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シンボルの瞑想学 真言 曼荼羅 印形 阿字観 月天観 ブッダの悟りへの道程(増補改訂版) 私の仏教考察ノートより

作者: 舜風人

☆序説






仏教のエスプリ(神髄)とはなんだろうか?




それはブッダのように清澄なサトリに至ること


ブッダのようになること、、、


せめてブッダに幾ばくかでも近づきたいこと


この世の苦しみから解脱して、、、


あのブッダ様のようにニルヴァーナ(涅槃)に悟達したいこと




そういうサトリを得たい


そういう境地に達したい。




仏教の精髄とは、、、




それ以外にはないと言えよう。


それが仏教の精髄、、それが仏教の本質である。




そのための修行法 練成法、 瞑想法、 などなどを




そういうノウハウを縷々述べたものが仏説・経典なのである。




だが経典は 汗牛充棟のごとくそれこそ山のようにあるし、、


たとえ、、それらすべてを読了したとしても、


諸説入り乱れて、、


この教典はこうしたらよいというし




あの経典は違うというし、、




結局頭は混乱するばかりでしょうね。




なぜでしょうか?




それは、、、実はブッダはサトリの正体を何も明かさなかったからです。




ブッダはサトリを「涅槃寂静」と述べて大安心の境地、、とは述べていますが




じゃあそれは具体的にどういうことなのか?




、、、と、、問われると


ブッダは、、、、


「サトリは微妙で。神妙で、、、世間の一般常識からはぶっ飛んでいて、


とても言葉では言いあらわせるものではない」と、、、、、、




述べてそれ以上の説明を仏陀は拒否しているからです。


ですから後世、、いろいろと諸説入り乱れて


本当はブッダはこういいたかったのだとか、、


いや




ブッダのサトリってのは実はこうだったとか




諸経典が諸説入り乱れて各々自説を主張する次第となったのです。


だから経典によって言ってることが微妙に違うのです。


ところで、、、、


弟子たちは、、、、、


ブッダが


在世中に

生きてる間に


「サトリに至るには、、じゃあどうすればよいのですか?」


、、と、、問うと、、



ブッダは


サトリに至る瞑想と禁欲と世俗からの離脱とを、弟子に説いたのです。


サトリ本体を言葉で説くのが難しいから


サトリへ至る方法だけを、、手段としての瞑想修行を勧めたのです


目的地(サトリの境地)にはどういう光景が広がっているのかを言葉ではとても説明などできない

だから、、


目的地「さとり」へ行くための方法を教えましょう。


それが

清貧であり

自戒であり

中道であり

脱俗であり

慈悲であり

瞑想ですよ、


中でも瞑想が一番重要ですよ


、、と、ブッダは弟子たちに教えたのである。



それでは、、、、、


こんなたとえばなしはどうだろう。


高い城壁に囲まれたお城がある

ブッダはそのお城の中には素晴らしい宝 (サトリ)があるという。


だがそれがどんな素晴らしい宝 (サトリ)かはとても言葉では言いあらわせない


だから、実際行って、、、その宝の実物を見てごらん。




弟子たちは、、、、

でもブッダ様どうやってこんな城壁を越えてお城の中にはいれますか?

