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白波きらめく細雪

作者: 桐ケ谷漣

およそ一年でしょうか、間隔バグってますけど投稿です

『――第128097634章―― 波の道』


 夏が嫌いだ。

 そう思うようになったのはいつからだろうか。少なくとも一昨年、高校一年の夏までは俺は夏が好きだった。友人と夏祭りに行き、花火を見る。友人と海に行っては、疲れるまで泳ぎ続ける。そして、彼女と共に夏を過ごす。それだけ、たったそれだけでよかったんだ。俺にとってとても楽しい思い出は。


 俺にとって憂鬱な季節がやってきた。

 外から部屋に入ってくる音から、少年共が虫かごやら網やらを持って駆けていく様子がわかる。

(元気なもんだな)

 俺はカーテンの隙間から一直線に伸びてくる日差しをぼんやりと眺めていた。

 部屋の中には熱気が立ち込め、まるで俺を蒸し焼きにしようとしているかのようだった。服が肌にしっとりと引っ付く感覚が嫌になった俺は、シャワーを浴びる事にした。

 肌に染み付いた汗が段々と流れていく感覚がとても心地よかったが、俺の心は依然として蒸し暑い夏に苛まれて苦しいままだった。

 シャワーの後、スマホを見ると通知が一件入っていた。

『直哉、お前今日暇か? 良かったらどこか出かけないか?』

 送信元は中学からの友人の藤宮だった。

『どこかって、どこ行くつもりなんだよ。因みに今日は、空いてない』

 俺はすぐに返信をした。

 テーブルの上には置き手紙が一つあった。

『お母さんは仕事に行ってきます。起きたら冷凍庫の中にあるパンを焼いて食べなさい。p.s.他に食べたいものがあったらお金置いとくから買って食べなさい』

 毎度のごとく、テーブルの上から野口さんがこちらを覗いていた。紙幣なのだから当たり前なのだが、一切表情を変えずにこちらを眺めている彼を俺は気味悪く感じた。

 冷凍庫の中から一枚、冷凍していたパンを取り出し、トースターの中に入れ込む。赤い光が段々とパンを温め、周りに結露していた小さな結晶が水滴に変わっていく。

 パンの上に塗るバター、ジャムを用意しているうちに’’チン’’と甲高い音が俺の耳を叩いた。

 焼けたパンを皿に乗せ、バター、ジャムを塗りたくり、一口頬張る。

 その時、携帯に一件の通知が来た。送信元を確認すると案の定、藤宮だった。

『これってのは特にないけど、どうせお前夏休みに入ってから外に出てないんだろ? たまには海とか……』

 俺は、視線を『海』という単語に焼き付けたままトースト片手に固まってしまった。

 一瞬にして、俺の頭の中に数年前の景色が映し出される。あたりに友人以外は見当たらず、まるで世界から俺と数人の友人以外いなくなってしまったのかと思わせたあの景色。その友人たちの中にひときわ目立つ人影が一つ。彼女は俺に手を差し伸べてはにかんで笑っている。

 低い通知音とともに俺の頭の中の景色は消えていった。酷く懐かしい気もして、同時に酷く恐ろしいものだった。手元の携帯を見ると先程のメッセージに加えて、もう一件メッセージが送られてきていた。

『別に無理にとは言わないけどさ、たまには顔見せろよ。一学期一度も来てなかったんだから』

 心配、してくれているのだろうか。正直海には行きたくない、彼女がいない海なんて行っても虚しいだけだ。しかし、それ以上に一学期中に頼りにさせてもらったという(恩義とでも言うのだろうか)事実が俺の指先を動かした。

『わかったよ。日程はいつにするんだ?』

 俺は気がつけば送信ボタンを押していた。返信はすぐに返ってきた。

『今週末とかどうだ? 高一のときに行ったあの海、あそこなら人も少ないしいいだろ?』

 俺はカレンダーに目をやることはなかった。

 俺は同意の意を示すスタンプだけ送り、携帯を閉じた。

 ずっと手に持っていたトーストにまた一口かぶりつく。そこには、始めあった熱はなくなり、誰もいないリビングでただひたすら、クーラーと扇風機の音とトーストをかぶりつくサクッという音だけが絶えず響いていた。


 藤宮多々良。

 中学からの友人で、よく昔から一緒に出かけたり遊んだりしていた。行動力のあるやつで、テスト期間になれば俺や他の友人に声をかけて集め勉強をし、テストが終わったら誰かの家に泊まり、夜通しでゲームをする。元々、藤宮は勉強ができた。そんなところが少し鼻につくやつだったが、俺はそんな藤宮を割と気に入っていた。高校受験を控えた中学三年時代を机と延々と向き合わされる苦しい記憶としてではなく、友人と楽しく乗り越えることのできた楽しい記憶としてくれたことはありがたく思っている。

 藤宮とは高校も同じところに入った。高校一年、いや二年の夏までは中学時代のように話していた。藤宮は俺が高校二年の三学期に入って引きこもりだしても、よく家に来ては学校の様子や勉強の内容をよく教えに来てくれた。別に家が近いというわけでは決してない。だからある時に「こんなに頻繁に来なくていい」と伝えたが、

「俺は好きでやってんだ。友人を放って置けるほど情のない人間じゃねぇよ」

と笑いながら言い、頻度が落ちることはなかった。

 そんな事もあって、藤宮に対して恩を感じていた俺は電車に一人揺られていた。

「ねぇ! 見て海だよ! 海!」

「こら! 電車の中は走りません!」

 通路を挟んで向かい側から子供と親だろうな、楽しそうな声と足音が電車の中に響いて聞こえて来る。山際を走るこの電車はこのあたりから海が見え始める。少し湿った空気とともに潮の匂いが鼻の奥を突いてきた。

(またここに来るなんてな)

 俺は重い目蓋を持ち上げて後ろ窓の外を眺めた。青々とした葉が現れては消えていくのを繰り返すばかりの中で一切位置の変わらない太陽をしばらく眺めていた。


「まぁ、誰も来ているわけないよな」

 俺の目の前に広がる光景は、二年前に彼女と一緒に見た景色と遜色なく、まるであの時から時間が止まっているかのように思われた。

 待ち合わせは現地集合、午前十時の予定だった。現時刻は午前八時。藤宮たちが予定通り来るのなら二時間ほどある。俺は敷物を敷きその上に座って海を眺めていた。

 海に来ているというのに水着ではなく普通の夏物の服で砂浜に鎮座している自分を客観的に考えると、滑稽に見え思わず笑みがこぼれてしまった。

 空からは鳥の鳴き声が、海からは潮の音が、山からは葉の擦れる音が絶えず聞こえてくる。このあたりには一人しかいないはずなのに孤独感は一切なく、逆に心地よいまである。 しかし、夏特有のべったりと肌にまとわりつく感覚は何度経験しても好きにはなれない。

 それからどれだけの時間が経っただろうか。一切変化しない眼の前の景色のせいで、長い時間が経ったようにも感じるし、たった数瞬しか過ぎていない気もする。ぼんやりと海を眺めていると、ふと声が聞こえた。

「ねぇ、永戸君。二人だけの海は初めてだね」

 俺はその声を聞いてハッとした。その声は絶対に聞こえることのない、聞くことのできない声だったから。決して聞き間違えるはずない、菜乃葉の声だから。俺は立ち上がり声のした方向に走りだした。


