7 からかい
雫が登校する日はすぐにやってきた。
土日を挟んでやってきた月曜日、普段なら朝練がある運動部員と桃火のような特にすることもないが早い時間に登校してくる生徒の数名しかいない教室内は、いつもと違う顔ぶれが並んでいる。その顔には一様に好奇心が滲んでいる。
いつも通り自分の席について桃火がその光景を眺めていると、横から不意に横から声がかかった。
「今日は随分と賑わってるな、桃火」
「おはよう、正河。朝練は終わったのか?」
「いや、走り過ぎって言われて追い出された」
この状況でもいつもと変わらない笑顔を浮かべる正河に苦笑する。いや、もしかしたら今日雫が登校してくることを忘れているだけかもしれない。
ペットボトルに入ったお茶をものの数秒で飲み切る正河を横目に、桃火はここ数日の雫の様子を振り返る。
結論から言えば、雫にこれといった変化は無かった。緊張だとか、登校に対する忌避感は微塵も感じさせずにただいつもの調子で笑う雫はまさに自然体そのもので、今日もその自然体で登校してくるだろうと桃火は思っていた。しかし、
――気張りすぎる癖がある。
竹田の言葉が脳裏を過るたびに、桃火は少しだけ不安に思う。
桃火から見て雫が気張る様子は想像できない。しかしそれは病室での彼女の話だ。制服を着て、この教室にやってくる雫がそうとは限らない。
今ここに集まっているクラスメイト達は言わずもがな、吸血鬼という噂の張本人を一目見ようと集まっている。
だが、彼女から見たらどうだろうか。
少なくとも歓迎されているとは思えないだろう。好奇の視線を当てられて、驚いてしまうかもしれない。
(それだけならいいんだが……)
桃火が少し心配に思いながら教室の入り口を視界に端に捉えていると、突如急ぎ足で男子生徒が入ってくる。そして、小さく叫んだ。
「来たぞ!」
その言葉に教室内は少しだけ騒めき出す。まるで有名人が来たかのような様子である。そして廊下から靴音が響いてきた瞬間、生徒達の視線は自然と入り口に注がれた。
ゆっくりと音が近づいてくる、焦らすようなその音はたっぷり時間をかけてからやっと桃火達の教室の前で止まると、音を立てて入り口の扉が開いた。
瞬間、教室が静まり返る。先程まであれやこれやと口々に予想を言い合っていた生徒達は喋ることすら忘れて開いた口が塞がらなくなっている。
今この瞬間、教室の入り口に立っている生徒を橘雫として落ち着いて捉えられた生徒は桃火と正河くらいだろう。
(綺麗だ)
思わず以前と似たような感想が漏れる。
服装は周りと同じ制服なのに、雫だけが妙に浮いて見えてしまう。けれどそれは悪い意味でない。病室のベッドで静かに本を読んでいた彼女とは一味違った印象に、桃火だけが気付いていた。
「髪白いな。地毛か?」
「そんなことよりめっちゃ綺麗じゃん」
「彼氏とかいるのかな?」
辺りから無遠慮な考察が湧き上がる中、雫は自身に向けられた視線に少し驚いた様子を見せたがその中に桃火の姿を見つけると、机の間を縫うようにして彼の近くまで歩いて行く。
桃火の隣の席に鞄を置いた雫はそのまま椅子に腰を下ろすと、やっと桃火の方を見た。病室での目にするいつもの笑顔が目に入り、桃火は少し安心する。どうやらこうなることは予想済みだったらしい。
彼女の口が開く。
「おはよう」
「おはようございます。人気者ですね」
「それは嫌味かな?」
「事実ですよ。とはいえ少し鬱陶しいですけど」
桃火がそれとなく周囲に視線を巡らせる。
雫が席についてからというものの、クラスメイト達はいつものように振る舞ってはいるが視線は雫に釘付けである。そしてその渦中の一番近くにいる桃火にとっても、それはあらゆる方向から銃口を向けられているかのような居心地の悪さだった。
「まあ、こうなるよねぇ」
