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運命を紡ぐ

西日の差す喫茶店にて-雨上がりに-

作者: 蓮見庸

 初めてこの喫茶店を訪れてから、月に一度は通うようになった。

 例年通りなら、もうすぐ梅雨明け。昨日の晩から雨が降り続いていた。

 わたしは朝からターミナル駅にあるデパートへ行き、文具屋でペンを何種類か買い、雑貨屋も少しのぞいて、他に用事はなかったのでそのまま家に帰ろうと駅へ向かった。

 お昼を過ぎたばかりの時間、車窓から遠くに連なる山並みを見ると、空は明るくなりつつあり、雨も上がりそうだったので、途中下車して喫茶店に向かうことにした。


 店内はいつもより人は少なく、友達同士なのかそれとも何かの集まりなのか、壮齢そうれいの女たちがおしゃべりに興じていた。

 わたしはカウンター近くの空いている席を見つけて座った。いつものようにマスターが注文を取りに来た。

「ランチはまだありますか?」

「サンドイッチなら大丈夫ですよ」

「それじゃ、ランチセットをお願いします。ホットコーヒーで」

「かしこまりました」

 マスターが運んできたのは、具があふれんばかりのたまごサンドと、ハムとレタスとトマトのサンドイッチ。どちらもしっとりとしたパンで包まれた、マスターの人柄が感じられるようなやさしい味わいのサンドイッチだった。

 わたしはそれを食べ終えると、コーヒーをひとくち含んだ。少し酸味のあるコーヒーで、口の中がさっぱりとした。


 わたしはデパートで買ってきたペンをカバンから出した。最近出たばかりの3色ボールペン。さっそく手帳を出して試し書きをしてみた。

 隣の席には男女がこちらを向いて並んで座り、向かい合って女がひとり座っていた。30代くらいだろうか。それぞれの前には、アイスコーヒーのグラスが置いてある。

 女同士で話をしている横で、男はなんだか申し訳なさそうな表情で黙って座っていた。

「それって、駆け落ちってやつじゃない」

 一瞬周りは静まり返り、店内に流れる音楽がはっきり聞こえた。このオールディーズのインストゥルメンタルは聞き覚えがあったが、何の曲だったのか思い出せなかった。

 女は周りの様子には構わず話を続けた。

「ねえ、ほんとにそれでいいの?」

「だって、もうそれしかないのよ」

「確かに明美あけみの親はわたしから見てもちょっと酷いと思うところもあるけど、それにしたって……」

「うちの親はわたしの言うことなんて、ひとつも聞く気なんてないし、わたしが我慢するだけでいいならまだいいけど、彼にまで迷惑かけるなんてぜったい嫌だし」

「確かにね……前のあれもあるしね……」

「そう、うちの親ってなにするかわからないから……。だから、別れるか、逃げるしかないって話になって……」

「彼は大丈夫なの?」

「ひとりみたいなものだから大丈夫だって」

 明美と呼ばれた女はそう言って確認するように男を見た。

「それで、ふたりでどこに行くの?」

紗香さやかには迷惑をかけたくないから、詳しくは言わないけど、けっこう遠いところ」

「遠いところって、ひょっとして外国とか?」

「まさか、それはないよ。でも、外国かぁ、行ってみたいなあ。ねえ?」

 明美は隣の男に同意を得るように話しかけた。

 男は「そうだね」と曖昧あいまいに答えていた。

 紗香はグラスの中の氷をストローでかき混ぜた。涼やかな音がした。

「それで、いつ行くか決めてるの?」

「うん、今週中には街を離れるから、紗香にだけは言っておこうと思って」

「今週中? そっか、もういなくなっちゃうんだ。でも電話はつながるんでしょ?」

「ううん。今の電話は一度解約するから、落ち着いたらこっちから連絡する」

「え、そうなんだ……。ぜったい連絡してよ」

「うん、わかってる。……紗香?」

 しばらく沈黙が流れた。

「しばらく会えなくなると思うと、ちょっと寂しくなっちゃった……」

「ごめん……」

「謝ったってしょうがないじゃない。連絡ちょうだいよ。ぜったいよ」

「うん……」

「そうだ、明美たちの新しい門出ってことよね。だったらちゃんとお祝いしないと」

「いいよ、そんなの」

「ねえ、ケーキ食べない? わたしのおごり。それくらいだったらいいでしょ?」

 紗香は明美の返事を待たずに聞いていた。

「うん。ありがと」

「じゃあどれにする? 好きなの選んで。高校の時、よくこうやってケーキ選んだよね。お金がないから違うのを頼んで、半分にして食べたり」

「そうそう」

「コーヒーなんて苦くて飲めなかったから、いつもメロンソーダだったよね」

「え、ケーキの時はお水じゃなかった?」

「そっか。高校生じゃふたつも頼めないか。ケーキとお水って今考えるとすごいね。それじゃ、ジュースの日がメロンソーダだったっけ」

 紗香は笑いながら言った。

「特別な時だけクリームソーダでね」

「あった。クリームソーダ高かったもんね」

「高校生にあれはやばかった」

「ほんと、それ。でも今日はお祝いだから、何でも好きなの選んで。ケーキとクリームソーダでもいいよ」

「わ、贅沢ぜいたく。ありがと。ねえ、どれにする?」

 明美は嬉しそうにそう言って、男にメニューを見せた。

 ケーキを選ぶふたりを紗香は温かく見守っていたが、ふと顔を上げ窓の外を見たようだった。彼女の視線は、ガラスに反射したわたしの視線と交わったような気がしたが、彼女はそのまま遠くを見ていたようだった。

 わたしはケーキを選ぶふたりを見た。

『駆け落ち、か……』

 今の時代にそんな言葉を聞くなんて思いもしなかったけれど、わたしが世間知らずなだけなのかもしれない。いろいろたいへんだろうけど、その言葉の響きにはなぜかかれてしまう。親を捨ててでも好きな人と一緒に暮らしていくって、どんな気持ちなんだろう。不安と幸せと他にもいろいろな感情がないまぜになっているのだろうか。

 紗香という人はどうなんだろう。彼女は今、どんなことを考えているんだろう。

「紗香は何にする?」

 明るい明美の声でわたしの思考は途切れた。紗香もそうだったと思う。

「……あ。えっとね、わたしはチーズケーキにしようかな」

「やっぱりチーズケーキ気になるよね。チョコレートケーキも気になるし、どうしよっかな」

 ひょっとして彼女には不安はないのかもしれない。わたしは、今日のケーキには何があるのかとテーブルに置かれた手書きのメニューを見ると、チーズケーキとチョコレートケーキ、それからシフォンケーキの3種類だった。

「3種類頼んでみんなで分けて食べたら?」

「うーん、どうしよっかな……。やっぱり紗香に合わせて、わたしもチーズケーキにする。チーズケーキでいいよね?」

 明美が言うと男はうなずいて応えた。

「好きなの選べばいいのに」

「だから、紗香と同じこれがいいの」


 わたしはコーヒーを飲み干し、そして席を立とうとすると、ちょうどおしゃべりをしていた女たちがレジに向かうところだった。

 彼女たちが店からいなくなると、音楽がよく聞こえるようになってきた。

 そうだ、店内で流れていたのは、テネシーワルツだった。ぜんぜん違う曲を聞きながら、急に思い出した。

「ありがとうございました」

 わたしもマスターに見送られ店を出た。

 空を覆っていた灰色の雲のすき間から、太陽の強い光が差し込んできた。わたしは早く家に帰って使いかけのペンを整理しようと思った。

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