07.怖くない
それから私は淑女教育の合間に、時間を見つけてはグラン様のお部屋を訪れるようになった。
「こんにちは、グラン様」
「こんにちは、アビー」
父には「何もしゃべるな」と言われたけれど、せっかく結婚したのだからやっぱりもっとお話ししたい。
それに、最初は私を避けていたグラン様も、私がこうして遊びにくることを快く受け入れてくれている。
グラン様にも執務や力を抑えるための勉強、訓練などがあるけれど、お互い時間が合えば休憩がてら一緒にお茶をしてくれるようになったのだ。
私はろくに家から出ることができず、家族以外の人とあまりしゃべったことがなかったのだけど、グラン様はとても優しい声でお話しされるから、心地いい。
父やアビアナのしゃべり方とは全然違う、優しい声だ。
口調も穏やかで、あたたかくて、本当に太陽のような方だと思う。
「今日はクッキーを焼いてきました」
「ありがとう、それじゃあお茶にしようか」
「はい!」
机の前にいたグラン様は、立ち上がるとこちらに歩いてきてくれた。
私の侍女としてお世話をしてくれているマリーが、グラン様に一礼すると紅茶を用意してくれた。
マリーはこの王宮に長く仕えているベテランの侍女だ。
年齢は聞いていないけど、生きていれば私の母と同じくらいかもしれない。でも身なりも所作も完璧なまでに美しい人。
向かい合っている二つのソファは、不自然に離れて置かれている。
きっとサングラスをかけてグラン様と対面して、目に影響がない距離なのだろう。
私もマリーにサングラスをかけさせられた。
「うん、とても美味しいよ」
「本当ですか? よかったぁ!」
ソファの間に置かれた高級そうなローテーブルの上のクッキーに手を伸ばし、グラン様は優しい声でそう言ってくれた。
自分が焼いたクッキーが王子様の口に合う自信はなかったから緊張したけれど、その声に嘘は感じない。
「こんなに上手に焼けるなんて、アビーはすごいな」
「いいえ、家でもよく作っていたので!」
うちにはちゃんと使用人がいたのだけれど、そんなに多くの人数はいなかった。
だから私も使用人と一緒に家事をしてきたし、アビアナに「甘いものが食べたい」と言われてお菓子を作ることもよくあったのだ。
「すまない、嫌なことを思い出させてしまったな」
「いいえ! こうしてグラン様が私の焼いたクッキーを喜んで食べてくださる日が来るなんて、昔の私が聞いたら泣いて喜びます! 今まで頑張ってきたかいがあるというものです!」
私は邪悪な闇魔法が使える忌み子だから、本当は殺されても仕方ない存在なのだ。
それなのに、こんなに優しい王子様に嫁げて、本当に幸せ。
この方に喜んでもらえるなら、クッキーくらいいくらでも焼くし、他のお菓子だって、料理だって、なんだってしたい。
「君は本当に明るいな」
「そうですか? グラン様のほうが明るいですよ――」
嬉しくなって気持ちが舞い上がっていた私は、つい調子に乗ってそんな冗談を言ってしまった。
けれど、それはきっと彼にとっては笑えることではない。
「申し訳ございません……! そのようなつもりで言ったわけではなく……!」
だから慌てて頭を下げたけど、グラン様は意外にもぷっと吹き出した。
「ははははは! いや……、僕にそんなふうに冗談を言った人は久しぶりだ」
「……グラン様」
「アビーはまっすぐで素直で明るくていいな。そのままの君でいてくれ」
「はい……ありがとうございます」
グラン様が大きな声を上げて笑うなんて……。
こんなふうに笑っているグラン様の声を聞いたのは、初めてだ。
……嬉しい。
「アビアナ様、そろそろお時間です」
「わかったわ」
後ろに控えていたマリーにそっと声をかけられて、返事をする。
グラン様との楽しいひとときは、いつもあっという間に終わりを迎えてしまう。
本当はもっと一緒にいて、もっといろんなことをお話ししたい。
「アビー、今日もありがとう。君と過ごす時間は本当に楽しいよ」
「私も楽しいです、グラン様」
そうすればグラン様も紅茶のカップを置いて私を見送るように立ち上がった。
けれど一定の距離は保たれたままだ。
「それじゃあ、午後も頑張ろう」
「はい、お時間をいただきましてありがとうございます」
そのことに少しだけ寂しさを覚えつつ、こうして旦那様と楽しくお話できた時間に感謝しながらグラン様の執務室をあとにした。
「――アビアナ様は、怖くはないのですか?」
「え?」
淑女教育を受けるための部屋に戻っている最中、マリーがそっと尋ねるように呟いた。
「怖いって、なにが?」
「……これまで殿下とお見合いをされてきた方々は皆様、殿下の眩しすぎる光に怯えて、顔を逸らされていました。目にグラスをかけていてもです。それに、従者もほとんどは殿下をまっすぐ見つめたりしません。あまり近づきすぎては危険です……」
マリーの言いたいことがわかった。
確かに私だってできれば失明はしたくない。だけど、それ以上にグラン様という優しい夫ができて、この素晴らしい生活を心から満喫したいと思っているのだ。
これまでの私の人生は真っ暗だった。
それこそ、目が見えているということに価値があるのだろうかと思ってしまうほどに。
せっかく新しい世界に足を踏み出したのだから、今までのように部屋にこもっている生活はしたくない。
もし間違えてグラン様を直視して目が潰れてしまったとしても――。
それでも私は、彼から目を背けたいとは思わない。
「怖くないわ。だってあんなに優しい方だもの。私はあの方を傷つけてしまうことのほうが、よっぽど怖いの」
「アビアナ様……」
にこりと笑って堂々と答えると、マリーはうるりと瞳に涙を溜めて足を止めた。
「マリー? ……どうしたの?」
「アビアナ様がグランツ殿下と結婚してくださって……本当によかったです……! 私は殿下を幼い頃から知っておりますが、あの方は本当に心優しく、美しい王子様なのです……!」
「マリー……、泣かないで」
「……失礼いたしました」
ハンカチを差し出して彼女の肩を支えると、マリーは涙を拭って背筋を伸ばした。
その様子から、彼女たちもグラン様ときちんと向き合えないことを苦しく思っているのだと知った。
「グランツ殿下があのように楽しげにお話しされて、笑っている声は久しぶりに聞きました。アビアナ様、本当にありがとうございます」
「いいえ……」
マリーは上級侍女としてすぐに表情を引きしめ、美しい所作で頭を下げた。
でも、グラン様と結婚して救われたのは私のほうなのだ。
本当は、私は〝アビアナ〟ではない。
闇魔法が使える邪悪な忌み子だ。
もしそのことがマリーやグラン様に知られたら、それこそ恐れられてしまうのだろうか。
もしかしたら、処刑されてしまうのかもしれない……。
グラン様に、父や姉に言われたようなことを言われるかもしれないと想像して、私はぷるぷると頭を横に振った。
ううん! そんなこと考えちゃ駄目よ!
私はグラン様と結婚したのだ。グラン様は私に「結婚してくれてありがとう」と言ってくれたのだ。
ならば私は、グラン様にこれからもそう思ってもらえるよう努めるだけだ。