第七髪 夢なのか ありふれた日に 落つる髪
──パパ、ねえ、パパってば!
「……ん、……はっ!」
身体を揺り動かされ、慎太郎はゆっくりと目を開く。
視界が不規則に乱れ、照度の低い室内灯が何重にも見える。
あまりの酷さに吐き気がこみあげてくるが、それも数秒程度で急激に収まると、良く見慣れた顔が視界に入り込んでくる。
「もう、パパ。こんなところで寝たら風邪引くよ?」
莉々だった。若干呆れたような顔をしている。
どうやらソファーに横になってそのまま寝入ってしまったらしい。
視線を動かすと、棚の上に置いたデジタル時計が目に入る。
時間は3時2分を指していた。
「ああ、すまない。莉々も早く寝なさい」
「私はその……、起きたばっかりなの! リビング通ったらパパが寝てたから」
「あ、ああ、すまない。ありがとう」
「じゃあ、私、部屋戻るから」
そう言ってそそくさとリビングを出ようとする莉々を、慎太郎は慌てて呼び止める。
一つだけ気になることがあったからだ。
「莉々、ちょっと聞きたいんだが」
「なに」
「パパはずっとここで寝ていた……のだろうか」
莉々はあからさまに不審な顔になると、「知らない!」と言い捨て早足で去っていく。
我ながら実に馬鹿馬鹿しい質問だな、と慎太郎は深いため息をついた。
ずっと横に居て見守りでもしない限り、そんなことが分かるはずがない。
だが、どうしても尋ねずにはいられなかった。
あの『大巫女』との出会いと、次々と訪れる危機、黒き神との遭遇。
荒廃し滅びゆく大地と、破壊の傷跡が色濃く残る都、そんな中でも懸命に生きている人々の笑顔、神殿での宴とその後の出来事。
あの世界での時間が、人々の姿が、鮮明に浮かび上がってくるのだ。
「……」
もう一度眠ったら、あの世界へ戻れるのだろうか。続きが見られるのだろうか。
慎太郎はのろのろとした動きで二階に上がり、寝室へ入る。
ダブルベッドを一人で独占すると、ほんの少しだけ期待をしつつ、再び泡沫の泥濘に身を委ねた。
*
慎太郎の目覚めは、この上なく爽快だった。
結局、あの大冒険の続きを経験することは出来ず、実に穏やかな、普段通りの朝を迎えた。
目を閉じながら無心で歯磨きをした後、リビングに向かうと、すでに莉々が先に起きており、朝食のセッティングを終えていた。
本日は洋食仕様だ。
焼きたてのパンにゆで卵、カリカリに焼いたベーコンとレタスのサラダ、そして牛乳が食卓に並んでいる。
といっても、ゆで卵とサラダについては莉々が作ったわけでは無い。
ありがたいことに、夜勤に行く前に妻が一式用意しておいたものだ。
また、パンをトースターで焼くのは小さい頃から譲れない莉々の役割であり、匠の技による焼き加減は完璧なので、いつも感謝している。
お互い黙々と朝食をとる。
朝のニュース番組は、昨日結婚を発表した大型芸能人カップルの話で持ち切りであった。
「あれ、パパ」
「ん、なんだ?」
莉々が冷蔵庫からジュースを持って戻ってくると、慎太郎を見てなにかに気づいたのか、声をかけた。
「なんか髪薄くなってない?」
「……む? いや、そんなはずは」
と、そこでふと、大巫女の言葉が脳裏で再生される。
──代償を捧げなくてはならないのです。
「まさかっ?!」
慎太郎は立ち上がり、慌てて洗面台へ向かう。
きちんと眼鏡をかけ、出かける前のセットの時のようにそこに目を向ける。
無い。
いや、正確には、少ない。
「おおお……!!」
明らかに昨日見た時よりも荒涼とした肌色の大地が、そこにはあった。
*
「りりっちー、起きれー」
「んん……。わ、ふえ?!」
