雪の戯れ
表には雪が降っている。今年はまれに見る厳冬で、都心も幾度となく豪雪に見舞われた。まだ前回の雪が残っているところに新しい雪が降り注ぐものだから、路傍に堆積する雪塊は一向に成長し続けるばかりである。
私は、この冬を一人きりで過ごした。買い出しや病院に通う以外は一切外出することなく、部屋に閉じこもりっきり。クリスマスや正月といった恒例イベントも、私には関係なかった。
私には恋人が居る。短く切りそろえた髪がおしゃれな、快活で可愛らしい女性だ。その滑りがよい舌で、耳に心地いい台詞を次々に紡ぎだす。好奇心旺盛で、何か新しいものを見つけたら手を出さずにはいられない性格である。
そんな彼女と出会ったのは、ほんの数か月前のことだ。
秋晴れが気持ちいい外出日和。私は、都心から少し離れた山中でカメラを携えていた。私の趣味は写真撮影だ。一人で山奥に入り込んでは色気のない動植物の写真を撮るばかりだから、仲間たちからは変わり者扱いされている。そんな私の写真も、近頃では観光誌や科学雑誌から提供依頼を受けるようになった。やはり私にはこのスタイルが合っている。そんな自信を、日に日に確かにしていた。
「おっと、こんな所にまだ咲いていた」
季節ぎりぎりのリンドウの花を見つけて、思わずシャッターを切る。リンドウは青紫色の小さな花弁を持つ、背の低い草花。根を煎じた漢方が竜の肝のように苦いことから、漢字では『竜胆』と表記される。秋の野花の中でも、特に美しいものの一つだ。
夢中でファインダーを覗きこんでいると、不意に背後の草むらが音を立てた。私は身を強張らせる。人気のない山野での活動歴もそう短くはないのだが、小心者の性質だけはなかなか治ってくれなかった。カメラから手を放し、恐る恐る後ろを振り向く。そこには、登山姿の若い女性が一人佇んでいた。
「こんにちは。お花の写真を撮っているんですか?」
「あ、えっと……」
女性は物怖じせず語りかけてくる。一方の私は、まだ心臓の高鳴りが収まらないままだった。
「すごい汗をかかれてますけど、どうかしました?」
「いや、あのう……正直な話を申し上げると、クマが現れたのかと思いまして」
それを告白すると、女性は心底おかしそうにどっと吹き出した。
「あはは、そういえばこの辺りクマが出るんでしたっけ。でもよかったですね、私が人間で。クマは今、冬眠に向けて食糧を探し回っている最中ですから、もし遭遇したらきっと食べられちゃいますよ」
「冬眠――そうか、もうすぐ冬が来ますもんね」
「冬は、お嫌いですか?」
「あまり好きじゃないですね。寒すぎる日は外出が億劫になりますし、入れなくなる山もありますから」
「じゃあ、普段からよく山に登られるんですね」
私もなんですと続けながら、女性はその場で体を一回転させてみせた。立派に整えた自分の登山装備を見せつけたかったらしいが、当時の私には不可思議な動作にしか映らなかった。
「あなたは、冬がお好きなんですか?」
「あんまり。寒いの苦手なんですよね、冷え症なので」
「となると、屋内に居る時間が長いので?」
「そうですね。でも家の中も楽しいですよ。スマホもある、テレビゲームもある。こたつに潜ってアイスクリームを食すという、古来より伝わる倒錯的遊戯に興じることもできます」
私の緊張は、とうに融けていた。彼女は、おどけた言い回しをするのが得意な人物だった。
そんな出会いから数か月の後に、私たちは付き合い始めた。交際を申し込んだのは私の方だったが、彼女は即座に色よい返事をくれた。私たちは両想いだったのだ。恋が成就するのは私にとって初めての経験で、それこそ天にも昇る心地だった。