「近くにいるのか、菜乃葉!」

 既に動きが悪くなった足を無理やり前に押し出し、歩みを進める。しかし、どこまで行っても彼女の姿を見ることも彼女の声を聞くこともなかった。脚が悲鳴を上げるが、その口に蓋をして、否が応でも自分の言うことを聞かせた。

 もうしばらく進み、俺は立ち止まった。分かってはいた、どれだけ進んでも彼女を見ることも声を聴くことも決してない。これは自分の心の弱さだといつまでも俺の心はあの夏に取り残されているんだと。

「随分と遠くまで来たな」

 俺は一息つき、後ろを振り返る。数刻前に敷いた敷物は一切見えなく、人工物のない景色に俺は初めて孤独を感じた。いや、改めて感じた、というのが正しいだろうか。まぁ、そんなことはどうでもいい。もう既に多々良たちは来ている頃合いだろう。

「戻るか」

 そう小さく呟き、来た道を戻ろうとしたその時、


『チリン』


 後ろから小さな鈴の音がした。振り返ると、そこには一匹の猫がおり、海を眺めていた。俺はその猫に気味悪さを感じた。さっきまで猫はおろか俺以外の生き物の気配を一切感じなかったからだ。猫は一切、海から視線を動かさない。変な猫だな、そんな感想を残し俺はその場を立ち去ろうとした。しかし、そんな俺の目の前に決してあり得ないものが現れた。

「これは……」

 俺は空から降ってきたそれに手を伸ばす。それは俺の手のひらについた途端に溶け、小さな水滴となった。手のひらからはかすかに冷気を感じた。

「雪?」

 今の季節は夏だ、決して雪の降ることのない季節だ。俺はすぐに空を見た。そこには相変わらず燦燦と輝く太陽があるばかりだったが、視線を落とすと先ほどよりも一層多くの雪が降ってきていた。

 状況が飲み込めず動くことのできなかった数瞬が仇となった。目の前は瞬く間に雪に埋め尽くされ、いわゆるホワイトアウトの状態になっていしまった。周囲に状況を把握できない恐怖と肌を刺す冷気に苛まれながらしばらく待つと、目の前の雪が段々と晴れていき、視界が徐々に戻る。


 目の前には見覚えのある景色が広がっていた。これは、高校一年の頃の教室だ。

(俺、さっきまで砂浜にいたはずなのに)

 先ほどの寒さのせいだろうか、もうすでに凍てつくような冷気は感じなくなっており逆に暑いまであるが一向に俺の頭は働かない。

 現状を理解できずにしばらく戸惑っていると、

「おい! 直哉! 一緒に飯食おうぜ!」

 教室の前後にある扉のうち、前の扉が勢いよく開けられ、誰かが俺の名前を呼んだ。俺はその声の主が誰なのかすぐに分かった。わからないほうがおかしい。

「藤宮」

 俺は小さくその名前を口にした。その声が聞こえたのか藤宮は少し驚きさっき開けた扉の背後に隠れた。

「直哉が俺のことを苗字で呼ぶなんて、お前誰だ」

 扉の奥からジト目でこちらを睨み続ける。きっと、これは彼のお巫山戯なのだろう。しかし、状況の意味不明さに思考領域の大半を持っていかれていた俺は、藤宮の行動にどう答えたらいいかわからなかった。そんな時に、俺の視界の外から声がした。

「藤宮君、きっと永戸君は私につられたんだと思うよ」

 隣から声がした。とても澄んでいて、いつまでも聞いていたくなるような心地の良い声色、人を安心させる声色。俺は声のした方向に顔を向けようとした。しかし、俺にはそれができなかった。

「そうだよね、永戸君」

 そんな俺の事などつゆ知らず、彼女は俺の顔を覗き込んできた。清々しいほどに曇りのないさわやかな笑みを浮かべる彼女の顔に俺は「あ、あぁそうだな」と、頼りない返事をすることしかできなかった。


『チリン』


 風鈴のような音がした気がした。

 気が付くと俺は道を歩いていた。これも見覚えのある景色だった。いくら引きこもって半年近く学校に行っていないとはいえ、家からの通学路を忘れるほど廃れた記憶力ではない。

 近くからは話し声が聞こえてきた。

「数学の羽宮め。あいつ、課題の提出が一日遅れたくらいで馬鹿みたいに怒鳴りやがって」

「はぁ、それは課題の提出が遅れた藤宮君が悪いでしょう? ちゃんと私や永戸君みたいに昨日のうちに提出しておけば怒られずに済んだのに」

 右側に藤宮、左側に菜乃葉が俺を挟んで話していた。

「だってさ! 前回の提出日からたった二日で十三ページも課題出すほうがふざけてるって!」

「授業の中で半分はやってたでしょう?」

 ため息混じりにそう言う彼女に、キョトンとした表情で「マジで?」と答える藤宮の表情が酷く面白く、思わずクスっと笑ってしまった。

「おい! 笑うな直哉!」

 そういう藤宮も、隣の菜乃葉も皆小さく笑っていた。

 気が付けば俺は、この意味不明な状況も気にならなくなっていた。いや、俺は心のどこかで信じたかったんだ。今までが酷い夢だったんだと。

「そうだ、永戸君」

 いきなり、隣の菜乃葉が話しかけてきた。

「ん? どうした?」

 俺は彼女の顔を見て返事を待つ。思わずため息をついてしまいそうな程に整った顔立ちに、きめ細かい肌、サラサラな髪、長いまつ毛に綺麗な二重、つぶらな瞳。その瞳に映るものすべてを飲み込んでしまいそうなほどに澄み切った瞳から俺は目線が離せなかった。

「来週から、夏休みじゃない?」

 彼女は少し俯きながら、頬を人差し指でポリポリとかく。緊張してる時に菜乃葉のよくする癖だ。少し見つめ過ぎただろうか。

「夏休みさ、特に予定ないなら一緒に海、行かない?」

 彼女の頬に段々と紅が差していく。その様子を見て隣の藤宮が口笛を吹く。

 俺は口を開き、彼女に返事をする。

「もちろん」

 それを聞いた菜乃葉の笑顔がとても眩しかった。

「良かったな! ずっと誘いたがってたもんな!」

 藤宮が菜乃葉にそう声かける。

「うるさい! あんたは黙ってなさいよ!」

 そう言いながらも菜乃葉の口元は緩んでいた。互いに軽口を叩ける二人の関係に少し嫉妬しながらも、三人で過ごしているというこの状況が何よりも楽しく感じた。


『チリン』


 また、風鈴の音がした。

 俺は浜辺にいた。目の前には白い砂浜、空を見上げればどこまでも澄み切った青い空。水平線の向こうには大きな入道雲も見える。まさに夏景色といった感じだ。

「海だー!」

 大声で叫ぶ藤宮の姿が視界の隅に見て取れた。しかし、俺が彼に視線を向けることはない。俺の視線はある一点を射抜いてそこから動かせないから。

「あははっ! やったなぁ〜、それ!」

 友人と水をかけあう菜乃葉。その様子はとても愛らしく、動作の一つ一つが一級の美術品のようだ。良く見えないが、着ているのはビキニだろうか。きっと、かの有名なミケランジェロでもレオナルド・ダ・ヴィンチでもゴッホやピカソでさえも今の彼女の魅力のすべてを表現することはできないだろう。

