第二十五話
「もう、引き返すことは出来ない。契約は完了した」
混沌の精霊は急に元の禍々しい雰囲気に戻っていた。
「本当にバカ……」とクーは額を手で押さえた。
「願いが叶うんだぞ。言うことなしじゃないか」
ヴィクターは頼むぞと言わんばかりに両手を広げた。
「そうだ。欲望に従うのだ。それでこそ人間だ。さぁ、言え。欲望を叶えてやろう」
混沌の精霊は『願い』と言う言葉を『欲望』にすり替えた。もう、正体を隠す必要もないということだ。
「オレはリットの手助けがしたい」
ヴィクターの言葉はすぐに叶えられることはなかった。混沌の精霊は予想外の答えに固まってしまったからだ。
「待て……なんでも叶うのだぞ。人のために使うのか」
「オレのことはオレが叶える。それでこそ人生だ。だが願ってもいいのなら、リットの手助けをしてやりたい。今回オレ達が助けられたように、行き詰まった時に助けられるようにな」
「金も名誉も女もいらないと言うのか?」
「いらないとは言っていない。ただ、それは自分の力で手に入れないと意味がないという簡単な話だ。ハドの幸せも願おうとしたんだがな……一生付き纏われると断られてしまった。ガハハ!」
ヴィクターが豪快に笑うと、混沌の精霊は姿を現した。
その姿は人間にしか見えない。しかし、中身は違う。渦巻く魔力は人間では耐えられないほど強大だ。
だが、そんな力も宝の持ち腐れのように、精霊はみすぼらしく項垂れていた。
「ありえない……自分よりも……人の幸せを優先するものがいるだなんて……」
「だから私は優先していない。自分の幸せは自分で見つけるからこそ幸せなんだ。さっきからそう言っているだろう……」
目の前に混沌の精霊が現れようが、雰囲気が変わろうが、それが人間の姿だろうが、ヴィクターの態度は変わらない。
クーは思わず「『魔人』……」と呟いた。
「精霊じゃねぇってのか?」
ハドが聞くと、クーは頷いた。
「同じような力は持っているだろうけど、全く別物だと思うよ。人間が魔法生物になるってことは、魔人になるってことなのかも。精霊は魔力が源、魔人は欲望が源に。普通に考えたら、あんな冒険をするような奴ってよっぽどの欲を持った人しかいないもんね」
「オレらが言うことか?」
「私達は違うの。なぜならリットがいたから。みんなお宝そのものより、リットを中心に動いてたでしょ。あれを教えたいとか、リットに負けたくないとか。魔人が望んでる欲とは違うってわけ」
「つまりヴィクターの契約は破棄されたってことか?」
「それはどうなんだろう……。契約完了って言ってたし。でも、様子がおかしいのも事実」
クーの言う通り、魔女は精霊にはなれなかった。その代わり魔人に身を堕としてしまったのだ。
魔人は欲に溺れた人間の心に付け入る。甘い言葉を囁き人を惑わしたぶらかし、人をこの空間に引き入れる。
そうして欲を吸い取り生きながらえているのだ。生きる屍とも言える。魔人は生き長らえる理由も忘れてしまった。自身も生きるという欲に取り憑かれてしまっているからだ。
しかし、ヴィクターが人の為にと願ったため、欲を吸い取ることが出来ないのだ。
欲望と願いは似ているようで違う。
欲望というのはとても強い力だ。
ディアドレもヨルムウトル王に愛されたいという欲望から始まった。そして全てを元に戻そうという願いは生涯をかけても叶うことはなかった。
だが、それが願いという純粋な思いから始まっていたなら別だった。魔宝石の力を使わずに、自分を磨き、愛されようとするのなら、結果は変わっていた。
命あるものが何度も繰り返している物語だ。欲望に負け叶えた先の不幸か、願いを祈り叶った先の奇跡か。どちらもよくある話だが、欲望は教訓になるが、願いは夢物語として語り継がれる。
それほど純粋に願えるものは少ないということだ。ただ思うだけなら、人生誰でも何度も思うものだが、いざ実現の場に立って願える者はほんの一握りだ。奇跡は叶った願いではない。そう願える者がいることが奇跡なのだ。
ヴィクターこそ奇跡。奇跡が存在しているのに、何も起こらないことはありえない。
魔人は願いを叶えなくてはならないのだ。
「わかった……私の負けだ。願いを叶えよう。だが、問題がある」
魔人は観念したが、どうしても変えられないことがあると言った。
「なに? 負け惜しみであるわけ?」