彼女からあの言葉を聞いたのは、それから三日後のことだった。イルミネーションに飾られた街路で急に足を止めた彼女は、いつもの調子で出し抜けに言う。
「わたし、冬眠するの」
「……どういうこと?」
解せぬ私に、彼女は穏やかな微笑のまま説明を加えてくれる。
「この煩わしい喧騒を離れて、純白の世界で眠りにつくの。きっと、長い夢を見る。私の中の悪魔が目を覚まして、怯える私を白塗りの箱の中に閉じ込めてしまう夢」
私は悲しい顔をした。彼女が気丈に取り繕っているのを、まるっきり台無しにしてしまう振る舞いだったことだろう。
「そんな顔しないでよ。あなたが嫌いで冬眠するんじゃないんだから。これはあなたと共に生きるため。春風が吹く季節に元気な身体で目を覚まし、あなたと一緒に野を駆け回るための必要儀式なの」
「うん、わかってる。でもどうしても怖くて」
「怖いのはわたしも同じ。わたしが眠っている間に、あなたが雪だるまを作ったりしないかってね」
「雪だるまを作っちゃいけないのかい?」
「男の雪だるまだったらいいわよ」
「――雪だるまに性別の概念を持ち込んだことはなかったな」
ああ、いつも通りの彼女だ。ここに至るまでに、自分の中でしっかりと覚悟を決めていたのだろう。
「どうしても、やるんだね」
「うん。今までずっと逃げ廻ってきたけど、決して避けられないことだもの。やっと決心がついたってだけ」
「永遠に眠ったままになっちゃうかもしれないんだよ?」
「大丈夫だよ。冬眠中の動物は、寧ろ活動期よりずっと生存率が高いんだ。わたしが生き残るためには、冬眠が最善の手段なの」
気丈な口ぶりの中にわずかに怯えの色が滲んだのを、私はしかと感じ取った。微笑みを押し通す彼女は、心の底で震えを隠せずにいるに違いない。
「でもね、冬眠中にエネルギーが足りなくなると、春になっても目を覚ませなくなってしまう。だからね、今のうちに沢山の思い出を作らせて。それを糧にすれば、きっと永く先の見えない暗闇を耐え抜くことができるから」
私は彼女の願いに応えるため、精一杯力を尽くした。それがどれだけ実を結んだかはわからないけれど、別れ際の彼女は今まで見せたことのない入り組んだ感情を面に浮かべていた。――それから七日後に、彼女は真白染めの穴ぐらに身を隠していった……。
表ではうぐいすが鳴いている。私は冬眠中の恋人の夢に思いを馳せた。彼女は、悪魔が現れて襲い掛かってくるだろうと予言していた。今頃拳を堅く握って、悪魔と格闘しているところだろうか。その夢に、私は登場するだろうか。もし登場するなら、ピンチに颯爽と駆けつけたヒーローのように、悪者をこてんぱんに懲らしめているといい。そんな夢想をした。
「でもまさか、本当に眠ってしまうだなんて……」
嘆息は、温くなった部屋の空気の中では姿を現してくれない。いや、姿を確かめたところで余計虚しくなるだけだから、それで結構なのだけれど。
夕方六時を告げる鐘の音を合図に、すくりと立ち上がる。部屋は整然として、彼女が眠った時から何ら変わっていない。唯一、赤いペン字で沢山の予定が記されたカレンダーだけは、眺めるに眺えなくて捨ててしまったけれど。もしかすると、この狭い穴ぐらに閉じこもる私自身も、凍える外界を恐れて冬眠する小動物のようなものなのかもしれない。
表には初雪が降っている。じっとり結露した窓に指で絵を描くと、子供のころのいたずらが思い起こされる。――出窓に頗る大きな落書きをしたものだから、母親からひどく叱責されたものだ。我に還って眼前の透明なキャンバスに息を吹きかけても、出鱈目の絵画は依然として浮かび上がったままである。
