第二十話
元々『マルド砂漠』は『マルドの森』と呼ばれており、海岸近くに広がるとても大きな森だった。
エルフがなぜこの森を捨てたのかは謎のままだが、砂漠化した今では全く別の生態系に変わってしまっていた。
というのも、海岸から吹いてくる冷たい海流が霧を作るので、生物にとって大事な水分を補給できるからだ。
川は森とともに干上がってしまい動物は殆どいないが、霧の僅かな水分で生きられる虫が多く存在する砂漠だった。
だが、この地表まで降りてくる霧というのがなかなか厄介で、元々迷いやすい砂漠を更に迷いやすくさせる。
「なんも見えないねぇ」
クーはおでこに張り付いた前髪を手で剥がしながら言った。霧の湿度のせいで、汗をかいたように肌がベタつくのだ。
「どんどん歩いてるけどよ。大丈夫なのか?」
リットの心配をよそに、クーはどんどん足を進めた。
「むしろ朝の今がチャンスでしょ。昼になればあっという間に干上がるよ、こんな結露なんて」
クーは水滴が溜まった枯れ葉をちぎると、こぼさないように口に運んだ。
「ここはエルフが捨てた地だろ。それが原因でゴネてたじゃねぇか」
「そりゃ良い気はしないでしょ。誰かがうんこをした後のトイレに、すぐ入りたいかどうかってこと」
「エルフの糞ってのは随分強烈なんだな。森が枯れるとは」
「もう……疲れたならそう言えばいいのに……軽口を言ってもなにも変わんないよ」
クーはまったくと腰に手をつくと足を止めてリットを待った。
ヴィクターとハドは別行動を取っており、まずは情報収集として海岸付近を歩こうということになっているのだが、どこで冒険者魂に火がついたのか、クーは俄然やる気になってしまい、砂漠の奥へとリットを連れ回しているのだ。
「変わっただろ? 少なくとも足は止まった」
「今のうちに歩いたほうが良いのは本当だよ。気温的にも食料を探すにしてもね」
クーが指し示した地面では、霧が作った水滴を求めて虫が行動を始めていた。
「必要ねぇんだよ。船に戻るんだからな」
海岸付近にはいくつか村や町があり、海中林に生える海藻をある国へ輸出しているので、港はないながらも取り引きのために船はしばらく停泊するようになっている。
「そういう質問はもっと前にするべきだね。だって、もう食料と飲み水を探しながらじゃないと、危険な距離を歩いちゃってるからね」
「質問をさせねぇように、霧の中を早足で歩いただろ……」
「リットのペースで歩いてよかったんだよ? まぁ、私の背中を見失って迷子になるのも自己責任だけどね」
クーはしてやったりと子供のように笑うと、リットに合わせてゆっくりと歩き始めた。
「砂漠で喉が渇くようなことさせんなよ……。湿った唇を舐めるくらいじゃ足りねぇぞ……」
「世界を知らないからすぐに弱音が出るんだよ。知識を付けよ、若人よ! なんてね」
「なら、知識を授けろよ。好きだろ? 老人は講釈を垂れるのが」
「生意気ぃ……。でも、男ってそんなもんだよね。女の前でイキがる。そして、私はそれを受け入れる広い心を持ってるからね」
「受け入れるってのは、手を出さねぇってことだぞ……」
リットは自分の頬をつねっているクーの手を指した。
「受け入れた上でお仕置きしてるの。さぁ、探すべきは……あれだね」
クーはリットの頬をつねったまま、あっちを見るようにと引っ張った。
そこには頼りなく佇む枯れ枝が一つ。果実どころか、枯れ葉の一枚もない。サボテンの類なら中に水分を蓄えているのだが、枝は細く短いので期待は出来なかった。
「こんなの焚き木にもなんねぇだろ。それとも皮を剥いたら食えんのか?」
「想像力に乏しいんだから……。はい、ここで問題です。ここの気候と似ている場所はどこでしょう」
「さぁな、見当もつかねぇよ」
リットは考える気もなかったのだが、クーはあれやこれやとヒントを出したり、意地悪に引っ掛けようとしてくる。
たまらずリットが答えを聞くと、クーは自慢げに口の端を曲げ、勿体ぶってチッチッチッと舌を鳴らした。
「そんなに焦っちゃダメだよ。男が焦って可愛いと思われるのは十代まで」リットの冷たい視線に気付いたクーは「はいはい」と話し始めた。「これは浮遊大陸の植物だよ」
「砂漠だぞ。なんでこんなところにあんだよ」
