアジュラ陛下が、私の腰を抱き寄せながら告げる。


「リリアナの慈悲に感謝するがいい。だが、貴様らが犯した罪は消えん」


 アジュラ陛下の合図で、帝国軍の兵士たちが雪崩れ込んでくる。

 この国は、悪魔を召喚し大陸を危機に陥れた罪で、帝国の管理下に置かれることになったのだ。

 その責任を取る形で侯爵家は取り潰し。王族であるカイルにも相応の罰が下ることだろう。。

 父とカイル、そしてミナは、これからは平民以下の身分として、荒れ果てた土地を自らの手で耕し、一生をかけて償うことになるだろう。


「待ってくれ! 俺は騙されていただけなんだ!」

「リリアナ! 育ててやった恩を忘れたか!」

「……」


 二人の哀れな男の見苦しい叫び声が遠ざかっていく。

 だけど、いつもあれこれ騒ぎ立てるミナは、何故か大人しく遠くを見つめていた。

 だけどそれを見送っても、私の心はもう痛みもしなかった。

 ただ、長く絡まっていた悪い因縁が、ようやく解けたような安堵感だけがあった。


「……終わったな、リリアナ」

「はい、陛下」


 アジュラ陛下は私の手を取り、跪いてその甲に口づけをした。

 背景には、浄化されたばかりの青空と、芽吹き始めた緑。


「礼を言う。貴様のおかげで、余も、この世界も救われた」

「そんな……私はただ、グルーミングが得意だっただけです」


 私が照れ隠しで言うと、陛下は悪戯っぽく笑い、私の耳元で囁いた。


「ならば、城に戻ったら続きを頼む。……今夜は、朝まで離さんからな?」


 甘く、熱のこもった声。

 私は顔が沸騰するのを感じながらも、幸せな予感に胸を躍らせた。


「……はい。覚悟しておきます、私だけの可愛い狼様」


 捨てられた聖女と、呪われた皇帝。

 数奇な運命で出会った二人の「もふもふ」で「溺愛」なスローライフはすぐそこまで迫っていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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