暖房で温まった室内と吹雪く表の気温差は、三十度近くになるだろうか。うちの暖房が強すぎるのではなく、外が寒すぎるのだ。今日の日没から明日の未明にかけて、この冬一番の冷え込みになるという。
「ねえ、積もりだしてるよ。こんなに降るなんて思わなかったなあ」
私の後ろから掃き込み窓を覗き込む若い女性が、朗らかな声をあげた。
「予報だと、これからもっと降るみたいだよ」
「なんだか嬉しそうだね。声が弾んでるよ」
図星かもしれない。都心に似つかわしくない銀世界は、かつての私にとって寂寥の象徴でしかなかった。しかし、今こうして窓の外に広がる風景は、不思議と魅力的に感じられる。
「外、出てみようよ」
「まだやめておいた方がいいんじゃ?転んだりしたら大変だよ」
「大丈夫、無茶はしないから」
いくら引き留めても聞く耳を持ってくれない。結局私は、恋人の我儘を了承してしまう。
二足しか並んでいない玄関口に座り込んで、丈の長いブーツのひもを結ぶ私の恋人。肩甲骨まで伸びた黒い髪を、肩の前まで寄せている。それを見て、ふっと昔の映像が脳裏に甦った。短い茶髪を風に揺らして、野道を堂々と闊歩する彼女。今私の目の前に居る女性とは、全くの別人。
アパートの階段を下ると、地面は真っ白な粉で覆い尽くされていた。正面の道路では、乗用車が幾分苦戦するような調子で道を進んでいる。除雪が進まないと、ドライバーたちは大変だろう。
そんな夢のない想像をしている私とは対照的に、恋人は瞳を輝かせていた。念のため断っておくと、決して私が無風流な訳ではない。彼女が余程特殊な事例なのだ。
「そういえば、雪だるまは作らなかったの?」
「雪だるま?……ああ、作らなかったよ。そんな気分にはならなかったからね」
「ふうん、本当かなあ」
「作ってたとしても、もう消えてなくなってるさ。雪だるまは、春の訪れと共に融けて蒸発してしまうからね」
「意地悪な言い方するね。でも、冷凍庫に保存しておけば、雪だるまも春を越せるんじゃない?」
「となると差し詰め、冷凍庫はスマホ内蔵のアルバムかな。覗き込んでもいいけど、お目当てのものは見つからないよ」
「なあんだ、つまんないなあ」
だったら今から本当の雪だるまを作ろうと、唐突に提案される。彼女は私の返事すら聞かずに、部屋の中へ手袋を取りに走った。
「はい、どうぞ」
戻ってきた彼女の掌には、二組の手袋が乗せられている。派手な赤色の、少々子供じみたペアルック。去年彼女が眠りに入る前に、二人で買い揃えたもの。手渡す距離は、さっきより少しだけ近くて、その輪郭が触覚的に捉えられる。
「……ちょっと丸くなった?」
「うわ、ストレートな言い方。失礼しちゃう」
「一月前は、もっと痩せてた気がする」
「ずっと眠ってたんだもん、当然だよ。そんなに痩せてるのがいいなら、また点滴生活に戻ろうかしら」
「そんなこと言ってないって。今くらいが丁度いい」
比較的物静かだった私も、今ではかなりお喋りするようになった。それも全部、彼女の影響だろう。
手袋をはめた彼女は、身を翻して銀世界の中に飛び込んだ。その足触りが余程心地よかったのか、得意げに地面を何度も踏み鳴らしている。
「わたし、初雪踏めたよ!ほら見て、こんなに跡がくっきり」
「楽しそうだね。冬は嫌いじゃなかったの?」
「うーん、好きになった訳じやないけど、今年の冬はとっても楽しい」
「どうして?」
問われた彼女は、答えを知っている試験問題を見つけたかのような、単純明快な笑みを浮かべた。
「だって、今年はもう冬眠しなくていいんだもの」