優位になると、クーは強気に攻めた。散々脅かした仕返しだとでも言うような態度だ。
「リットは違う世界の住人だ。つまり、ヴィクターは同じような存在になる必要がある」
「待て」と声を荒らげたのはリットだ。
リットはこの世界では混沌の精霊だ。つまり、ヴィクターが混沌の精霊になるという、結局は魔人に騙されていた通りになるということだ。
「待つのはいいが、願いは変えられない。そう願ったのはヴィクターだからな」
「心配するなリット。楽しかっただろう? オレだってリットの世界で楽しめる。何倍もな」
「違う……今わかったんだ。助けてくれたのはヴィクター……アンタだ」
「なにを言っている。助けるのは、願いを叶えてもらってからだぞ。なに泣きそうな顔をしてるんだ」
ヴィクターは涙に歪むリットの瞳を見てガハハと笑った。
その豪快な笑い声はヴィクターのもの。
だが、リットの記憶にはもう一人ガハハと豪快に笑うものがいた。
それは、今思えばまさしく混沌の精霊と呼べるような人物だ。
混沌と化した闇に呑まれたペングイン大陸で、自由に動き回れる種族であるゴースト。その中でも一人だけ不思議な人物がいた。
影を持つゴーストだ。名を『ヴィゴット』と言い、リット達リゼーネの調査隊が力を借りたものだ。
彼は導き、知識を授け、闇に呑まれた世界で、確実にリットの手助けとなった。
そして全てを解決すると、消えていったのだ。
ヴィクターは死んだ後もリットを見守ってくれていたのだ。存在を変え、混沌の精霊となって。
「忘れたくないし、見逃したくもない。全て覚えていたいって気持ち……今なら全部理解できる……」
魔人の言うことも全てが嘘ではないらしい。ここでのことは全て忘れてしまうのだろう。
また過去の自分と未来のヴィクターが初めましてをするのだ。
リットが俯くと、ヴィクターはリットを抱きしめた。
その時にヴィクターが亡くなった時には流れなかった涙が、今流れた。
想いが全て言葉にならずに涙で流れてしまったようで、リットはなにも言うことが出来なかった。
「一体全体どういうわけ? 説明くらいしてよね」
ヴィクターに抱かれたままになっているリットを見て、クーは意味がわからないと肩をすくめた。
しかし、リットが何か言うことは出来ない。それは願いではなく、欲になるからだ。
ここでの記憶がなくなると言うのに、なにも言えないジレンマがリットの胸を締め付けた。
魔人だけは何かを察していた。愛するもののために動いていた人間の心が、今度は本当に欲望の面の皮をわずかに溶かしたのだ。だが、どうすることも出来ない。神でもなければ精霊でもない。出来るのは、ただリットが顔を上げるのを待つだけだ。
「これってなんの時間だ?」
ハドの疑問に、クーは再度肩をすくめた。
「わかんないよ。てか、ハドは良かったの? ヴィクターに願いを譲っちゃって。結婚するんでしょ?」
「オレは願わないと結婚できねぇってのか?」
「かもね。私の勘だけど、冒険者にズッポリはまって、婚約者に逃げられそう」
「妄想の話でくらい、オレを幸せにしろよ」
「おやおやそれは欲じゃないのかね?」
「オレの契約はもう解除されてんだよ。ヴィクターが出張ったせいでな。そっちこそ立ちションに加わらなかったこと、後悔してるんじゃねぇか? 同じスタートラインにすら立ってなかってことだからな」
ハドは今回一番無駄足だったのはクーだと意地悪に笑った。
クーには願い事を言う権利すらなかったのだ。今回の冒険は全てヴィクターの為に動いていたようなものだ。
「いいよ、ヴィクターには借りはあるし。だいたい何が悲しくて男の立ちションに加わらないと行けないのさ。今回は汗と努力と尿の結晶だよ。情けなくて誰にも自慢出来ないじゃん」
「何言ってんだよ。記憶がなくなるって聞いてなかったのか? どの道忘れちまうんだ。オレらはな」
「あー……そうだったね」と、クーは三度目の肩をすくめた。
その仕草の意味は、自分は記憶を無くさないということだった。
クーは契約の中に入っていない。それに加えて、人間ではない。リットは元の世界に戻れば人間に戻るが、クーはどこにいてもダークエルフのままだ。元から人間の二人共違う。魔人の欲望の魔力というものに影響されないのだ。
