忘れ形見
人ではない者が住んでいた時代。
大陸、海、天上界、地界……あらゆる場所にあらゆる生き物がいた。人間、人魚、精霊、龍、小人、魔物。区別すら難しい程の種が世界のあちこちでそれぞれの生活をしていた。
強者と弱者。
その微妙なバランスを保っていられたのは、住む世界が違うから。そして、重ねる時の流れが、違うから。
森羅万象の、世。
小さな小競り合いは種と種の間に絶えることなく起きてはいたが、生態系そのものを壊すような争いは今のところ起きていない。天の者が地を攻めたり、陸の者が海を侵略したり、ということがないからだ。互いに干渉しない、というのが暗黙の了解になっていた。それは誰かが言い出した契約ではない。昔から、そういう風に生きてきた。それだけのことである。
持ち得た知識は種によって違う。ほぼ動物並みの生活をしている者もあれば、文明の中で生活する者もある。だが、彼らの高い知識も、私利私欲の為に使われることはなかった。別の種と関わることで、自分たちに利がもたらされるような事はほとんどないからだ。
「では、娘は生きていると?」
整った顔を歪めて相手に詰め寄るのは死んだとばかり思っていた娘への愛ゆえだった。あれほどまでに愛し合った妻との間に出来た、たった一人の宝。
「間違いないと思われます」
かしこまり、彼に仕えるのは精霊ユーシュライを慕う第一の家臣、ムシュウ。
「しかし、一体どうして?」
ユーシュライの疑問は二つ。放棄された卵から生まれた精霊を育てたのは誰なのか? そして、その目的は?
「異種が異種を育てるような真似は普通しないだろうが」
「はぁ、私もそう思っておりました。が、下界より感じられるあの光は、ユーシュライ様の放つ光に瓜二つ。この私が間違うはずもございません」
確かにユーシュライ自身、自分に似た光、そして最愛の妻フィヤーナにも似た光が地上にあることを感じていた。だが、フィヤーナは娘を産み落としたあと、死んでいるのだ。残された命は一人で育つはずもなく、既に死に絶えているのだと諦めていた。
「しかし、だとすればどうして成人した筈のこの年になっても天上界に来ないのだ?」
精霊の住まう天上界。
地上の空気は汚れている。成人するまでを地上で過ごすのは、精霊たちにとって至極厳しいことだった。なのにどうして、と問われて答えられるものはないが、地上での産卵と、生まれた子供が成人まで地上で過ごすことの意味は命を磨く為とも強い生命力を養う為とも言われている。地上での生活を生き抜いた者だけが、成人の後、天上界へと昇ることを許されるのだ。
「フィヤーナは……、」
呟く。
光の精霊の中でも殊更強い光を放っていた美しい妻。だが、彼女は体が弱かった。それでも子を成し、地上に降りていったのは彼女の意地でもあった。精霊王の妻でありながら子を持てないなどと、そんなレッテルを貼られることが悔しかったのだろう。しかし、結局地上の汚れた空気に適応できず、この世を去っていった。そのことを知ったのはつい、最近のことだった。
「フィヤーナはさぞ悔しかっただろう」
無理をさせたのは自分の責任だ。
彼女に心の負担を与えていたのは自分だ。
そう、自らを責め、心を閉ざしていた。
「しかしこれで希望の光が差して来た。忘れ形見が生きているのなら、一刻も早くこの地に呼び寄せ、フィヤーナの分も慈しみ、育ててやりたい」
「心得ております」
「……しかし、どうやってこの地へ呼び寄せるのだ?」
地上との接点は一つ。五年に一度の月食の日。この月食の間だけ、地上と天上界との行き来が可能になるのだ。
「ユーシュライ様、非合法ではありますが、私に案がございます」
ムシュウが声を絞って囁いた。
「……なんだと?」
非合法……しかし手段を選んでいる場合ではない。この上五年も待つことなど、ユーシュライに出来る筈もなかった。
「どうするんだ?」
溜息交じりに答えるユーシュライの目には、迷いなど微塵もなかった。
