盗賊を襲う馬車
神か?人類か?何者かが定める善悪に関わらず多くの命が失われた。
弱肉強食の理さえもその普遍性に陰りが見えた。
ウィスタリアという世界が秩序を取り戻すと多くの歴史が闇に葬られた。
秩序の為に犠牲になった人々が、滅ぶべくして滅んでいった人々が、神の代行者さえも等しく消えていった。
後の世に残ったのは取るに足らない物語だけだった。
その昔、ムーチャン王国で働く書士官は筋肉痛が絶えなかったという。
国の構成員が国民から女王まで兎で構成されているとなれば、書士官もまた兎。
小さく可愛らしい両前足で大量の文書を捌く事は彼らにとって大変な力作業だ。
そんな王国のお役目を担った書士官の一羽、この私「アイボリー」は長い長い休暇を本の山に囲まれて過ごしている。
当時の激務を物語る制服は既にホコリとススまみれで、新米の書士官によく泥遊びでもしたのかと勘違いされたものだ。
文字を燃やす仕事から解放され、文字を読む余裕を得た私は目新しい文書がないか探してみる事にした。
一度焚書を逃れた文書といえどその内容は改竄に次ぐ改竄の末に史実としての存在意義を失い「物語」として書庫に残される。
当時の書士官が寝ボケていなければ、この文書もそんな物語の1つというわけだ。
これはバーム王国という国で起こった「盗賊を襲う馬車」という物語。
・・・
今から書き残す内容は俺の身に起こった恐ろしい出来事だ。
俺はとある国の国境付近の森で盗賊をやっていた。その国の名は仮にバーム王国としよう。
この国はとにかく競争が激しい国でな、稼いだ者は強いから生き残る。稼げない者は弱いからその内死ぬ。
どこの世界だって弱肉強食は当たり前だ、そして俺は弱いからその内死ぬ側の人間というわけ。
長年人間として生きる努力をしてきたつもりだがここいらが潮時らしい。
俺は明日生きる金にも食い物にも困っていた。そんな俺を奴らは仲間に勧誘してきた。
「グランツ盗賊団」はバーム王国のはぐれ者で構成される盗賊で、俺は奴らに促されるままに弩弓を手に取った。
もうどうにでもなりやがれ。
俺の最初の仕事はバーム王国に出入りする者を襲って金品を奪う仕事だった。
他人から財産を奪うなんて処刑されても文句は言えない・・・しかし生きるためにはそんな事気にしていられなかった。
人生で初めて「金目の物を置いていけ」なんて言葉を口にした。
そして手元にはまだ人を殺した事のない弩弓と金の入った袋が残った。
森の奥深くにある盗賊団の隠れ家に戻ると、仲間の一人が俺をねぎらう。
「初仕事にしてはやるじゃないか。」
「この辺は交易路と違って明かりはない。迷子になりたくなければ慣れるまで仕事は早めに切り上げろ。」
そういうと彼は俺のためにとパンとミルクを渡してきた。
盗賊としての日常に慣れ始めた頃、俺は仲間と共に馬車を狙う事になった。
馬車なら一度の狩りでより多くの戦利品が期待できる。
稼いだら稼いだ分だけ良い暮らしに近づける。この国では「稼いだ者は強い」だから生き残るのだ。
ある日、森の中で2人の仲間と共に獲物を探していると、俺はついに馬車に遭遇した。
「おい見ろ、上物がいるじゃねえか。」
仲間の1人が嬉しそうにつぶやく。仮にそいつをケーとしよう。
無理もない・・・茂みの中から見える馬車は宝の山と見間違えるほど魅力的に見えただろう。
ケーが1人だけ茂みから飛び出していく。俺達も続いて馬車の進路を塞ぐ。
突然の襲撃に馬車は歩みを止めた。
俺達は武器を構えて馬車に狙いをつけるが、ケーは剣を鞘に戻し俺達に疑問をなげかける。
ケー「なあ、馬車って馬を使う乗り物だから馬車だよな?なんで御者がいないんだ?」
彼の疑問はごもっともだ。馬車に繋がれた2頭の馬は手綱を握る人間もなしに森の中を移動していた。
それに奴が馬車を止めた時、馬の動きは急に止められたというより「ここで止められる」事が分かっていたように見えた。
仲間の1人が我先にと馬車の側面に詰め寄る。
「こりゃいい、殺す手間が省ける。」
馬車の扉に手をかけようとした瞬間、そいつは扉の中から出てきた巨大な手に頭を鷲掴みにされた。
突然の出来事に固まる俺達・・・何だあれは?人間の手にしては大き過ぎる。
「おい見ろ、上物がいるじゃねえか。」
馬車の中から幼い子供のような声がすると、首を引き千切られそうな勢いで馬車の中に引きずり込まれていった。
同時に馬車の中から巨大な影が飛び出してきた。
その正体は大蛇だった・・・丁度2頭の馬と横並びになったその瞬間、俺とケーは大蛇の体格が馬と遜色がない事に気付いてしまった。
殺される!その気になれば男2人なんて丸呑みにできるだろう!