、、、と嘆く。


ブッダは言う、、、




ほら。ご覧

ここに「はしご」(瞑想という方法)がある

これを使って城壁を越えてお城に入り

あなた自身の目で宝 (サトリ)を見てごらん。


実際に自分で見るしかその宝がどんなにすごいものかは


分からないんだからね、、、、、、、、、、、、、、。




究極の真理はいくら言葉で説明しても本当には理解できない。

というか、、究極の真理はとても言葉などではいいあらわしきれない。


究極の真理は言葉を越えている


だから、、、究極の奥義は自分が実体験することでしかわからないのだ。






思えばブッダ自身も


妻子を捨て


王族の身分を捨てて


人生苦に悩み


様々な当時の宗教に触れて考察し


流浪の旅で様ざまな人々に触れて


さらには過酷な断食修行まで行ったのである。




その結果得られた結論は


肉体をいたぶるだけの禁欲修行では悟れない、、ということでした




ある日




ブッダはネーランジャラナー川のほとりに立ち


斎戒沐浴して、




沙羅双樹の下に座り深い瞑想に入ります。


そのままま、、


そして何日が、たったのでしょうか


ある日のことです。




ブッダはとうとう、、、神妙な、、霊妙なサトリに達して瞑想から目覚めたのです。




ブッダはそのまま


「天上天下唯我独尊」


と唱えて


文字通り


ブッダはブッダ(覚者)となったのです。


村人たちはただならぬ気配に集まってきて


村人のささげる一杯の乳粥を食べて


その弱った体を力づけ。。。。




ブッダは今度は


神妙なサトリを広報宣布するために

世の苦しみ悩む人を救済するために


転法輪の、


旅に出て行ったのです。




このようにブッダがブッダ(覚者)になったのは瞑想(ヨガ、座禅)に寄ったのです。




裸足で山野を飲まず食わずで1000日歩き回って悟った?のではないのです。




むしろブッダはこういう肉体をいじめる修行法には否定的です。




さてそういうわけで


弟子たちは何とかブッダ様の悟りに近づきたいと、




仏陀死後もあらゆる瞑想法を編み出してゆくのです。




仏教の本質とは「瞑想」メディテーションである




、、、と言い切ってもいいでしょうね。




そのように仏教では瞑想がとても重要です。












☆仏教瞑想法の世界




では本論に入ります。


序説でも述べた通り、、




ブッダはサトリの正体を明かしていません。


確かに言葉で簡単に言い表せるような低次元の?サトリなどではなかったのでしょうね。






それでは、悟りへ至る方法はどういうものだったのでしょうか?、、、、、




サトリへの道程としての瞑想法が、、、、、


仏教史で様々な瞑想法が編み出されてきましたが




その中のいくつかの代表的のものを




以下、、取り上げてみたいと思います。




ただしこういう仏教瞑想法が大発展したのは




言わゆる「密教」シークレット・ブッディズムの時代になってからです。




そもそも仏教の基本のおしえとは?




1、清貧 自戒も含みます


2、瞑想


3、慈悲


4、アーガマ(仏説)ブッダの教え




この4つです。




とくに瞑想(ヨガ・座禅)が重要ですが、、






上座部仏教時代は


もっぱら「アーガマ」研究としての


「アビダルマ」を山の僧院に籠って世俗を絶ち


女色を絶って


研究に没頭してしてサトルという方法が重視されました。

このころには

アビダルマ論書がたくさん書き表されたました


もちろん瞑想も行われてはいましたが、こういう論書の研究による悟りが追求されたのが

この時代です。、アビダルマの最高到達点は


非想非非想天

ヒソウヒヒソウテン


、、という有頂天です

ここへ達することがこの時代の究極のサトリなのです。





大乗仏教時代には


菩薩行


利他行


なども重視されました。究極の菩薩行だけでも


悟れたという物語も作られました。(常不軽菩薩)


もちろん大乗時代も仏典研究や瞑想も重視されてはいましたが。

こういう捨身修業が

いわゆる菩薩行がとても重視された時代でした。





浄土宗系では、専修念仏が重視されました。

これも一種のマントラを唱えてでサトルというものでしたね


念仏も一種のマントラととらえることができ、その繰り返しで「ゾーンに入る」という効果があるわけです。


お題目(南無妙法蓮華経)も同様です。


一心不乱に1000回お題目を唱えてごらんなさい


あなたはゾーンに没入して


あなたの前にはかぐわしい


白蓮華の世界がひらいてくるでしょう

それが悟りです。






禅宗系では面壁9年 ひたすら座れ、、というものでした。


禅宗には瞑想の方法論がはっきり言って欠落しています。


問答無用、、ただ9年でも座れば、、そのうちに悟るだろう、、的な、、鷹揚さ?


いかにも中国大陸的な豪放さ?でしょうか?


これもある意味正しくて、


屁理屈な論理だとか


上っ面の言葉だけをもてあそんで


いかにも、、悟りました、、という、薄っぺらさを戒めたものなのですから。

禅のサトリとは?

百尺竿頭一歩を進める

仏に会えば仏を殺せ

随所作主

不立文字


拈華微笑


本来無一物




などの禅語を依り代として


頓悟するというのが基本です。




なおこういう禅語すら悟りに至るには無用だと唱える禅宗の宗派もあります。


只管打坐   もうただただ  無心で座ればよろしいというのが趣旨です。





さてここからは、、、、、、、、、、、、、




主として密教系のシステム化された?瞑想法をいくつか述べてみます




そもそも瞑想とは、基本は禅宗のように




ただ静かに座ればよいだけの話です。






ですがそれでは初心者には、あまりにも心もとないので




シンボル(依り代)が必要なわけです




それを依り代として、、瞑想の奥義に接近するという


象徴


それが


真言・マントラであり


印形であり


曼荼羅であり


阿字観なのです。








〇真言  (マントラ)