「直哉、見過ぎだぞ〜」

「痛っ!」

 藤宮が俺の背後から脳天目掛けてチョップするとともに、そう話しかけてきた。こうやって藤宮が近くに近づいていることすら分からなかったのだから、藤宮の言う通り少し見過ぎていたのかもしれない。

「はぁ、お前が菜乃葉に惚れるのもわかるけど、そんなに見ていると気持ち悪いぞ」

 そう言いながら藤宮は俺の隣りに座った。

「なんだ、お前も菜乃葉に惚れてんのか?」

「んなわけないだろ」

 冗談交じりに言ったが、意外と真剣な表情で返され俺は苦笑いをするしかなかった。

「で、何でそんなに見つめてんだよ。ただ惚れた、にしては見過ぎ。正直キモいぜ」

俺は少し、返答に詰まった。

「なんでだろうな。最近、お前や菜乃葉のことが急に愛おしく感じることがあるんだ。多分そのせいだと思う」

 俺は目線を菜乃葉から外して上を見上げる。一面に広がる青色にどこまでも沈んで行けるような気がしてくる。

「何だそれ。ちょっと、いや、結構気持ち悪いぞ」

 笑いながら藤宮は空を見上げた。しばらくの静寂のあと、藤宮が口を開いた。

「景色、綺麗だな」

「菜乃葉のほうが綺麗だと思う」

「ははっ、キモ」

 そうだ、こんな俺から何もかも奪った青色より、菜乃葉のほうが綺麗だ。

 藤宮の乾いた笑い声は波の音にかき消され、また二人の間に静寂が流れる。しかし、その静寂は先程のものより短かった。

「ねぇ! 永戸君! 藤宮君! こっちでみんなで遊ぼうよ!」

 俺と藤宮を照らす太陽よりも眩しい笑顔。あの笑顔が見れるなら俺はどれだけでも頑張れる気がした。

「行くか?」

 藤宮がそう聞いてくるが答えは決まっている。

「行くに決まってるだろ。別にお前は来なくていいんだぞ?」

 俺は立ち上がり菜乃葉のもとに向かって歩く。

「おいおい、親友を置いていくとは、またずいぶんな仕打ちだな」

 すぐに後ろから来た藤宮が俺の隣に並んだ。

 近づくにつれ彼女の顔が良く見えるようになり、彼女の魅力が何倍も大きく感じた。

「ほら、菜乃葉。あれ、聞かないの?」

「ちょっと! あんたは黙ってなさいよ!」

「うわ~、菜乃葉口悪くなっているよ~」

 菜乃葉の後ろにいた友人の方に寄り添いながら耳元で言った。口元はニヤニヤと悪い笑みを浮かべている。まるで菜乃葉の表情で遊んでいるみたいだ。実際のところ、菜乃葉は表情の変化が豊かだから見ていてとても面白い。そんな部分にも魅力を感じ、俺は彼女に惚れたのかもしれない。

 それに対して菜乃葉は顔を赤くして言葉を返している。本当に見ていて愉快だ。可愛らしく、愛らしい。

「ねぇ、永戸君」

 しばらくすると決着がついたのか菜乃葉がこちらを向いて話しかけてきた。もじもじとしている彼女の様子に俺は思わず息をのんだ。こうやって考えると、やはり俺は気持ち悪いのかもしれない。努めて冷静を装っていると、彼女が口を開いた。

「この水着、新しく買ったんだ。どうかな?」

 そう言って俺のほうを向いてくるっと一周回り首をかしげて俺の目を覗き込んでくる。

オレンジと、白を基調としたビキニ。この夏の景色にぴったりの色。それに加えて海の青色とオレンジが相まって彼女の存在感を一層引き立たせている。

「とても綺麗だよ」

 周りから、口笛やら冷やかしの声が聞こえてくる。しかし、そんなものがどうでも良くなるほどに彼女の笑顔が美しかった。


『チリン』


 また、風鈴の音。気がつくと部屋の中にいた。

 今度の変化は今までに増して顕著だった。今まであった筈の身に纏わりついてくる熱気がなくなり、外からは見える空の色が薄かった。二階まで成長している木々に葉がないのが見て取れた。きっと今は冬なのだろう。携帯で日にちと時間を確認する。


『12/25(土) 12:37』


 今日はクリスマスだった。

 しばらく携帯を眺めていると、いきなりドアが開いた。誰かが部屋に入ってきた。

「直哉、今空いてる?」

そこに立っていたのは姉だった。

「どうしたんだよ、姉さん」

「いやぁ、今から少し出かけてくるんだけどね。今日うち宛に荷物が届くんだよね」

 壁によりかかりながら手のひらを合わせてこちらを覗いてくる。

「はぁ、留守番して受け取れって言いたいわけだ」

「そう! その通り! いやぁ、話の分かる弟を持ててお姉ちゃんは幸せものです!」

 そう言うと、すぐに踵を返して去ろうとしたので、俺はその背中に話しかけた。

「待って、姉さん」

「どうしたの?」

 そう言って振り返った姉の顔は、なにか不都合でもあるのかと言いたそうな顔をしていた。

「今日は先約があるんだ、クリスマスだしね」

 二年前、高校一年のクリスマスは菜乃葉と過ごしていた。忘れようとするたびにより強く頭の中に刻まれていった思い出を頭の中でプレイバックする。

「あ、なるほど。菜乃葉ちゃんと出掛けてくるんだ〜」

 そう言って姉さんは、ニヤニヤしながら気持ち悪い視線をこちらに送ってくる。

 そして、何かをひらめいたのか知らないが「ちょっと待ってて」と言い部屋を飛び出していった。

 姉さんが返ってくるのにそう時間はかからなかった。

「はい、これ」

 そう言いながら渡されたのは、銀色の小さな袋。袋からは丸いシルエットがうっすら浮かび上がって見て取れた。もしかして、と思った俺は姉さんに「何これ?」と尋ねた。

「ん? そんなのコンドームに決まってるじゃない」

 予想通りの回答だった。いや、今回こそ予想外であって欲しかったまであるその回答に、俺は絶句せざるを得なかった。


 それからしばらく後。俺はコートを着て、茜色がすっかりと藍色になっている空の下を歩いていた。

「今日は、楽しかったね」

 隣からそんな声が聞こえた。俺はまっすぐ真っ暗になった空を見つめながら「そうだな」と答えた。

「クリスマスって素敵だよね。今年はホワイトクリスマスだったし」

 彼女の楽しそうな声が絶えず耳に入ってくる。藤宮の家でクリスマスパーティーが開かれ、俺や菜乃葉、その他友人の多くが招待された。各自プレゼントを持参して、プレゼント交換会なるものも開かれ、いつになく騒がしく、賑やかなクリスマスだった。辺りが暗くなり各自それぞれ解散となった。その成り行きで菜乃葉と一緒に帰ることになった。

「そうだな、でも最近は寒くて困るよ。雪まで降られると堪んないね」

 具体的に今が何時なのかは分からないが、きっと時間的には十九時をまわっているだろう。道端には雪が寄せられ少し山になっている。太陽の光もすっかりと隠れてしまい、俺と菜乃葉を照らしているものといえば雪の光くらいだろう。本当に雪が光って見えるのだから蛍雪の功とはよく言ったものだ。そのせいか、今だけは一段と冷えて感じた。