誰も覚えていない今回のことをクーだけが覚えているということになる。未来にリットと出会ったとしても、リットは今回のことを覚えていないので正直に話しても、夢を見ていただけだろうと一蹴されてしまう。
これだけ凄い冒険をしたというのに、誰にも話すことは出来ない。その欲求不満のせいか、クーの心の中にはリットが言っていた『あっちの世界』というワードがどうしても忘れることが出来なくなっていた。
そして、今回の冒険で手に入れた自分への報酬は、そのあっちの世界の情報だとほくそ笑んだ。
「あんまり気持ちの良い笑みとは言えねぇな……」
「なんも言わなくていいの。口をひらけば悪態ばかりなんだから。そういうのって周りに悪影響与えるよ。本当に自分に対してだけ真面目なんだから」
クーとハドがあーだこーだと言い合いをしているのが聞こえたせいで、リットはいつの間にか涙が引っ込んでしまっていた。
いつまでも抱かれているわけにもいかないのと、涙が引っ込み冷静になると急に照れ臭さが襲ってきたので、リットはヴィクターから離れた。
「なんだ……もっと泣いていると思ったぞ」
ヴィクターは物足りなさそうに言った。
「どうやら、別れは賑やかな方が好きらしいからな。オレもしめっぽいのは苦手だ」
リットは抱擁の代わりに握手を求めた。
もう別れの時間が迫ってきているのは、ここにいる誰もがわかってる。三人とも大なり小なりの離れがたさを感じ、リットの手を掴めずにいたのだが、ハドはこのままここにいて困らせるわけにもいかないと、先に進むための握手を交わした。
「まぁ、冒険者に別れはよくあるものだ。出会いが付き纏うとの同じ数だけな。それが例えどんな衝撃的な出会いだとしても、運命的な旅をしても等しくやってくる。つまりだな――」
長くなりそうなハドの話を打ち切るようにリットは口を挟んだ。
「わかってるよ。アンタの物語の中のなんてことない一ページってことだろ」
「まぁ、そういうことだな。でも、ここまで離れがたくなるのは自分でも意外だった。たぶんその一ベージってのは、始まりの一ページかもな」
「光栄だと思っておくよ。ハドがそう素直に褒めることはねぇからな。――後にも先にも」
「褒めてねぇよ。まぁ……なんだ。最後にアドバイスするとしたら、冒険者には向いてねぇからやめることだな。それでもやるとしたら、ソロじゃなくてパーティを組むことだ。じゃねぇと早々に死ぬぞ」
「そうそう、その通り」とクーは話の長いハドをお尻で押すと、入れ替わるようにリットと握手を交わした。「もし、冒険者を目指すなら私のように優秀な仲間を見つけることだね」
「それで振り回されて、美味しいところを横取りされろってか?」
「リットってそんな破滅願望があるわけ?」
「クーみたいな仲間を探せって言っただろ」
「技能や知識の話。横取りされるのはリットが、まだまだ甘っちょろいからでしょ」
クーは握手をしていてた手を引っ張ると、よろけたリットを抱きしめた。
「……オレはこれが嫌だから握手を求めたんだけどな」
「それが甘っちょろいって言ってるの。嫌ならさせないようにしないとね。一人前と認めたら、今度の別れはキスにしてあげるよ」
リットが降参だと両手を上げると、クーは無防備になったリットの胸を強く押した。
再びよろけたリットは地面に倒れるかと思ったが、ヴィクターに抱き止められていた。
「おい……もう一通りやっただろうが」
「言葉は交わしてないからな。どうだ? 冒険は楽しかったか?」
「まぁな」
「世界は愛したか?」
「それはわかんねぇ」
「後悔はないか?」
「ありすぎて選べねぇよ」
「頼りない返事だ……。帰すのが心配になるだろう」
「安心しろよ。少なくとも、魔女みてぇに過去に取りに戻ることはねぇよ。――だから――ここでお別れだ」
リットは最後にヴィクターの背中を数回叩くと、ヴィクターとの二回目の今生の別れを告げて離れた。
ヴィクターは「どうやら、いつまでもここにいるわけにもいかないらしい。待たせたな」と魔人へと振り返った。
「願いは叶える。することはそれだけだ。瞬きすれば、世界は変わっている」
魔人の言葉はリットが瞬きをした瞬間に消えてしまった。
消えたのは言葉だけではない。匂いが消え、音が消え、温もりが消え、全ての感覚がなくなると色も消えた。色を無くしたモノクロの思い出は、砂となって消えてしまったのだ。