「気候が似てるから。浮遊大陸は良く日の当たる雲の上。だから雨も降らないの。じゃあ植物はどうするか。雲から水分を得るわけ。雲と霧ってのは同じなんだよ。違いは空に浮かんでるか、地表に浮かんでるか。この霧を雲だと考えると、これはなんだと思う?」
クーが枯れ枝を弾いて言うと、リットはそれがしなやかに曲がることに気付いた。
「枝じゃなくて、根ってことか?」
「正解。浮遊大陸から落ちてきた種が根付いたんだけど、天地が逆さまになっちゃったの。面白い植物でしょ」
クーが地面を掘ると根のように伸びた枝が広がっており、底には土まみれの丸い果実がついていた。
「光合成とか受粉とかどうなってんだよ」
リットも地面に手を伸ばすと、砂漠の砂だと思われた一部が迷彩の葉っぱだと気付いた。
ラットバック砂漠の研究所にある地下庭の天井と同じような種類の植物だ。品種改良をしたものだと言っていたので、ここの植物を使ったのかもしれない。
「受粉は簡単だね。砂漠の虫は太陽の日差しから逃れるのに、砂に潜る種類が多いの。霧がない日が続いても、取れる水分の一つってわけだね。そして、浮遊大陸の果実ってのは水分たっぷりってわけ」
クーが果実を器用にナイフで切ると、みずみずしい真っ赤な果肉と面積の半分以上を占める大きな種が顔を出した。
クーに勧められて食べたみたリットだが、すぐに眉間にしわが寄った。なんとも言えない苦味と生臭さが口に広がったからだ。
「びっくりするくらい不味いな……」
「なんたって浮遊大陸と違って根はむき出し。土から栄養を摂ってないからねぇ。でも、脂肪分は多いし体にはいいよ。それにこの種。これはなんと天然の水筒だよ」
クーはナイフて種をえぐり取ると、それを振ってチャプチャプと水が揺れる音を聴かせた。
得意気に冒険者として培ってきた知識を披露するクーだが、リットはこれ見よがしのため息をついた。
「なんかよ……酒場の酔っぱらいでも口にしそうなしみったれた知識だな……。もっと景気の良い知識ってねぇのか? 砂漠で湧き水が出るとか、砂漠の岩で肉を焼くとか」
「あらら……カチーンとさせるじゃない……。そうまで言うなら、見せてやろうじゃないの。他の冒険者と違うところをさ!」
クーはここで待ってろと言うと、勇み足で霧の向こうへと消えていった。
止める間もなく歩いていってしまったので、仕方なくリットは果実で水分を補給しながら待つことにした。
しかし、霧が止んでもクーが戻ってくることはなく、太陽は高く昇り始めて、砂漠を再び乾きの地へと変えていた。
リットがこのまま待たされるのならば、どこか日陰を探したほうがいいと思った時だった。乾いた砂漠が煙を上げた。
一瞬砂嵐かと思って身構えたのだが、どうも様子がおかしい。竜巻のように一部だけ砂煙を上げているのが、それは風のように真っ直ぐ向かってきているのだった。
リットはその正体をしっかり確かめる余裕はなかった。必死の形相で走ってきたクーに抱えられたからだ。
クーはリットの足では追いつかれると判断して説明を省いたのだが、リットが質問をせずにじっとしていられるわけもなかった。
「説明しろよ! あの巨大ミミズを!!」
「残念でした! あれはミミズじゃないよ」
「じゃあ蛇か!?」
リットは巨大な蛇のような生物を見て呆気にとられた。
灼熱の太陽のようなオレンジの体をしており、のたうち回るようにして追いかけてきているのだ。クラーケンの触手と見間違うほどの大きさだ。
「あれはトカゲだよ。四肢が退化したの! 地下に潜りやすくなるためにね!」
「それがなんて地表に出てきて、クーを追って来てんだよ!!」
「リットが言ったんでしょ! もっと凄いものを見せろって! だからトカゲの肉を食べさせてあげようと思ったの!」
「食われそうなのはオレ達だぞ!」
「だから逃げてるんでしょ! 餌にされたくなかったら黙ってる! いい?」
クーはもう喋るなとリットのお腹を肘で突くと、一度も振り返らずに船まで走った。
一方、船上は大慌てだった。見たことのない巨大生物が船に向かってきているからだ。あまりに急なことに船を出す準備も出来ていないので、誰もがこのまま襲われると思っていた。
そんな騒然とする甲板に飛び乗ったクーは、もう安心だと乱暴にリットを下ろした。