「少々荒っぽい手になるやも知れませんが、必ずやユーシュライ様の元に姫君をお連れいたします」
そう言って深々と頭を垂れたムシュウの双眸には、怪しい光が灯っていた。
精霊が成人する為の方法は二つあった。
月食の夜に地上を後にし、天上界への道を昇り切ること。これが最も一般的な方法である。天上界の入り口は薄い結界のようなものが張ってあるのだが、その結界をくぐると天上界の神聖なる空気に触れ、未熟だった体は水を得た魚のように活発になり、一瞬の後に成長する。精霊である事を神が認める瞬間でもあった。
そして二つ目。
いわば「結婚の儀式」とでもいうのだろうか、ごく稀にだが天上界へ昇らずに地上で伴侶を見つけ、子を成す場合があるのだ。恋をした精霊はその相手と口付けを交わす。相手の愛が得られれば体は変化し、成人になる。もし、そうでなかったときには、精霊は死ぬのである。とても危険な成人への道だった。
「そんなこと、俺は知らなかったぞ!」
ラセルは力一杯抗議を試みた。が、等の本人……アーリシアンはラセルの腕に引っ付いたままニコニコ笑うだけだった。
「聞いてるのかっ?」
「だって私、ラセルのお嫁さんになりたかったんだもんっ」
きゅっ。
掴まる腕に力が篭り、ついでに頬を摺り寄せる。ラセルは大きく溜息をはき、言った。
「一歩間違えば命を落としていたかもしれないんだぞっ?」
「でも、ラセルは私を愛していてくれたじゃないっ」
「そっ、それはっ……愛じゃないっ」
「嘘!」
「嘘じゃないっ。もし、お前に対してそういう気持ちに似たものがあるとするなら、それは父性愛だっ。父性愛っ! わかるか? 父親が子供に対して持つ情のことだっ」
一気に捲し立てる。
「……でも、愛でしょ?」
にこにこにこっ。
更に輝きを増した微笑み攻撃。今までの愛らしさとは違う、大人の女の微笑み。
クラッ、
ラセルは正直、参っていた。今までと勝手が違うのだ。子供だったアーリシアンの姿はどこにもない。今、自分の目の前にいるのは世の中で最も美しいとされる成人した光の精霊なのだから。
「とにかくっ、俺はお前と結婚なんかする気はないからなっ」
ビシ! とアーリシアンを指し、言い放った。アーリシアンの顔がみるみる歪み、その瞳からは大粒の涙が流れ始める。たじろぐ、ラセル。
「…そんな……なにもそんな言い方しなくたって……」
焦る、ラセル。いつもならここで『言うことを聞かないお前が悪いっ』と叱り付けるところだが、どうも……。
「……悪かったよ。泣くなよ」
明後日の方向を見て、謝る。心なしか顔が赤い。……そう、『父親』であったはずの彼は、まんまとアーリシアンの色香にやられてしまったのである。
「……じゃあ、」
アーリシアンの顔がパーッと晴れる。
「いやっ、ちょっと待て。言い過ぎたことは謝るが、俺はお前と結婚はできないぞ」
「どうしてよっ」
「お前、自分がなんだかわかってるのか?」
「……?」
「……あのなぁ、」
ラセルは頭を抱えた。異種同士での結婚など、今だかつて聞いた事がない。大体、精霊と闇の住人……魔物とは住む世界も違えば思想も生き方も、全てにおいて相反している。本来二つの種は忌み嫌い合う仲であり、一緒にいることがお互いの仲間に知られればただでは済まない程不自然な組み合わせなのだ。
「俺は地の宮に帰らなきゃならないんだ。お前を連れて行くことは出来ないんだよ」
「どうしてよ?」
「……環境が悪すぎる」
「そんなの平気よっ。私、ラセルがいればそれだけでいいんだもん」
「……そういうことじゃなくて、」
「私、平気よ? 大丈夫っ。ね、行きましょう、地の宮へ!」
ラセルは地の宮で待つ輩の顔を片っ端から浮かべ、深く、深く溜息を吐いた。地の宮を出てから十五年が経っている。彼らの寿命を考えれば大した時間ではないが、それでも大問題になっているはずだ。このまま、アーリシアンを連れて別の場所へ向かう方が得策ともいえる。が……、
「来い、アーリシアン」
くい、とアーリシアンの手を取り、ラセルはある場所へと急いだ。