5 保健室にて
その日、桃火の姿は保健室にあった。
昨年に完了した改修工事以来、旧校舎に特別教室を押し込み、新校舎にその他全てを配備したこの学校の保健室は付近にある高校に比べて比較的清潔な印象を受ける。
教室ほどの広さの部屋に、ベッドが3つと椅子が4脚付属したテーブルが1つ。室内の右奥にある洗面台の側には養護教諭が個人的に使う小さな机がぽつんと置かれている。
そんな保健室内で桃火は4脚ある椅子のうち1脚に腰掛け、まるでそこが自分の部屋のようにリラックスしながらとある人物に言葉を投げかけた。
「そういえば、先生って雫さんのこと知ってるんですか?」
桃火の視線の向こう――テーブルを挟んで彼の正面に座っている女性は、その質問を受けて口元に近づけていたコーヒーカップをぴたりと止めて桃火のほうを見た。その眉間にはすこししわが寄っている。
次に聞こえたのは呆れが混じった声だった。
「……立花が配達係だったことも驚きだが、何より授業中なのにお前が平然と私の目の前にいるのが不思議でならないよ」
「そりゃあサボりですから」
適当に答えながら、配達係を知っているのか、と桃火はぼんやりと思う。
桃火はこういったサボりを突発的に行うことがある。それは彼が『損にはならない』と判断した授業があった時限定であり、具体的に言うなら学校行事関連のクラス会議である。
去年のクラス会議の様子を思い出しながら桃火は笑う。
「俺、体育大会は補欠って決めてるので」
「勝手にメンバーに選ばれてるかもしれないぞ」
「どうせ去年通りですから問題ないですよ」
新学期が始まってすぐの体育大会は運動部の独壇場だ。帰宅部である桃火に出る幕はない。
サボったことに対する罪悪感を感じることなく言ってのける桃火に、目の前の女性はコーヒーを飲んだわけじゃないのに顔を顰める。しかし追い出したりはせずに、ただ羽織っている白衣を揺らしながら先程口に運ぼうとしていたコーヒーカップを桃火の前に押し出した。
「お前のせいでぬるくなった。お前が飲め」
「ありがとうございます、竹田先生」
お礼をいってコーヒーを口に含む。うん、苦い。まあ、コーヒーが飲めないのだから当然の反応といえばそうなのだが。
コーヒーカップを机において竹田を見る。表情はすまし顔。去年からこんなやりとりを続けているがばれているのだろうか、と桃火はいつも考えてしまう。
そんな桃火の不安もつゆしらず、竹田は先程の彼の質問に答えるべく口を開く。
「雫のことは知ってる。私もお見舞いに行ったからな」
「意外ですね」
「はっ倒すぞ。……しかし立花、お前雫から病気の事を聞いたか?」
「そりゃあ、はい」
「お前から聞いたか?」
「いや、彼女から話してくれましたけど、それが何か?」
桃火が雫に出会ったあの日、世間話の代わりと言わんばかりに雫が躊躇なく自身の病気について話していたのを桃火は覚えている。そこには無理をしている様子は無かった。
竹田が目を細める。何かを見極めてるようなその視線を桃火が数秒間受け止めた後、やがて息を吐いた竹田が再度口を開いた。
「……雫はすこし気張りすぎる癖がある」
「雫さんが?」
気張る、という言葉と桃火から見た雫の印象がうまく噛み合わず、桃火はコーヒーを飲んだ時にしたかった渋い顔をしてみせる。
竹田は頷いて、
「そうだ。具体的に言うと、嫌われないように振舞っている」
「それは……、普通じゃないですか?」
クラスという閉鎖空間――ことクラス替えを行わないこの学校では特に、クラスメイトとの仲が重要になる。仮にクラス中から嫌われるなんてことがあれば、最悪な三年間を過ごす事間違いなしだ。
嫌われないようにすることの何がおかしいのか分からない桃火に、竹田は白衣の裾を弄りながら、
「雫が病気のことを同級生に話さない理由は分かるか?」
「いや、聞いてません」
正確には「聞いてみたけど答えてくれなかった」が正しいのだが、桃火は言う必要がないと判断してそれ省いた。そしてその判断通り、竹田はその理由を言った。
「病気の事を知られたら嫌われるかもしれないと思っているからだ」
「……ああ」
それを聞いて、桃火は少しだけ納得する。
血乏病は奇病だ。病名だけなら問題ないのかもしれないが、血液しか摂取できないという症状を知られれば不気味がられる可能性も高い。
しかし、と桃火は思う。
「俺には言いましたよ?」
「それは私にも分からん。信頼されてるんじゃないか?」
「まさか」
竹田の言葉を桃火は笑って受け流す。桃火は自分の事をよく分かっている。打算的で、一緒にいても面白くない男。それは厳然たる事実で、誰にでも分け隔てなく接してくる正河以外に友人がいないのがいい証拠だ。そこに誇張は存在しない。
「俺が信頼されるなんてありえませんよ。まだ会ってそこまで経ってませんし」
「卑屈だな。いや、現実的か。まあともかく、雫は繊細だ。クラスに復帰した時はちゃんと見てやれ」
「俺がですか?」
「雫の隣の席でなおかつ配達係なんだ、お前以上の適役はいないだろ」
竹田がそう言うと同時に、頭上から鐘の音が響いてくる。授業が終わったらしい。
桃火はコーヒーカップをぐい、と呷って苦い液体を無理やり体内に押し込むと、コーヒーカップを机に置いて立ち上がった。
その姿を見て竹田が言う。
「無理に飲まなくていい」
「飲めって言ったのはそっちですよ」
バレてたか、と思いながら桃火は頭を下げると、踵を返して保健室の扉を開ける。背後から笑う気配を感じるのは気のせいではないだろう。
「次はココアでお願いします」
「うちはコーヒーだけだ」
そんな軽口を交わして、桃火は昼休みが始まって騒がしくなってきた校内を歩き出した。
突発的に新キャラを出すのはどうなのか