「ほらね。トカゲでしょ。鱗もあるけど、耳の穴もある。ヘビは耳の穴がないの」
クーは倒れ込むリットの背中を叩きながら言った。
「オレにも説明してくれ」
二人の間へ割り込み、ハドは怒りの表情でトカゲを指した。
「だから今説明したでしょ。アレはミミズでもヘビでもなくトカゲ。それもオレンジで巨大なトカゲ」
「オレが言ってんのはなんで、クーを追いかけてきてるかってことだ!」
ハドの怒鳴り声はとてつもなく大きく、クーの顔をつばで汚した。
「それはリットのせい」
「リット!」
ハドはズボンの腰部分を持ち上げてリットを無理やり立たせると、どういうことかと説明を求めたが、話を聞き終えた途端に再びクーを睨みつけた。
「あー……その顔は私のせいだって言いたいんでしょ」
「わかってるなら――」
ハドが怒鳴り切る前に、ヴィクターの腕が言葉を止めた。
「そう慌てるな。見ろ、一向に襲ってくる気配がない。おそらく海が苦手なんだろう。トカゲがいる辺りが、砂漠と浜との境界線なんだろうな」
ヴィクターが指摘する通り、巨大トカゲは一定の位置から船に近付けないでいた。
尻尾を振っても届かない位置なので、船員達はほっと胸をなでおろした。
「じゃあなんだ? ここでずっとあのヘビに睨まれてろってのか? オレ達はカエルか?」
「だからぁ……。ハド、あれはトカゲだってばぁ」
「うるせぇ」
ハドはクーをひと睨みすると、甲板のへりに肘をついてどうするか考えた。
砂漠の奥に、噂の森が出来る場所があるという情報を掴んで戻ってきたばかりだからだ。トカゲは戻る気配がなく、このままではせっかく手に入れた情報が無駄になってしまう。
ヴィクターは悩むハドの肩に手を置き「いい考えがあるぞ」と言った。
「聞きたくねぇ……」
「なぜだ? 本当にいい考えだぞ」
「聞いたら、こっちの文句も聞かねぇで実行されるからだ」
「なら話は早いな」
ヴィクターはにんまり笑うと、大荷物を投げ捨てるようにハドを船から投げ下ろした。
トカゲは一度ハドを睨みつけたのだが、既に標的は人間からより大きな船へと変わったらしく、口を大きく開けて威嚇していた。
リットも同じように砂浜に投げられると、すぐにヴィクターとクーも降りてきた。
「砂浜を迂回すれば安全ってことだね。あんなのがもう一匹いるとも思えないし、これで安全に砂漠を探索出来るってもんだよ」
クーはまるで手柄のよう自慢気に言うと、リットを連れて歩き出した。
ハドはすぐに続くことなく、大きなため息をついて呼び止めた。
「あのなぁ……どれだけ歩くと思ってんだよ……。砂浜をヘビに探知されない場所まで歩くとなると、目的の場所まで倍はかかるんだぞ……」
「だからトカゲだって。まっ、どうにかなるでしょ。あのサイズのトカゲいるってことは、食料となる虫だって結構な大きさになるはずだし、捕まえてラクダ代わりに使えば移動時間も短く済むって。だいたいさぁ、文句言ってるのはハドだけだよ。リットなんて、私を信じ切ってすっかりおとなしいもんだよ」
「そりゃ、文句を言えないようにしてるからだろ……。いい加減離してやらねぇと死ぬぞ……」
リットは頭を小脇に抱えられているせいで、クーの脇に口をふさがれて言葉を発するどころか、息をすることも出来なかったのだ。
クーが手を緩めたことにより、ようやく息を吸えたリットは「もう……好きにしてくれ……」とクーに服従を誓った。
「ほらね。問題はハドだけ。どうするのさ。別に船で待ってるっていうなら、私は止めはしないよ」
「行くに決まってんだろ。ここまで来て、なんで次の工程を見逃さなきゃいけねぇんだよ」
ふてくされたように大股でどしどし歩いていくハドの後ろをクーが続いた。
「最初から素直に言えばいいのにね」
同意を求めるクーに、ヴィクターは首を横に振った。
「正直オレも遠回りはしたくないぞ」
「わかったよ。それじゃあ、誰がヘビの前にぶら下がる餌になる? ん? 多分あっという間に目的地に着くけど」
「文句はないぞ」ヴィクターはリットの肩を組んで歩き出すと、小声で「嫁選びは慎重にせんといかんな」と笑った。
「……あっそ」
「なんだ? そのあっそというのは」
「文句はねぇってことだ」とリットは笑い返した。