「嫌なら俺から言っておきましょうか?」
「いや、いいよ。こういう反応を示される原因が分かってるなら、別に問題ない。流石にここでお昼ご飯は無理そうだけど」
そう言って雫は机の脇にぶら下げた鞄を膝で叩いて見せる。きっとそこには輸血パックかそれに似たものが入っているのだろう。
それに、と言って桃火とこちらを興味深げに見てくる生徒達の間で雫は視線を彷徨わせる。そしてくい、と桃火を指差す。
「君、誰かに注意するような人間じゃないでしょ?」
「それが俺の立ち位置なので」
クラス内にはある程度の立ち位置がある。それは暗黙の了解で形成されるもので、桃火の場合はいてもいなくても同じような存在、具体的には何事にも干渉しない事でクラスでの立ち位置を保っている。打算的な桃火にとってこの立ち位置は一番性に合っているのだ。
「何もしなければ、周りからも何もされないので」
「打算的な君らしい立ち位置だね」
そう言って微笑む雫。とはいえ、雫という現在進行形でクラスの話題になっている人物と話している時点でその立ち位置が少し危うくなっている。
今後は会話は少し控えようか、と桃火が考えていた時、遠目から見てくるだけであった生徒達の中から1人の女子生徒が出てくる。この状況で平然と彼女に近づける人物を桃火は1人しか知らない。
「おはよう、雫さん。私はクラス委員長の柊奏です。よろしくね」
「委員長? うん、よろしく」
挨拶に応じてくれた雫に笑顔を向けた奏は、早速本題に入った。
「来月のの体育大会なんだけど、今年からクラス全員が最低1種目は出場しなくちゃいけないの。だから、雫さんはどこがいいか聞きたくて」
「体育大会……」
その言葉を口の中で転がす雫。恐らく一年の時の体育大会を思い出しているのだろう。運動部員が席巻していた体育大会で雫が活躍していたとは思えないが、何かしらのヒントは得ることができるかもしれない。
口元の辺りに手を当てて考える雫はとても絵になるが、結局その口から答えが出ることはなかった。
「お前らー、席につけー」
鐘が鳴ると同時に教室に入ってきた担任の教師の言葉で、教室内はいつもの動きを取り戻して行く。
各々の席についていく生徒達を見て、奏も慌てて自分の席に戻る。
席に戻る瞬間、奏は雫がいる方向へ振り向いた。
「放課後、クラス会議で正式に決定するから決めておいて」
「うん、分かった」
その言葉を最後に、教卓に立った教師が話を始める。
この時間は桃火にとってとても退屈な時間だ。そして今日もその退屈さは変わりなく、いつものように自分の腕を枕にして机に突っ伏す。担任の話を話として聞く気はない桃火だが、子守唄としてならこの学校に入学して何百回も聞いたことがある。
寝ながら、担任の話が終わった後の事を考える。
担任が出て行って、数分後に一限目が始まる。一限目は確か国語だったはずだ。これも寝よう。二限目の数学は起きていなければ宿題を課される場合があるため形だけでも起きていなければいけない。それから――、
「寝てちゃだめだよ、桃火くん」
「――――」
この時、声を上げなかった自分を桃火は褒めてやりたい気分だった。
いつものように空席だと思って寝返りを打った向こう――囁きと共にこちらに笑顔を向ける雫と目が合って、桃火は反射的に起き上がって前を向く。心臓が妙に早いのは気のせいではないはずだ。
桃火がそうしている間にも右耳から囁きが入り込んでくる。
「今、どの授業で居眠りしようか考えたでしょ」
「……からかわないでください」
「ふふ、病室とは違う君が見れて楽しいよ」
次は窓側を向いて寝よう。
目を細めて心底面白そうに笑う雫にそんな事を思いながら、桃火は普段聞くことのない担任の話を聞いた。相変わらず話の内容は同じだった。
地の文をすらすら書ける語彙力が欲しい。