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森の奥は、次第に湿り気を帯び始めていた。
春とはいえ、雲が厚く広がり、時折冷たい風が葉を揺らしていく。
静かな狩猟はしばらく順調に続いていた。
だが――異変は突然、訪れた。
「……おや?」
ユーリ殿下がわずかに手綱を引く。
その視線の先、獣道の陰でわずかに枝が揺れた。風の流れとは逆方向だった。
アレクシス殿下も、すぐに異変を察知して馬を止める。
王太子殿下も訓練を積んでいるとはいえ、不穏な空気に気付いて馬上で緊張を強めた。
「何だろう……獲物、かな?」
「――いえ、王太子殿下。獣の動きではありません」
アレクシス殿下の声は低く、静かに緊迫していた。
その瞬間だった。
黒い影が、森の奥から弾け飛んできた。
黒装束に身を包んだ数人の男たち――完全な武装。
ただの盗賊ではない。明確な訓練を受けた刺客の動きだ。
「ッ! 王太子殿下、お下がりを!」
アレクシス殿下が即座に馬を走らせ、王太子殿下の前に割って入る。
一方、ユーリ殿下もすぐに腰の剣を抜いて馬から飛び降りた。
巧みに身を翻しながら、ユーリ殿下は冷静に状況を把握していた。
「――狙いは……私のようですね。巻き込んでしまい、大変申し訳ありません」
その声音はあくまで柔らかく、礼節を崩さぬままだった。
刺客たちは三方から包囲を仕掛け、ユーリ殿下を中心に動いている。
だが、王太子殿下もただ見ているだけではない。馬を飛び降り、剣を構えた。
「叔父上、僕も戦う!」
「無理はなさらぬように、王太子殿下!」
アレクシス殿下は王太子殿下の背を護りながら、襲撃者たちの間合いを正確に読み取っていた。
二本目の剣を抜き、冷徹に一人の刺客の動きを封じる。
カン、と剣戟の鋭い音が森の中に響く。
ユーリ殿下は素早く体を捻り、刺客の剣を受け流す。
王族というより、既に剣士として十分な実力を備えていた。
「中々の手練ですな。単なる攪乱要員ではない」
「王弟殿下。包囲を崩します!」
「承知」
アレクシス殿下は鋭く頷き、王弟とユーリの剣閃が連携する。
二人の間に生まれる隙を突くように、王太子殿下も側面の敵へと剣を走らせる。
幾度も金属音が弾け、短い息遣いが森の中に交錯していく。
刺客たちは鍛えられてはいるが、連携の緻密さでは王族三人に及ばなかった。
やがて最後の刺客が剣を落とし、呻き声を上げて崩れ落ちる。
静寂が戻る。
アレクシス殿下はすぐに周囲を確認し、低く呟いた。
「……ひとまず撃退しました」
王太子殿下も息を整えながら剣を収める。
「何だったんだ、今のは……誰が、こんな――」
ユーリ殿下は僅かに息を吐きつつ、視線を巡らせた。
「少なくとも、盗賊でも野盗でもありませんな。
私を狙ってきた節が濃厚です」
その声音は変わらず冷静だったが、事態の重さを冷徹に分析していた。
空を仰げば、黒雲が一層厚みを増し始めていた。
雨の前触れ――そして、盤上の火種が新たに動き出した気配が、静かに空気を満たしていく。
「ひとまず、避難を優先しましょう」
アレクシス殿下の冷静な指示で、三人は森の奥にある狩猟小屋へと進路を取った。
嵐は、まだ始まったばかりだった。