「ねぇ、あそこの自販機で飲み物買ってもいい?」

 そう言って彼女が指差す先に薄暗い道の中、淡い光を発する自販機があった。別に止める理由もないし、何なら自分も温かいものを買いたい気分だったので二人で自販機で菜乃葉はココアを、俺はコーヒーを買った。

 近くにある公園の中のベンチに俺が腰掛けると、左隣に菜乃葉が座り、飲み物に口をつける。

「アチッ!」

 思った以上にコーヒーの温度が高かった。

「大丈夫?」

 菜乃葉が心配して俺の顔を覗き込んでくる。

「大丈夫、大丈夫」

 しばらくすると、熱さ(痛みとも言うのだろうか)が引いていった。しかし、少し舌を火傷してしまったようで、俺はコーヒー缶で手を温めることにした。

 そんな俺を見て安心したのか菜乃葉は自分のココアを飲み始めた。菜乃葉は猫舌というわけではなかったらしく、俺のように舌を火傷することはなく口を離した。

「温まるねぇ」

 そう言う彼女の口元からは白い湯気が出ていた。その様子の彼女を見ているだけで自分も段々と温まっているような気がした。しばらく、俺と菜乃葉の間に静寂が流れた。雪が積もっているせいか、それとも夜なせいか、辺りから物音は一切しなく、俺等以外の人間が全員いなくなったかと思うほどに辺りは静まり返っていた。

「ねぇ、永戸君」

「どうした?」

 そんな静かな中聞こえてくる彼女の声はとても透き通っていた。

「あのさ、えぇーっと、あのね」

 彼女は手をもじもじさせながら下を向いている。

「私! 永戸君のことが好きなんです!」

 意を決したのか、顔を上げて俺の目を見つめながら彼女はそういった。

「だから、その良ければ私とお付き合いしてください!」

 彼女の目は酷く怯えて見えた。目尻が少しだけ赤い。

「俺で良ければ」

 何度も見た彼女の痛いほど赤い顔に俺は安心させるように微笑みかけた。


『──────』


 風鈴の音はしなかった。いきなり視界が変わった。

 俺は映画館の中にいた。あたりを見るが、自分以外に人は居ない。辺りはすっかり暗いのに、未だ上映されない眼の前のスクリーンが気味悪い。

 しばらく待っていると古臭い機械音とともに眼の前のスクリーンに映像が映し出された。


『ー第128097634章ー 波の道 終幕・夏祭り』

 画面に映し出されたそのタイトルに、俺は息を呑んだ。今まで薄っすらと感じていた違和感、その正体をつかんだ気がした。


 大きな囃子や太鼓の音が聞こえてくる。それに大勢の人が祭りという空間の空気に酔いしれてあちこちで騒いでいる様子が見て取れた。画面には一組の男女が映し出されていた。綿あめを右手に持ち、仲良く手を繋いでいる。

『今日花火見れるかな』

 女がそんなことを言った。

『別に雨も降っていないし見れるだろ』

 男もそれに返す。男の左手には色々と荷物がぶら下がっている。きっと、彼女が取った景品か何かを持たされているんだろう。しかし、男は嫌な顔ひとつしない。

『そういう意味じゃなくて! 人が多いからさ、混雑して見れないんじゃないかってこと!』

『なるほど。それなら、いいところ知ってるから時間が近づいたら行ってみようか』

 女が少しムスッとした表情で言うのに対して、微笑みながら返す男の顔が鼻につく。

『そんな所あるの?』

『うん、家出る時に親父に教えてもらった』

 そう言い残して、二人は画面から消えていった。画面の中からは囃子の音と太鼓の音、それに大勢の声が絶えず流れ出ていた。


 それから場面は移り変わり、彼らは階段を登っていた。男が先導し、それに女がついて行く。

『永戸君、まだ着かないの?』

 女のほうがすでに疲れているのか、そんな声を漏らす。息を切らして肩で呼吸する姿を見ていると、よほど登ってきたことがうかがえる。

『もう少し』

 男も疲れているようだが、女ほどではない。

『ほら、見えてきた』

 そう言う男の目線の先には小さな鳥居があった。その鳥居をめがけて、二人は駆け上がる。今までの疲れなどなかったかのように笑いながら石段を登る。

『到着!』

 男が言った瞬間、夜空に綺麗な花の火が咲いた。普段より高い位置から見ているからか、眼の前に広がる大輪の花がより鮮やかに華やかに見える。

『登ってきた甲斐があっただろ?』

 男がそう言うと、『そうだね』と女が返す。二人は近くにあったベンチに腰掛ける。肩が触れそうで触れない絶妙な距離感の中、二人は空高くに咲き誇る火の花を眺めていた。

『綺麗だね』

 女がそう言う。

『そうだな』

 男が返す。しばらく二人の間に会話はなかった。二人の間を鮮やかな色の光と遅れてやってくる音が通り抜け、俺の網膜を焼き、鼓膜を叩く。

『永戸君、こういう時は君のほうが綺麗だよ、って言うと女の子は喜ぶんですよ』

 女が言う。少しイタズラっぽい目と口調で言う彼女の目には花が揺らいでいる。

『そっか、期待に応えられなくてゴメンな。今からでも言おうか?』

 男は女の目を見ながら、そう言う。

『言わなくていいよ。その代わりに、』

 首を横に振りながら、女はそう言うと立ち上がり男の目の前に立つ。

『目、閉じてて』

 女は男にそういった。

『わかった』

 男はそう言い、目を閉じた。

 きっと、彼は知らないのだろう。彼女の頬が空のどの花よりも紅い事を。

 きっと、彼は知らないのだろう。彼女の目には彼しか映っていないということを。

 きっと、彼は知らないのだろう、彼の目に映る空の花に彼女が嫉妬していることを。

 女はそっと彼の唇に自分の唇を重ねた。男はいきなりのことに動揺したのか咄嗟に離れようとしたが、彼女の手が首の後ろに回り込みそれを許さない。彼女の舌が彼の唇をこじ開け、中に入り込む。花火が咲く轟音の中でも、熱情的で艶めかしい水音が聞こえてくる。