「おい!逃げるぞ!」そう叫んで茂みの方に向かって全力で走った。
何なんだあれは?馬車の中から出てきた腕は?そしてあの大蛇はなんだ?
森の中を滅茶苦茶に走り回る。そろそろ撒いただろうと立ち止まると、俺は嫌な予感に襲われた。
ケーの足音がしない。まさか食われたのでは?いや、そんな・・・。
「弱肉強食」
この国を象徴する言葉を無意識の内に口にしていた。
ふと背後から草を踏み鳴らす音が近づいている事に気付いた。
その足音の主は言った。
「そう、弱肉強食。」
全身が総毛立つ。
後ろを振り向き、声の主を見る寸前。俺はそいつが人間であることを願っていた。
日没がすぐそこに迫り視界が不明瞭になっているにも関わらず、俺はそれが兎である事を理解した。
そいつの表情はとても嬉しそうな笑顔をしていたのを覚えている。
まるで新しいおもちゃを与えられた子供のような。
あるいは血肉を浴びて喜ぶ快楽殺人鬼のような不気味さを感じた。
そいつは凍り付いた笑顔のまま語りだした。
「ボクの友達にご馳走をくれてありがとう。とっても美味しかったみたいだよ。」
「じゃあ次はボクの番だね。」
そう言うと兎は歌うような言い回しで呪文を唱えた。
「にんげんさーん にんげんさーん あっそびーましょ」
「にんげんさーん にんげんさーん あっそびーましょ」
俺は走り出した。声を殺して走った。武器は捨てた。何度も転んだ。何度も転んだ。足に何かが絡みつく。それでも走った。
仲間の事は忘れた。水も食料も食い散らかして残骸を捨てた。日没になってもなお走った。
暗過ぎて木に体をぶつけた。何度も何度も何度も何度も。あの兎の声が聞こえた気がした。人間さん。人間さん。遊びましょう。そう聞こえた気がした。気のせいだ。気のせいであってくれ。
走り疲れた俺の体を叩き起こそうと、命の危険を全身で浴びているぞと、俺の心臓が、全身が激しく脈打っていた。
やがて森を抜けると、闇夜に明かりの灯る村を見つけた。
俺は助かった。そう確信した。
村人達は満身創痍の俺を介抱してくれた。
温かい食事が振舞われ、明日はゆっくりすると良いと言われた時は安心するあまりその場で気を失ってしまった。
翌日、俺は食事と寝床の礼にと彼らの畑仕事を手伝っていた。
ふと畑の外にいる村人の話し声に耳を傾ける・・・特別不思議な話でもない普通の世間話だ。
その話をしている男は山向こうの街で衛兵をやっているそうで、最近強力な助っ人が来たおかげで休みが貰えたらしい。
ただそれだけの話・・・ただそれだけの話だ。
「そろそろ休憩にしませんか?」畑の外から女の子が呼んでいる。昨日俺に食事を持ってきた子だ。
俺は助かった。改めてそう感じると自然と笑みがこぼれる。あの兎と違って安心した人間が出す笑顔だ。
これを期に盗賊なんて足を洗おう・・・どうせ俺は弱者だがやっぱり人間として生きていたい、そう思った時。一台の馬車が村にやってきた。
もう馬車なんて見たくもなかったが、俺は馬車の中からは人間が出てくるものだと信じて疑わなかった。
そう、あれはタチの悪い悪夢だったんだ。
その馬車には御者が乗っていなかった。