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夕刻。王宮執務室。
窓の外は茜色に染まり、ゆっくりと夜の帳が降り始めていた。
アレクシス殿下は机に向かい、淡々と書状を整理していた。
しかしその手元は、普段よりもわずかに迷いを含んでいるように見える。
静かに控えていたルネが、少しだけ様子を窺いながら口を開いた。
「……殿下」
「何だ?」
「止めなくてよろしいのですか?」
アレクシス殿下の手が、ふと止まる。
わざわざ説明せずとも、ルネの言葉が何を指しているのかは分かっている。
「ユーリ殿下の件か」
「はい。王都案内の件も含め、ユーリ殿下の動きはもはや明確にございます。あの方は、本気でリディア嬢を口説きに入っております」
静かな執務室に、微かな緊張感が漂う。
アレクシス殿下は、しばし無言のまま窓の外に視線を移した。
「……止める理由がない」
「それは――」
ルネは思わず言葉を飲む。
「まだ正式な婚約を交わしているわけではない。外交賓客の要請を断れば、かえって盤上を乱す。……ならば見守る他あるまい」
言葉は理路整然としている。
だが、その声音にはどこか迷いが混ざっていた。
しばらくの沈黙が落ちる。
「……彼の国に嫁いだ方が、リディアにとっては幸せかもしれぬ、とな」
「殿下……」
「王太子との婚約破棄もある。国内の派閥争いに疲弊するより、遠い異国の地で新たに歩む方が――生きやすいのではないかと、そう考えぬわけでもない」
いつになく弱音めいた響きだった。
だが、すぐにアレクシス殿下は小さく苦笑した。
「……愚かな考えだな」
「愚かではございません。ただ――殿下の本心ではないのでしょう」
ルネは静かに告げる。
アレクシス殿下はしばし黙し、そして低く呟いた。
「……行かないでほしい」
その一言には、ようやく滲み出た己の本音が乗っていた。
ルネは静かに頭を下げた。
それ以上の言葉は、今は不要だと理解していた。
茜色の光が、ゆっくりと王弟の横顔を照らしていた。