 しばらくすると、彼女の唇は離れていった。彼女の舌から垂れる糸が扇情的だ。

『私、永戸君とならいいと思ってるよ?』

 女は蕩けた目のままそう言う。

『何が?』

『キスも、その先も』

 そう言うと、頬を赤らめた彼女が、もう一度彼の唇を奪った。


 サイレンの音が辺りに響く。揺れる車内の中、男はただただ彼女の未来を祈るしかなかった。

『頭部からの出血、治まりません!』

 ぼんやりと、女を眺める男の服は血で汚れていた。

『心肺停止! 呼吸、脈拍共に停止!』

『今のうちに頭部の傷を塞げ!』

 ピーッという電子音とともに彼女の心臓の鼓動が停止する。

『早く出血の処理をしろ! 一分経過するぞ!』

『出血箇所の応急処置完了! 心肺停止から四分経過!』

『心臓マッサージ!』

 大人が目の前に立って視線を遮った。すぐそこに横たわっているはずの彼女がどんな顔をしているのか、それを知ることすら今の彼には叶わない。

 救急車の中、大人が必死になって彼女の命を繋ごうとしている。

 病院についた。

 医師の判断と表情は冷徹で冷淡だった。

 彼女、石川菜乃葉は死亡。死因は大量出血。

 男はその言葉を聞いて崩れ落ちた。

 もし、あの時呼び止めていなかったらと嘆きながら───


『───────』


 そうして、幕は降りる。

「なぁ、答えてくれ。どうせいるんだろ? 波雪の管理人、だったか?」

 俺がそう言うと隣の席から『チリン』と鈴の音がした。

「やぁ、またあったね。永戸君」

 隣にはあの時、海辺に居た猫が居た。

「なぁ、これは何度目だ?」

 俺がそう聞くと、猫は答える。

「一億二千八百九万七千六百三十四回目だね」

「そうか。俺はまだ抜け出せないでいるんだな、あの夏から」

 俺はそう言って天井を見上げた。未だ辺りは暗く天井は星一つない夜空に見えた。

「なぁ、管理人。お前は俺に何をさせたいんだ? 一億回も彼女の死ぬ姿を見せて何になるっていうんだ」

 俺は全身の力を抜いて、そう聞いた。

「これがもし、俺が立ち直るためにあるのだとしたら、何度も立ち上がろうとしたさ。でも、気がつくと毎回ここにいる。そして、今日が終わったと思ったら何もかも忘れて、また新しくこの二週間が始まる。それを繰り返せば繰り返すほどに彼女の存在が俺の頭の中で大きくなっていく」

 真っ暗で光一筋無い天井がぼやけた。

「なぁ、教えてくれ。俺はどうしたらいいんだ」

 しばらくそこに、静寂が流れた。

「それを僕から言うことはできない。でも僕は以前君に言ったと思う、この今君が見ている景色は海岸が死後の世界を可視化したものだって。君は、ここで幾度となく彼女のことを思い出した。その気持ちを君はきっと殺さない方がいい」

 管理人が一体何を言っているのかはよくわからなかった。いや、考えることすら億劫だったのだろう。その後、両者話すことなく静寂がその場に流れる。

「そろそろ頃合いだろう。ついて来るといいよ」

 そう言って猫は劇場を後にした。


 「着いたよ」

 猫の後をついて行った先は扉の前だった。

「ここは、学校?」

「最低限のことだけにしようと思っていたけど、これ以上ここに君が留まり続けると僕としても管理が大変なんだ。今回は特別だよ、僕はそれほど優しくないんだ」

 そう言って、猫は小さな鈴の音色を残して姿を消した。

 俺は意を決して、ドアを開けた。

「永戸君、久しぶりだね」

 今まで霞んでいた視界が一気にぼやけた。けれど、眼の前にいる彼女が菜乃葉だということは自信を持って言えた。

「あぁ、本当に久しぶりだな」

 俺は、それから足を動かすことは出来なかった。近づきたい、けれどもその権利が今の自分にはない。そんな気がした。

「ごめんね、永戸君。一人にしちゃって」

 彼女は口を開いて話し始めた。

「永戸君と過ごした二年間は私の人生の中で一番楽しくて、愛おしい時間でした。あなたと、一緒に行った海も、夏祭りも全部私の宝物です。本当にありがとう」

 そう言って、彼女は歩みをこちらに寄せてくる。

「あなたと花火の夜に交わしたキス、もう一度したかった。その後も、あなたとしたかった。お互い初めてだけど、そのことをちょっと私がいじるんだ。『永戸君の初心』とかいいながらね、そしてお互いに笑いながら。君に私の花を散らせるんだ。そうなるはずだったんだよ? それから、二人で色んな所に行って、色んなものを見て、面白いね、おかしいねって笑うんだ。それでも偶に喧嘩して、でもその度に仲直りしてまた一緒に過ごすの」

 気がつくと、彼女は目の前に立っていた。何度も見た顔だ、視界が歪んでいても分かるほどに脳に焼き付いた顔だ。

「だから、ごめんね。私のせいであなたの幸せな未来を奪ってしまって」

 そう言いながら彼女は俺の目元の涙を拭う。視界がクリアになって見えた彼女の顔は苦しく笑っていた。

「だからさ、泣かないでよ。永戸君」

 そう言ってくれるが、俺の目から涙が溢れてくる。

「しょうがないなぁ」

 そう言って彼女は、俺を抱き寄せた。

「もう時間だね、最後に私と話せて楽しかったかな? 泣かせちゃったけど」

 耳元で彼女が語りかけてくる。表情は見えないが彼女が無理して笑顔を作っていることだけははっきりと分かる。

「最後に、永戸君。私は、あなたが大好きでした。今でも好きです。いつまでも、あなたを愛しています。私に幸せな時間をくれて、思い出をくれてありがとう」

 彼女が最後の言葉をくれているというのに俺は彼女の肩を抱くことしか出来なかった。彼女に返さなきゃいけない言葉が、嗚咽になって出てこない。

「私のことなんか忘れて、幸せに生きてください」

 その言葉が、彼女から発された時、俺の中でなにかの糸が切れた。

「忘れるわけ、無いだろ!」

 今まで彼女に言いたかったこと、言えなかった言葉が激流となって流れ出てくる。

「俺だって、菜乃葉と過ごしたかった! 君と、同じ大学に進学して同じ部屋に住んで一緒に過ごすんだって思ってた!」

 嗚咽が言葉をかき消さないように声を荒らげながら発する。

「菜乃葉が、キスをしてくれたあの日、嬉しかった! 人に愛されることが心を満たしてくれるって教えてくれた!」

 俺は彼女を引き離しその目を深く捕らえる。

「愛してる、世界の誰よりも」

 俺は今まで言うことの出来なかった、返すことの出来なかった言葉を伝える、与えてもらってばかりだった言葉を。

「あはは、私は幸せ者だね。私も愛してます、世界の誰よりも」

 彼女は泣きながらそう言って、俺の唇に自分の唇を重ねる。初めてのときとは違う、浅いキス。けれどもあのときよりも深いキスを永遠にも感じる刹那の間交わした。


 目を開けると、俺は砂浜に居た。

 目元から涙が一滴、頬にそって流れる。

 敷物の上に腰掛け、酷くぼやけた海を眺めていた。

「それでな、やっと直哉が、って本人様いるじゃないか」

 後ろから声がした。聞き慣れた声。他にも数人の声がした。

「早かったな、あんなに乗り気じゃなさそうだったのに」

「多々良、遅すぎだ」

 俺はそう言って、不安定な砂場を踏みしめ、俺は立ち上がった。


「ごめんな、直哉」

「何がだ?」

 帰りの電車の中、俺の右隣にいた多々良がいきなりそう言ってきた。何についての謝罪かは何となく予想がつく。

「まだ、お前完全に立ち直れてないだろ? 菜乃葉のこと」

「そうだな。けど、いつまでカッコ悪い姿は見せられないよ」

「そうか」

 それからしばらく、俺と多々良の間に会話はなかった。しかし、こうやって静かな中、帰路についていると思うと、微かな温もりを左隣から感じることができた。いつかにあった三人で並んで帰ったあの帰り道のように。

 今はそれだけで十分だ。





「鈴音砕ける恋の波」


『――1幕―― 序章』


 私はいつからここにいるのだろう。

 今となってはそんなことを考えることも無くなっていた。自分がなぜここにいるのか、一体ここはどこなのか。考え始めれば疑問は尽きない。しかし、そんな中でも確かに覚えていることがある。

