一人じゃない朝
朝。
昨日と同じように目が覚めて、昨日と同じように窓の外を見る。
けれど、今日は違った。
「……よぉ。起きたか、澪」
部屋の隅に座り込んでいたのは、銀の髪に黒いコートをまとった男――レイ。
「……なんで、いるの」
「契約したからだろ?」
「だからって……家の中に勝手に……」
レイは悪びれもせず、むしろ面白そうに笑った。
「“心臓をやってもいい”って思ってくれたんだろ? だったら、俺はここにいて当然じゃね?」
澪は黙り込んだ。
そんな言葉、口にした覚えはない。
けれど──思ったことは、ある。確かに。
「それ、……聞こえてたの?」
「聞こえてないよ。ただ、伝わってきただけ」
悪魔という存在のくせに、感覚だけは妙に人間的だと思った。
彼は一日中、澪の生活にくっついてきた。
朝食も作らないのに、ダイニングの椅子に座っているし、
読書していても、視線の端に常にいる。
「……邪魔」
「そう言うけど、ほんとは寂しくない?」
レイのその言葉に、心臓が跳ねた。
否定できないのが悔しい。
「……あんたが勝手に来てるだけでしょ」
「そう。だからお前が“もういらない”って言えば消えるよ?」
少しの沈黙。
けれど、澪の口からは「いらない」の言葉が出てこなかった。
そんな自分に驚く。
数日前まで、他人に何を思われようと、何を言われようと無関心だったのに。
レイがいると、部屋の空気が変わる。
うるさい。でも、うるさすぎない。
馴れ馴れしい。でも、どこか丁寧で、優しい。
それに──
「……澪」
不意に呼ばれる名前に、心が温度を持つ。
誰かに名前を呼ばれたのは、いつ以来だろう。
こんな風に、躊躇なく。まっすぐに。
「今はまだ、俺のことよく知らなくていい。お前が、自分の“気持ち”に気づくまで」
レイはそう言って、目を閉じた。
その背中は、まるでこの部屋に溶け込むように静かで。
澪は、もう一度自分の胸に手を当てた。
「心臓を、あげてもいいって……本当に、そう思ってたのかな」
まだ、わからない。
でも、“この人だけは”自分を必要としてくれるような気がして。
だから、追い出せなかった。
家の空気は相変わらず冷たく、母の声も遠い。
「行ってらっしゃい」と背中を押されることもなく、澪は一人で家を出た。
けれど、今日は違う。
レイが、隣にいる。
彼は黙って澪の歩幅に合わせて歩き、時折ちらりと澪の顔を覗き込んだ。
「今日はどうする?」
「学校に行くよ」
「なら、俺もついていく」
澪は驚いたが、どこか嬉しさが胸に湧いた。
学校は、いつも通りの騒がしさと無関心に満ちていた。
クラスメイトの視線は澪を通り抜け、話しかける人もいない。
けれど、レイの存在は違った。
彼は姿を消し、誰の目にも見えないまま、澪のすぐ後ろにいた。
それだけで、澪は少しだけ心強く感じた。
授業中も、休み時間も。
誰にも必要とされないと感じていた澪にとって、見守ってくれる存在があるということは、まるで光だった。
帰り道、澪は足早に歩きながら、レイに聞いた。
「ねえ、私のこと……どう思ってる?」
レイは少し驚いたように顔を上げ、目を細めて言った。
「……お前が必要だ」
その言葉に、澪の胸はきゅっと締め付けられた。
レイは笑った。
「俺は単純だ。お前がいると、俺の居場所ができる。だからそばにいたいだけだ」
澪は言葉に詰まり、黙って頷いた。