リットが再び温もりを覚えたのは胸だった。内側ではない外側だ。小さな手がリットの胸を揺らしていたのだ。
「旦那ァ、旦那ってば起きてくださいよォ。いつまで寝てるつもりっスかァ」
ノーラは幸せそうに眠りこけるリットの胸に手を置いて揺さぶっていた。
「まだ起きないわけ?」
チルカは呆れ顔でリットの顔を見下ろした。
リットは普段見せないような締まりのない顔で寝息を立てていた。
「どうしましょうかね」
「てがたくいきましょう」
チルカは小さな手のひらでリットの頬を引っ叩いた。
「手堅くって……ビンタのことっスかァ?」
「手形くしたのよ」
「いてぇな……」とリットは頬にできた紅葉型の手の跡を手で押さえて起き上がった。
「やっと起きましたかァ」
ノーラが演技ぶって大袈裟に肩をすくめると、リットはハッとした顔で「ここはどこだ?」と聞いた。
「どこって旦那の部屋で、ベッドの上でしょう。なに聞いてるんスかァ?」
「なにって……なんでだろうな」
リットは自分がそんなことを聞いたのが不思議でしょうがなかった。
「アンタねェ。寝過ぎてボケてるのよ、ほらもう昼よ」
チルカは窓を指した。
窓の外では太陽が雲一つない青空に高く浮かび、世界中を照らしているかのようだった。
リットはそれを見ると、なぜだか笑みが止まらなかった。
「ニヤニヤわらっちゃって。気持ちわるーい」
「良い夢でも見たんでしょ」
ノーラとチルカもリットの隣に並び、一緒になって空に浮かぶ太陽を見上げた。
その頃。他にも同じ太陽に照らされている者がいた。
「ヴィクター! ヴィクターってば!!」クーは大地に寝そべるヴィクターに声をかけるが、一向に反応がない。
「死んでんのか? こんなに幸せそうな顔で死んでんだ。ほっといてやろうぜ」
ハドは満面の笑みの寝姿のヴィクターを起こす気になれなかった。
「そんなわけにはいかないでしょう。私達は冒険の途中なの。えい!」
クーが躊躇いなくビンタをすると、ヴィクターは驚きと痛みに飛び起きた。
「なんだ!? びっくりしたじゃないか」と言うヴィクターの顔からは押さえきれない笑みが溢れていた
「なに笑ってるのさ……。頬をビンタしたのは喜ばせたいからじゃないんだけど……」
「なに笑っているって……なんでだろうな……」
ヴィクターはしばらく口元に笑みを浮かべたままだったが、堪えきれなくなりガハハと笑い転げた。
「やめろよ……」と止めようとしたハドだが、ヴィクターが余りに楽しそうに笑うものだからつられて笑ってしまった。「やめてくれって!! ヒーヒー! 息ができねぇだろ。なにがそんなに楽しいんだよ」
「わからんから。止まらんのだ。だが、こんなに幸せに満ちたのは初めてだ」
笑い転げる人間の二人をクーはなんとも言えない瞳で見下ろした。
「君たちは単純でいいね。私はなんとも複雑な気持ちだって言うのにさ」
「なら、久しぶりにやるか? あの太陽が沈むまでに誰か一番目的地に近付けるかだ」
ヴィクターは立ち上がるなり、クーの肩を掴んで太陽を指差した。
「……乗った。でも、なにが目的か覚えてるの?」
「さぁな」とヴィクターは肩をすくめた。「走ればそのうち思い出すだろう」
「そんな……いいかげんな……」
クーは呆れたが、ヴィクターはにやにやと笑いっぱなしだった。
「なに? まだ、笑えるわけ?」
「そりゃ笑えるだろう。ハドに出し抜かれたぞ。オレ達」
「なにぃ!?」
クーが振り返ると、ハドはすでに駆け出して太陽を追いかけていた。
「ちょっと! 卑怯もーん!!」
「わかんねぇけど、クーには勝っとけって勘が言ってんだよ!」
ハドはクーの怒鳴り声が聞こえても、スピードを一切緩めなかった。
「まったく。勘って……ねぇ?」
クーはこんな勝負やり直しだとヴィクターを見ようとしたが、すでに隣にヴィクターはおらず。ハドに追いつけと走り出していた。
「オレの勘もそう言ってる。そして、オレの勘は当たるんだ!!」
「こら待て! 勝たないといけないのは私に決まってるでしょ! 言っとくけど! 私のは勘じゃないから!! 今度こそ負けないからね!!」
一人記憶が残っているクーは、これ以上負けが続いてたまるかと必死で二人を追いかけた。
高く昇った太陽はゆっくり沈む。いつもと同じ時間が流れる日だった。
ランプ売りの青年
外伝:魔女シリーズ(完)