 目を閉じれば瞼の裏に浮かんでくる彼の顔。誰なのかは分からない。しかし、その顔を思い出すたびに胸が煩いほど高鳴る。顔が火照るのもわかる。きっと、私は彼に恋焦がれているのだろう。それこそ、この身すべてを捧げても良いと思えるほどに……。


 気がつけば海岸にいた。

 そこは少し奇妙な海岸で、景色が一切変わらない。勿論、海なのだから波音などは常にするし、白波だって立つ。しかし、遠くの空に見える雲の形、位置、色合い、太陽の角度。全てが変化しない。気味が悪い、と思ったことはない。私はこの海に懐しさをずっと感じていた。

 しばらく海を眺めていると、右隣から鈴の音がした。

「君かい? 今度の新しい雪は」

 隣には猫がいた。特段話していることに対しては疑問を感じなかった。

「私は菜乃葉よ、雪じゃないわ」

 私は久々の話し相手に少し心の奥で興奮していた。しかし、それ以上に許せないことがあった。

「そんなことより、あなた右じゃなくて左に来てくれない? 私の右隣は彼しか受け付けてないの」

 ただ猫の目を見つめる。そこを退きなさいと威圧するように相手も目を貫く。

「成る程、そういうことか」

 そう言うと猫は何かを見透かしたように、私の左に来た。

「ねぇ、あなたの名前はなんて言うの?」

 私がそう言うと、猫は少し悩んだ素振りを見せた。

「僕には名前がない。ただ、よく仲間からは『波雪の管理人』と呼ばれてるよ」

「そう、管理人さんね。私は菜乃葉、よろしく」

「よろしく」

 そこからしばらく会話は無かった。ただただ、青く輝く空を眺めていた。

「君は何も聞かないんだね」

 波音の中、別の声がした。

「ここに来た人は多かれ少なかれ自分の置かれた状況に混乱するものだけど、君にはその様子が見られない。わからないことがあるなら聞いてもらっても構わないよ。例えば、君の頭の中に浮かび続ける人物の名前、とかね」

 その言葉を聞いた時、私の意識は完全に猫に向いていた。私の眼の前に映る波は確かに音を立てているはずだ。しかし、その音が私の耳に入ってくることはなかった。

「別に混乱していない訳じゃないわ」

 私はそう返して、猫の方を向き改めて問う。

「でも、教えて。ここは何処で私はなぜここにいるのか。そして私の頭にちらつく彼は誰なのか」

 その時、猫の目が妖しく光った気がした。


 「君の質問には一つ一つ答えよう」

 私は海岸線に沿って猫の右隣を歩いていた。あいも変わらず燦々と空で輝く太陽は場所を変えない。強い日差しが差しているにも関わらず暑さは一向に感じなかった。

「先ずはここが何処なのか」

 そう言うと、猫は止まり、海の方に体を向ける。

「ここは現し世とは異なる死後の世界に繋がる四つある路の内の一つ、『雪の海岸』。ここには黄泉の国に不要な人間の想いが蓄積される」


『チリン』

 小さな鈴の音がした。


「ここには人間が過ごした記憶の一部が流れ着く。そして、その想いがある一定の量を超えるとここには雪が降る。そして、現し世にここと同じ海岸が現れる」


『チリン』

 また、鈴の音。


「そして、その海岸は不思議なことに色んな物を引き寄せるんだ。漂流、と言ったほうが適切かもしれない。死んだ人にとって大切な人だったり、物だったり」


『チリン』

 次は今までと違い大きく鈴の音がした。


「つまり、君はもう死んでいるんだ。君はここでしばらく過ごした後、消える運命にある」


『チリン』

 鈴の音がした瞬間、私の眼の前は真っ白に染まった。今までとは違い凍てつく寒さが肌をさす。

 暫く経つと私の視界は段々と戻っていった。私は気がつけば海岸にいた。しかし、景色とは打って変わり雲の形は数瞬過ぎることに変化するし、日差しからは暑さを感じる。

「これは現し世に現れた『雪の海岸』見覚えあるでしょう?」

 そこは私が高校一年の夏に彼と来た場所だった。懐かしさに駆られた私は海に向かい歩き始めた。少し歩くと波が私の足を包んだ。茹だるような暑さの中で感じる水の冷たさはとても心地よかった。

「君はある種のイレギュラーだ。ここには本来、想いしかたどり着かない。それなのに君は自由意志と記憶を持ったままここに来てしまった」

 私の左隣からまた、猫の声がした。そちらに視線をやると猫は波の当たらないギリギリのところにちょこんと座っていた。

「あまりにも大きな想いがここに辿り着くと個々の募りに募った想いが激流となってこの世界を書き換えようとする。想いとは力だ、いい方向にも転べば悪い方へも転ぶ。それを制御するのが僕の仕事だよ」

 そう言うと猫はこちらに背を向け歩き出した。

「着いてきなよ、最後の君の質問に答えよう」


 猫の後をついていく。私の足元で短い足を動かして先導する猫に少しだけ愛嬌を感じた。

「着いたよ」

 もうしばらく進み、猫は立ち止まった。猫に向いていた視線を上げ、前を見るとそこには一つの人影があった。

「彼だろう?君の頭の中にずっと浮かんでは消えていく人物は」

 頬に涙が伝うのがわかる。少し背丈が変わっているが私の知っている彼だ。ずっとずっと恋い焦がれてきた彼がそこに居た。

「永戸君」

 自然に名前が出た。その途端今までなにかにせき止められていた記憶が波となって私の頭の中を駆け巡った。

 思い出されたのは色濃く残る二年間の青い春。彼に惚れ、友だちになり、恋人になった記憶。

「永戸君ッ!」

 私は走り出した。

 もう一度彼の腕に包まれたい。

 もう一度彼の温もりに触れたい。

 もう一度彼の声が聞きたい。

 もう一度、もう一度、もう一度、と彼に対する想いが増えるたび私の脚は速くなった。

 彼の隣についた。

「永戸君、私ッ!」

 私は息を呑んだ。今まで伝えたかった言葉を言おうとした瞬間、私の目に写った彼の目は虚ろだった。

「彼は、永戸直哉は心を病んでいる」

 後ろからそんな声が聞こえた。

「彼は、君が死んだあの夏からずっと抜け出せないままでいる」

 私が猫に視線を向けることはない。しかし、耳だけはしっかりと猫の方を捉えていた。

「君の死因が間接的に自分にもあると考え、彼は精神を病む。現在は学校に行っていないという」

 猫が淡々と告げる。それは私の知らない彼。私の知らない私が作ってしまった彼の未来の話だった。


 しばらく私は彼の隣にいた。

 何度か彼に話しかけてみたりもしたが、どうやら私の言葉は彼に届かないらしい。いつの間にか猫はいなくなっていた。この海辺に私と彼だけがいる、私たちの耳を叩くのは一定のリズムを刻む波の音と、鳥の鳴き声に枝葉のこすれる音だけで、人工音が一切しない環境に私は彼と本当の意味で二人っきりになったように感じた。世界に私と彼以外一切誰もいなく、彼の目が私にだけ向けられる理想の世界。それが今、目の前にあるというのに私の心は淋しいままだった。どれだけ彼に話しかけても彼は私に答えてくれない。それもそうだ、私はもう既に死んでいるのだから。

