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アレクシスの執務室は、いつものように静けさに包まれていた。
分厚い書類の束を前に、彼は黙々と目を通していたが――ふと手を止め、窓の外に視線を向ける。
柔らかな春の光が庭園を照らしている。
その光景の中で、リディア嬢の面影が微かに重なる。
「……殿下、少々よろしいでしょうか」
静かに声をかけたのは侍従のルネだった。
手には一冊の報告書が抱えられている。
「例の件か」
「はい。リディア嬢の過去について、可能な範囲で調査をまとめました」
アレクシスは無言で手を差し出し、報告書を受け取った。
数頁を繰りながら、眉が僅かに動く。
「……成程な」
「やはり、王太子殿下との幼少期の関係が大きいようです」
ルネの声には淡い同情が滲んでいた。
「幼い頃より共に学び、育ち――だが、常に比較の中に置かれていた。しかも、比較される対象は”王位継承者”であり、彼女に求められていたのは常に『出過ぎるな』『控えろ』『相手を立てろ』」
「……そして、その期待を忠実に守り続けたわけだ」
アレクシスの声は低いが、どこか硬さを帯びていた。
「学問も、礼法も、護身術すらも王太子殿下より秀でていたにも関わらず、誉められるより”目立つな”と抑えられ続けたそうです。結果――自分の才を認めるという発想が育たぬまま、ここまで来たのでしょう」
アレクシスは静かに報告書を閉じた。
「本来なら、誉め称えられてしかるべき才覚だ」
「殿下?」
「リディア嬢は非常に優秀だ。冷静に、理知的に、盤上を読める。外交交渉でも十分に通用するだろう。だが――本人がそれを”当たり前”として片付けている」
「逆に言えば、それが彼女の謙虚さでもあり、貴族社会で嫌味を生まずに済んでいる理由でもありますが」
ルネの言葉に、アレクシスは小さく頷く。
「それでも――」
そこで一瞬言葉を切る。
珍しく彼にしては感情が揺れていた。
「それでも、あのままでは惜しい。彼女はもっと、堂々として良いのだ。自分の価値を、自分で認めるべきだ」
ルネは静かに微笑んだ。
「殿下は、随分と熱心にお考えですな」
「……策として動くのは得意だが、こういう感情は不慣れだ」
アレクシスは僅かに苦笑を浮かべた。
「いずれ私が彼女に正式に求婚を申し出るならば、その前に彼女自身が”価値ある自分”として自信を持たねばならぬ。でなければ、また”利用されているだけ”と思い込んでしまう」
「つまり、まずは自己肯定感の是正、と」
「容易ではない課題だ」
「リディア嬢の手強さを、今ごろ実感されましたか?」
ルネの冗談に、アレクシスは静かに息を吐いた。
「……手強い。だが、面白い」
その声音に僅かに滲んだ柔らかな響きは、これまでの王弟にはなかった色を宿していた。