これは


呪文の一種で、その言葉自体は無意味です。


というか意味がない方が良いのです。


神秘な謎めいた言葉を一心不乱に唱えることで


ゾーンに入って、悟りが降臨する、、というメカニズムです。


この瞑想法は静かな一室に端座して、印形を組み


前の壁に掲げられた「阿字」を半眼で見て


ゆっくりとマントラを唱えるという方法であるが。


マントラのみを唱えても良い。


具体的なマントラは専門書でお調べください。










〇印形




座って瞑想する際に組む手指の型のことです。


「まず型に入れ」という名言が武道にはあります。


その形になることで、ゾーンに入るという方法論です。

その武道の神髄がわからなくても

見よう見まねでまねれば、、、次第に体が覚えて

心が付いてくる

それが「形から入れ」という奥義なのです。

頭で「考えるな」 

五体で「感じろ」

それが古武道の神髄なのです。


印形も手指でその形を作ることでサトリと一体化するという効果を生み出すのです。


印形もいろいろあるので、、


専門書でお調べください。






〇阿字観




阿字の書かれた軸を壁に掲げて


それと対座して


瞑想を深めるという方法。


これもマントラや印形と同様のシンボリズム効果です。

阿字観はふつうは月の円形の中にアの文字が梵語でが描かれていて

「月輪観」として瞑想するようになっています。


詳しくはネット検索等でお調べくださいませ








〇曼荼羅




金剛界曼荼羅


胎蔵界曼荼羅


の描かれた掛け軸です。




この2図を壁に掲げて見ながら瞑想するということです。


だがいきなり見ても「なにこれ?」状態だろうから


まあ一応は下調べしてから行ってください。


ああそうそう、今NHK教育テレビで「曼荼羅と生きる」というシリーズもやってるからそれを見てもよいでしょう。






〇月天観


密教の阿字観「月輪観」を私なりに改変してみました。

ここでは描かれた月ではなく実物の月を使います。


本当は太陽を見つめて瞑想すればよいのだが不可能ですよね?


太陽を見たら失明してしまいますからできません。


というわけで、、、満月が特に良いですが


満月を縁側にでも座って対座して見つめて瞑想してください。


これはもうただ無心に満月を眺めてればそれでよろしい。


月の不思議な作用で、あなたは次第にゾーンに没入するでしょう。

古代より月は不思議なパワーを人に与えてくれるとされ、、

その霊力は計り知れません

西洋では狂人のことを「ルナティック」(月憑き)


ということでもお判りでしょう。

月は人を迷わせたりもするのです。

というわけで、、、

実物の月を使うのはある意味危険性もあることをご承知ください。

最後の「瞑想の際の留意事項」のところで危険性については述べたいと思います。




そのほかにもいろいろ瞑想の依り代はあるし、また各種の瞑想法もあるが


とりあえずここではこのくらいにしておきたい、














☆  まとめ




それではそのように仏弟子たちが求めた、ブッダのサトリとは、、、では一体何だったのだろうか?




仏教の神髄であり究極の目標であった


サトリ、、とは


それでは、、一体どのような、、、何だったのだろうか?




それでは、ここで、、あえて私が、、江湖の批判を恐れずに、、私見として断言してみよう。、




ブッダの究極のサトリとは


つまり




「梵我一如」ということではないでしょうか?




つまり宇宙との一体感


宇宙 (ブラフマン)、、即、、、、わたくし(アートマン)

ブラフマンとアートマンは一如だというサトリです。


そこの薄汚いあなたも実は宇宙と即、、、同体なのです。

あなたは宇宙そのものなのです

つまり薄汚いあなたは実は神だったのです。


という全世界の、、全宇宙の大肯定

貴方の10法全土は神の国です。





「絶対肯定」


「絶対宇宙」


「絶対没入」


「梵我一如」




それこそがブッダの一切智奥義なのです。


つまりブッダのサトリそのものだったと私は得了しているのです。






確かにこれでは


そこらの言葉で他人に説明するのは難しいでしょうね。


まさに

この境地は、、、瞑想の果てでしか見えてこない「悟りの地平線」なのでしょうね。




あの


弘法大師 空海が岩窟に籠り




瞑想の果てに




サトリの瞬間を






明星(金星)が口へ飛び込んできた、




、、と表現したように




サトリとは




まさに自分で体験(体感・実感)してもらうしかないものなのでしょう。




サトリとは宇宙との一体感


その大肯定の大調和




それを言葉づらや




上っ面ではなく




あなたが


貴方の




実体験として


まさにガツンと全身全霊で


「得了」するということなのでしょうね。




ところで


悟りを得了すると、、


あなたは


融通無碍  宇宙と交信出来て


応用自在ないわゆるサイキック(超能力者)になれます。


見えないものが見えたり


自然や動物と会話できたり


花々と会話もできます。




霊界・霊能力が付いたり


6つの超能力も付きます。


以下ウイキペディアより引用


六神通ろくじんつう」は仏陀やその弟子が修行によって顕したとされる神通力を六つ列挙したものである。中国の道教で唐代から重視されるようになった内丹術[7]においても、仏典の六神通の概念が借用されている。その修行のプロセスの第三段階の「煉気化神れんきかしん」の大周天の後半では、六神通という六つの超能力が現れるようになる[8]、と説明された。六神通とは心境通(しんきょうつう、自分の臓器が見えたり、頭脳が冴え渡る状態)、神境通(しんきょうつう、未来を予知したり、壁の向こう側のものを見る能力)、天眼通(てんげんつう、地球上の山河が手の紋でも見るように見える能力)、天耳通(てんじつう、あらゆる方角の音が聞こえ、生前のことまで目前のことのように感じられる能力)、宿命通(しゅくめいつう、人の宿命を知ることができる能力)、他心通(たしんつう、他人の心を知ることができる能力)である[9]。