「ねぇ、永戸君。二人だけの海は初めてだね」

 私は小さく喋った。

 自分でも可笑しくなって笑みがこぼれた。彼に私の言葉は届かないのに。私は死んでいてあとは消えるのを待つだけなのに。それでも、私は思ってしまう。

『もう一度、あなたの隣を歩きたい』

 もし、奇跡があるのだとしたら。そう思ってしまう。


 きっと、運命というのはこの世の中で最も残酷で最も美しい物なんだと思う。だって、私の目の前の彼は私を探して走っているのだから。

 私の言葉は届かない。そう思っていた。けれど、私の最後に発した言葉は彼に届いたらしい。

「近くにいるのか、菜乃葉!」

 久しぶりに聞いた彼の声に思わず涙が流れた。

(私はここにいるよ)

 心の中で私はそう言った。

 暫くすると、彼の足は止まった。きっと彼も気が付いたのだろう、私に会うことは叶わないのだと。踵を返して、自分の元居た場所に帰ろうとする彼の後姿を見ているとふと、私は思ってしまった。

『もしかしたら彼は私を好きじゃなかったのかもしれない』

 私のことを諦め、踵を返す彼の後姿を見ているとその思考が加速する。

『彼は私の告白を受け入れてくれた。けど、それは彼が優しいから?』

『私は彼にとって一体何だったのか』

 考えれば考えるほど、私の頭はぐちゃぐちゃになる。しかし、分かっている。好きでもない相手が死んだことを、引きこもるほどにショックを受けることなど、そうそうないことだということも。それでも、一度思ってしまった私の考えは止まることを知らなかった。立ち眩みがする、吐き気も、胃が締め付けられる。肺が押しつぶされそうで息も絶え絶えになる。

 気が付くと、私の隣には猫がいた。

「落ち着くんだ、イレギュラーの君がそこまで感情を乱されると何が起こるか分からない。あまり厄介事を起こさないでくれ」

 猫が何か言っている気がしたが、それが私の耳に届くことはなかった。

「私の右に来ないでよ!」

 それが引き金になった。私がそう言うと、今まで私の中で募りに募った感情が激流の渦となって、溢れ出る。

『彼は私のことを好きなんかじゃなかった』

 頭の中で何かが、私に話しかける。

「違う! そんなはずない!」

 私は叫ぶ。認めたくない。認めてはいけない。

『彼は優しいだけ、彼が告白を受けたのも、彼が優しいから』

「違う! 違う! そんなの違う!」

 私を取り巻く思いの激流は次第に形を変えていく。何もかもを真っ白に染め上げ、埋め尽くしてしまう吹雪へと。

「まずいな。ここは一旦離れるしかなさそうだな」

 猫はそう言うと森の中に消えていった。

『彼にとってお前は……』

「煩い! 煩い! 煩い! 煩い!」

 その瞬間私の周りを雪が覆いつくした。当然、彼も飲み込まれた。私の肌を、凍てつく雪がなでる。しかし、それをすべて溶かしつくほどに私の体は熱を帯びていた。


 しばらくすると雪は止み、視界は晴れていった。晴れた視界から見える景色は今までとは何ら変わらない晴れ渡った青空を写していた。視界が晴れていくと同時に私の頭は段々と冷静さを取り戻していった。

「やっぱり君はここにいるべきではない」

 後ろから声がした。とても冷たい、強く火照る私の身体とは相反する、刺し殺すような声。

「今のは、一体何だったの? 私は一体……」

 混乱する私に射抜くような目を向けたまま猫は口を開く。

「ここには多くの想いが流れ着く。そこには当然『妬み』『嫉み』『恨み』『憎しみ』など多くの負の感情も混じっている。それが君に向けられたんだろう。今、この波雪の海岸に自由意志を持っているのは僕と君だけだ。つまり、僕と君だけがここに募り募った想いを操ることができる。君は、それで彼を回廊の方に飛ばしてしまった。それだけだよ。本当に迷惑極まりないよ」

 最後は吐き捨てるようだった。

「永戸君は、どこに行ったの?」

 私は一番気になったことを聞いた。猫は私の目の前にいる。私自身もなにかおかしいところはない。でも、さっきまで確かにいた。

「彼は現し世ではなく黄泉の国の方の海岸に飛ばされた。きっと今頃眠っているさ」

 それを聞いて私は喉を鳴らす。硬い唾が喉を塞いで息が一瞬詰まる。

「まぁ、死んでは居ないよ。現し世の人間を連れてくることは出来ても殺すことは出来ない。一連の儀式が終わればここに返ってくるはずだ」

「そう」

 その言葉を聞いて私は胸をなでおろしたと同時に私の視界は暗転した。


 気がつくと私はある通路に居た。

「君にはここがどのように見える?」

 隣りにいた猫がそう聞いてきた。改めてあたりを見渡す。辺りにはスポットライト、マイク、スピーカー、それにテレビで見るような大型のカメラがおいてあった。他にも地面にはコードがあちこちに向かって繋がれていた。

「まるで、テレビの舞台裏ね」

「そうか、君にはそう見えているのか」

 猫は私の言葉を聞くと小さくつぶやき歩き出した。自然と、私は猫の後をついて行った。

「ねぇ、さっきの質問どういう意味?」

 私は足をしきりに動かす猫に対して問いかけた。

「ここは死後の世界。生きた人間にとってここは本来認知できない場所なんだ。だから雪の海岸がその人にとって認識しやすいように形を変えてくれる。君にはテレビの舞台裏に見えているし、僕には別の景色が見えている、彼も別の景色を見ているはずだ。死んでいるはずの君は実際の景色を見ることが出来ていると思ったけど違うらしいね」

 猫は足を止めることなくそう言った。

「ねぇ、ずっとこの通路通っているけど、このハリボテの表には何があるの?」

 私がそう言うと、猫は足を止めこちらに振り向く。

「君の言うハリボテの奥には彼がいる。覗くのは構わないけど決して相手に観測されないように、絶対にだよ」

 強く念を押す猫の言葉の持つ圧力に私は頷くことしか出来なかった。


 ハリボテはいくつかあった。どれもこれも覗いてみたが私の昔の記憶をそのまま投影しているだけに見えた。例えば教室での何気ない会話のシーン、登下校中の何気ない会話のシーン、一緒に海に行ったシーン、クリスマスパーティーからの帰りのシーン、夏祭りのシーン、そして私が死ぬシーン。生前の私の記憶がそのまま一部分切り取られてそのまま演じられていた。

 そのハリボテにも彼が居て、彼の姿は私の記憶そのままだった。まるで、昔勇気がなくなかなか告白できなかったあのもどかしい感覚がまた、私の身体を駆け巡る。それと同時に嫉妬の感情が私の中でふつふつと湧いてきた。そこには至極当然のように、当時の私がいる訳で彼の隣りにいることが正直気に入らなかった。

「これが彼の記憶ね。なかなかにきつい死に方をしているじゃないか」

 最後から二番目のハリボテからはトラックに轢かれ身体のあちこちが本来曲がることのない方向を向いていた。腕や足の一部分からは骨が露出して人の部位としての造形を、最早保てていなかった。