後頭部をぺしぺしと軽く叩かれ、莉々は慌てて顔を上げる。
声の方を向くと、毛先だけピンク色に染めた銀髪の少女が、にやあと意地の悪い表情で寝ぼけ眼の姫を見ている。
「ごめん、りえっち。爆睡してた」
「後ろから見てて気持ちがいいくらいの寝姿だったよ、よだれ垂らして可愛いぞ」
「うう」
顔を赤くしながらハンドタオルで口元を拭う。
桃のアロマが常時漂うもので、普段はリラックスしたい時に嗅いでいるタオルであるが、今日は本来の役割を果たしている。
週末を控えた昼休みの教室は、少し浮ついた明るい雰囲気で満たされている。
莉々も普段であれば周りと同じように気持ちも軽やかになるのだが、今日は少しだけ重たいものを含んだままだ。
理由は二つあった。
「にしても、りりっちが授業中寝るのは珍しいね、どうしたの」
「ええとね……」
一つ目の理由は、昨夜リビングで見た出来事だった。
それを口に出そうとして、思いとどまる。
長野梨絵、通称『りえっち』は小学生からの長い付き合いで、大親友とも言える存在だ。
お互い苗字、名前が近く、住んでいるところも徒歩数分。
昔から漫画だったりゲームだったりのやり取りも頻繁で、一緒にライブに行ったこともあれば、今は同じ趣味で活動していたりもする。
そんなりえっちであったが、さすがに昨夜の件はどうしても言うのがはばかられた。
あの時。莉々はトイレで起きてしまい、そのうえ喉も渇いていたので、リビングに立ち寄ったのだが、そこで信じられない光景に出くわした。
「え、何……?」
自動調光で暗くなったリビングのソファーで、父親がだらしない姿で寝ていた。
問題は、そんな父親の輪郭部分が淡く発光していたことだ。
その輝きは心臓の鼓動に合わせるように、明滅し、また父親の姿が少しであるが透けていた。
慌てて駆け寄り、でもどうしたらいいか分からず、ただ見つめる。
しばらくすると発光は収まり、透けも全く無くなる。
肉体の重みのような揺れが、とん、とひとつ響き、それが莉々を安心させた。
そして、ようやく普段の心持ちで父親を叩き起こすことが出来、あの場面に繋がるのだが。
回想する莉々に、理絵は再度、今度は頬をつんつんと突く。
「おーい、起きてる?」
「ふおっ、大丈夫。ちょっと思い出してただけ」
「何があったのさ。……もしかしてオトコ?」
「全然違うし。……いや、違わないのかな。夜中、パパがリビングで寝てたのを蹴っ飛ばしてやっただけ」
これなら誇張はあるが、おおむね間違ってはいなかった。
そんな莉々のツンとした態度に、ニヤニヤと笑いながら梨絵がツッコむ。
「まー、莉々はファザコンだもんなー。いいなあ、ファザコン出来るパパ」
「あんなの。ハゲてるし、筋肉とかあんま無いし、アラフィフだし、地味だし」
「でも、良いパパなんだろー?」
「それは、そうだけど」
この歳になってもまだパパが好きなんて、正直恥ずかしい。
普通の子は中学校の頃にはもう親離れしているというが、莉々は今になってようやく、一般的な周りの状況に追いつこうと必死だ。
あたしも全力で親離れしなきゃ、と改めて誓う莉々である。
「それで、明後日の準備は出来てる?」
「うん。小物の調整だけ。りえっちの分は明日着てもらって微調整するから」
二つ目の理由。それは明後日がイベント当日だからだ。今回はお互いに進捗が良かったのでそこまでではないが、イベントの前ともなるとピリピリとしたムードになる。
莉々は肩の力を抜くと、外の景色へ視線を向ける。
窓のはるか向こうに映える秋の空に、いわし雲が広がっている。
そこへひこうき雲が一筋、緩やかに覆い被さっていく。