ただしそのキャパシティは、、


貴方の器のキャパシティを超えることはありません。


結局、さとってもあなたはあなたの大きさのままです

肉身をまとっている限りあなたは悟っても、、あなたのままです。




またこれから述べるように


自分では霊能が付いた


超能力ができた


、、、と、信じ込んでいても


それが「魔境に落ちた」という落とし穴(罠)だったということもあり得ますのでご注意ください。




まさにサイキック(超能力者)と、狂人は紙一重だからです。




















☆ 瞑想の際の留意事項




ここで瞑想をするうえでご注意申し上げておくことがございます。




それは「魔境に落ちる」という現象が時たま瞑想中に起こることがあるということです。




「魔にハマル」といってもよいでしょう。


それは瞑想に没入していると、、、




不意に、どっかから声がしてきて


「お前は神になった」とか


「お前こそが真の仏陀だ」とか


「おまえはブッダを越えた」とか


「お前を人気者にして授けよう」


「お前にこの国の支配権を授けよう」


「お前の体は観音菩薩の金色に輝くだろう」


「お前はなんでも望み次第、美女でも、金でも、地位でも、権力もお望み次第さ」




などとあらぬ誘惑の言葉が降臨したりすることがあるということです。


縷々述べてきたようにサトリとは


「現世利益」や「功名出世」や「愛欲欲望」


などが成就する?


ということの対極です


つまり正反対です。こんなことをささやく声が


ほんとうのサトリであるわけがないのです。




あるいは、、瞑想してると突然部屋が金色に輝きだして、、


目の前に金の衣をまとった観音様が出現したりすることさえあります。


そして「お前に良いことを授けよう」などといって秘密の


ウラ金儲け話などを吹き込んだりすることもあります。






これが「魔境にハマる」という現象で危険です。


これは邪霊のなせるワザでして、、


禅宗では「野狐禅」とも称しております。




こういう状態は瞑想の深まりで脳内が異常に迷走した結果ですので


キケンですから充分注意してください。




つまり瞑想はホントウハ熟達の「グル」について行うべきものであって


素人が安易に行うと


魔道に落ちて破滅、、という危険性があるということです。


ちなみに、、、


この魔道にハマってそのままにすると、、


最初はあなたを持ち上げてほめそやしますが


そのうちに


「誰それが悪い奴だから殺してしまえ」とか


「あの家は金があるから盗んでしまえ」とか




悪の道へ誘引するようになります。


ですから変な声が聞こえてきたりしだしたら


直ちに瞑想を止めてください、


そして二度と瞑想ごっこ?は止めてください。




あるいはどうしても邪霊が付きまとうようならば、


本当の霊能者に救いを求めてください、


ただし本当の霊能者を見極めるのは非常に難しいです


ということは覚えておいてください。




なお「魔境に落ちる」ことを




ヨーガでは


「クンダリニー症候群」と言います




ユング心理学では


「魂のインフレーション」と言います。




つまり


昨今の瞑想 メディテーションブームとは


とても危険性があるということです。




座禅ブームもその危険性をはらんでいます。




まあ観光地に行って


生まれて初めて


観光寺で


にわかに


30分座禅する




位なら何の害もありませんが




あなたが瞑想を自己流で


かってに毎日やりだしたりしたら?


瞑想に、ドはまりしてしまったら?




それはもしかしたら?




魔境にハマって?破滅への道を走りだした?のかもしれませんよね。




瞑想修行にはそういう怖さもあることを十分心得ておいてください。




まさに、、、


究極のサトリと、


狂人の妄想とは


紙一重だからなのです






付記


ヨーガや

仙道の瞑想法も

とても興味深いものがありますが、、、

ここでは、、述べませんので

関心のある方は

ご自分でお調べくださいませ。


ごく簡単に要点だけを述べると、、、


ヨーガでは

体の7つのチャクラを覚醒させて

クンダリニーという「蛇」を覚醒させて

頭頂に昇らせてサトル

、、というものです。



仙道では

呼吸と体術で

体の導脈を開き、

そこに「気」を巡らせて

頭頂に導き

「大周天」させてサトル


、、というものです。




こちらもどうぞ↓

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[一言] 面白かったです
2020/02/05 21:23 退会済み
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