「あの時は痛みなんて感じなかったわ。気がついたらここに居たもの」

「なるほど、即死だったわけだね。いや、でも心臓マッサージ。気絶していたのか」

「そうなるのかしら」

 あの日、雨が降っていた。管理人さんが言うには永戸君が自責の念に追い詰められていると言っていたけど、それは間違いだ。あの日、私が死んだのは単なる偶然の積み重ねだ。濡れている地面に足をすくわれ、転けて動けずにいたところにスリップしたトラックが突っ込んできた。だから、彼が気にすることなんてなにもないのだ。しかし、私が死んだという事実と、その時彼が私の名前を呼んだという事実によって、偶然に引き起こされた悲劇が今こうして私と彼を結びつけている。そう思うと、私の胸はひどく締め付けられた。

 それ以降会話はなかった。

 しばらく歩いた後私は最後のハリボテの裏にいた。

「君はここで待ってて、最後に彼を送り出すから」

 そして、私と猫はそのハリボテの中に入った。

 彼を送り出すのは至極簡単だった。私はただ待つだけ、暫く経つとハリボテから永戸君が出てきた。私には一切目もくれず出口に向かって歩みを進める。その目には先程見た淀みは消え去り、清々しいほどに透き通っていた。私はそれを見て気がついてしまった。彼はきっと立ち直ったのだろう。実に喜ばしいはずなのに、私の心は依然として晴れないままだ。きっと彼は私のことは忘れない。けれど今までのように深くは考えてくれないだろう。それに私は悲しく感じてしまった。いや、怒りに近い感情まで湧いていたかもしれない。


『チリン』


 風鈴の音がなった。目を開けると私は海岸に居た。

「管理人さん、私は今から消えるの?」

 私は猫に聞く。予め聞いてはいたが実際にその時がくるとなると覚悟を決めたいと思った。

「そうだね、これ以上君に残られると困る。さっさと消えてくれることを願うよ」

 そう言うと猫は尻をこちらに向け林の中に去っていった。本当の意味で死ぬ瞬間くらいは一人にしてやろうという配慮を感じた。

 しばらくすると足の感覚がなくなってきた。もうすぐ私の意識も消えていくのだろう。私の身体はそれを受け入れているのに心はそれを受け入れられずにいた。穏やかな鼓動を繰り返す私の心臓とは真逆に私の感情はひどく大きく波打っている。このまま終わってしまうのだろうか。

「死にたくない」

「まだ、彼と一緒にいたい」

 その言葉が私の頭の中を延々と駆け巡る。その時、私はある言葉を思い出した。

『今、この波雪の海岸に自由意志を持っているのは僕と君だけだ。つまり、僕と君だけがここに募り募った想いを操ることができる』

『個々の募りに募った想いが激流となってこの世界を書き換えようとする』

 その時、私の頭に一つの考えが浮かんだ。それはあまりに身勝手で自己中心的な考えだった。しかし、私にとっては私の願いが叶う唯一の方法に感じた。

考える間もなく、私は想いの手綱を取ることを選んだ。

『バリン』

 その時、私の中で風鈴の砕けるような音がした。



〈――2幕―― 『違和感』〉

 酷い頭痛とともに私は目覚めた。

 私は気がつけば真っ暗な部屋に居た。光が一切ない空間に不思議と恐怖は感じなかったが、それ以上に上下左右の感覚がないことに戸惑っていた。

 私がようやくその感覚になれたころ、後ろから(最早後ろなのかどうなのかすらわからないが)音がした気がした。

 激しいテレビの砂嵐の音。でもただの砂嵐じゃない。薄っすらとだが聞こえてくる。

「…………う、………そう、か…いそう」

 人の声、だろうか。それも一人や二人ではない。もっと多くのそれもどす黒い声が砂嵐に混じっている気がする。

「かわいそう」

 次の言葉がはっきりと聞こえてきた。


「はっ」

 目を開けるとそこは海岸だった。私は自分の足を見てみる。

「足が、ある」

 そこには消えかかっていたはずの足があった。自分自身の状況に少し戸惑っていると隣から声がした。

「君かい? 今度の新しい雪は」

 私は声のした方を見た。そこには猫が居た。


 それからしばらく経ってわかったことがある。どうやら管理人さんは私のことを覚えていないらしい。このことが管理人に知られればきっと私の願いは叶わない。そう思った私はこのことを隠しながら猫と話していた。

 前回と同じように私は永戸君に会った。

「話を聞く限り、君は死んでいるはずなのに自由意志としてここにいる理由は漂着と考えるのが自然なのかも」

 今回の猫は私がイレギュラー的存在なのでなく、誰かの想いが引き付けた死人だと結論付けた。

 しばらくして気がついた。私は時間を遡ったのだと。そこからの私の行動は早かった。



『――第55968239幕―― 幕間・束縛 』


 ジャリジャリと荒い音を立てながら荒浜の上を猫は歩く。どれくらいの時間が経っているかは分からないがもう既に五〇〇〇万回を超えたループに以前まで穏やかだった海はひどく荒れていた。以前まで明るかった太陽は黒く分厚い雲に遮られ光を失い、穏やかだった海はひどく荒れ白く濁っている。

「はぁ」

 思わず溜息がこぼれてしまう猫。仕方がない。この状況は猫の落ち度によって引き起こされたものだと猫も自覚している。

「しかし、五五〇〇万回を超えて居場所と原因がわかるなんて、全く厄介極まりないよ」

小さく呟くと猫は林の中に消えていった。


 真っ暗な空間の中にテレビの砂嵐が鳴り響く。猫はその砂嵐の正体がすぐにわかった。

「こんなところに想いが集まっていたなんて、やっぱり君は消えていなかったんだね」

 そう言うとその女はこちらを振り返った。

「あら、お久しぶりね。管理人さん。記憶は毎回消しているはずなのだけど」

彼女の顔はひどく歪んだ笑みを浮かべている。テレビには何も写っていなくただ、ノイズが流れているばかりだ。

「君は一体何がしたいんだ?」

 猫は彼女に問いかける。

「私は彼を愛しているの、狂おしいほどに」

 彼女の答えは至って単純だった。しかし、彼女の声からは一切その単純さを感じなかった。狂気に満ちた声に猫は毛を逆立てる。

「だから、なんだって言うんだ」

 猫は彼女に再び問いかける。

「私は不安なのよ、彼がもし私を好きでなかったらって」

 今までの狂気が一気に消え去り、消え入りそうな声で彼女は答える。

「もし、私と彼が過ごした時間が偽りで私の愛が一方的なものだったらって考えるほど不安になるのよ」

 そう言うと、彼女は猫に背を向け、テレビの目の前に座り込みテレビに向かってそっと手を伸ばす。

「なるほど、本当の意味で夏に囚われていたのは君だったわけだ」

 猫が小さく呟くと同時に彼女は眼の前のテレビのスクリーンにそっと触れ、その場から追い出された。最後に見えた彼女の顔は歪んだ笑顔と、少しの不安感が透けて見える濁った瞳だった。

 海岸に戻ってきた猫の前にあったのは水の壁、津波だった。

「死んでも尚、縛られるなんて。君はとってもかわいそうだ」

 猫はそう言うと荒れ狂う想いの激流に飲まれた。

 管理人がその責務を全うするのは、これからおよそ一億回繰り返したあとのことだ。


呼んでくれてありがとね!暇なときまた書くよ!

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